意識を取り戻したルイの右半身には軽い麻痺が見られ…樹理とニールはとても心配したが、
医師は口元に笑みを浮かべ、麻痺は時間の経過とリハビリによって正常な機能を取り戻す…と言った。
その言葉で樹理はホッと胸をなで下ろしただけだったが、ニールは…と言えば、相手構わず抱き付いては喜びを伝え。
その姿は微笑ましを通り越して周りの者たちを呆れかえさせるほどだった。
そして、樹理との約束を果す…と言って、息子を心配して母国から来ていた両親にルイとの関係を告白した。
その突然の告白にニールの両親は多いに驚き…その後烈火の勢いで怒りまくった。
それも当然と言えば当然の事で、両親にしてみれば息子が異国の地で学ぶのを許したのは息子の将来を思っての事で、
同性の恋人を作らせるためでは無い筈。しかも堂々と…一生の伴侶として紹介されるとは、想像もしていなかったのだろう。
だからニールの話を聞くや否や、今すぐ大学院を辞め自分たちと一緒に国に帰るよう迫ったのも無理からぬ事なのかも知れない。
そんな両親に対しニールは頑として首を縦に振らず、その表情は強敵と対峙する勇敢な若き騎士のようにも見えた。
そして臆する事のない態度で、貴族の家柄や将来自分が継ぐはずの会社よりも、ルイが大切だと告げた挙句、
自分を産み育ててくれた両親と決別することになっても、自分はルイと共に歩む道を選ぶ…とまで言い切った。
それは…嘗ては強大な勢力を誇ったヨーロッパ随一の大貴族、ハブスブルグ家を棄てる…と言う意味でもあり、
現当主の父親にとっては一番聞きたくない言葉であり、あってはならぬ事でもあった。
なぜなら、家系的には子宝に恵まれている血筋の筈なのに、自分たちに授かった子供はニールただ一人。
だからたった一人の息子であり、ハブスブルグ家唯一の後継者であるニールを失ってしまうかも知れないと思うと、
不承不承ながらも息子の行状を見て見ぬふりをする…という暗黙の意を示す以外無かった。
それは…息子の決心の固さに折れたからか、それとも息子の気持ちが変わるまでの時間を稼ごうという算段なのか。
真意のほどは解らなかったが取りあえず今は、来春院を卒業するまでドイツに留まる事を承諾した。
そして、こっそりとルイの病室を覗き込みはしたものの中に足を踏み入れる事は無く…そのまま母国へと帰って行った。
その後ろ姿は、数日前までの威厳ある父親の背中とは程遠い、年老いたただの男の背中のようにも見え、
ニールの告白が、両親にどれほどの心痛を与えたのかを窺う事が出来た。それでもニールは、後悔はしていない…と言い切り。
樹理はそんなニールを羨ましくも思いながらも、両親の事を想うと、少しだけ心が痛んだ。
そして…ベッドの上でその話を聞いたルイは、目を涙で一杯にして、何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。
「お前は…バカだ。どうしようもないバカだよ」
「ルイ…ごめんね。僕の力が足りなくて、両親にルイを僕のパートナーとして認めさせる事が出来なかった。
でも僕の気持ちは変わらないよ。二度と君を泣かせるような事はさせない。どんな事をしても君を守る。
そしていつか必ず…君を認めさせる。約束する。だから、ずっと僕の側に居てくれるね、ルイ」
ニールの言葉に、ルイからの答えはなかったが…灰緑の瞳から溢れ出る涙はルイの心を雄弁に語っているように見えた。
それからルイの側にはいつもニールの姿があり、麻痺の残る手足をマッサージしながら語り合う二人はとても幸せそうで…。
なのに…その幸せの裏で誰かが悲しい思いをしている…そう思うと、樹理にはそれが切なくてならなかった。
それでも幸せそうな二人を見ていると、自分も郁海とあんなふうに笑い合えたら…。
頭の片隅でそんな事を思っている自分に気づき、益々気落ちが重く沈んで行くのを感じていた。
事実、樹理は母親の口から郁海の名前が出そうになった時、なぜか意識的に話を逸らし郁海の事を話題にしようとしなかった。
それは…自分にも理解出来ない自分の心が、もう郁海の事を考えてはいけない…そう告げているような気がしていたから…。
その時母親と大輝は特に何も言わなかったが、樹理を見つめる表情には複雑そうな色が浮かんでいた。
やがて日が経つにつれ皆の顔にも笑顔が戻り、あの忌まわしい事故の事も過去のものになっていく。
そして樹理の元へ画家夫婦が見舞いに訪れ、樹理の怪我が大した事無い…と知ると、
「心配したよ。でも…筆を握る腕は無事だったようだね。良かった…それなら直ぐにでも画が描けそうだ」
