14. 兄・弟

-すれ違う決意-

「森下…お前に頼みがあるんだが、聞いてくれるか」
意を決する思いで声を掛けた郁海に、表情も変えず、感情も見せず森下が答える。
「頼み? 今更俺に頼み事なんて、何があるんだ。樹理ちゃんの事なら、お前に言われなくてもちゃんと考えている」
その冷めた答えに…やはり…と思いながら、開いてしまった森下との距離を今更のように実感した。
南谷の事では何度もそれとなく忠告されていたのに、後ろめたさから少しずつ森下との距離を取るようになり。
最近では顔を合わせても以前のように親しく話す事もなくなっていた。
それでも、やはり何処かに友人だという甘えがあったのか、こんなに撥無な態度で返されるとは思ってもいなかった。

そして、以前の自分なら此処で引き下がっただろう…そんな事を思いながら、
郁海は森下の顔を真っ直ぐに見つめ自分の想いを口にする。
「兄貴は、誰にも渡さない。たとえお前にも…」
「またもお得意の身勝手か? 勝手にほざいてろ。お前がどう思うと、何を言おうと俺には関係ない。
俺は合格が決まったら樹理ちゃんにはっきり言う。俺が大学を卒業したら、必ず迎えに行くから、待っていてくれって」
まるで木で鼻を括ったようなあしらい。なのに…明確な意思を持ち、それを口にする人間の顔は自信に満ちて、
たとえ傲慢と言える表情さえ耀いて見えるものだと思った。
だが今は…たとえ森下に挑んでも兄だけは渡さない。郁海もまたはっきりとそう言えるような気がした。

「兄貴は、うんとは言わない」
「そうか? なら、言わせるまでだ。永沢…お前、兄貴の事を何だと思っているんだ。兄貴はお前の玩具か?
それともペットか何かだと思っているのか? 兄貴が自分から離れていかないと思って、好き勝手な事ばかり言って。
あっちにふらふら、こっちにふらふら。そんなんで、兄貴を渡さない? ふざけるのも大概にしろ!
お前には、樹理ちゃんを繋ぎとめておく権利も無ければ、資格もない。

俺は、男の樹理ちゃんに一目ぼれした時から腹を括ったんだ。どんな事があっても、樹理ちゃんを守る。
人の目や噂、そんなもので傷付く事のないように…たとえ誰が相手であろうと全力で戦う…そう決心した。
けど、お前が兄貴を守って行くって言うから…樹理ちゃんの為に…そう思ったのに。
お前は南谷とくっついて面白おかしくやっていたかと思えば、兄貴が帰ってくる頃になった途端、また兄貴に逆戻りか?
そんで、また何かあると誰かに引っ付いて…樹理ちゃんを泣かせる。そういうのを、身勝手で傲慢だって言うんだよ!!」

森下は最後の言葉を吐き捨てるように言うと郁海を睨むような目で見つめた。
ともすれば三白眼にも見える目に憎しみとも紛う色を浮かべ、吐き出す言葉はきっちりと痛いところを突いてくる。
そして郁海は、出来る事なら視線を逸らし、この場から逃げ出したい…そんな思いとは別に、
流石に中学から認めてきた友人…そんな奇妙な感動さえ覚えていた。
だからこそ、最低の自分を晒し、その無様な姿を最後に一歩踏み出す自分。それが人を踏みつける姿であったとしても、
森下の目に刻みつけたい。何があっても二度と戻らない決心が、この友人に対する感謝の言葉の代わり…そう思った。

「森下…お前の言う通りだ。俺には言い返す言葉も無いよ。それでも…兄貴は誰にも渡さない。
誰に何を言われようと、誰を踏みつけようと…俺は兄貴を取る。たとえお前や南谷を切り捨てても、兄貴だけは失いたくない。
絶対に退かない…そう決めたんだ。俺は、お前を一番の親友だと思っていたし、お前が目標でもあった。
けど今は…お前を越えたい。必ず超えてやる…そう思っている。その為に今から…卑怯で自分勝手な俺を、南谷の前に晒しに行く。
だから…俺の目標でもあるお前に、男として最低な俺の姿を見届けてもらいたかった」

