(2)   柴崎優也=相沢梓音



その時、突然入口のドアが開き…一瞬彼は立ち上がると、まるで侵入者から僕を守るかのように前に立ち塞がり。
僕は、僅かばかりの緊張と不思議な安堵で彼の背を見つめる。そして、入って来たその人影は暗がりの中で、
「なんだ…まだいたのか?」
意外そうな声で言いながら、つかつかと僕たちの側まで進み寄った。その声に、
ホッとしたように彼の肩が緩み。
「智己!どうしてお前」 彼が侵入者の名前を呼んだ。

「いやぁ 前を通ったら、うっすら灯りが点いていたからさ。もし、お前がいたら一杯やろうかと思ってな」
突然の侵入者は、屈託のない顔を綻ばせてそう言うと、彼の後ろに隠れるように座っていた僕に視線を落とし。
「………姫ちゃんか?」 と聞く。そして、
「ああ…」 彼が頷き、
「そうか…やっと、見つけたか…」
その侵入者は、自分より背の高い彼の頭をくしゃくしゃと掻き、それからしっかりと抱きしめた。


「優也、良かったな。やっと報われたじゃないか。良かった、ほんとうに…良かった」
彼の背に回した 手が、彼の背中を何度も叩き… 同じように何度も、良かった…と繰り返し言う。
それから僕の前に立つと、やはり僕の目をじっとみつめると、
僕にではなく僕の目に向かって、
「姫ちゃん…長かったね。でも…若返って…元気そうだ」
嬉しそうに言いながら…目を潤ませる。僕は、ただ黙って頷くだけで…自分自身を告げる事も出来ない。


「優也、それじゃ…此処はもう…」 その人が彼に聞き。
「ああ、今日で終わりだ」 答えた彼は…何となくホッとしたような声と表情で笑う。
「そっか。 姫ちゃんの絵は、温かくて…切なくて…俺、好きなんだよな」
そう言いながら、壁に掛けられた絵に向ける目が優しい。そして彼は…その人の横顔を見つめたまま言う。

「それじゃ…一枚、持って行くか?」 その言葉に…絵に向けていたその人の視線が彼に戻り、
「えっ、嘘だろう? 今迄どんな事があっても手放さなかったのに」 信じられないというような顔で…言った。
「真澄を、俺以外の奴の側に置いておけるか」 
笑みを含んだ彼の声は、言葉とは反対にその人もまた、彼の大切な人…そう言っているように聞こえた。

「だろう? それがどうして…」
「お前の側なら、真澄も安心していられるのかな…と思っただけだ。
だから…此処を閉めたら、お前にも持っていってもらおうかと思っていたんだ」

「ふ〜ん。やっと解ったようだな。俺もお前と同じ位、姫ちゃんを大事に思っていた事が」
「智己…そんな事は解っていたよ。あの頃から解っていた…解ってはいても、
どうしても、真澄の残した物を手放す事が出来なかった。悪かったな。
明日には、此処の絵を全部部屋に戻すから、時間をみて家に来てくれ」

「わかった。 それじゃ、またな…」
その人は彼に片手を上げる仕草をし、それから僕の頭にそっと手を置く。そして、
「姫ちゃん、またね」 
彼と話す声とは違う優しい響きの声で言い…僕は、はっきりと知らされる。
彼らの前では 僕は存在しない。そしてそれは…複雑な感情で僕の心を満たす。そんな僕に、

「彼は私の友人で、安井智己と云うが…いろんな意味でとても頼りになる男だよ。
真澄と出会えたのも、彼のお陰だし…色々あった時も彼が居たから、私は私のままでいられたのかも知れない」
彼はそう言って、遥かえにしを見るような目を暗がりに浮かぶ壁の絵に向けた。
その目に写っているのは 過ぎた日の残像なのかも知れない。そして、その一瞬の彼はとても幸せそうにみえた。

彼も…彼の友人だという安井智己も 千原真澄を愛し。過去も、今この時も、そして未来も…愛し続ける。
それでも僕は…彼の目に映ることを願う…哀れな愚者。この人を引き止めたい…と願う。だから…。