等と本気とも冗談とも取れるような事を言い、皆を笑わせていた。
そのうえジェームズまでもが娘のアリーシャを連れて見舞いに訪れ…それには樹理だけでは無くニールも驚いてしまった。
アリーシャは写真で見た以上に可愛らしく、透けるように白い頬をほんのりと薄紅色に染めて、
樹理に会えた事がとても嬉しい…と言った後、自分ももう直ぐ手術の予定だと告げた。
生まれつき心臓弁膜に欠陥があったアリーシャは、普通の子供たちのように外で走り回る事が出来なかった。
それでも、成長するにつれて穴が塞がる可能性もあると言われ。その言葉を頼りに今まで様子を見て来たのだが、
十歳を過ぎても穴は一向に小さくなる様子も見せず…挙句に最近受けた検査の結果では、このままでは一生普通の生活を送るのが難しい。
それに、いつ悪化するか判らない…と言われ、思い切って手術をする事にしたのだと言う。
「手術は怖いけど…元気になったらいろんな事が出来る。そう思ったら嬉しくて手術も怖くなくなったの」
目を輝かせて語るアリーシャの表情は、決して強がりなどでは無く明るい未来を見つめている…そんなふうに見えた。
幼い頃からずっと、自由に飛び回る事の出来なかったアリーシャにとって、思いのまま外を歩ける。
誰もがしているそれが、手術に対する恐怖を克服するほど希望に満ちた未来なのかも知れない…そう思うと、
外を自由に駆け回るアリーシャは、多分今よりもっと輝いて可愛いのだろう…そんな事を思い、
元気になったアリーシャを、容易に想像する事が出来るような気がした。
「そうだね。絶対元気になって…今まで出来なかった事、全部しよう」
「うん! それに…樹理と一緒にいろんな所に行ってみたい。だから、頑張る」
老画家もジェームズも、病院にこそ来なかったが植物園で顔を合わせる何人かの学生も。将又、いつも行く八百屋の主人までもが、
樹理の怪我を憂患していると聞くと、自分では思ってもいなかった人たちの優しさに驚く。
と同時に、骨折でいつまでも入院している…と言うのがとても大仰な気がして、少しだけ恥ずかしく…嬉しかったりもしていた。
だが実際には、樹理の怪我は樹理が思っているほど簡単なものでもなかった。
転位していた鎖骨はプレートで内固定していたし、動揺胸郭こそ見られなかったが真肋が二本、それも複合骨折していた。
だから…樹理を家に戻したら、今までのように動こうとして無理をするかも知れない…大輝はそう思い。
テープでの固定が外れるまでの三週間ほど、入院させる事にしたのだった。
もっとも大輝が、客員とは言え大学の関係者だと言う事で無理が通ったのかも知れないが、
ルイと樹理は科が違うのに同じ病室に入れられ…時に賑やか過ぎて看護師に叱られることもあった。
そして樹理の退院が決まる頃にはルイの麻痺は大分回復し…傷が癒えると共に事故の記憶も薄れ過去へと流されていく。
だが樹理だけは…どんなに傷が癒えようとあの時の自分を忘れることが出来なかった。
やがて退院の日…車椅子で玄関まで行くと言うルイに病室で別れを済ませた樹理を、ニールは玄関まで送ってくれ。
別れ際に 「来春大学院を卒業したら、ルイを自分の国に連れて帰る」 と、樹理に告げた。
何の迷いも無いその言葉と表情は、決して容易では無い二人の未来を明るく照らす陽の光のようにも思え。
「うん、そしたらオーストリアまで会いに行くね」
言いながら樹理は、出来る事なら本当にそうしたい…心の底から思っていた。だから、並んで歩いていた大輝が、
「あの二人なら何があっても挫けないだろう。きっと幸せになる。良かったな、樹理」
樹理の頭をぽんぽんとしながら言うと、樹理は、大輝を見上げるようにして嬉しそうに答えた。
「うん、二人とも僕の大切なお友達だからね。二人が仲直り出来て、本当に嬉しいよ僕も」
「そうだな…国に帰るのを見送れないのは残念だが…多分、二人で帰るんだろうな」
「え? どういう事?」
「そりゃまぁ…俺達もそろそろ日本に帰らなくてはならないからな。と言っても、まだ少し先になるだろうが…。
樹理の骨を固定している金具が外れ、俺の方があと二件片付けば帰る。そうだな、花見には十分間に合うかな。
だから、二人に会いにオーストリアまで行くのは…大分先になるだろうな」
大輝の言葉で、樹理の顔に一瞬微妙な表情が浮かんだ。そして声が少しだけ翳りを帯びた。
「そう…なんだ。日本に…」
「なんだ? もしかして、こっちに馴染み過ぎて日本に帰るのが嫌になったのか?」
「うぅん、そうじゃない。そうじゃないけど…」
日本に帰ったら…僕は何処に行けば良いの? 僕の帰る場所は…何処なの?
