16. 兄・弟

 -選んだ未来-

大輝と樹理がドイツから帰国してもうすぐひと月になろうといた。その間樹理は一度も自分の家に足を向ける事が無く。
それなら郁海は…と言うと、郁海もまた樹理同様、自分から樹理のいる大輝のマンションへ赴く気配を見せなかった。
そんな状況で兄弟の間が好転する筈も無く、この状況に至った原因が自分にもあるかも知れない…と思うと、
大輝まで永沢の家に足を向けるのが憚られ…そのせいで、兄弟の事を話題にするのは職場である病院の中だけで。
しかもどういう訳か、辺りを憚るように声までも小さくなった。そして今日も、弱りきったように義姉の顔を窺いながら声をひそめる。

「どうしますか…樹理の奴全く元気がなくて、最近は食欲も無いらしくろくに飯も食わないんです。
正直言って、まさかこんな事になるとは思ってもいませんでした。だから…どうして良いか判らなくて…お手上げですよ。
で…郁海の奴、なにか言っています? あいつの事だから、めちゃくちゃ怒っているんでしょう」
そう言って、今度は本当に困ったと言うように頭を抱えた。大輝にしてみれば、何かにつけては大輝に食ってかかった以前の郁海を思うと、
当然今の状況は大輝のせい…そう言って喧々囂々非難するだろう事は充分予想出来た。
だから…樹理の反乱に合わせて郁海の集中砲火を思うと、悩みが何重にも膨れ上がるような気がして眉根の皺も伸びない。
そんな大輝を見つめながら兄弟の母親は、目の前の義弟が少しだけ気の毒にも思え、またおかしくも思えて…笑みを浮かべる。

「郁海の事なら大丈夫、特に何も言っていないわ。むしろ、今回の事は自分に原因がある…そう思っているみたいよ。
だからこの現状を真摯に受け止めているみたい。おそらくは、何か思い当る事があるのでしょう。
郁海自身何も言わないけれど…自分はどうすれば良いか…郁海なりに一生懸命考えているみたいね。
そういう意味で今度の事は、郁海が樹理の弟から卒業する良い機会…なのかも知れない。
そして一回り大きなって…これからは郁海が樹理を守ってくれる…そう信じたいわね」
「姉さんは肝っ玉が大きいというか、のんきというか…蚤の心臓の俺には、姉さんのようにドンと構えているなんて芸当は出来ませんよ」
ちょっとむくれたような口調で言う大輝が、こんな時は子供達と同じに見え…母親は、自分がこの義弟の義姉だと実感する。

「だって…実際私たちに出来る事は、何も無いんですもの。下手に口出ししたら、余計に拗れるかも知れないでしょう?
郁海は樹理の怪我以来急に変わったわ。吹っ切れたのか、覚悟を決めたのか…どちらにしても、見違えるように大人の顔になった。
だから私たちは、何も心配せず信じて待ちましょう。あの子達が自分たちで選び…未来を掴みとるまでね。
でも……樹理の事は確かに予想外だったわね。まさか自分から、郁海の側を離れようとするなんて思いもしなかった。
やはり何か…樹理なりに思うところがあったのでしょう。そう考えると、樹理も成長しているって言う事なのかしらね」
母親はそう言うと、やはり笑みを浮かべたままゆっくりとテーブルの上のカップに手を伸ばした。


そしてそれから更にひと月ほど過ぎたある日、郁美は大輝に呼ばれ病院三階にある院長室へと足を向けた。
道すがら目に映る新緑は色を増し、色とりどりの花々は我こそはと命の輝きを競い合う。
なのに…今年こそは兄と連立って見に行こうと思っていた桜が、いつ咲いていつ散ったのかも判らなかった。
思えば、南谷と別れて以来すべての時間を受験のため注ぎ、念願だった父の歩いた道の入口に辿り着いたはずだった。
だがそれは高校受験の時と同じように、ただ運が良かった…そんなぎりぎりでの合格で…実際、親友の森下は、
「お前って、ほんと運が良いのな。でもまぁ、実力が無いと運も味方しないだろうから…実際のお前は眠れる獅子…って事なんだろうな」
等と、からかっているのか誉めているのか判らないような事を言っていた。

