(3)    柴崎優也=相沢梓音



僕は 14才の時に事故で視力を失った。そしてその時両親も失い…それからは祖母と二人で生きてきた。
両親は自分たちの命と引き換えに結構な額のお金を残して逝ったが、
それでも一生光を失った僕を抱えて…祖母はどれほど悲しみ、心配をした事だろう。
事故の時、自分の娘である母も失ったのだから、その苦悩は計り知れないものだったと思う。

僕も…先にある長い暗闇を辿って生きて行く決心をするまで、何度両親と一緒に死ねば良かったと思ったか知れない。
そして、やっと諦め…自分なりに先の事を考え始めた頃、一人の男性に出会った。
その人は、僕が入院していた病院で何度か僕に話かけてきては。
柔らかな優しい響きの声で僕の事を励まし…君の目は必ず良くなりますよ…と言った。
僕は…この人はなにを言っているのだろう…そう思いながらも、不思議とその人の声と言葉は、
僕を穏やかな気持ちにしてくれ…僕の心から、不安や迷いを消し去ってくれた。

僕の手をそっと包みこむように握り、大丈夫…きっと見えるようになります…と繰り返し言われ。
以前見えていた物…空や雲…木々や花…を思い出す。 友人の顔、両親の顔…一生懸命記憶の糸を辿る。
僕は記憶が少しずつ薄れてきているのに気付いていた。 暗闇に慣れるにしたがって、
色や形が少しずつ薄れていき…全てが、何もないただの闇に埋もれてしまいそうな不安が、
その人の言葉で消えていくようで…その人と話していると安心できる…そんな気がしていた。

「君は、再び見えるようになったら…その目で最初に何が見たいですか?」 ある日、その人はそんな事を言い、
「貴方の顔…」 僕は、躊躇いもなくそう答えた。するとその人は、
「私の顔など、見てもつまらないですよ」 何となく楽しそうに…笑いながら言った。
「それでも…貴方が、僕の目に映る最初のものであって欲しいと思います」
僕は、本気でそんなふうに思っていたから…迷わず答えた。 その時…。
「それなら…私の代りに、私の一番大切な人を見て下さい。必ずその目で…あの人を…」
そう言ったその人の言葉は、なぜか僕の脳裏に焼きついた。 そして程なく、僕は手術を受けることになった。

何の前触れもなく…突然、有る人が僕に目をくれると言われ、何も分からないまま手術を受け。
僕の目は視力を取り戻した。そして…僕が最初に見たのは…当たり前の事だが、医者と看護士の顔だった。
それと…見間違えるほどに年老いた祖母の顔。 僕が最初にと望んだあの男の人は…二度と僕の前に現れる事はなかった。

千原真澄…彼だったのだ。 あの時僕の手を取り、暗闇を払ってくれ…僕が最初に見たいと思った人は。
そして…彼の言った大切な人。 柴崎優也…千原真澄の最愛の恋人…その人が、今目の前にいる。
あの優しい声と、柔らかな手の温もり。それを思い出した今、「真澄は、誰にも愛された…」
彼の言ったその言葉が、初めて僕の中で現実のものとなった。
彼はきっと…人に愛され…惜しまれるために…この世に生まれてきたのだろう。そんな気さえした。

事実僕の目が見えるようになって、僕を知っている人は、口々に僕の印象が変わったと言った。 特に、目が…。
僕は元々、男にしては目が大きめで、よく女子などに冗談に…目を取り替えてよ…等と言われる事もあった。
それが…手術をしてから、誰もそんな事を言わなくなり…きれいな目だね。泣いているみたい…と言われるようになり。 
ある時友人の一人が言った。 お前の目って煽られるよな。じっと見られると…変な気になってきそう…と。
そんな事まで言われ、鏡で自分の顔をまじまじ見てみた。 確かに、以前より目が潤んでいるような気はしたが。
それは手術のせいで、そのうち治るだろうと思っていた…が、そうではなく…僕は次第に、目を伏せる事が多くなっていた。

そして彼と出会った僕は、千原真澄の恋人を此処に留めたいと願っている。それは…僕の想いなのか…千原真澄の想いなのか…。
もしかしたら…あの時、病院で千原真澄に手を取られた時から…僕は囚われてしまったのかも知れない。 
彼等二人の、愛と言う名の夢幻境に。