声に出して聞きたい言葉を呑み込んで口にする事も出来ず…あれほど帰りたかった日本が…家が。
泣きたくなるほど会いたかった弟が…今は遥か遠くに思えて、樹理はそっと小さな溜息を吐いた。
それから間もなく、アリーシャの手術の日程が決まったが、術前の体調管理で面会時間はかなり制限され。
リハビリを始めたルイも同じように病室を空ける時間が多くて、病院に行っても二人の様子を見るだけで帰る日も多かった。
一年を通して割と穏やかな気候と雖も、十一月になるとめっきり寒くなり降る雨は冷たい。それでも樹理は、
ルイもアリーシャも大切な友人だから、顔を見るだけでも…少しでも喜んでくれるなら…そう思いながら毎日病院に通った。
だがそれはただの自己欺瞞なのでは…そんな気もしていた。アリーシャにはジェームズが、そしてルイにはニールがいる。
ならば自分は…あの事故の日から心に芽生えた、自分の存在理由…という名の疑問符。
それが日毎心の中で広がっていき…その不安と不確かな答えが樹理に新たな決断をさせようとしていた。
やがて…花々が蕾を膨らませはじめる初春…日本では桜の咲き始める季節も間近となったある日。
樹理が帰ってくる…母のその言葉に郁海の心はざわめいた。
嬉しいはずなのに、奇妙な緊張と不安が押し寄せてどうにも落ち着かず、もしかしたらあの溜まっているメールのせい…と思い。
それならあれを全部開いて…と思いながらそれも止めたのは、このまま自分のした事を兄に伝えて謝ろう…そんなふうに思った。
そして樹理と大輝の帰国する日、母と二人迎えに出た空港ロビーで郁海の目の映った樹理の姿は…。
海を渡る前より大人になったせいか、しっとりと落ち着いた雰囲気ながら、それでもやはりどこか幼くて。
以前の兄と同じようにも見えて、懐かしさが込み上げ…目の奥が熱くなった。
なのに、まるで他人でも見ているような奇妙な感覚に訳もなく鼓動が早まり、直ぐには声がかけられなかった。
それは樹理も同じだったのか、じっと郁海を見つめたままで…二人はまるで過ぎた時間を巻き戻そうとするかのように見つめ合う。
だが、その沈黙を破るように先に口を開いたのは樹理のほうだった。
「郁ちゃん…なの?」
その声の優しい音色に…兄は少しも変わっていない…そう思った途端自分の中の緊張が消えていくのを感じた。そして、
「お帰り…兄さん」
言った言葉で樹理の顔が泣きそうに歪み、それを堪えるように浮かべた笑みもあの頃と同じで…安堵が切なさに変った。
「う…うん……ただいま」
「元気そうだね。でも…なんか…少し痩せた?」
「そんなこと無いと思う。郁ちゃんは、前より大きくなったね。もう、僕じゃ全然届かない…」
そう言いながら郁海を見上げる樹理の顔が、今度はとても寂しそうに見えて…その寂しさ毎抱きしめたら…。
そんな事を思いながら交されるのはぎこちない会話。
「あれから、また伸びたから…」
「そう…なんだ。凄いね」
本当はもっと別の…伝えたいことがあるのに…。
心の中で思いながら、頭の中にはなぜか言葉が浮かばなくて…そのぎこちなさは帰りの車の中でも続いた。
だから…並んで座る車内がとても息苦しく感じられ…益々言葉が出て来なくなる。
二人が顔を合わせてからずっと続いている妙な緊張感は薄らぐ気配もなく…本当に息が詰まるかと思ったその時、
そんな重苦しさを裂くように、樹理が聞いた。
「郁ちゃん、大学は? もう決まったの?」
その問い掛けで、自分が兄からのメールも電話も拒み、無視し続けた現実を思い知る。
謝らなくては…なのに、その柔らかく甘い声に…兄さんの声はいつだって俺の耳をくすぐる…そんな事を思い、