そして通い始めた大学は、高校に入学した時とは雲泥の差と言える学生たちの集まりで。
その中で、必死に前に進まなければならないと思うと、合格した喜びはあっという間に消え去り、気持が萎縮してしまうような気がした。
それでも、兄が帰ってくれば…兄が側にいてくれたら…そんな微かな希望を抱いていたのに、今あるのは思いとは裏腹の現実。
兄とは顔を合わせる事も無い日が続き…それなのに成す術も無く、ただ手を拱いていた二月余りだった。
だから…業を煮やした大輝に 「お前は一体何をしているのか!」 と、責められたとしても返す言葉も無い。
そう思うと脚が前へ進むのを拒むかのように重く感じられ。然りとて、このまま兄を諦める事など絶対に出来ない事も判っていた。
どうすれば良いのか…明確な答えを見つける事も出来ず。思いは廻り巡って…郁海はドアの前に立つと重い腕を上げた。

乾いたノックの音に、返ってきた大輝の声は苛立っているようにも聞こえ、重く沈んでいるようにも聞こえ、開くドアまでが鋼鉄の扉のように重い。
そして開いたドアの先には…やはり厳しげな表情で郁海を見つめる大輝の顔があり…郁海の脚は入口に立ったまま前に出ない。
すると一瞬大輝の表情が緩み、椅子から立ち上がると郁海に向かってデスク前のソファーに座るように促し…自分も郁海の正面に座った。

以前は鬱陶しいほど家に来ていた大輝も、帰国以来樹理に合せたように家に顔を出す事もなくなっていた。
そのせいか久方ぶりに見る大輝の顔が、ドイツと日本に隔たっていた時よりも懐かしく思えた。
それと同時に、何処かホッと安心している自分に気づき…改めて叔父の存在を認識する。そんな郁海に大輝は、
「郁海、久しぶりだな。この前はドタバタしていたせいで、ゆっくりお前の顔を見る間も無かったが…暫く見ないうちに随分と男前になった。
それと…樹理を真っ直ぐ帰してやれなくて…すまない。正直俺も、樹理のあんな事を言い出すとは思ってもいなかった。
だから、何かあるだろうと思って理由を聞き出そうとしたんのだが…何も言ってくれなくて…本当にすまん」
まるで樹理の言動が自分の責任…とでも言いたげな表情でそう言うと、大輝は郁海に向かって本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
そんな姿を見ると、今までも…そして今も、自分たち兄弟がどれほど叔父に心配をかけているのかを思い知る。

自分たちには父親がいない。それでもその事を嘆いたり、父親が欲しいと思ったりした事が無かったのは、いつも叔父が側にいてくれたから。
樹理には甘いだけだったが、反抗的だった郁海は何度も叱られもした。
それでも叔父は決して目を逸らす事無く、郁海の我が儘や身勝手を正面から受け止めてくれた。
それが過去の出来事に対する後悔と贖罪の思いだったとしても、余りある愛情で見守り続けてくれたことは確かだった。
それなのに、ただやみくもに反抗するだけで安穏と守られてきた自分。
そんな自分が今、しなければならない事は…叔父が自分にしてくれたのと同じ事なのでは。
正面から兄と向き合い、全力で兄を護る事。それが、叔父から学び郁海自身が辿り着いた答えのような気がした。

「叔父さん…。俺の方こそ…ごめん。俺がしっかりしていないから、いつも叔父さんや母さん、それに兄さんにも…心配ばかりかけている。
そして…今回の兄さんの事も、叔父さんのせいじゃない。多分、俺のせいだと思う。だから今度こそ俺が…兄さんの事は…俺が何とかする。
今まで自分勝手な事ばかりしてきたのに今更って思うかも知れないけど…今更だから判ったんだ。
俺にとって兄さんがどれほど大切な存在なのか、俺がどれほど兄さんを好きかって…俺は弟だけど、兄さんだけは絶対に護りたい。
二度と兄さんを悲しませるような事はしない。それだけは約束する。だから叔父さん、俺を信じて…兄さんを俺に返してください」

「そうか…お前は本当に大人になったんだな。そうだな、樹理を泣かせるのもお前なら、樹理を喜ばせてやれるのもお前だけだからな。
けど…樹理はああ見えて、なかなか手強いぞ。だから、一度決心した樹理の気持ちを覆させるのは容易ではないだろう。
今だって、俺がそれとなくお前の事を話題にしようとすると、まるでそれを察したかのように別の話題を振って来る。
正直、側で見ていても可哀想なほど元気が無くて…今のままじゃいつ倒れるかと心配なくらいなのに…そのへんは見事だと感心するくらいだ。
樹理にとってお前の兄でいる事が、自分が生きる意義でもあり一番幸せな事の筈なのに…それを笑顔もろとも全部捨てようとしている。
けど…お前だけがそれら全てを樹理に戻してやれる。だからその事を心に刻んで…本気でぶつかっていけ。
そうでないと、樹理の本心には辿り着けないぞ。郁海…俺からも頼む。これからはお前が樹理を護ってやってくれ」
言いながら郁海を見つめる大輝の眼には安堵の色と一抹の寂しさが宿っているように見えた。


