母にも大輝にも、郁海にすら言った事の無い思いを、なぜ…知り合ったばかりの少年に話せるのが不思議な気もした。
それは二人の心の悲しみという名の音が共鳴しているだけなのかも知れないが、
それでも…自分の障害の事も郁海に寄せる想いも、心のままに話せるのが樹理には嬉しかった。
その賜物なのか、少年はやけに神妙な顔で身体ごと樹理に向き合うと、最初に樹理を侮蔑する言葉を吐いた事を詫びた。
「…ごめん…バカだなんて言って」
「うぅん…謝らなくても良いよ。気にしてないから」
「でも…やっぱりごめん。本当に悪かった」
「うん…でも、君は悪くないよ。だって君は、大好きなニールの為に、僕を追い払おうとしただけなんだもの。
ニールの将来を護ろうと一生懸命だっただけ…そうでしょ?
多分僕だって、郁ちゃんの為ならどんな事でもすると思う。だから…全然気にしてないよ」
樹理が言うと少年は驚いたような顔で樹理を見つめ、「な!! 何を言って……」 違う! と言いたそうだったが、
その顔はと言えば…どうして判ったのか…そう言っているように見えた。
それが何となく可笑しく思え樹理の顔には笑みが浮かぶ。そして、自分の想像を確かめるように少年に聞いた。
「違うの?」
すると少年は僅かに間を置いてから、また樹理と並んで座り直し少しだけ硬い声で話し始めた。
「………。ニールには、俺の事絶対言うなよ。俺さ…少し前までニールと付き合っていたんだ。
ニールとの出会いはろくな事じゃ無かったけど…その時ニールは俺を庇ってくれたんだ。
けど俺にはその優しさが、如何にも育ちが良さそうな奴の嫌味にしか思えなくて…癪に障った。
だから、上手く取り入っていつか金を引きだしてやろうと思った。
でも…何度か付き合ううちに、あいつはとても優しくて誠実な人だって事が判り…それからどんどん好きになって。
気がついたら、いつもニールの事ばかり考えていた。ミイラ取りがミイラになったようなものだよ。
なのにニールは…そんな俺を好きだと言ってくれた。嬉しかった…あの頃が一番幸せだった気がする。
でも…ある人に言われたんだ。
ニールは俺達と違って、将来は人の上に立つ人間だから、ほんの小さな汚点もあってはならないって。
普通の人なら些細な間違いで済む事が、足もとを掬われる原因にもなる。もし、俺なんかと付き合っているのが判ったら…。
ニールの将来まで危うくなる可能性もあるって言われた。だから…俺はニールと別れる事にしたんだ。
だって、ニールが大好きだから…迷惑なんかかけたくなかった。
もし俺のせいで、ニールの将来がめちゃめちゃになったら…そんな事、考えるだけでも恐ろしかった。
だから…もう会わない事にしようと思った。でも、やっぱり辛くて悲しくて…何日も何日も泣いた。
それからやっと決心して「お前の事を嫌いになったから、もう会わない。バイバイ」ニールに言った」
少年は、その時の辛さを思い出したのか目を潤ませて言った。
好きな人を想う心は消そうとして消せるものでは無い。だから閉じ込めて、蓋をして…断ち切ろうとした。
それでも想いは時に頭を擡げ、顔を覗かせて、閉じ込めた者に仕返しをするかのように心を切り刻む痛みで襲ってくる。
だから、その苦痛に耐え諦めようと足掻く少年の心は…多分血塗れなのだろう…樹理はそんな気がした。
「そうなんだ…。でも、そんなの悲しすぎるよ。それに…ニールだって喜ばないと思うよ…僕は。
だって、好きな人が泣いているなんて、絶対に嫌だもの。それが自分の為だったとしても…ちっとも嬉しくないよ」