膝の上に載せている樹理の手に手を重ねたい衝動に駆られた。それは…謝罪の言葉より確かな情欲にも近い感情。
そして、自分の中で兄が兄弟の域を超えてしまっているのを実感した。だからと言って手を伸ばす事など出来ようも無く、
郁海は半身に感じる樹理の体温で干からびそうな喉を潤すかのように唾を呑み込むと。言葉少なく答えた。
「うん、決まった。」
するとその時だけは、樹理の綻ぶような笑顔が郁海に向けられ、声までも嬉しそうに弾む。
「ほんと! 良かった。お目出とう!!」
その笑顔の眩しさに邪な想いを抱えた心は締め付けられ…郁海はその痛みで一瞬息が止まりそうになった。
だから…その笑顔から顔を背けるように視線を窓の外に移すと、やはり言葉少なく答えた。
「あ、う…うん。ありがとう」
そんな微妙な雰囲気を感じ取ったのか、助手席に座っている大輝がわざと快活な声で言う。
「何だよ、どうしたんだ? 二人とも、妙に他人行儀で可笑しいぞ。三年ぶりだからって、恥ずかしがる事も無いだろう」
正直大輝とて、こんな状況になるとは予想していなかった。二人共もっと単純に再会を喜ぶのでは…そう思っていた。
だが予想に反し、再開した兄弟の間には奇妙な隔たりが出来てしまったかのように酷くぎこちなく。
二人は後部座席で会話も無く黙りこくったままで…まるで目に見えない壁が出来てしまったかのようにも見え。
ただ照れているだけとは違う、もっと根本的なところで何かがずれてしまった…そんな気がした。
新しい出発の土台となるはずの三年間が齎した現実は、とても希望に満ちているようには見えず。
少しの波風にも大きく揺れ、大海に呑まれてしまいそうな小船のように頼りなく思えた。
何処かで、何かが変わってしまった…のだとしたら、自分は取り返しのつかない間違いをしでかしたのかも知れない。
そんな考えが頭を過り、簡単に埋まりそうも無い兄弟の月日…に不安を感じ始めていた。
だから…出来る事なら嵐など来ないように…思わずそんな事を心の内で願ってしまう。
だが車が玄関先に着き皆が車から降りようとした時…そんな小さな願いまで打ち砕くように、
樹理が、それこそ誰も想像していなかった言葉を口にした。
「僕は…降りない。叔父さんの子供になるから、もうこの家には帰らない」
それには一瞬、大輝も母親も、勿論郁海も…片足だけ車から降りた状態で固まってしまい、思わず自分の耳を疑った。
そして三人とも半分下りかけた身体を捻り、樹理を見る…と。
樹理はフロントガラスを見つめたまま、ドアすら開ける気配も見せなかった。
ルームライトの下の横顔は平常そのもののようにも見え、必死に心の内を押し隠しているようにも見え…。
「兄さん…何を!」
思わずかけた郁海の呼びかけに、樹理の顔が郁海の方へと向き…口元に淡い笑みを浮かべた。そしてたった一言。
「ごめんね……郁ちゃん」
それだけ言うと視線は元に戻り。そしてその一言が、郁海には、決別の言葉…のように聞こえた。
「お!おい!! 一体どうしたんだ? 樹理」
「どうもしない。僕は叔父さんの子供になるって決めたんだ。だから叔父さん、真っ直ぐ叔父さんの家に帰ろう」
全く予想もしていなかった展開に更に上書きするような、樹理の爆弾発言。
それは当に晴天の霹靂で…当然答えなど用意してあろうはずも無かった。それでも、どうにか樹理を宥めようと…。
「ちょ! ちょっと待ってくれよ。そりゃ確かに、樹理を俺の子供にしたい…そう言ったよ。
けど、そんな簡単に決められる事じゃ無いし…それに樹理の一存って訳にもいかないだろう?」
そんな事を言ってみるが、上手く説得できる言葉も見つからず…混乱する大輝に樹理の容赦ない追撃が降って来た。
