13. 兄・弟

 -分岐-

「郁海! いくみ!! 居るの?」

母親の切羽詰った声と階段を上る少し乱暴な足音に、郁海は慌てて抱き合っていた南谷と離れ何気ない顔を繕った。
だがいきなりドアが開かれた事で、幾分ムッとした顔を母親に向けると、
「何だよ…ノックぐらい…」
言いかけて、母親の緊張した表情と真っ青な顔色に嫌な予感がした。

思えば、滅多に取り乱す事の無い母親が大きな声を出し、挙句にノックまで忘れてしまったのだ。
そんな由々しき出来事が起こったのだとしたら…それは、郁海の頭の中ではたった一つしか思い当らなかった。
だから…嫌な予感は自分の思い過ごしであって欲しい…と思ったが、皮肉にも予感は的中し。
「あ…ごめんなさい。でも…樹理が…」
母親の口から出た名前で頭の中が真っ白になった。そして、音がするほどの勢いで立ち上がると大声で言っだ。

「兄さんがどうしたの! 兄さんに何かあったの!!」
その冷静さを欠いた声に、母親は逆に余裕を取り戻すかのように胸に手を当て、大きく息を吐きだすと。
「大輝さんから連絡があって…樹理が、怪我をして病院に運ばれらしいって」
そう言うと、また一つ大きく深呼吸をした。
だが…母親のその言葉は、郁海の頭の中にあの恐ろしく忌まわしい記憶を呼び起こし、不快な気分を甦らせる。
そして、血の海に横たわる樹理の姿が目の中で鮮明に浮かび上がり…問い返す声が震えた。

「怪我? 怪我って、どういう事なの! どうして兄さんが!!」
「それは…大輝さんが、今病院に駆け付けているところだから、詳しいことまでは、まだ判らないと言っていたわ。
でも、判り次第直に連絡しますって。多分連絡が来次第、母さんは向こうに行く事になると思うから。
だからあなたに伝えたら、いつでも発てるよう準備だけはして置こうと思い、急いで帰ってきたの」
母親は既にいつもと同じように落ち着いた声で言い、その声が妙に癪にさわりイラつき…。
「俺も! 俺も一緒に行く!」
思わず叫ぶように言った郁海の言葉を、母親はやんわりと遮った。

「貴方は、模試があるでしょう。大丈夫よ…そんなに心配はないと思うわ。だから、貴方は試験を優先させなさい」

「母さんは何を考えているんだ!どうして、模試なんて言えるんだ? どうして、大丈夫だなんて言えるんだ?
どうして…心配ないなんて…兄さんより大切なものなんて、この世にあるわけ無いだろう!
模試なんて、そんなものどうだって良い。俺は、絶対兄さんの所へ行くからな!!
チクショウ…叔父さんは何やっていたんだ。兄さんを守るって言っておきながら、怪我をさせるなんて。
もし、樹理に何かあったら…絶対許さない、あいつの事もぶっ殺してやる!」

図らずも郁海の口から出た、兄より大切なものは無い…その言葉は、側にいた南谷の耳にもはっきりと聞こえた。
そしてもしこの場に叔父がいたら、本当に殴りかかっているのだろう…と思わせた。
確かに…兄の怪我の知らせは、郁海にとっては冷静を欠くに充分過ぎる出来事なのだろう…と思いながら。
郁海の我を忘れたような取り乱した様子と、聞きたくも無い言葉は、南谷に驚きと困惑を与え…。
郁海の横顔を見つめる南谷の顔には複雑な色が浮かんでいた。
たまま郁海の横顔を見つめていた。

そんな南谷に、母親はチラリと視線を走らせると、少しきつい口調で郁海を窘める。
「郁海! 何馬鹿な事を言っているの!お友達が吃驚されているじゃない、少し落ち着きなさい。
大丈夫よ、樹理は弟を残して逝くような子じゃないわ。何があっても弟を守るお兄さん…そうでしょう?」

母親に言われ、郁海はやっと南谷の存在を思い出したかのように椅子に腰かけていた南谷に顔を向けた。
其処には自分をじっと見つめている南谷の不安そうな顔があり…それは今まで一度も見た事の無い表情。
それなのに…頭に浮かんだのは…南谷にかける言葉より兄がいつも口癖のように言っていた言葉だった。

