柴崎優也=相沢梓音



僕が、その人を見つけたのは帰宅ラッシュに少し前、まだそれほど人の多くはない駅のホームだった。
ああ、やっと見つけた。 その時僕はそう思った。 何故だか解らない。 だが…ごく自然に そう思っていた。
すれ違いざまの 振り向いたほんの一瞬、
その人は、閉まる扉の中に在って瞬く間に僕の目の前から消えた。

いつからだろう。 僕が自分の意思とは関係なく誰かを探すようになったのは。
無意識に人の流れに目をやりながら…それでも確実に、ある特定の誰かを探している。
たえず休む事なく、ただひたすら…。 そして、今日その誰かが、あの人だと…ひと目で判ってしまった。
一片の迷いもなく確信した…と言うのが正しい。
しかし あの人が 何処の誰か 等とは知りようも無く。 僕はただ、遠ざかる電車をいつまでも見つめていた。
そして気が付くと僕の頬が濡れていて…僕の目が涙を流していた事に気付いた。


いつものように、ぼんやりと窓の外に目を向け道行く人を眺めている僕に、友人が声をかける。
「相沢! 聞いてんのか?」
「聞いている。 聞いているけど…僕は、あまり興味ないんだ。」
さっきから、声は耳に入ってはいたが、言葉として聞いていなかった僕は、そんな返事を返した…が、
「何言ってんだよ! お前が、俺に聞いたんじゃないか」  友人の強い口調で、やっと彼に顔を向けた僕は、
「え? なにを?」  と、聞いていなかった事を露呈してしまったが…友人は、気にした様子もなく。

「だ〜か〜ら〜 前に絵本の挿絵を描いた人の事。 作者は誰だって聞いただろう」
その言葉で僕の目が輝いた。(多分) そして、
「!! 判ったのか? 」  さっきまでと別人の勢いで聞くと。
「ああ、 千原真澄って人。 今個展をやっているらしい。」  予想以上の返事が返ってきた。

正直あまり期待していなかった僕は、具体的に名前まで出た事で、
「どこで!」 勢い込んで先を促した…が、
「銀座だか、青山だか…どっちだっけ?」 友人は、そんな事を言いながら首をひねる仕草をした。
そんな友人を見て…僕は、膨らみかけた風船が萎んでいく…そんな気がし、

「なんだよ。 はっきりしないなぁ」 思わず不満が声に表れた。 だが友人は、
「そう言うなよ。 けど…有名な画廊らしいぞ」  半分笑いながらそんな事を言う。
多分、僕の極端な態度の変化が可笑しく思えたのだろう。 それでも、ずっと待ち続けた人だ。
どうしても知りたい…そんな思いがあって、つい恨みがましく言ってしまう。

「お前さぁ、美大行っているのに何でそういう事判んないの?」
「だって俺はデザインのほうだもん。 それに美大に行っているからって、人の個展の事まで判らないよ。
だけど、なんでだ? なんで、そこまで拘るの?その人に。 お前…絵はあまり興味ないって言っていただろう?」
友人に言われ、僕はどう答えて良いか判らなかった。 と、言うより僕自身にも解らない…というのが本当だった。
だから…

「そうなんだけど…」 そう言って口籠る僕に、友人は、
「良いよ。 誰か知っている奴がいると思うから、何人か聞いてみるよ。 明日までには電話する」
其処まで言われると、今度は何となく申し訳ないような気もして、
「そんな、急がなくても 良いけど…」 僕は、苦笑いを浮かべて言う。 すると、
「馬鹿!個展なんて 何時まで開かれているのか判んないぞ。 もしかしたら 今日で終わりかも知れないし。
まぁ そん時は諦めるしかないけどな。 それでも、少しはその人の手掛かりは掴めると思うからさ。
とにかく、急いで聞き集めて必ず電話するよ。 お前、明日は?」
「悪いな…それじゃ頼む。 あ! 俺、明日は教室のバイトだけど…でも、4時には終わるから」
僕はそう言って、友人と別れた。

僕がその絵本を見たのは、一年程前アルバイトでヴァイオリンの家庭教師をしている子供の家だった、
その子供が見せてくれた…革張りの表紙で、大層高級そうな絵本セット。
たしか…日本の童話や、外国の童話が何冊もあったような気がする。 その中の一冊が僕の目に留まった
というより…何というか、説明のできない思いに囚われたのは、確か…竹取物語のかぐや姫の顔を見たとき。
あれを見た途端…胸が一杯になって、切なくなって…泣きそうになった。
あれは、一体何だったのだろう…と、今でも不思議に思う。