大輝から樹理の様子を聞いた郁海は、離れていた時よりも兄がはるか遠くに思え、事故の知らせを聞いた時より兄の事が心配でならなかった。
兄は一見か弱そうに見えるが意思が強く、一度決心すると余程の事が無い限りそれを簡単には変えない。
だから、どんなに辛い事でも必死に我慢し続ける。それが弟の為と思えば猶更だった。そして郁海自身もその事を良く知っていたから。
本当は、「叔父さんの養子になるなんて馬鹿な事は止めろよ!」 そう言いたいと思うのだが、
樹理を納得させるだけのものがなければ、言っても止めるはずが無いのも判っていた。

どう説得すれば、兄は家に…自分の元に戻って来るのだろう。
必死に手立てを探りながらも…もしかしたら、兄は余りにも身勝手な弟に愛想尽かししたのでは。
そして、本当に叔父の養子になりたい…と思ったのでは。そんな考えが頭の中を過る。
だが、やはりそれは決して兄の本心では無い…郁海にはそんなふうに思えてならなかった。
兄はいつだって優しい。どんなに身勝手で横暴な弟でも、決して見捨てたりはしない。弟の為ならどんなに辛くても我慢し続ける。
だから、もっと何か…自分がメールを無視した事だけでは無く兄自身の事で…それは大輝の言う生きる意義を見失うほどの事。
そして、弟である自分と関係がある事。そう考えると、樹理が突然あんなことを言い出したのも納得がいくような気がした。

結局最後に行きつく答えは…今度の事も自分のせい。俺が、兄さんに我慢を強いる元凶。
ならば…元凶が消えてしまえば兄は自由になれるのか…そう思いながら、それもまた後ろ向きの考え…のような気がした。
だから、今度こそ正面から兄と向き合い…その何かを一緒に考えなくては。たとえ自分の想いが兄弟の域を超えるものだとしても、
兄がそれを受け入れてくれるまでは、永沢樹理は自分の大切な兄であり、自分は……樹理の弟…だから。
そう思った時郁海は、自分が次に何をするべきかはっきりと解ったような気がした。

そして樹理もまた…叔父の子供になろうと決心したものの、それで自分の中で何かが変わるというものでもなかった。
むしろ、郁海がすぐ側にいるのに会えない。その事のほうが、二人が遠く離れていた時よりも寂しさが募り…毎日が辛くて悲 しくて。
だから、ドイツにいた時には日課のように描いていた絵も、描くどころか筆を手にしようという気にもなれず、
ただ無意味に過ぎていく時間の中で、ため息から呟きだけが漏れる。

郁ちゃん…大学行き始めたんだよね。大学の勉強って難しいんでしょう?
新しいお友達も沢山出来た? 毎日が忙しくて…楽しくて…もう、僕の事なんて忘れてしまったのかな。
僕は…毎日毎日、郁ちゃんの事ばかり考えて…郁ちゃんに会いたくて…郁ちゃんの声が聞きたくて…胸が痛いよ。


「あれ、樹理ちゃん? 永沢の兄さんの樹理ちゃんだよね」
不意にかけられた声に、目の上にある声の主の顔を見上げると、少しきつめの切れ長の目が樹理を見つめて笑っていた。
記憶の中でその顔は確か何度か見かけた事の有る顔…だが言 葉を交わしたのはたった一度。
しかも、その時の印象は余りにも強烈で…そのせいか、樹理の表情に少しだけ緊張の色を浮かんだ。そして、やはりやや緊張気味の声で、
「え? あ、こんにちわ…」
そう言うと丁寧に頭を下げた。すると声の主は苦笑いを浮かべ…けれど、快活な声と口調で樹理に問いかけた。