「……。やぱり、樹理は優しいんだな。でも、俺のせいでニールが貶められるのは嫌なんだ。
それに…俺は意気地なしだから、たとえほんの一瞬でも ニールに恨まれたり疎まれたりするのが怖いんだ」
「恨むなんて…ニールはそんな人じゃないと思うけど…。話してみれば、きっとそうじゃないって言うと思うよ」
樹理が言った途端少年は表情を変え、樹理を睨むような目で見つめた。そして、語気も荒く言った。
「そんな事、ニールには絶対言うなよ。もし言ったら…たとえ樹理でも許さないからな」
その声の強さは 多分少年の決意の強さ。樹理にはそんなふうに思えたが。
それでも、このままでは余りにも少年が可哀想な気がして、出来るなら少年の想いがニールに届けば良い。
そうすれば、ニールはきっと……。何か方法はないだろうか…と、真剣に考えていたその時、
少年が何かを思い出したかのようにいきなり立ち上がり、樹理に向かって大きな声で言った。
「! 樹理、早く此処から出よう!!」
その突然の変転に、樹理は一体どういう事なのか理解出来ず少年を見上げたが、
少年が怖いくらい真剣な顔をしているのに気づき、何かあるのだと察した。
「う、うん…どうしたの? 何かあるの?」
「ヤバイよ、もう直ぐ俺の知り合いがやってくる。だから急いで此処から離れよう!」
「知り合いって…お友達? その人は、ニールのお友達じゃないないの」
「ニールは関係ない。とにかくあいつが来る前に逃げなくちゃ。樹理急いで!」
少年はそう言うと樹理の手を掴み、二人は急いでドアに向かった。そして、少年がドアに手を伸ばした時。
ドアはゆっくりと音も立てず外から開かれ…其処に、入り口一杯に立ちはだかう人影…が現れた。
「よう、ルイ…早かったじゃないか。ん? 何処へ行こうってんだ。
もしかして、待ちくたびれて俺を迎えに出るつもりだったのか?」
少年より一回りは大きいその人物は、少年の顔を見ると薄気味悪い笑みを浮かべて言った。
「あ、いや…あのさ、ジャン。今日のあれは…ちょっと手違いがあって…悪いけど中止にする。それを言いに来たんだ」
「おいおい、そりゃ無いだろう。いつも素っ気ないお前が、態々声をかけてくれたせっかくのお楽しみだっていうのに、
今更中止なんて言われてもな、はいそうですかって訳にはいかないぜ…そうだろう?」
相変わらず薄ら笑いを浮かべ、猫なで声で少年に言いながら、その灰色の目は決して笑ってなどいない。
この人は…嫌だ。逃げないと…酷い事される…怖い。頭の中ではそう思いながら、樹理の視線は男から逸れようとしない。
そんな樹理の気持ちが少年にも伝わったのか、樹理の手を握る少年の手に力が入った。
「だから、予定が変わったみたいでさ…行ったけど捕まらなかったんだよ。そういう事だから、仕方ないだろう」
「捕まらなかった? じゃ、その後にいるのは誰なんだよ」
そう言って男は、少年の後ろで固まっている樹理に視線を向けた。
「あ、こいつは…俺の、俺の友達なんだ」
「ふ〜ん、友達ねぇ…それじゃ、約束していた奴の代わりにその友達で良いよ」
「だ!駄目だよ。こいつは俺なんかとは違って…何も知らない子共と同じだからさ、駄目だ。
今度、別の方法で埋め合わせはするからさ…だからそこどいてくれよ。俺達は、もう帰るから…」
「今度埋め合わせ? 冗談にしちゃ、笑えない冗談だよな…ルイ。まさか、そんな言い訳ですんなり帰れると思ってないだろう?