何度も考えた挙句の森下への頼みを口にしながら、郁海は自分の言葉が思うより淡々と声になるのが意外な気がした。
森下なら兄を幸せにしてくれるだろう。たとえ兄が、今はうんと言わなくても…いつかはかけがいのない人になるだろう。
そんな思いがいつも心にあった。そして今でもその思いは変わらない。それでも…南谷や森下を踏みつけても兄を選びたい。
まるで性とも呼べるような自分の心が哀れで、切なさに胸が一杯になり…涙が溢れそうになる。
そんな郁海を森下はただじっと見つめたまま…少しすると音も無く息を吐き出し、
「………。揺るがないか。二度と迷わないか」
そう言った声と表情には、憐みとも悲しみともつかない色が滲んでいた。

「あぁ、二度と迷わないし、何があっても揺るがない」
「そうか…それじゃ、やはり俺には勝ち目が無い…そういう事か。俺は、樹理ちゃんを護りたいだけだから…。
樹理ちゃんが笑っていられるなら…それだけで良い。だから…見届けてやるよ。お前の糞みたいな決意を」


郁海が、南谷に洗いざらい自分の気持ちを伝えようとした時、南谷は、
「聞きたくない!」
まるで、次に出て来る郁海の言葉を予期しているかのように両手で自分の耳を塞いだ。
その手を掴んで耳から遠ざけると、南谷は既に涙に潤んだ目で郁美を睨み、
「卑怯よ!」 そう言って今度は森下を睨んだ。

「ごめんな、南谷。でも、森下は、俺が無理を言って付いて来てもらったんだ。
俺は卑怯で情けない人間だから…お前の前から逃げ出さないように、俺自身から逃げ出さないように。
お前ときちんと話が出来るように、お前に詫びることが出来るように…。だから、森下は俺の断罪者なんだ」
今更、言い訳など何の意味も無いし、するつもりも無かった。ただ正直に、南谷の中に逃げようとした卑怯な自分を晒し。
どんなに逃げても、忘れられない大切な人がいる。だから…その人のもとに帰りたい…それだけを告げた。

「何となく、感じていた。郁海君の心の中には、誰か居るって…私じゃその人を消せないって。
それが解っていても認めたくなかった。たとえ誰かを思っていても、私を選んでくれたなら…それで良いと思った。
私の中で郁海君は、郁海君の誰かと同じ。好きだって気持ちは、直ぐには消せない。
だから…良いよ、別れよう。その人を大切にしてあげて…なんて言えない。ゴメンネ…ほんとごめん」

頬を濡らし、声を詰らせ必死に言葉を紡ぎだす南谷に、郁海はもう何も言えず。
ただ、黙ってその場を立ち去る以外、どうすることも出来なかった。
人の気持ちを…誰かを好きだという想いを、簡単に消せるはずは無い。その事は郁海自身よく解っていた。
だから…作り付けの優しい言葉や慰めの言葉で、これ以上南谷を傷つけたくなかった。
戻れないなら、切り捨てる方が優しい時もある…なんて考えは、本当は身勝手な言い訳。
そんな事は判っていても…それでも、もう二度と後を振り返るのだけはしたくない…と思った。



白が嫌いだと思った事は無かった。なのに今は…白は嫌い。
壁も、カーテンも、シーツも、其処に横たわる白い頬も…全てが光に溶けて消えてしまいそうで…頼りない。
だから、手に伝わる微かな温もりと柔らかい感触だけを必死に繋ぎとめる。
「ルイ…早く目を開けないと、お日様に連れて行かれちゃうよ」
「僕がずっと手を握っていてあげるから、そっちに行っちゃ駄目だよ。
ルイはニールの所に戻らなくちゃいけないからね…解かった? だから…早く戻っておいで」