「覚えている? 俺の事」
「森下…じゅん君でしょ?」
「あぁ〜 嬉しいな、覚えていてくれたんだ」
言いながら森下の顔一杯に嬉しさが広がるのを見ると、樹理の表情にも安堵の 色が広がる。 そして、
「うん、だって郁ちゃんのお友達だから…忘れたりなんかしないよ」
今度は笑みを浮かべ少しだけ親しげな口調で言うと、森下はなぜかがっかりしたような顔で大仰な程がっくりと頭を垂れてから。
「まあそうだけど…俺は、樹理ちゃんとも友達のつもりでいたんだけどな」
と、恨めしそうな声で言った。そしてその言葉は樹理に少 しの戸惑いと驚きを与えた。 だから、戸惑いをそのまま口にする。

「僕の…友達?」
「そう…永沢と樹理ちゃん、二人とも俺の友達。そう思っていたんだけど…それって、樹理ちゃんには迷惑だったのかな」
森下の問うような、そのくせ明言するような言葉に、樹理は改めて森下と言葉を交わした時のことを思い出した。
確か…初めて話した時も、森下は何の拘りも持たず今のように親しげに声をかけてくれ…友達…と言ってくれた。
だが、郁海の不 機嫌さに押され返 す言葉も無く別れ…あの時一度きりの会話。なのに森 下の言った言葉は今 も生きている。
そうか…じゅん君は、ニールより前に出来た普通に接してくれる友達だった…んだ。
そう思ったら、さっきまで重く沈みがちだった気持ちが嬉しさで浮き立つような気がした。だから、満面の笑みで答える。

「うぅん、嬉しい。とっても嬉しいよ。僕も、じゅん君の友達だよ」
「良かった、俺なんかお断りだ…って言われたら、へこんじゃうところだったよ。 で…今日は一人で買い物?
あ! そっか。確か樹理ちゃんは絵を描くんだよね。それで絵の道具を買いに来たのか」
森下はそう言いながら何気に辺りを見回した。売り場で目に付くのはシャーペンやボールペン、それからノート等の類で、
絵の具や筆といった物は隅の方に押しやられて、探さなければ直ぐには見つかりそうも無い。
そんな普通の文具売り場だと言うのに、なぜ自分が画材を買いに来たと判ったのか樹理には不思議に思えた。

「じゅん君は、どうして僕が絵の具を買いに来たって判ったの? 僕が絵を描くって知っていたの?」
「うん、永沢に聞いた。でも、あいつの部屋に掛けてあった画を見た時、これは樹理ちゃんの描いた画だなって…直ぐに判ったけどね」
「え、なんで? なんで僕が描いたって判ったの?」
「何でかな…多分あの画に、樹理ちゃんのあいつを思う気持ち…を感じたからかな。正直言うと、あれを見た時ちょっとだけあいつが羨ましかったよ」
森下は照れ臭そうに言っ たが、樹理は自分の絵 に対する森下の 言葉がとても嬉しく思えた。
だが、今の自分は絵を描く気にもなれないでいる。それが何となく後ろめたいような、申し訳ないような気がして、
「そう…なんだ。でも…もう絵は…」
描く気にはならない…そう言いたいと思い ながら、樹理は続く言葉を呑み込んだ。

それに、叔父の大輝が自分の事をとても心配しているのが判っていたから、少 しでも安心させる為に絵でも描いてみよう…と思っただけで、
本当は、郁海に見せる事も叶わない絵など描きたいと思わなかった。
だからと言ってそんな事 を口にするのも憚られ、曖昧な笑みを浮かべる樹理に森下はまるで樹理の心中を見ぬいたかのように言った。
「あれ? まさか…もう画を描くのが嫌になった…なんて事無いよね」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど…。叔父さんが何かした方が良いって言うから…」
「叔父さん? そうか…樹理ちゃんは、今叔父さんの家に居るんだっけ。それじゃ、永沢の奴は寂しがっているだろうな」
森下の口から何気なく出た、郁海が寂しがっている…その言葉は少しだけ明るくなった気持ちにまたも重石を付け。
思わず声が潤み…そして、少しだけ拗ねたような口調になった。

「寂しがってなんかいないよ…郁ちゃんは」
「そうかな。あいつは、ずっと樹理ちゃんに守ってもらっていたせいか、何処か弱いところがあるからな。
本当は大分参っているんじゃないかな。でもまぁ、あいつの事だから強がってそれを顔に出さずいるんだろうけど」
森下の語る郁海は樹理にしてみれば想像もしない郁海であって、どうしてもそれが 本当だとは思えなかった。
それでも帰国した時以来一度も会っていない事を思えば、もしかしたら…そんな微かな希望を胸に力無い抵抗を試みる。