次の日、僕は再び彼の家に向かう。 昨日あれから駅まで送ってもらい…今日の訪問を彼に承諾させた。
入口は、出てきた他階の住人のおかげで、運よく中に入れたが、エレベーターは最上階専用だから、
鍵を使うか…彼に開けてもらうしかなかった。しかたがないのでチャイムを押す…が、応答はない。
だから…もう一度押してみる。それでもエレベーターのドアは開く様子も無く。
入れてくれないつもりなのか…と不安になり、今度は立て続けに押す…! ドアがゆっくりと開き…僕は、急いで箱に乗り込む。 

エレベーターはノンストップで、彼の部屋のある最上階まで僕を運んでくれ…彼の部屋の前に立った僕は、
もう一度チャイムを押そう…と手を伸ばした時…ガチャ…ドアが開き、昨夜の服装のままの彼が顔を出した。
乱れた髪が…眠そうに不機嫌な顔が…少しだけ可愛いく見えた。

「お、おはようございます」 僕は、少し控えめな様子で挨拶をする。 
彼は僕の顔をじっと見つめ…それから僕の顎に手を添え、僕の顔を上げると瞼にチュッとキスをし。
「おはよ…。俺、さっき寝たばかりなんだけど…今、何時?」 
やはり、僕の顎を捉えたまま眠そうな声で聞いた。いきなりのキスに幾分驚きはしたものの、
それよりも嬉しい気持ちの方が大きいのに戸惑いながら、僕は小さな声で答える。

「ろく、六時…です」 
「………。 普通、朝の6時に他人の家に押しかけるか?」 
「は、はい…。すみません」
「俺はもう少し寝るから 君…適当にしててよ」
彼はそう言うと、僕の顔から手を外し…さっさと奥の寝室へと消えてしまった。

適当にと言われても…。 一人取り残された僕は…所在なげに辺りを見回し…二階へと続く階段を昇る。
そして…昨夜、何だろうと気になったガラス張りの其処を覗き…其処が浴室だと判ると…。
これって…外から丸見え? そう思うと急に恥かしくなり…そそくさとその場を離れ反対側に向かう。

そのスペースにはベッドが置いてあり…壁に沿うように千原真澄の写真パネルが何点か置かれてあった。
パネルの中で幸せそうに笑っている千原真澄は…やはり儚げに美しく…切ない。
そして…その中の一枚に僕の目は止まり…釘付けになった。 眼鏡をかけ白衣姿の千原真澄。
見るからに医師の姿で…じっと空を見上げている横顔…に目を逸らすことが出来なかった。
その瞳は、空に向けていながら…底の見えない深淵を見つめ、深い悲しみと絶望に悲鳴すら聞こえる気がした。
それでも顔をあげ…真っ直ぐに立つ姿は、視る者を言いようのない切なさで包み…胸を締めつけた。

僕は、そのパネルをそっと伏せると…静かに下へ降り…彼のいる寝室へと足を運び…。
ベッドの横に膝をつくと、そこで寝息をたてている彼の顔を覗きこむ。
額にかかる、さらさらの黒い髪を指でそっと払うと…広い額に男らしい眉、瞳と同じ黒い睫。
通った鼻筋の下には引き締まった口元。どのパーツも形良く整い…配置され、千原真澄とは別の意味で端正な顔。
写真に写っていた少年らしさが消え…大人の男性の顔が其処にあった。
この唇が…僕の瞼に触れる…。その唇にそっと指で触れ…顔を近づけ…僕は、触れるか触れないかのキスをする。

何度も…何度も…。 頭の芯が、ジーンと痺れてくるような感覚に眩暈がし…もっと触れたい…と、思ったその時、
ぱちり…彼が目を開き。 一瞬、僕の心臓が…止まるかと思う程大きな音で鳴る。
目の前の黒い瞳が僕を捉え…「真澄?」 唇が笑みを浮かべると…「おいで…」腕が僕を引き寄せた。
そして…唇を合わせ軽くキスをすると…僕を抱きしめたまま、また眠りに落ちて行く。
その顔は…彼が見せた一番幸せそうな顔で…僕はその温かさに埋もれるように、彼の腕の中で目を閉じた。