「あの…柴崎さんは、今…」 僕の言葉に、彼は再び視線を戻すと、
「私か? 私は、3ヶ月前まではアメリカである企業の顧問弁護士をしていたが、一年間の休暇を取って日本に帰ってきた。
まぁ、いろいろあって…どうしても帰る必要に迫られたのだが…。だから日本では失業者と同じだな」 
そう言って笑った。彼のその笑顔は言葉とは裏腹に、清廉で真っ直ぐな黒い瞳は…やはり…そう思った。

千原真澄は、あの絵本の中に恋人の顔…いや、目を描いた。
何を思い、どんな理由があったのか…其処には、ただ愛しているだけではない 何かがあったのだろう。
もしかしたら…全ては彼の真っ直ぐな黒い瞳…それに惹かれ始まったのでは。
そして僕もまた…既に彼の黒い瞳に惹かれ始めている。
それは、僕の目がそうさせるのか、それとも僕自身がそうなのか解らなかったが…この瞳に…と願った。

一日毎に陽が伸びていく今の時期 夕方の5時はまだ明るく…其処に立っている彼の姿を、僕はひと目で捉えた。
陽の光の下で改めて見た彼は、その辺のタレント顔負けのルックスだと思った。 かなり背も高く脚が長い。
顔だって整った男らしい顔をしている。そして、何より目が良い。黒くて真っ直ぐな…強い意思を秘めた目。
あの目が僕の中の、千原真澄を見つめる時…本当に溢れんばかりの優しさに満ちて…僕は、それに切なくなり涙が出てくる。
絵本を見たときに感じた切なさは…あのかぐやの目が、彼の目だったから…なのだと知った。

道行く女姓たちは、皆一様に彼に目を留め…振り返る。
今日は昨日のようなスーツ姿ではなく、カットソーにコットンのジャケットを羽織ったラフな装いで。
僕を見つけると、彼の顔が嬉しそうに綻び…片手をあげた。 僕は…その笑顔に、なぜか鼓動が早まり
「すみません。待たせてしまいました?」 彼を見上げるようにして言う。

「いや、俺も今来たところだから…」 彼は言い…僕は、俺? 私ではない…そんな事にまでドキドキする。
「君は…なにが好きなのかな?」 彼は、僕の心臓の高鳴りもお構いなしに、ニコニコ笑いながら聞く…から。
「すっ、好きって…な、なにをですか?」 僕は…思いっきり、頓珍漢な答えで問い返した。

「食事……君も、未だなのだろう?」 丁寧に但し書きの説明の声は、笑みを含んで、
あぁ、夕飯か…。僕は…馬鹿みたいに緊張してしまった自分が可笑しくて…頬が緩んだ。そして、
「はい まだです」 今度は、確かな答えを返す。
「何が食べたい? 今日は何でも、君の好きなものでいいぞ」
「僕は何でも食べます。嫌いな物はありませんから」 嬉々として答えてから、
「あっ! フライ物はいまいちかな…それと内臓物もチョット。それから…」 ごにょごにょと言い続ける。
彼は、そんな僕の肩に腕を回し…引き寄せると、僕の髪にチュッとキスを落し。
「嫌いな物が、たくさん有るじゃないか」 と言って笑った。

えっ!えっ? えーーっ な、なに! この人。 こんな往来で…それも男の僕に、平気でキスを。
あたふたと慌てふためく僕を後目に、彼は僕の肩を抱いたまま。
「それじゃ、行こうか。君の苦手じゃない物が食べられる店に」 そう言って歩き出した。

彼は本当に嬉しそうに、話し…笑う。 僕の話を聞き…僕を見つめる。 ううん…そうではない。
僕にではなく…僕の瞳、千原真澄…に。 彼の幸せそうな笑顔も、愛しそうな眼差しも…
全て、千原真澄に向けられたもの。 君の時間を借りたい。真澄と一緒に居たい…その意味が解った。

彼は僕の瞳以外何も見ない。聴かない。そして彼の前で相沢梓音は存在しない。
判っていた。判っていた筈なのに…僕の中で…美味しい料理も流れる音楽も、何もかもが色を失った。


そこは、専用のエレベーターを備えた、マンションの最上階にある部屋。 彼が恋人と一緒に暮していた部屋だと言う、
その部屋に向かいながら…彼は…約束の時間まで其処で僕と一緒に過ごしたい…と言い。
彼の言葉は、僕の中で小さな棘になって僕の胸を刺す。 心の何処かで…彼が望むのは僕ではない…そう呟く自分がいて、
心は、寂しさと悲しさ…に満たされながら…それでも彼との時間を喜ぶ僕は…悲しいピエロ。