「郁ちゃんは、弱くなんか無いよ。僕なんかより、ずっとずっと強いよ。だから…寂しくなんかないよ」
「うん…そうかも知れない。でも、人間は強さだけではなく弱い部分も持っているからね。それは永沢だって同じだと思うよ。
けどあいつは、支えがあればいくらでも強くなる。そういう奴だと思う。だから樹理ちゃんに頼みたいんだ。
あいつの支えになってくれないかな。そうすれば、あいつは今よりもっともっと強くなれる。そして樹理ちゃんも…。
だって、二人とも俺の大切な友達だからさ、落ち込んだり悲しんだりしているのを見るのは、やっぱ辛いからさ」
森下は軽い調子でそんな事を言ったが、樹理はその言葉の裏に森下の気遣いや優しさが溢れているのを感じた。
それでも…森下が自分に何を頼むと言うのか、その意味を図りかねて問い返す。

「支え? 支えって?」
すると森下はそれには答えず、いきなり樹理の髪をくしゃくしゃと掻き回しそれから、
「樹理ちゃんは、前より更に美人さんになったな。やっぱり、あいつと張り合ってみたくなった…なんて訳にもいかないか。ほんと…残念だよな。
それじゃ、俺は家のチビ等のお供で来ているからさ、もう行かなくちゃ。だから、今度ゆっくり会おうね。
それと…永沢に伝えておいてくれる?「お前がもたもたしていたら、俺が本気で樹理ちゃんをデートに誘うぞ」 って…ね」
そう言うとくるりと背中を向け、そのまま後ろ手にひらひらと手を振り店から出て行った。

聞きたい事には答えてもらえずそのうえ郁海への伝言まで残されて、樹理は如何して良いのか判らずただ森下の背中を見送る。
そして、既に森下の耳には届かない返事を呟いた。
「う…うん、また会えると良いね。でも、郁ちゃんには伝えられないかも知れない…ごめんね、じゅん君。
じゅん君もニールも、それからルイも…みんな大好きだよ。会えないと寂しいと思う…また会えれば良いな…って思う。
でも…郁ちゃんの大好きは違うんだ。郁ちゃんは弟だから。郁ちゃんの事を考えただけで、泣きたくなる…胸が痛くて…痛くて…辛い。
だから、もう郁ちゃんには会えない。ごめんね、じゅん君…心配してくれてありがとう」


水彩用の絵の具を何色か買って、それに筆を数本買うと樹理は帰りを急いだ。
この絵の具も筆も、買っただけで使う日は来ないかも知れない。そんな事を思いながらマンションの前まで来ると、其処に待っていたのは。
「郁ちゃん…」ぽつりと呟いた名前。それだけで郁海の顔が妙にぼやけて見えた。
だから、無言のまま足早に郁海の側をすり抜けエントランスへと向かう。
そしてエレベーターに乗り込むと、樹理の後を追うように郁海が続き…エレベーターの狭い空間はより狭く息 苦しさで一杯になった。
背中が郁海の体温で焼けそうなほど熱く、自分の 心臓の音がドキドキと耳に響く。6階まで上がるほんの短い時間がとても長く感じられ。
樹理は息を止めたまま身を硬くしてエレベーターが止まるのを待ち廊下へと飛び出した。

鍵を開けるのももどかしく部屋の中に入ると真っ直ぐリビングに向かいソファーに腰を下ろす。
あれほど会いたかった郁海の顔をまともに見る事も出来ず、俯 いたまま顔を上げる事も出来ないのは、
顔を見たら…きっと泣いてしまう…そんな気がして、樹理はじっと自分の膝を見つめ続けていた。
やがて互いの想いを呑み込んだ沈黙が二人を押しつぶす。それでも樹理は頑なに座り続けた。
そんな樹理の鎧とも思える空気の層を破ったのは、窓 際に立ったまま樹理を見つめていた郁海の発した声だった。
「兄さん、本当に叔父さんの養子になるつもりなのか…」
問いかけた声は酷く乾いてひしゃげて耳に届き…樹理は顔を上げることも無く俯 いたままポソッと答える。

「うん…決めたから…」
「…ごめん…俺のせいだよな」
「違うよ…郁ちゃんのせいなんかじゃない。僕が自分で考えて決めた事だから」
平静に答えたつもりだったのに、涙は樹理の決 意を裏切りどんどん湧いてきて…樹理はそれを零すまいとしてギュッと目をつむった。