そのお友達が駄目だと言うなら、代わりにお前が相手しろや。そのお子様にも解るように、しっかりと見せてやろうぜ」
「ふ、ふざけるな! 誰がお前なんかと」
「だったら、やっぱりそいつに相手してもらうしかないな。なかなか可愛い顔してるじゃないか。それに、いい声で啼きそうだ」
男がそう言うと一歩樹理に近付く。すると少年が、樹理の前に立ちはだかるようにして樹理を背後に隠し。
「止めろ!! 樹理に触るな!!!」
叫んだと思ったら少年の頭ががくんと揺れ、少年は樹理の前から、部屋の隅のほうまで弾き飛ばされた。
そして樹理と男の間は空所になる。その空所を埋めるように、男の脚が更に前に進み…太い腕が樹理に向かって伸びた。
「嫌だ、そばに寄らないで。お願い、こっち来ないで」
「お願い? へ〜こりゃ良いや。随分とお上品そうなガキじゃねぇか。その可愛いお顔に、お願いもっと…そう言わせてやりたいね」
言いながら男が一歩また一歩と近づき、樹理はそれに合わせるように後へと後退る。
そしてとうとう窓際に背中を阻まれ…割れたガラス窓の外を見ると、テラスが半分崩れ落ちそうになり。
そのはるか下に、深い色をした水面が音もなくゆったりと流れているのが見えた。
「い…いやだ。それ以上、近づいたら…僕、此処から飛び降りちゃう。だから…こっち来ないで。おねがい」
男に言いながら、樹理の心は必死に郁海を呼び続けていた。
【怖い…怖いよ…郁ちゃん助けて。郁ちゃん…助けて…たすけ…て…】それは無意識に求めた郁海への救助信号。
そして、樹理が窓枠に捕まりテラスに片足を出す…と同時に男が目の前に迫り樹理の腕を掴んだ。
「嫌だーーー!! 離して! 離してったら!!!郁ちゃん いくちゃぁーーーん!!!」
声に出して郁海の名前を呼びながら、必死に逃れようともがくが、男の力に捕まれた腕はびくともせず、
頬にガツンと衝撃を受けると、焼けるような痛みと共に口の中に苦いものが広がるのを感じた。
それと同時に、自分の身体が余りにも簡単に壁際のほうまで転がり…自分に何が起こったのかも判らなかった。
それでも顔を上げた樹理に、男は以前何処かのお寺で見た巨大な仁王像のように恐ろしい形相をして言った。
「ギャーギャー喚くな! しずかにしろ、暴れたり騒いだりしたらこんなもんじゃ済まないからな」
それから一転し、薄気味悪い笑顔を浮かべて樹理の側へと近づく。そして、樹理の側まで来ると其処に屈みこみ。
「大人しくしてりゃ、良い思いさせてやるからよ。お互い楽しもうぜ」
そう言うと、男の指先が樹理の頬に触れた。肌を這う汗ばんだ男の指が、ナメクジのように不快で悍ましく。
それから逃げようと精一杯顔を背け、それでも目だけは男をにらみつけ、震える声で抗議の言葉を口にする。
「どうしてこんな酷い事するの…止めてよ…」
すると男が、ニタッと笑い…樹理の腕を掴み引き寄せると背中に腕を回した。
「お前、顔に似合わずしぶとそうだな…気に入ったよ。俺はお前の泣き叫ぶ顔が見たい…声が聞きたい。
だから止めない」
その言葉どおり、男は樹理の中に広がっていく恐怖を楽しんでいるかのように、何度か樹理を殴りつけた。
頬がジンジンと熱を持ち、抗う度にシャツのボタンが飛んで、あらわになった肌に男の手が触れる。
男の、体温が嫌だ…ぬめる唇が嫌だ…匂いが嫌だ。いやだ…気持ち悪い。
その嫌悪から逃れようと、手足をバタつかせても、身体を捩ってみても、鋼鉄のような腕は少しも緩むこと無く。
圧し掛かる男の身体が重石のように樹理の抵抗を押さえつけ、首筋に、肩に…胸に…唇が這う。
そして、やがて男の手がズボンにかかり…。それがどういう意味か、樹理には理解できなかったが、
少なくとも、以前の自分ではいられなくなる。男の望む恐怖と絶望で塗りつぶされる…そんな気がした。