「僕は、郁ちゃんのお兄ちゃんだから…僕が、郁ちゃんを護ってあげる」
そしてその言葉が、それまで昂ぶっていた気持ちやどうしようもない不安を鎮めてくれたような気がした。
【そうだ…兄さんは、俺を置いて逝ったりしない…絶対に…そうだよな、兄さん】
心の中で呟くと大きく息を吸い込み、その吸った息をゆっくりと吐き出した。そして、
「…ごめん、ちょっと頭に血が上った。南谷…ごめんな。そういう訳だから今日は…それと、落ち着くまで暫く」
そう言って南谷に掛けた声は、いつも聞き慣れた郁海の声と口調に戻っていた。
「うん、判った…大丈夫、私の事は気にしなくて良いよ。お兄さんの心配してあげて。じゃ…私は帰るね」
南谷もまた郁海に笑顔を見せて頷き、それから母親に向かって頭を下げる。
だが、その笑顔に隠された心の中には、不安と疑惑が渦巻いているのに郁海は気づく事も出来なかった。

門の前で見送る南谷の背中が目に焼きつき、言いようのない感情で胸が締め付けられ…目の奥があつくなる。
南谷は、いつも明るくて、楽しそうで…優しくて…郁海の心を疑いもしない。
それなのに自分は…いつも心のどこかで兄を想い…南谷を抱いている時でさえ兄と重ねている。
そして兄を裏切り、南谷をも裏切って…本当に卑怯で最低の男だ…屑だ
それでも…兄への想いを棄てる事が出来ない。南谷に、どんなに責められても詰られても、
兄が好き…兄を愛している…この想いだけは消せない。

ごめん…本当にごめんな…南谷…
やがて南谷の後ろ姿は視界から消え去り地を這う影が長く伸びても、郁海は其処から動こうとはしなかった。

いつまで経っても戻らない郁海を心配したのか、それとも様子を見に来たのか。
いつの間にか母親が後に立っていて、郁海の背中に声をかけた。

「良いお嬢さんね。郁海…貴方もそろそろ決心しないといけないわね。選べないなら…流されなさい。
それが嫌なら、誰を踏みつけても、泣かせても後悔しない…その覚悟で選ぶしか無いわ。
本当は…あんな良いお嬢さんを泣かせるような真似だけはして欲しくないけど…先に行って後悔しない為に、
どうしても選ばなければならない…そういう時もあるでしょう。ただ…曖昧な決断は、周りまで不幸に巻き込む。
だから良く考えて…ね。その為にも今回は、樹理の処へは母さん一人で行こうと思っているの」
その言葉に郁海は、母は南谷との事を知っている…そう思った。
そして、今の自分には兄の元へ行く資格が無い…そう言っているように聞こえた。

「母さん…俺は卑怯でとても弱い人間だ。森下や南谷のように…母さんや兄さんのように強くなりたいと思っている。
それなのに、いつも逃げてばかりで…そんな自分が情けなくて、自分で自分が嫌になるよ」
「そうね…情けないかも知れないわね。でも…郁海が思うほど誰も強くなんか無い…母さんはそう思うわ。
貴方と同じように弱くて、臆病で…卑怯で、いつも迷っている。ただ自分を…自分の心を奮い立たせているだけだと思う。
何かをしようとする自分、誰かを愛する自分。そんな自分を信じて、はるか先にいる自分を見つめて。
必死に其処へ辿り着こうとしているだけだと思う。だって…自分が諦めたら、そこで止まってしまうでしょう。
だから何度でも歩き出す。それだけじゃないのかな…郁海の言っている強さって。

樹理を見ていると、本当にそう思うわ。自分はお兄ちゃんだから弟を守らなくては…ずっと、弟を護るお兄ちゃんでいたい。
その想いだけで奇跡を起こしてきたのだと思う。決して強くなんかない。でも…弟を愛する心は誰にも負けない。
どうしてあそこまで頑張れるのか、母さんにも解らないけど…貴方に対する愛情だけが樹理を支えている…そんな気がする。
だから貴方も…自分で見つけなさい。そして選びなさい、本当に大切なものを…必要なものを。
それがあれば、どんな事にも耐える強さと、立ち向かう勇気が備わる…から」
母親は、そんな言葉を残して、一人で兄のいるドイツへ向けて旅立った。


大輝の話では、樹理は事故にあって怪我をしたと言うことだったが、それがどんな事故かまでは説明が無かった。
それでも樹理の怪我が命に関わるほどのものでは無いと判ると、ホットひと安心しながらも。
一緒に事故に合った友達がかなりの重傷で、その友達を心配した樹理がとても落ち込んでいると聞くと。
やはり、心の何処かで後を向こうとする自分がいた。