樹理はあの事故以来片時も離れる事なくルイの側に付き添い、手を握り締めたまま意識の無いルイに語りかけていた。

あの日…何処からか聞こえた不気味な音の後、突然床が抜けたと言うより建物が半分崩れ落ちた。
地面から張り出しているテラスを支えていた鉄柱が、腐食して折れたために建物が傾き、床の一部が抜け落ちてしまった。
そのため、部屋の中にいた樹理とニール、そしてルイの三人は抜け落ちた床と一緒に崖を滑り落ち、
辛うじて途中の岩に引っかかって止まった。例の暴漢はニールの護衛が外に連れ出していたため無事だったというのは、
なんとも皮肉な結果だったとしか言いようが無かった。そして救急隊が駆けつけ。
どうにか助け出された時、樹理の肋骨は折れ肩甲骨にも皹が入っていた。

だが…ニールを庇ったルイは折れた支柱にわき腹を抉られ、その上岩に頭を強く打ってしまったようで、
搬送された病院でのCT映像では脳内にも出血が認められ命が危うい状況だった。
その為、腹部と頭部の同時手術が行なわれる事になった。そして、ルイの怪我が自分を庇ったせいだと知ったニールは、
半狂乱になってルイに取りすがり、離れようとはせず。医師は、止む無く薬でニールをねむらせる事にした。
従って、事故当時の様子を説明出来るのは樹理だけで…警察官と自治体の役人は何度も樹理の病室を訪れた。
骨折による発熱と事故のショックを推して気丈に振舞う樹理を健気に思ったのか、
それとも…ルイージャ・トラバルタの名前に同情したのか…警官は無断で廃屋に侵入した事をさほど咎めもせず。
それどころか、自治体の役人はルイの身上に関わる話までしてくれた。

「あの地下の店は、ルイの亡くなったお母さんが学生達相手にやっていた小さなレストランだったんだよ。
親元を離れている学生たちにとって、ルイのお母さんの作る料理はとても評判が良くてね。店はいつも学生で一杯だった。
でも、河岸整備のされていない場所での建築法に違反している建物…という理由で取り壊す事に決まり、
建物のオーナーは新しく立て直す事にした。そしてマリアさんは、また店を…そう言っていたが…病気で亡くなってしまった。
そのせいでは無いだろうが、オーナーは廃ビルを放置したままにし、壊れた鍵を付け替える事もしなかった。
やがてあまり素行の良くない者たちが入り込むようになって、最近では周りからの苦情が絶えない状況になっていた。
そして今回…不幸にもそれが現実になってしまった。もっと早くに取り壊すか、せめて鍵だけでも取り付けていれば防げたものを…」
役員は憤慨しながらも残念、そんな顔で語った。

話を聞きながら樹理は、ルイの境遇が決して恵まれていなかった事を知り、その事に胸が痛む思いがした。
大切な家族が死んで、やっと巡り会えた大好きな人にも自分から別れを言わなくてはならないなんて…辛すぎる。
そして…やっとこれからは、その大好きな人とずっと一緒に居られる。
そう思った矢先だったのに、こんな事になるなんて…神様って本当に残酷な事をする。
樹理にはそんなふうにしか思えなくて。だから…意識の無いルイの手を強く握り締め、囁くように語り掛ける。

「ルイ…ルイも辛いことが沢山あったんだね。神様って…酷いよ。そんな神様には、僕がいっぱい文句を言ってあげる。
ルイを幸せにしないと許さない…って、言ってあげる。だから、ルイは安心してニールの所へ戻っておいで」
だがその囁きの裏で自分を責め、ルイに謝り続ける自分がいた。
あの時…ニールに言われたとおりにあそこを出ていれば…。自分が、今…此処で…そう言わなければ。
ルイにこんな怪我をさせたのは自分。本当に悪いのは自分。それに………。


「ずっと、ああして話しかけているんです。自分だって車椅子状態で安静にしていなくてはならないのに…聞きやしない。
正直…ルイは出血が多すぎたし手術まで時間がかかり過ぎました。
そのせいで、脳へのダメージが大きくて…もしかしたら、意識は戻らないかも知れない。そんな危惧さえ抱いています。
でも、樹理は…ルイが戻ると信じているんです。だから、俺がいくら言ってもルイの側を離れない」
大輝がそう言うと、自分と同じように樹理の背中を見つめている義姉に顔を向けた。
その顔には無精ひげが伸び、顔色も悪いうえに目の下には隈まで出来ている。
その事からも、大輝もまた事故以来ほとんど寝ていないのだろう…事は容易に想像が付いた。