その途端、それまで歯を食いしばって必死に抵抗していた樹理の眼から涙が溢れ出て、
こめかみを伝い零れ落ちると、汚れた床を透明な雫で濡らした。
郁ちゃん…どうやっても逃げられないよ。もう、力も出ない…声も出せない。
ごめんね…僕はもう…郁ちゃんのお兄ちゃんでいられなくなる…郁ちゃんの側に帰れない。
「止めろ!! 樹理から離れろ! 」
叫び声に、男の後ろに目をやると…涙で霞む目に少年が額から血を流しながら立っているのが見えた。
少年は少し前屈みの姿勢でゆっくりと男の横の方へと回り込む。
良かった…無事だったんだ…そう思ったら、自分の窮地にも関わらず樹理の顔にホッとした安堵の色が浮かんだ。
だが、少年が両手で握り締めた銀色の鈍い輝き…恐らくポケットに忍ばせていたのだろう。
如何にも武器といった感じのフォールディングナイフが目に入り…樹理の安堵は不安に変わった。
そしてそのナイフは男の表情を強張らせ、樹理に圧しかかっていた体に緊張を走らせたのが判った。
「何だよ、ルイ…そんな物騒な物持ち出して…ちょっと遊ぶだけだろう。もしかして、マジになってんのか。
お互い、良い思いをするだけなんだから、そんな物仕舞ってよ、三人で楽しくやろうぜ」
男が下卑た笑いを浮かべ、ルイに向かってナイフを渡せと言うように手を伸ばした。
だが少年は流れる血を拭おうともせず、真っ直ぐにナイフを男に向けたまま男に近づくと、怒りの篭った声で言った。
「聞こえなかったのか、樹理から離れろ! 早くしないと本当に刺す」
「判ったよ。ちょっと悪ふざけが過ぎただけだ。俺がお前には逆わないって、知っているだろう?
だから、それ仕舞えよ…こいつには、もう何もしないからさ」
男はそう言いながら、樹理の上から身体をずらすと横に移動し…そして、いきなり自分の足で少年の足を払った。
それはとっさの事で、少年は体制を整える間もなくその場に尻餅を付いてしまう。
そこへ男が圧し掛かりナイフを奪い取ろうと、二人は揉み合う格好になってしまった。
そんな状況の中で樹理はどうして良いか判らなかったが、ただ…このままでは男にナイフを奪われてしまう。
それだけは絶対に防がなくては…その事だけは頭にあった…だから。
「ナイフ、離しちゃ駄目!!」
叫ぶと、男の腕に飛びついていった。少年と男と…ナイフがどんな状態かもわからないまま、男の鋼鉄のような腕にしがみつき、
なんとか動きを抑えようとするが、男の一振りで樹理の身体は簡単にはじき飛ばされてしまい。
転がった体勢で男を見ると…その手にはしっかりとナイフが握られていた。そして、男は憤怒の形相で、
「お前ら二人ともぶっ殺してやる!!それから、下に放り投げて魚の餌にしてやるから、覚悟しろ!」
そう言って、ナイフを大きく振りかざした。
それでも樹理は、もう一度ナイフを握った男の腕に飛びかかろうとした…が、
樹理が飛びつくより一瞬早く、男の後から伸びた誰かの手が男の手首を捉え、掴んだ男の手首を捻ると。
男はものの見事に、少年の上から床に転がった。そしてその誰かは、男の手からナイフをもぎとる。
それは本当にあっという間の出来事で、樹理は一体何が起こったのか考えるより先に、身体中の力が抜け落ちて、
へなへなと床に座り込んで込んでしまった。その時。
「良かった…間に合ったみたいだね」
男を投げ飛ばした屈強な男の後ろから声が聞こえ。今日の出来事の原因?とも言える人物が、息せき切った顔で樹理に駆け寄ると。
「ごめん、ジュリ…見つけるのが遅くなった。本当に酷い目にあったね…怖かっただろう? でも、もう大丈夫だからね」
そう言いながら、自分の着ていた上着を脱いで樹理に着せかけた。
それに対し樹理は訳が解らないといった顔でニールの顔を見つめ、やはり不思議そうな声で聞く。
「! ニール…どうして此処に?」
「実は…植物園に行ったらジェームズ氏が僕を待っていたかのように駆け寄って来て。