それから僕は、あの絵本を描いた人はどんな人だろうと興味を持った。
いや…正確には、あれを見た時のあの不思議な感覚が何なのか…それを知りたいと思った。
それなのに、その絵本はあれから直ぐに、父親の転勤で引っ越していった子供と一緒に、僕の前から消えてしまい。
何も判らず仕舞いのまま…それでも気持ちの何処かに残っていて。 今になって、再び僕の前に現れた。
千原真澄…名前からすると、女性のようだけど…どんな人だろう。 
僕は、自分が思うより興奮していたのか、その夜はあまりよく眠れなかった。

次の日 約束通り4時半頃友人から電話が入り、個展が開かれているのは青山の**画廊だと知らされた。
急いで駅に向かうと銀座線に飛び乗り青山に向かう。 
そして、二丁目交差点側のコンビニで飲み物を買いながら、画廊の場所を聞くと、
かなり著名な画家たちが個展に使っているらしく…オーナーらしい男性がすぐに教えてくれた。

コンビニから歩いて5分ほどの所にある、マホガニーふうの重厚なドアを開くと、若い女性が出向かえ。
「当ギャラリーは、6時で閉館となっております。 あまり時間もございませんが…よろしいですか?」 と、聞かれた。
時計を見ると、5時半になろうとしている。 でも、あと30分はある…そう思い
「はい、時間まで良いですか?」 僕が聞くと…それでしたら・・・と、記帳を勧められて名前を書く。
その女性は僕の顔をじっと見つめていたが、目が合うと…「ごゆっくり」 と言って視線を外した。

普通なら画家の経歴など表示されていそうなものだが、そういったものは見当たらず、
ただ『千原真澄』とあるだけで…そして、壁に掛けてある絵を目にした時、
これは…。 この絵は…。 やはり、そうだ。 あの絵本を目にした時と同じ感覚が僕の中に沸き起こり。
どの絵も、どの絵も…懐かしいような、嬉しいような…僕は、その中の一枚の前に立った。

夕暮れ……昼と夜の境目のような、ただその一瞬の色だけの画面。 怖い。 それでいてひどく安心する。
懐かしい…そう思った。 画面に吸い込まれて行くような感覚に、動く事が出来ないでいる僕に、
「お客様? どうか、なさいましたか?」 さっきの女性が声をかけた。
「あ…いいえ…何でもありません」 僕が、答えると、
「そうですか。 ご鑑賞のところ大変申し訳御座いませんが…そろそろ閉館となります。
宜しければ…明日にでもまた、ゆっくり入らして下さい」 女性は申し訳なさそうに言う。
最初から時間の無い事は告げられていたのだから、

「は、はい。 すみません、すぐに帰ります」 と、言ってから…何気なく
「あの、此処の絵は幾ら位するのですか?」 と聞くと、女性は一瞬戸惑うような表情を見せ、
「はい? あ、お買い求めになりたいと云う事ですか? 大変申し訳御座いません。
此方に展示してある絵は、全て非売品で御座います。 どうしても…と、仰る方は、
オーナーに直接御相談されているようですが、」
と言った女性の口ぶりは、安に無駄だと言っているように聞こえた。

その時、ドアの開く気配がし…誰かが入って来たらしく、女性は僕の側から離れてそちらに向かって行くと。
「柴崎様、いらっしゃいませ。 そろそろ閉めようかと…」 そう言っているのが聞こえ、
「そうですか…判りました」
男の落ち着いたその声に…この絵のオーナー?そんな事を思い…振り向いた先に…あの人が立っていた。

背が高く上等のスーツを、さりげなく着こなした姿は、いかにもエリートという雰囲気を身にまとい、
僕の目から見ても、とても平凡なサラリーマンとはかけ離れて見えた。
女性と話しているその横顔はキリリとひきしまり、女性に向けた真っ直ぐな眼差し。
その目は…あの絵本のかぐや姫だ…僕は確信してそう思った

そして…その人が此方を向き…僕を見た。 一瞬全てが止まり…僕と、その人の視線が絡み合う。
僕は小さく呟く………やっと…逢えた…。
同じようにその人の唇も動き…何かを言い…真っ直ぐな目は僕を見つめ…脚が僕に向かって進んで来る。
そして、僕の前で止まると…大きく腕を広げ、ありったけの力で僕を抱きしめて。