事実、大輝にしてみれば樹理をドイツへ連れてきたのは自分…そんな思いがあった。
だから…事故はもとより、警察官から聞いた暴漢の話は身体中の血を凍らせ、過去の惨劇を再現されたような気がした。
自分は、一度ならず二度までも樹理の命を危うくした…そんな思いが頭の中を駆け巡り、
樹理の無事を確認しても尚、樹理から目を離すのが恐ろしくならなかった。
そんな大輝の心中を察したのか、義姉は大輝の腕にそっと手を添えると、大輝の沈痛とは反対に軽い口調で言った。

「そう…だったら、好きなようにさせておきましょう。それに…あの子なら呼び戻せるかも知れない。
一度死線を越えながらも生きる事を諦めなかったあの子なら…逝こうとする者でもきっと引き戻せる…そんな気がするわ」
「そうかも知れませんが…樹理だって決して安心って訳じゃないんですよ。今無理をして、もしもの事があったら…。
そう思うと居ても立ってもいられません。俺がもっと気を配っていればこんな事に……本当に申し訳ありませんでした」
そう言うと大きな体を二つ折りにして頭を下げる大輝に、義姉は大きな体を二つ折りにして頭を下げた。

「大輝さん、あなたが責任を感じる必要は無いのよ。樹理は…障害を持ってはいるけれど思慮分別も持っている。
だから今回の事は樹理の行動の結果に不運が重なっただけの事。幸い命がどうこういうほどの怪我でも無いし、
そんなに心配する事もないわ。ただ…お友達の怪我に対しては、樹理なりに思う事があるようだから、
あの子の気が済むまで好きにさせて置きましょう。大丈夫…あの子の事は私が見ています。
あなたは、取りあえずその無精ひげを剃って…何か口に入れて、それからゆっくり休んだほうが良いわ。
今のままじゃ、貴方の方が倒れてしまう。もしそんな事になったら、私は日本にいる彼に顔むけが出来なくなるわ」
義姉の口から出た含みのある言葉に、大輝は一瞬その顔を見つめた。

「姉さん…いったい何を言って……」
「気付いていないと思っていた? でも、本当は知っていたの…貴方と小島くんの事。
そして、本当は此処へは彼を連れてくるつもりでいた…そうでしょう? それを変更したのは…樹理と郁海のため。
今だって、樹理が自由にしていられるのも貴方の計らいのおかげ…そうでなければ、ICUで付き添いなんて出来ない。
だから、詫びなければならないとしたら…いつも貴方の好意に甘えて、頼ってばかりいる私たち親子のほうだわ。
私たちは、貴方に感謝こそすれ謝られる事など何一つ無いのよ」
義姉はそう言うと笑顔を見せ、それから深々と頭を下げた。

だが大輝には、その笑顔が少しだけ得意そうにも見え…それは、強ち気のせいばかりでは無いような気もした。
なぜなら、ドイツ行きが決まった時、それを真っ先に知らせた相手が小島洋介だった。
そして告げると同時に 「一緒にドイツへ…」 そう言って躊躇う洋介を説得し…約束した。
その約束を反故にし、樹理を連れてくる事を決めたのは…可愛い甥たちに幸せになって欲しいと思ったからで…。
そのために自分の出来る一番良い方法を選んだだけ。そしてそれは、決して義務感とか責任感とかそういったものでは無かった。
だがそのために、小島洋介に寂しい思いをさせたのも事実で…それを思うと心が痛んだ。

今でも目に浮かぶには、ドイツ行きを告げた時の洋介の寂しそうな笑顔。一緒に行こうと言った時の悲しそうな笑顔。
そして、やっと頷いてくれた後の嬉しそうな笑顔と…涙。
だが…今でも心に突き刺さっているのは、一緒に行けなくなった事を告げた時の…感情の見えない笑顔。
それでも、樹理を連れて来たのは…いつまでも過去に縛られている自分。それら全てを見透かされている…そんな気がした。
「姉さん…。そうか…そんなにひどい顔ですか。それじゃお言葉に甘えて、少し休ませてもらいます。
スタッフの仮眠室を使わせてもらいますから、もし何かあったら直に連絡してください」
大輝はそう言うと、義姉と樹理を残しその場を後にした。