たとえば…耳が聞こえなかったら、その声も耳に届かない。
たとえば…心が何も感じなかったら、その言葉で心が揺れる事はない。
たとえば…目が見えなければ。たとえば……たとえば…。
たとえば、五感全てを失ったとしたら…それでも自分の中にある郁海への想いは決して消える事はないだろう…樹理はそんな気がした。
それなのに郁海の声が、言葉が…容赦なく樹理の心をかき乱す。

「俺はいつも、兄さんに悲しい顔ばかりさせている。本当は兄さんの笑顔が大好きなのに…泣かせてばかりいる。
だから兄さんが、俺の兄さんでいるのが嫌になったとしても…俺には何も言えないし引き止める事も出来ないと思う。
どんなに引き止めたくても、兄さんの思うようにしたら良い…それしか言えない。
けど…今まで有難う。俺の兄さんでいてくれてありがとう…それだけはどうしても言いたかったんだ。
兄さんが守ってくれたから、俺は死なずに済んだ。今こうして生きていられる。
俺は、兄さんの弟で良かった…永沢樹理が俺の兄さんで本当に良かった…心からそう思っているよ」

「郁ちゃん…ごめんね。本当に、郁ちゃんのせいなんかじゃないよ。
僕は…郁ちゃんにそんなふうに言ってもらえるようなお兄ちゃんじゃないんだ。
郁ちゃんが大好きだから…本当に大好きだから。もう、郁ちゃんのお兄ちゃんじゃいられないだけ。だからごめんね、郁ちゃん」
目を潤ませながらも必死に涙を堪え、光を背に表情の見えない郁海に決別の言葉を伝える。
そして郁海は…そんな樹理が愛しくて、このまま抱きしめたら…。
そんな事を思いながら、それで全てが解決する筈の無い事は郁海自身良く判っていた。
だから、ゆっくりと樹理の前まで歩み寄ると膝を落とし、目の前の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめて聞いた。

「お兄ちゃんでいられないって…どういう事なの?」
言いながら樹理の手を取り自分の手の中に包み込む。すると樹理は頭だけ郁海の肩にコトンと押し付け、
「郁ちゃん…こんなに大好きなのに…辛いよ、郁ちゃん」
そう言って今まで堪えていた涙を零した。薄いシャツを通して伝わる樹理の涙は熱く、皮膚の下を流れる血と共に身体中を駆け巡る。
その熱さが樹理の本心だとしたら、想いだとしたら…たとえどんなに拒まれても引き下がってはいけない。
決してこの手を放してはけない…郁海は改めてそう思った。

「兄さん…兄さんは今だって俺にとってたった一人の兄さんだよ。
たとえ叔父さんの子供になったとしても…俺の大切な兄さんである事に変りはない。俺は…死ぬまで永沢樹理の弟…だよ」
「駄目だよ、郁ちゃん。だって、僕はもう…郁ちゃんを守れない。どんなに守りたいと思っても、守れないんだ。
守りたいと思う事と本当に守るのは違うって…僕にはそれが解かったから、もう郁ちゃんのお兄ちゃんでいられない。だから…僕は…」
樹理の紡ぐ兄としての自分を否定した言葉に、郁海は樹理の深い悲しみと絶望が塗り込められているような気がした。
今までどんな事があろうと自分は兄で…弟を護る…そう言い続けていた樹理がなぜそんな事を。一体何があったというのか。

母は、樹理達が金目当ての暴漢に襲われたが、ニールという友達の護衛の人が助けてくれた…そう言っていた。
だが正直、もしかしたら…そんな不安も無くもなかった。それでも、樹理が怪我もなく助けられたと聞くとそれだけで安心してしまい、
不幸中の幸いとばかり時間の流れと共に押し流してしまった。
だがその時樹理の中で何かが変ったのだとしたら。自分を否定してしまう程の事があったのだとしたら。
そう考えた時郁海の頭に浮かんだのは、見たくない聞きたくない最悪の場面だった。
それでも、本当の意味で樹理を取り戻す為には…時間を巻き戻してもその何かを見つけ出さなくては自分の元に戻って来ない。