「真澄……」 その人は…僕をそう呼んだ。

女性がその人に鍵を預け帰ってしまうと、僕達二人だけになり…その人は…自分で、柴崎優也と名乗った。
「柴崎優也…」 僕は、その名前を小さく呟き。 そして…
「君は?」 と、その人に問われて。
「相沢梓音です」 答える僕の声が、少し震えていた。
「相沢君か…」
彼はそう言うと、ゆっくり手を伸ばし僕の頬にそっと触れた。 そして…僕の目を覗き込むように見つめ…。
「真澄……やっと…見つけた。 会いたかった…あいたかった」
そう言うと…彼の瞳から、涙が…ツーッと流れ落ちた。
僕の目からも、涙が零れ落ち…僕の目が…泣いている。 そんな気がした。
初めて会った人なのに…なぜか懐かしくて、胸の奥からこみあげてくるものが切なくて…僕の目は泣く。


「あの…真澄さんという方は、この絵を描いた人ですよね。」 暫くして、僕は彼に訪ねた。
「そうだ…。 私は、真澄を探す為に、この個展を開いた。 そして…やっと、君が来てくれた」
彼は、じっと僕の目を見つめて話す。僕の顔ではなく…目を…。
「その方は…貴方の恋人ですか」
「ああ…私の、最愛の人だ。 私の命より大切な人で、この世の全てと引き変えても守りたいと思った人だ」
彼は、僕の目から視線を逸らす事無く…僕の目に語りかける。

「あの…もしかして、亡くなられたのですか」 僕は聞く。 すると彼が、初めて僕の顔を見て、
「いや…真澄は…君の目になった」 そう言うと、今度は彼の指先が僕の瞼に触れた。 
まるで…僕の目の中の恋人に触れるように…。 僕は、目を閉じ…彼の指を瞼に感じながら…
あの絵を画いた人は…この優しい手で触れた人は、どんな人だったのだろう…そんな事を思っていた。そのせいか、

「僕の目に……。 そうだったんですか。 貴方のような方に愛された人なら…きっと美しい人だったのでしょうね」
何となく、卑屈っぽいような僕の言葉に、彼は小さく笑みを浮かべ…言った。
「逆だよ…。 真澄は、誰からも愛された。私が嫉妬するほどに…。それでも真澄は、私のような者を愛してくれた。
私を愛していると言い…私を……」
と言い口を噤んでしまった彼の、その先に続く言葉が何なのか…思いが何処にあるのか…僕には判らなかったが、
ただ…彼の無念のようなものだけは感じ取ることが出来た。

「………優しい人だったのですね。 だから こんな素敵な絵が描けるのですね。 柴崎さん…かぐや姫は貴方ですよね」
僕が言うと、彼は一瞬だけ辛そうに眉を寄せ…視線を遠くに這わせてから、
「そうか…。 君は…あの絵を見たのか。 あれは、私と真澄の始まりの画なのに…私に残してくれなかった」

「そうなんですか…。 僕は、あの絵を見たとき…かぐや姫の顔を見たとき…涙が出そうになりました。
だから…会いたかった。 あの絵の作者に。 どうして、そう思ったのか判りません。 でも…どうしても会いたかった。
そうすれば、僕が誰を探しているのか…判るような気がしたんです」
「探す?」 

「えぇ…。 僕は、いつも誰かを探していた気がします。 何処の誰か…僕の見も知らない人を。
僕は意識しないのに、目が探すんです。 顔も名前も判らない誰かを」
「そうか…」 彼はそれだけ言うと、僕の顔をそっと両手で挿み…愛おしそうに、僕の瞼に口付けをした。
その口づけは…優しく…そして、とても悲しくて…僕の目からまたも涙が溢れた。

最初に抱きしめられた時もそうだったが、男に口付けされて…嫌悪感も不快感もなく…自然で懐かしい…。
それが信じられない…と同時に、たとえこの目だけだとしても…僕の存在は無いとしても…
それでも、この人の目に映るのなら…それを望んでしまいそうな予感がして…僕の目ははらはらと涙を零す。


「君は…幾つになる」 彼が僕に聞き…僕はそれが少しだけ嬉しくて、
「もうすぐ、二十歳です」 気のせいか声が弾む。 
「学生…かな」
「はい、芸大の音楽科です」 僕が答えると…彼の視線が僕の足もとに置いたケースに行き。