兄には、そんなに心配するような人が出来たのだ。それは…多分あの金髪の青年なのだろう。
それでも俺が、兄さんが必要だと言ったら、兄は俺を選んでくれるのだろうか。
そんな後ろ向きの考えと不安に苛まれる。自分にとって必要な人、かけがいのない大切な人。
それは考えるまでも無く、たった一人兄だけだと判っていた。それなのに、自分は兄を裏切った。
その事実が、郁海自身が兄との間に作った途方もなく高く巨大な壁…そんなふうに思えた。
乗り越えるのは余りにも高すぎて…見上げるだけで絶望に打ちひしがれるような気がした。

なにもかも中途半端。兄の事も、南谷の事も…そして将来の事も…そう考え始めると、
自分は本当に医者になりたかったのか…と、それすら不安になってきた。ただ兄の代わりに…兄の望みを叶えたい。
そんな理由だったような気もして…兄への想いが揺れ始めるとその将来すら揺れ始めた。
自分が情けなくて、惨めで…何となく足を向けた病院。
自分と兄の命を繋いでくれた父の居た場所でもあり、今は母と叔父のいる場所。

だが…その場所に足を踏み入れて何より驚いたのは外来受付前のホールで待つ患者の数。
正直、正面玄関から中に入るのは初めてと言って良い郁海は、目の前にある現実に目を見張る思いがした。
自分の友達関係という小さなエリアでは、ほとんどが若者という事もあって。病などというものは他人事でしかなかった
身近にあるのはせいぜい怪我や風邪程度…それも滅多に無い。医師不足とか診療拒否などという言葉を耳にしても、
それは頭の上を吹き抜ける風のようにただ通り過ぎて行くだけで、肌を掠める事も無かった。
だが…今目の前にいる患者だけでは無く、各課外来で診療中の患者や入院中の患者の数を思うと、
これだけの患者に、一体何人の医師や看護師が必要なのだろう。
もし…医師や看護師が足りなければ…その時患者達はどうなるのだろう…生まれて初めてそんな事を思った。

考えてみると、母や叔父が…のんびり休んでいるのを見た事が無かったと言って良い。
直ぐ近くにある自分のマンションにも帰らず、郁海達の家で仮眠をとる叔父。それを疎ましく思っていた自分。
母親と医師の二役をこなす為に、いつも働いていた母親。いつも母親が家に居る友達が羨ましかった自分。
そして、兄と二人きりの食事が多く…家族旅行に行った事もない。それを不満と思う程では無かったが…寂しさはあった。
だが…その理由がおぼろげにもやっと解かったような気がした。

医学がどんな命も救えるとは思わないが、医学で救える命もある。
兄と父に守ってもらった命、救われた命で今を生きている自分がこの先何を守り、何を救えるのか。
もう一度真剣に考えてみたい…郁海は、その時心の底からそう思った。


「お見舞いですか? そちらは一般の方は、立ち入り禁止ですよ。
どちらの病棟にいらしたのですか、良かったら案内しましょうか?」
そう言って声をかけられて振り向くと、白衣を着た男性がその姿には似つかわしくない米袋と、
大きな買い物袋を幾つか提げて立っていた。此処三階はオペ室とICU、その奥は管理部門になっているので、
一般の患者や見舞客が来ることはない。だから、其処をうろついていたら咎められて当然なのだが、
自分がなぜ叔父の部屋に行こうと思ったのか、郁海自身にもその明確な理由は判らなかった。

ただ何となく…医師としての叔父を知りたい…そんな気がして…気が付いたら此処に来ていた。
勿論見舞いなどでは無いのだから…答えるにも答えようが無くて。
「あ、すいません…俺は…」
と…曖昧に言い淀んでしまった。すると男性は自分が声をかけた事で郁海が恐縮したと思ったのか、
「何科に入院されているか、判りますか?お名前をお聞きすればこちらで調べられますよ」
優しそうな声でそう言うと、郁海に向かって近づいて来る。

だが、両手に抱えている荷物が相当重いのか、頼りなげな足取りとアヒルのような歩き方がなんとも言えず可笑しくて。
折角の親切に申し訳ないと思いながらも、郁海の口元は緩みそうになる。それを堪えて、
「いえ…そうじゃなくて…叔父の部屋に…」 郁海が言うと、その男性は直も近づくと間近に郁海の顔を見つめ、
「叔父様が入院されているのですか」
そう言った後ちょっと何かを考えるように瞳を斜め上に移した。そして直ぐにその何かを思い出したようで、
「あれ? 君は…郁海君…ですか?」  と言ってにっこりと笑った。