「だって…ドイツに行く前、叔父さんははっきり僕に言ったじゃないか。僕の気持ちが一番だって。
だから、一生懸命考えて決めたのに…。それじゃ、僕を子供するって言ったのは嘘だったの? 僕を騙したんだ」
そこまで言われると、説得するどころか自分の言った事の尻拭いになってしまい、益々言葉が見つからない。だから…。
「だ! 騙すって、そりゃあんまりだろう」
半分パニック状態でそれだけ言うと…助けを求めるように義姉に目を向けた。
そして母親も…樹理の発言は、もしかしたら、ドイツを発つ前に大輝と樹理の間で既に決めていた事なのでは…。
頭の片隅で思わなくも無かった。だがその反対に、大輝が自分に一言も無くそんな事を決めるはずが無い。
そんな思いも確かなものとしてあった。だから…二人の様子を見て、樹理の発言は大輝も知らなかった事。
晴天の霹靂は、樹理の一人合点の賜物…そう確信すると、二人の攻防がどこか微笑ましく思えたりもした。
だからと言って、いつまでも大輝を窮地に立たせておくのも可哀想と思い…取りあえずこの場を収めようとフォローの手を伸ばす。
「そうよ、樹理。誰も貴方を騙したりしない。確かに貴方の気持ちが一番大切だと思う。
でもね、こんな大切な事を突然言われても、誰だって驚くし返事に困るでしょう?
それに三年ぶりに帰ってきたんですもの、お母さんだってゆっくり樹理の顔を見たいし、ドイツでの話も聞きたいのよ。
だから、兎に角一度家に入って…大切な話はその後って事にしましょう。ねっ」
母親にやんわりと窘められ…顔が見たい等といわれては、流石に樹理もそれ以上は嫌だとは言えなかったのか、
「……解かった。ごめんね、吃驚させて。でもお母さん…僕は決めたから」 そう言って車を降りた。
それから家の中に入ったものの、樹理は酷くぎこちない様子でリビングの椅子に大輝と並んで座った。
まるで、ちょっとだけ他人の家に立ち寄った来客。そんな態度で、自分の部屋にも上がろうともせず…勿論会話も弾まない。
帰りの車の中での気まずさより、もっと重い空気だけが垂れ込め。
郁海は、そんな樹理を見つめたまま、樹理の言った「ごめんね…」 の意味を聞くなんて事は到底出来るはずも無かった。
そして当に帰国の挨拶…その程度の時間だけ滞在?して、樹理は大輝と共にマンションに帰っていった。
樹理が、あんな事を言い出したのは…急に思いついたのか。それとも、前から決めていたのか。
確かな事は判らなかったが…向こうを発つときには既に決めていた…郁海にはそんなふうに思えた。
なんで…兄さん。なんでこんな事になるんだ。俺のせいなのか? 俺が、メールを無視したから怒っているのか?
それとも…向こうで出来た友達のせいで、自分勝手な俺の事なんか…嫌になったのか?
そして、開封されないまま溜まっていた、樹理からのメールを思った。
そのまま兄に見せて…心から詫びようと思っていたメールだったが、開いてみたら少しでも兄の気持ちが解るかも知れない。
そう思い…郁海はパソコンに向かった。フォルダに収められた膨大と言って良いほどのメール。それは、パンドラの箱。
一通ずつ開くたび、其処に溢れる樹理の嬉しそうな顔や、得意げな顔。そして優しい…優しい兄の顔。
それが少しずつ寂しそうな顔が増え、悲しい顔ばかりになり…文字の間から溢れてくるのは涙だけになった。
それなのに…郁海に対する文句や恨み言は一言も書かれておらず…ただひたすら弟を想う兄の想い。
俺はいつも自分の事ばかりで、兄さんの事を少しも考えていない。
今回だって、真っ先にしなければならなかった事は、謝る事だったのに…それもせずに、邪な目で兄さんを見ていた。
もう…ごめん、なんて言えない。俺は…いつも、兄さんを泣かせてばかりいる。