「音楽科…か。 そう言えば、君の持っているそれは…楽器のようだね」 
ちょっとだけ、興味ありげに言う。だから僕は…益々嬉しくなって…
「ヴァイオリンです」 ケースを自分の膝の上に載せて…答える。
「そうか、真澄も君も…芸術的才能に恵まれているという点では、共通したものが有るのかも知れないな。
私は自分で描いたり、奏でたりはできないが…美しいものや素晴らしいものを感じる心は持っているつもりだ。
どうかな…君のヴァイオリンを、私に聴かせてくれないか?」 彼はそう言って、初めて笑顔をみせた。

その笑顔は、さっきまでの彼とは別人のように、人懐っこい子供のような笑顔で…まるで強請っているかのようにも見えた。
あぁ…この人は、恋人にはこんな顔も見せていたのだ…。そう思ったら、少しだけ彼が近くに感じられて。

「はい…わかりました。 あまり上手くはないけど…聴いてください」 
僕はそう言うと立ち上がり、ケースからヴァイオリンを取り出す。そして…少し離れると、あの絵の前に立った。
画廊の中は灯りが落とされ、僕たちの座っている場所だけには照明が点っていたが、それ以外は絵の上だけ…
その音もない空間で…展示された絵の中に、彼の心の中に…何より僕の目の中に…彼の恋人千原真澄が息づいている。

そして…流れるメロディーは……なぜか、アランフェス協奏曲二楽章。
スペイン内乱の後、復興を願って作られた曲…と言うには、そのメロディーは、あまりにも切なくて…
亡くなった妻や子供の為に神に捧げた祈りの曲…とも言われるそれを、僕は…誰の為に弾くのか。
ギター協奏曲をヴァイオリンで…彼の恋人の為に、彼の為に…そして僕の為に…弾く。

弾き終わった途端、僕は恥かしさで一杯になった。 
これでも音楽科の学生か…ヴァイオリンのソナタとか、協奏曲とか…いくらでもあるだろう…と自分でも情けなくなったが、
柴崎優也と千原真澄の恋が…とても切ない…そんな気がして、僕は意味もなく…すみません…と頭を下げた。
そんな僕に、彼は黒い瞳を潤ませて、

「ありがとう。 真澄は…私のたった一人の大切な人だったんだ。 どこまでも…真澄と一緒にいきたかった」
そう言った彼の言葉に、僕は彼の想いを聞いたような気がした。 この人は…恋人と一緒に死にたかったのだ…。
これほどまでに、この人に愛され…捕まえて離さない人。 千原真澄という人は、どんな人だったのだろう。
そして…どうして、僕に目をくれたのだろう。 
僕は もう決して会う事の叶わぬ人…それでいて、僕の中で密かに息づいているその人に…会いたい…そう思った。


「あの…」
「君に…」
同時に、二人の声が重なる。
「あっ、どうぞ…なんですか?」 僕が聞くと、
「君に、一つ 頼みがあるんだが…」 彼が、なんとなく言いだしにくそうな様子で言う。だから…
「なんでしょう」 水を向けるように、僕は彼に促す。 すると彼の口から思いがけない言葉が…

「君は…明日、空いている時間はあるかな」 その言葉に僕の頭は…どうにかして時間を作ろうと必死で働く。
明日は……午前が課題の練習で、1時〜2時が教室で…それから3時〜5時が……スケジュールを確認するが…一杯だった。
でも・・どうしても会いたい…もう一度この人に…その思いに抗えず…
「あの! 5時以降なら、絶対大丈夫です!」 希望を込めて宣言する…と、
彼は、その端正な顔に微かな安堵と不安の色を浮かべ…。

「それじゃ…6時から10時まで…私に、君の時間を貸してくれないか。 もちろん、アルバイト料は君の望む金額で払う。
もし、君が嫌なら断ってくれて構わないが…。 真澄と…一緒に居たい」 そう言うと…僕の目に問いかける
あぁ…やはり…そうなんだ。 判っていても少しだけ…ほんの少しだけ…
「………。良いですよ…」 答える僕の心は切ない。
「ありがとう。 それじゃ、明日の午後6時…ここの前で待っている」
彼は僕の目に向かい…本当に嬉しそうに…嬉しさに泣いてしまうのでは…そんな顔で言った。


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