初めて会った人に突然自分の名前を呼ばれ…なのに不審には思っても男性に対し警戒心は起きなかった。
それは多分病院の中だから…と云うよりも、その男性の人懐っこそうな笑顔のせい…そんな気がして
「え? はい。でも、どうして俺の事知っているんですか」
郁海もまた何の抵抗も無が聞く。するとその男性は、まるでずっと以前から知っている…そんな顔で答えた。
「はい、院長室には、君たちの写真が置いてありますから。それに…いつもお二人の自慢話を聞かされていますので」
その言葉で直に叔父のことだと解ったが、叔父が自分たちの事を外で話しているというのは意外な気がした。
だから、思わず答えに対し更に聞き返す。

「自慢話? 叔父さんが俺たちの事を?」
「はい、天使のような樹理さんと、悪魔のような郁海君の話を…耳にタコができるほど…」
男性は悪びれた様子も見せず、本人を目の前にして耳の痛い事をさらりと言ってくれ、郁海はそれを反復する。
「俺は…悪魔…ですか…」
すると男性は、それが自分の失言だったと気付いたのか、途端に顔が赤く染まった。そして、
「あ! すみません。あぁ、どうしよう。また余計な事を言ってしまって…また、叱られてしまいますね。
でも、違います…これは、私が言ったことで、決して院長が言ったのではなくて」
そう言いながら、両手に荷物を抱えたままあたふたと慌てふためいた拍子に、米袋がドスンと床に落ちた。

そして、今度はそれを妙な体制で持ち上げようとする。その様子が可笑しくて、微笑ましくて…。
「良いですよ、どうせ叔父さんの事だから、もっと酷い事を言っているのは判っていますから。
兄さんは天使で、俺は天使を苛める悪魔とか何とか…まぁ、本当の事ですから」
そんな言葉がすんなり出たのも、男性のほんわりとして温かい笑顔のせいなのだろう…と思った。
その幾分天然くさい男性は、盛んに恐縮しながら尚も叔父を庇うような言葉を紡ぎだす。
「すみません…でも、誤解しないでください。副院長は…天使も悪魔も可愛くてしょうがない…そう言っておられました」
その表情や口調が何処か必死にも見えて…この人は叔父を好きなのでは…郁海はそんな気がした。

「解りました…ありがとう御座います。それで、貴方も叔父と同じお医者様ですか?」
「いいえ、私は看護師です。先ほど勤務が終わったので、今から荷物を送ろうと思いまして」
「荷物…そう言えば大荷物ですね、その米も送るのですか?」
「はい、そろそろ無くなる頃ですから…」
男はそう言って、抱えていた荷物に目をやった。今時米を送るなんて…それも、産地からならともかく、
こんな都会で買った米を何処に送ろうというのか…不思議に思いながらも、何となく送り先が想像できるような気もした。

「あの…立入った事聞いてすみません…が、その米は一体何処に…」
「別に構いませんよ…これは、ドイツに送るお米です。お米の他に、味噌や醤油…お餅などですが、
これが結構重くて…なんか、情けない所を見られてしまいました」
男の返事に、何となくそんな気がしていた郁海は、そんなに驚きもしなかった

「それじゃ…叔父さんと兄さんの為に?」
「ええ、院長はお米が大好きですから。日本とは、何もかも違う所にいるのですから、せめて食事だけでも。
あ! そう言えば、院長の部屋に来られたのでしたね。直ぐ開けますから、ちょっと待って下さいね
院長が居られる時は開いているのですが、書きかけの論文やら貴重な文献などがそのままになっているので、
留守の間は鍵をかけてあるんです」
男性はそう言うと、荷物を床に置き自分の首にペンダントのように下げていた鍵を引っ張り出すと、
それをドアに差し込んだ。そして鍵を開けた後、そのキーを鎖から外すと郁海に差し出し

「すみません、このキーは人に預けないで、帰る時に持って帰って頂けますか?
これは、マスターキーと言うよりプライベートキーなので…後で副院長に渡してください。お願いします」
人に預けてはいけないプライベートなキー。ならば、どうして貴方がそれを持っているのですか?
そう聞こうと思ったが、聞く必要も無いか…郁海はそんな気がした。