その部屋に入った途端、ふわりと優しい香りに包まれたような気がした。
彼は着ていたジャケットを脱ぎソファーの背に掛け…テラスへと続く大きな窓を開け放つ。
僕の家の庭より広いテラスには、綺麗に手入れをされた植木が立ち並び…月明りに浮かぶ白いバラや、名前も知らない花。
とても、マンションの一室から望む光景とは思えない、その空間を目の前に…僕はそれを眺めながら、
こういうのを空中庭園と言うのだろうな…などと考えていると…

「その辺に座って。今コーヒーでも入れるから。それとも、紅茶のほうがいいか?」
彼がリビングに続くキッチンから声をかけた。
「あ、ありがとうございます。 それじゃ、コーヒーを…」 そう答えながら、僕は改めて部屋の中を見回す。
部屋の中には、あまり物がないせいか広く開放的にも見えたが…代わりに人の住んでいる気配がない…そんな気もした。
ただ一か所だけ…キッチンと反対側の壁に一枚のパネル…それに近寄ってみる…と。

途端に僕の心臓は、ドキドキと鳴りだし…目がパネルにくぎ付けになる。
其処には…恋人の肩を抱き、その人を見つめている彼…柴崎優也と。
彼に肩を抱かれ、寄り添うにして彼を見上げ…微笑んでいる人…千原真澄がいた。
少し潤んだ優しい眼差しで、彼を見上げるその人は幸せそうで…きれいな人だ…そう思いながら、
余りにも儚げで、悲しい…そう思った。

気が付くと、僕の後ろには彼が立っていて…彼もまたじっとパネルを見つめていた。

「この人…千原真澄さん…ですね」 僕は、パネルから彼の顔に視線を移し…聞く。 すると、
「あぁ…」 彼は、ただそう答えただけで…僕の背に手を添えソファーへと促した。
「きれいな人ですね…モデルさんかと思いました。でも…絵を描いていらしたのですよね」 
言いながら僕は、彼の顔を見つめたまま…彼の手に誘われソファーに腰を下ろす。
そして彼は…僕の正面に座り、テーブルの上に置いたカップの一つを僕の前に移ると…もう一度パネルに目をやり、
「絵は趣味だよ…。真澄の本業は…医者だ」 と言った。

「女医さんですか。凄いなぁ…。美人で頭が良くて…その上誰からも愛されて…そんな人、本当にいるのですね」
妬みとも皮肉とも取れるような言葉が、僕の口を吐いて出てくる。 それから…
「す! すいません」 そう言うと頭を下げる。 すると彼は、
「別に構わないよ…本当の事だから。 ただ…真澄は女医じゃない。男だから…正確には医者だな」
と言って、苦笑を浮かべた。その言葉に、僕は音が出そうな勢いでパネルを振り向く。そして
「え?………お、男………この人が?」 その儚げな美人を、もう一度まじまじ見つめる。

「あれが女に見えるか? 女なんて言ったら真澄が怒るぞ。 普段はとっても優しいのに…怒ると怖いんだ、真澄は」
彼は嬉しそうに笑いながらカップを口に運び、
「変だと思うか? そういう関係を…」 と言った。
「いえ…。べ…別に変とは…ちょっと驚いただけで…」
「俺には、真澄が男でも女でも関係ない。 ただ真澄だけを愛した…それだけだよ」 
「い、いまも……」 判っているのに…それでも聞いてしまう僕に…彼は僕の目を見つめ、
「今も…愛しているよ。俺が消えて無くなるまで、この想いは変わらない。一生に一度、たった一人の人だ」
「………………」
この人の心は…千原真澄が持って行ってしまった……誰も彼の心を掴めない…そう思った。

「君のヴァイオリンがもう一度聞きたい。俺には曲とかは判らないが、君の奏でる音が好きだ。聞かせてくれるか?」
「はい…」 僕はケースからヴァイオリンを取り出すと窓際に立った。
今は亡き人を愛し彷徨い続ける想い。 それでも真っ直ぐな瞳は揺らぐことなく、ただ一人の人に向けられたままで、
情熱的なロマの踊り子の濡れた黒い瞳と重なり…僕の胸の奥はキリキリと痛んだ。