樹理が赤毛の少年に無理やり引っ張られるようにして、植物園から出ていったけど…何か様子が変だった。
そう言って僕に、赤毛の少年に心当たりはないか…と尋ねたんだ。樹理の友達なら心配はないだろうけど、
赤毛と言うのが気になって…もしかしたらと思い、ヴィンセントを先に此処へ走らせた。
僕の予想が外れていてくれたらと願いながら来たけど……でも、間に合って良かった」
そう言うと、ニールは樹理をキュッと抱きしめ…それから、側で座り込んでいるルイに向かって淡々とした口調で言った
「ルイ…やはり君だったんだ。僕の予想が当たってしまい、本当に残念だよ。
ジュリをこんな所に連れ込んで何をするつもりだった。君の答えによっては、警察に連絡する事になるよ」
そして少年も、赤の他人に答えるようにふて腐れたような声で言う。
「別に…気に入らないから、ちょっと絞めてやろうと思っただけだよ」
「気に入らない? それは一体どういう意味なんだ。樹理が君に何をした。
おそらく、僕に対する嫌がらせのつもりなのだろうけど、僕が気に入らないなら直接僕を攻撃すれば良い。
それなのに、仲間と組んで関係のない樹理をこんな所へ連れ出すなんて、君は卑怯者だ。情けないと思わないのか!」
それはいつものニールからは想像も出来ない、険しい表情と怒りに満ちた声だった。
それに対して少年は…流れでた血をもそのままで…今にも泣きそうな顔でそれに似合わない言葉を放った。
「そうだよ、俺は卑怯者だ。判ったら、さっさと警察でも何処でも連絡しろよ!」
だが…少年の悲しい決意を知っていた樹理には、その言葉は決しての本心ではなく…悲痛な叫びのようにも聞こえ。
嘗ての恋人同士が心を隠し向き合う姿が、余りにも悲しくて…思わず少年に向かって言う。
「どうしてそんなこと言うの? 駄目だよ、本当の事を言わなくちゃ。君は、僕を助けてくれたでしょう!
何度も殴られて、怪我までしたのに…僕を助けようと頑張ってくれたじゃないか。
僕が無事だったのは君のお陰だって…僕も言うけど、君もはっきり言わなくちゃ。
それに…こんな事になった本当の理由も言わないと…君は、ニールに誤解されたままだよ。それでも良いの?」
樹理のその言葉に、ニールが不審そうな顔で樹理の顔をみつめ。それから少年に視線を移すと、また樹理に戻して…聞いた。
「本当の理由?」
だがその時少年の表情が変わり、まるでニールの問いも樹理の答えも阻むように大声で叫んだ。
「五月蝿い! 黙れ!! それ以上言うと許さないからな!」
そして樹理を睨んだ目には怒りの色など無くて、ただ深い悲しみの色だけが浮かんでいた。
「ルイ!樹理に怒鳴るな。それに樹理…無理しなくて良いんだ。ルイは君に酷い事をしようとした。
それは、とても卑怯で許される事では無い。だから、君がルイを庇う必要は無いんだよ」
ニールはそう言ったが、その顔は少し悲しそうで…本当は今もルイの事が好きなのでは…樹理はそんな気がした。
「無理なんかしてないよ。僕たちは、此処でいろんな事を話したんだ。それで僕は、ルイがとても優しい人だって判った。
僕にとってルイは、ニールの次に出来た大切なお友達だよ。だから…ニールに聞きたい事があるんだけど、聞いても良い?」
「良いよ…でもそれは、此処を出てからでも良いだろう。此処を出て、少し落ち着いてから聞くよ」
ニールの言葉に樹理は、それでは駄目だ。遅い…と思った。此処を出てしまうと、ルイとニールは二度と会う事はないだろう。
それでは、ルイの本当の心を知らないまま、二人は終わってしまう。二度と元には戻れなくなる
だから…此処で二人の過ぎた時間を取り戻さなくては…そう思い、樹理は必死でニールに訴えた。
「駄目だよ、後になって忘れたら困るでしょ。だからお願い…此処で聞くから…此処で答えて欲しいんだ」