「それじゃ、荷物の梱包を此処でしたらどうですか? そうすれば、鍵はまた貴方が持っていられると思います。
それに…その中には兄の分も含まれているのでしょう? だったら俺も手伝いますから」
郁海が言うと、男性は少し驚いたような顔で郁海の顔を見つめた。
「あと…他にも叔父さんに送るものが有るのでしたら、取って来ても良いですよ。俺、此処で待っていますから。
どうせ、叔父さんのことだから、あれが欲しい、これも必要だ。
挙句に三河やの饅頭が食いたいな〜。なんて、自分勝手な、わがままを言ってくるのでしょう?」
郁海が笑いながら言うと、その男性はちょっとはにかんだような…困ったような顔をしたが、
「あ…い、いえ…そんな事は…」
言いながら、ほんわりとした陽だまりのような笑顔を浮かべていた。

本当に…温かい優しい笑顔…に、郁海はなぜか唐突に、その笑顔に自分の中の迷いをぶつけたいと思った。
兄の笑顔にも似た男の顔が苦痛に歪むのを見たい。そんな加虐心が郁海の中に沸き起こり堰を切って飛び出す。
それは…本当は兄に向けた問いのようにも思われ、自分に対する答えを探しているようにも思えた。
「平気なんですか? 心配じゃ無いんですか? 不安になったりしないんですか?
自慢の甥が、可愛くてしょうのない甥が一緒にいるんですよ。もしかしたら…そう思った事は無いんですか」
そして、一変した郁海の問い詰めるような言葉と口調に、男の目に初めて戸惑いにも似た表情が浮かんだ。そして、

「あ、あの…どういう意味…」 郁海に問い返す声が、不安に揺れているのが判った。
「どういうって、その通りの意味ですよ。貴方と叔父さんは…恋人同士なんでしょう。男同士で愛し合っている」
「ち! 違います!!そんな事ありません。あの方は立派な方で…優秀な医師で……」
男が慌てたように紡ぎだす否定の言葉を、郁海は最後まで聞きたくは無かった。だから男の言葉を遮るように自分の言葉を重ねる。

「そんな事関係無いでしょう。どんなに立派だろうが優秀だろうが…人を好きになるし過ちも犯す。
だから、そんなものは何の関係も無い。そうでしょう? 別に貴方や叔父さんを、どうこう言っている訳じゃありません。
俺も、実の兄が好きで…大好きで…兄を恋人にしたい。そう思っているのですから…貴方たちと同じです。
でも…どんなに好きでも側にいないと…離れていたら、兄が俺からどんどん離れていってしまう。
そんな不安で一杯になるんです。貴方は、そんな事無いんですか? 離れている間に、叔父が誰かに心を移したら…。
誰かと間違いを犯したら…そう思う事は無いんですか」
自分の中にある澱のような不安を男に吐き出す。それなのに男はじっと郁海を見つめたまま、何も言わない。、
その瞳は、まるで郁海の中に何かを探ているようにも見え、自分の中で何かを手繰り寄せているように見えた。

そして、男がゆっくりと言葉を発したとき、その表情に不安や戸惑いの色は無く、むしろ穏やかさに満ちていた。
「……。そうですね、郁海君の言う通りです。私は…あの人を愛しています。だから…こうして離れていると、
不安と寂しさで胸が潰れそうになる時もあります。あの人を思って、一人で泣く夜もあります。
こんな思いをするなら…そう思う事もあります。でも、好きなんです。私の心が…あの人を好きなんです。
あの人は優しいよ。あの人はお前を裏切ったりしない。あの人を信じているよ。
私の心は、いつも私にそう言って囁くんです。だから私は、その自分の心に従って、あの人を信じて待つしかないんです。
たとえどんな結果になろうと、自分の心が選んだ結末なら後悔せずに受け入れられる…そう思っています。

あの人は、私に言いました。
無理やり身体を開かせた償いは、一生君を大切にする事で果す。俺は、命がけで君を守ると約束する。
だから、その心も俺に預けてくれ…と。
私はその言葉を信じて、身体も心もあの人に預けました。
あの人に選んでもらった自分、あの人を選んだ自分…そんな自分を信じています」

穏やかな表情からは、口で言う不安などというものは読み取れず…本当に、叔父を信頼しているのだと思えた。
恋人として結ばれ、お互いを確かめあっているからなのか…そう思ったが、
それなら尚更、離れ離れの三年は長い。長すぎる……郁海にはそんなふうにも思えてならなかった。

「郁ちゃんは僕が護るから…」 兄はいつもそう言った。
その言葉に…自分は兄に愛されて当然。兄は自分の側に居て当然…そんなふうに思っていたのでは。
愛されないなら、愛さないほうが良い…そんな気持ちで、逃げて頂けなのでは。
本当はそんな事を思うゆとりも無いほど兄を愛しているのに、それすら目を瞑ろうとした俺は…。





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