どんなに願っても、時間は止まってはくれず…無情と優しさで僕の上を通り過ぎていく。
彼との時間は、切なく哀しい…それでも留まって欲しいと願う時間。
なのに…月は空に高く射し僕の心には雲が射す。


「ありがとう…今日はとても楽しかった。 君の大切な時間を私の為に使わせてすまなかったな。
約束の時間だ、駅まで送っていこう。 その前に、少し待ってくれないか」
彼はそう言って立ち上がり 奥の部屋に向かった。
僕は何か言おうとして言葉が見つからず。それでも言わなくては…そう思い、彼の向かった部屋へ足を運ぶ。

寝室らしきその部屋はドアが開いたままで…窓から射し込む青白い光の中に…千原真澄はいた。
等身大もある大きなパネルのなかで、今にも涙が零れそうな瞳で…千原真澄は彼と口付けをしていた。
真澄…ますみ…。彼の、嗚咽するような声が聞こえ……僕は、そっとリビングに戻った。

戻ってきた彼の目は赤く…僕の前に封筒を差し出し「約束のものだ」と言って僕の手に握らせる。
お金だ…そう思った途端、僕は無性に腹立たしくなり、
「こんなもの…いりません!」 それを付き返すと…驚いたように僕を見つめる彼に、
「貴方はこれからどうするのですか! アメリカに帰るのですか!!」 問い詰めるように言う。
彼は…僕の付き返した封筒を、ギュッと握りしめたまま僕を真っ直ぐに見つめて…
「多分、そうなるだろう。そして二度とこの国には戻らない」 聞きたくない言葉を僕に告げる。
その言葉で僕は…彼は僕を…僕の中の千原真澄まで捨てようとしている……そう思った。

「貴方は、なんの為に日本に帰ってきたのですか? 何故僕を探したのですか?
千原真澄さんの目を探したのですよね。 それは、彼に会いたかったから…ですよね。
会えたら、もうそれで気が済んだ…そういう事ですか? 側に居たいとは思わないのですか!
たった一人…愛した人と離れていて平気なのですか? その程度なのですか、貴方の彼への想いは!」
僕は…もう何をいっているのか 自分でも良く判らなかった。

それでも言わなければ…彼を日本に引き止めなければ…その思いだけで、
「僕を…雇って下さい。僕は真澄さんの代りにはなれないけど…貴方に彼の目を見せる事ができます。
貴方が彼と会いたい時、彼と話したい時…僕を、貴方の側に置いてください。
それに…僕には、彼も貴方と会いたがっている…そう思えてならないんです」 僕は愚者の言葉を吐き出す。
そんな僕の目の前で、彼の顔が今にも泣きそうに歪み…黒い瞳が水を張ったように潤んで…

「確かに君の目は、真澄から貰ったものかも知れない。 だが、それは…今では君の一部で君のものだ。
それでも私は…君の目を見ると…真澄と語り…真澄といるような気がする。
君と一緒にいても…すまないと思いながら…そこに君は存在しない。 私の心が君を認識できないんだ。
私は真澄だけを愛した。かつても…今も…これからも…真澄以外の人を愛せない。
嫌でも君を蔑ろにする…そんな私の側にいられると言うのか…君は」 その声が悲痛な叫びにも聞こえた。
僕の目を愛し僕を愛せない彼と、愛されなくても愛されたい僕。 互いの抱える矛盾は天秤の上の真実。
だから僕は…天秤を傾ける。

「それでも…良い……と、言ったら…」
「…………馬鹿げているよ…」

「それでもいい。 僕を必要とされなくても、僕を見てくれなくても…僕の目だけでいいと言われても。
それでも良いと言ったら…貴方は、此処に居てくれますか」 ぽろぽろと涙をこぼし…必死に傾ける。
何故そこまで…昨日初めて会った人を…なぜ。 自分でも解らなかった。
それでも僕は…ずっと彼を探し続け…彼を待って、待って…待ち焦がれながら彼に恋をしていた…そんな気がした。

「真澄…。どうして…どうして…そんな事を言わせる…」 彼は辛そうな顔で…呻くように言う。
人が人に囚われるという事が…どれほどに甘く幸せで…辛く苦しいものなのか…今まで僕には解らなかったが、
彼と出会い…誰かに惹かれ…愛し…囚われたい…と願う気持ちが初めて解ったような気がした。


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