何時になく自分の主張を譲らない樹理に、ニールは幾分怪訝そうな顔をしたが、
自分を見つめている樹理の真剣な顔に、思わず顔を綻ばせ…答えた。
「判ったよ、樹理…それで聞きたい事というのは何?」
「うん、それじゃ聞くね。ニールには大好きな人、いないの?」
今この場で聞くにはあまり相応しくない樹理の問いかけは、ニールにとってもやはり予想外の問いだったようで、
ニールの目が一瞬宙を彷徨う。そして、問いに問うように聞いた。
「大好きな人?」
「うん、とても好きな人…」
「居るよ…僕は樹理が大好きだよ」
「僕? ありがとう…とっても嬉しい。僕もニールが大好き。でも…もっと、他に好きな人いないの?」
ニールの答えがなぜか不満そうに…更に問いかける樹理に、ニールは苦笑を漏らし…それでも、樹理の目を真っ直ぐ見つめ答えた。
「少し前までは、とても大好きな人がいたけどね。でも、その人には嫌われてしまったから…今は居ないって答えるしかない
僕がその人を好きなほど、その人は僕の事を好きではなかったらしい。だから…もう、良いんだ」
少しだけ寂しそうに、そして一度もルイに目を向ける事もなくニールは、そういうと小さく笑った。
「もう、良いなんて、そんなのおかしいよ。ニールは、その人にちゃんと聞いたの?
どうしてその人が、ニールを嫌いだって言ったのか。本当に嫌いになったのか…その人に聞いた?」
執拗と思えるような樹理の問いかけに、ニールの青い瞳が不安そうに揺れ。そしてやはり同じように問い返す。
「樹理…それは、どういう意味なのかな」
「うん…大好きだから嫌いだって言うこともあると思うんだ。僕は郁ちゃんが大好きだけど、
僕が一緒にいると郁ちゃんに迷惑をかけるとしたら…郁ちゃんの為にならないとしたら…もう一緒には居られないと思う。
だって…僕のせいで、郁ちゃんが誰かに悪く思われたりするの…嫌だからね。
だからその時はきっと…郁ちゃんが嫌いになったから、もう一緒にいたくない…って、そう言うと思う。
でも、本当は大好きだから…悲しくて、寂しくて、いっぱい泣いちゃうけど。
郁ちゃんの為だったら、どんなに寂しくても我慢できる。だって…本当に大好きだから」
樹理が話している途中からニールの表情が変わり、何かに思い当たったように息を呑むと、発した声が震えていた。
「樹理…それは、ルイの事を言っているの? ルイが僕に言った言葉や行動の裏には別の理由があって。
本当は嫌いになったのではなく、僕の為に…偽りの言葉を僕に告げた。そういう事なんだね」
自分の中で確信といえる何かを探り当て、それを確認するかのようなニールの言葉に、
ルイの悲鳴のような声と、絞り出すような言葉が続いた。
「違う! 違うんだ! 樹理はでたらめを言っている。だから、信じちゃだめだ。だって…好きなのに嫌いだなんて。
そんな事言えるはずがないだろう。嫌いだから、大嫌いになったから…本当の理由なんて無い!」
だが、その言葉も終わらないうちに、ニールがルイを抱きしめた。
「違う…違うんだニール。俺は、あんたが嫌いで…大嫌いだから…」
「もう良いよ…ルイ。もう良いんだ。ルイが、どんなに僕を嫌いでも、僕はやはりルイが大好きだから。
ルイを愛しているから…もう何も言わなく良いんだ。ただ…ルイを護れなかった僕を許して欲しい」
優しい…本当に優しいニールの声に、ルイの張り詰めていたものが一瞬で粉々に砕けてしまったように見えた。
そして、それまでの寂しさ、悲しさ、辛さを吐き出すようにニールに縋って泣くルイの背中が、いつまでも小さく震えていた。
ニール、良かったね。大好きな人が戻ってきて。
ルイ、良かったね。大好きな人のところに戻れて。
樹理が笑顔で二人を見つめながら、そんな事を考えていた時、
ギシ…ギシギシ……メキッ…何処かで変な音がした。