郁海はそう決心すると、樹理の手を握っていた手を放し代わりにその肩を掴んで自分から引き離した。そして、
「兄さん、ドイツで何があったの? 俺は兄さんが何を言っても驚かないし、兄さんの言う事や考えを否定したりしない。
でも…弟として兄さんに何があったのか知りたい。そして、もし出来るなら…その何かを兄さんと一緒に考えたい。
だから、兄さんの話せる範囲で良いから…話してくれないかな」
真正面に樹理の顔を見てその目に向かって問いかける。水を湛えた樹理の瞳の中で郁海の真剣な顔が揺れ…やがて脹らみ、
小さな雫となって樹理の頬を伝い零れ落ちた。

「郁ちゃん…僕はあの事故にあった日、自分がどんなに弱いのか気づいたんだ。
僕がどんなに力を振り絞っても、暴れても…あの人はびくともしなかった。掴まれた腕を振り解く事も出来なかったんだ。
何度も打たれて…怖くて、本当に怖くて…それでも頑張って逃げようとしたけど…そのうち力も出なくなって。
気が付いたら…郁ちゃんに、助けて…って、叫んでいた。何度も何度も…郁ちゃんの名前を呼んでいた。
僕はお兄ちゃんだから、どんな事があっても郁ちゃんを守らなくちゃいけないのに…護るって約束したのに…。
ずっとずっと…頑張ってきたのに。本当の僕は弱くて、臆病で泣き虫で…郁ちゃんを守ることも出来ない。その事にやっと気付いたんだ。
僕は郁ちゃんの為に何も出来ない。、もうお兄ちゃんなんかじゃない。だから、叔父さんの子になるって決めたんだ」」
樹理はそう言いながら、唇を震わせ本当に悔しそうに大粒の涙をぽろぽろ零した。

話しを聞いてみると、そんな事はどうという事ではないような気もした。
恐怖で助けを呼ぶのは誰であれ至極当たり前の事で恥じるほどの事ではないと思う。
だが樹理にとって、何があっても郁海を守る…という誓約は、自分が兄としての自分でいる為に不可欠な支えでもあった。
それなのに、恐怖のあまり思わず守るべき弟に助けを求めてしまった。
その事が兄としての自己を崩壊させ、果ては自分の存在意義まで見失う原因になってしまったのだろう。
そう思うと、如何にも樹理らしい…そんなふうにも思えた。それと同時に…樹理が最悪の状況を免れた。
その事にホッとしている自分に呆れながらも、郁海は言葉を発する前に力一杯樹理を抱きしめていた。
可愛いとか、愛しいとか…そんな感情よりも、かけがいの無い大切な者をこの腕の中で守りたい…ただそれだけだった。

「兄さんごめん。兄さんはいつだって、俺のどんな小さな変化にも直ぐに気付いて、慰めたり励ましたりしてくれた。
それなのに俺は、兄さんの辛い気持ちに気付くことも出来なかった。そんな俺が大きな顔で弟だ…なんて、笑えるよね。
でも…やはり俺には兄さんがこの世で一番大切な人だから…側にいて欲しい人だから。
兄さんと離れるなんて出来そうもない…ごめんね。ほんと…最低な奴で…ごめん」
抱しめたまま樹理の耳元で詫びながら想いを告げる。

「郁ちゃん…どうして…そんな事言うの。僕はもう郁ちゃんを護れないのに、どうして…」
「うん…護ってくれなくて良いよ。俺はもう、兄さんに護ってもらわなくても大丈夫なくらい大きくなった。
けど俺の心はとても弱くて、頼りなくて…いつもふらふらと揺れている。ほんと、自分でも情けなくなる。
それでも…兄さんが側にいてくれれば、俺は強くなれる。どんな事も出来る…そんな気がする。
だから、兄さんが今までずっと俺を守ってきてくれたように…これからは俺に兄さんを護らせて欲しいんだ。
兄さんを護る事が俺の支えになり、俺の力になる。兄さんが俺を護るために頑張ってきたように、俺も頑張る事が出来る。
でも、兄さんは…俺の支えになるのは嫌なのかな。もう俺の兄さんでいるのは嫌なのかな」

窺うような…それでも固い意思を含んだ郁海の声。それを聞きながら、樹理は数時間前森下に言われた言葉を思い出していた。
確かに森下は、樹理に郁海の支えになってくれ…と言った。そして今、それと同じ言葉を郁海の口から聞き。
あの時判らなかった支えの意味が、少しだけ解かったような気がした。それでもやはり確かめずにはいられなくて、
「郁ちゃん…僕は、郁ちゃんの支えになれるの? 郁ちゃんの為に何か出来るの? 僕がいると、郁ちゃんは強くなれるの?
頑張れるの? 何も出来ない僕なんか…郁ちゃんのお荷物じゃないの?」
不安と戸惑いが入り混じった声で問う幾つもの疑問符。そして、樹理の口からお荷物等という言葉が飛び出したのに驚きながらも、
少しだけそれが可笑しくて、郁海は唇の端に笑みを浮かべた。