母親の言った事が当たったのか、それから三日ほど過ぎた昼下がり、本当にルイが目を開いた。
その時樹理は、ルイの手を握り締めたままルイの枕元に頭を載せ、眠ってしまっていたが、
自分の手の中で微かに動く感触で目を覚ました。そして、開いた樹理の目に映ったのは、自分を見つめている灰緑の瞳。
その虹彩までもはっきり見えるほど間近な瞳に、ビー玉のようだ…など思いながら一瞬見つめ合う。
そして、機と気付いたかのようにベッドから頭を上げると、其処がICUだった事も忘れ大声で叫んだ。

「え? 気が付いたの? 叔父さん! お母さん! ルイが目を開けた!!早くニールに!!!」

それからが大変だった。医師や看護師が出たり入ったり、回診車や脳圧測定モニターが運び込まれたり…と慌しい。
当然、樹理は看護師によってICUから追い出され、慌てて駆けつけたニールも中には入れず、
二人は廊下とICUを仕切ったガラス窓の前で、心配そうに中の様子を見つめていた。
意識を取り戻した事で安堵の表情を浮かべながら、やはり心配そうに中の様子を窺っている二人に、
「良かったな樹理、これで刺し込んであるチューブが抜ければ一般病棟に移れる。そうすれば、付き添いはニールと交換だ」
樹理の肩に手を置いた大輝もまた、ホッとしたような声で言った。

その言葉に、大輝を見上げる樹理の顔が嬉しそうに綻び、その顔をそのままニールに向ける。そして、
「だって…良かったね、ニール。ルイはちゃんと戻って来たよ」 本当に嬉しそうな声で言った。
「ありがとう樹理、君のお陰だよ。本当に約束を守ってくれたんだね。
だから、僕も君にした約束を守り絶対にルイを離さない。必ず幸せにする…改めて誓うよ」
そう言いながら涙に目を潤ませたニールの顔に、あの事故の日以来消えていた笑顔が、初めて浮かんだ。

「うん、ありがとうニール、僕も嬉しいよ。でも本当を言うとね、ルイが頑張っただけなんだよ。
だって、ルイが眠っている間もずっと声が聞こえていたんだ。ニールの処に帰りたい…そう言っているルイの声が。
だから僕は、ルイの手を握っていただけって事になっちゃうのかな。それでも、約束を守った事にしてくれる?」
樹理の言葉に、ニールが潤んだ瞳で樹理を見つめて何度も頷いた。

その嬉しそうな顔をみていると、嬉しくて、本当に嬉しくて…自分まで涙が溢れそうになった。
なぜなら、あの時早々にあの場を立ち去っていれば、暴漢が無事だったように自分たちも無事だったはず。
そんな後悔が心の中にあった。そして、「ルイは命も危い…最悪の場合も覚悟した方が良い」
追い打ちをかけるような大輝の言葉に…どんな事があってもルイを逝かせるわけにはいかないと思った。
然りとて自分に何が出来ると言えば、何も出来ない事も解っていた。
それでも、手を握りその魂を引き戻せたら…そんな思いで、ルイの手術が終わった後付き添えるように頼んだ。
それが叶わないなら自分も治療を受けないとまで言い張り…そして約束をした。

「ルイは絶対僕が、ニールの所に戻すから、二度と離さないであげてね」 と。それに対しニールは、
「ルイが戻ってくれるなら、この先どんな事があっても、二度と離さないよ」 そう約束してくれた。
だから、どうしてもルイに戻って欲しかった。目を開けて欲しかった。
大好きな人が待っているのに、泣いているのに、戻れないなんて悲しすぎる…辛すぎる。

そうだよね…郁ちゃん。僕…頑張ったよ。
どんなに語りかけても…問いかけても…今は答えてくれない郁海に、樹理は心の中で語りかける。





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