「にいさん…俺さ、やっと判ったんだ。どうして俺は兄さんと兄弟でいるのが嫌だったのか。
兄さんと兄弟なのがどうしようもなく不安でたまらなかったのか。その理由にやっと気付いたんだ。
俺は兄さんが大好きなのに…兄さん以上に好きになれる人はいないのに…兄さんは一生俺の兄さんで、俺は一生兄さんの弟。
いつかは兄さんと離れ…別の道を歩み始めなくてはならない…それがどうしても嫌で、嫌でたまらなかったんだ。
でも、どんなに嫌だとしても俺たちが兄弟だという事実は死んでも変わらない…変えようのない事なんだよね。
だから、その事実をそのまま受け入れる事にした。だって…そんなものよりもっと変えられない真実があるって…それに気付いたから。
俺は兄さんが大好きだから…兄さんの隣で、兄さんと手を繋いで生きていく…そう決めたんだ」

「郁ちゃん…そんな事言われたら…僕、泣いちゃうよ。嬉しくて…本当に嬉しくて…泣いちゃうよ」
言いながら作る笑顔が涙で濡れる。零れ落ちる雫が射しこむ夕陽に彩を織り…それはとても綺麗で。
だから郁海は、その涙にそっと唇を寄せ…涙に濡れた薄紅色の唇まで。そして思う。
この雫が、決して悲しい涙の味に戻らないように…その為に自分の命が此処にあるのだ…と。

「郁ちゃん…どうしてこんな…」
樹理の涙に濡れた瞳が驚きの色を纏い大きく見開き…細く華奢な指が唇を覆う。
郁海はその手を取ると、宛ら忠誠を誓う騎士の態でもう一度樹理の華奢な手の甲に唇を押し当てた。
「うん、このキスは兄さんが俺の大切な人だっていう証。二度と兄さんを泣かせたりしない…って誓い。
それと…いつか俺の恋人になってくれますように…そんな願いを込めたキス」

「恋人? お兄ちゃんじゃなくて恋人になるの? ルイとニールみたいに?」
「そう、大切な兄さんだけど…いつか最愛の恋人に。 なってくれる?俺の恋人に」

「ありがとう、郁ちゃん。でも…やっぱり郁ちゃんは嘘つきで意地悪だよ。
だって、僕を泣かせないと言ったのに、僕が泣きたくなるような事ばかり言う。
それでも僕は郁ちゃんが大好き。僕も郁ちゃんの恋人になりたい」
樹理はそう言うと、またも大粒の涙を零し…郁海はそんな樹理をそっと抱き寄せ…腕の中という名の檻に閉じ込める。


そして暫らくして帰宅した大輝は、玄関のドアを開けるなり全てが解決した事を悟った。
おそらく、帰ると電話を入れた時から其処で待っていたのだろう。
嬉しそうな顔で郁海と手を繋いでいる樹理は…今まで見たことも無いほど幸せそうな顔で大輝を迎え。
樹理の斜め後ろに立っている郁海はといえば、大輝と目が合うと幾分きまり悪そうな顔でぺこりと頭を下げる。
そして樹理がこれ以上ないほど嬉々とした声で、養子云々の撤回を告げた。

「叔父さん、ごめんなさい。 僕はやっぱり、叔父さんの子供にはならない事にした」
「そうか、それは残念だな…折角樹理と親子になれると思ったのに」
「うん…でも、僕は郁ちゃんのお兄ちゃんが良い」
今朝までの元気の無さは何だったのか…と思う程、本当に嬉しそうな樹理の笑顔に呆れながらも、
大輝は苦笑いを浮かべ、ちょっとだけ意地悪な言葉を投げつける。

「郁海はすぐ怒るし、樹理に意地悪をするだろう? それに大きくなりすぎて、ちっとも可愛くないぞ。
それでも樹理は、俺と一緒に暮らすより郁海の側が良いのか?」

「うん、それでも郁ちゃんが良い。
だって僕は…いつか郁ちゃんの恋人になるって約束したから。そうだよね! 郁ちゃん」