「オイ、君! 起きなさい!」 誰かの声が聞こえる。それも…かなり不機嫌そうな声。
その声を遠くに聞きながら…目を開けると…彼の不機嫌そうな顔が真上から見下ろしていた。
僕は慌てて飛び起きると…ベッドの上で正座をし
「あっ!すみません。 僕まで寝ちゃって」 はるか上にある彼の顔を見上げる。
そんな僕を、彼は存在感たっぷりに仁王立ち宛ら…腰に手をあて、
「なんで君が俺のベッドで寝ているんだ? 朝早く押しかけて来たと思えば、勝手に人のベッドに潜り込んで…
いったい何を考えているんだ」 呆れたように言う。

「え? い、いや…。 あの…」 僕は、しどろもどろの態で
たしか、僕をベッドに引きこんだのは貴方で…。寝室に入ったのは僕だけど…それと、先にキスしたのも僕で。
それって…やっぱり僕が潜り込んだ事になるのかな…などと考えていると、意外にもあっさりと彼の口調が変わり、

「まぁ良い…コーヒーが入っているが…飲むか?」 聞いた声まで優しげに聞こえた。 途端、僕は嬉しさがこみあげ、
「は、はい! 頂きます」 慌てて答えると、彼は…
「それじゃ、さっさとリビングに来なさい」 と言い残し…寝室から出ていく。
その背中から視線を腕時計に移すと、もうお昼に近い時間で…僕は、少しばかり決まりの悪い思いでリビングに行く。

キッチンカウンターテーブルの上には、軽い朝食のメニューとコーヒーが載っていて…彼が、
「私は先に済ませたが、もしそれで良かったら…君も食べなさい」 と言い…。
改めて彼を見ると、さっきは気づかなかったが、彼の髪はシャワーでも浴びたのか少し湿り気を帯び、
着ている物もGパンに淡い萌木色のカットソーに変わっていた。
僕は無意識に、二階のバスルームに目を向ける…が、其処は使われた様子もなく…僕は少しだけ首をひねる。そして…

「あ…あの…バスルーム……使わなかったのですか?」 しょうも無い事を尋ねる…と、
「なんだ…家の中を探索でもしたのか? だったら、シャワールームがあるのにも気づいただろう」
彼は、その事にあまり気分を害した様子もなく言う。
「シャワールーム…ですか?」
「洗面所の奥…。 使うなら使っても構わないが…着替えは無いぞ」
「あ…いいえ。 そういう訳じゃ」
「なら良い。 けど…二階の物と寝室の物には触るな」 彼はそう言うと、横に置いてあった新聞を手に取った。

彼の声や言葉は…結構ぞんざいだったり、丁寧だったりする。
それが、何によるものなのか…僕には判らなかったが…その事に関しては気にしない事にし、
僕は、目の前のパンとプレーンオムレツ、それにサラダをたいらげ…コーヒーを飲み終えると食器をキッチンに運び洗う。

その時、彼の携帯が鈍い振動音を響かせ。彼は…携帯を片手に新聞を広げたまま、なにやら相手と話していたが。
会話は全て英語で…僕には、片言の単語以外内容はほとんど解らなかった。
向こうに帰る話でもしているのだろうか…そう思うと、僕は心配でたまらなくなり。
英語の授業真面目にやっておけば良かった…等と思いながら、電話を終えた彼に恐る恐る聞く。

「あの…今のは、アメリカの…。 仕事の……」 日本語も単語の羅列の僕に…彼は明確な日本語で、
「向こうの友人が、わざわざ日本のディズニーランドに来たのだと。 向こうが本場なのに信じられないだろう?
あいつ等は何を考えているか…さっぱり理解できないな」 と言って首を捻った。
その答えに、良かった…。 僕はホッとすると、さっきまでの緊張が嘘のように。

「ディズニーが好きなのですよ。 好きだから、いろんな国のディズニーランドに行ってみたいのだと思います。
多分…国によって、それぞれ趣きが違うでしょうから」 そう言う僕は、少しだけ生意気そう。 けど、彼は…
「そんなものかな…」 言ってもう一度首をひねる。そして僕の、
「そんなものですよ」 何気なく言った言葉に…互いに顔を見合わせ…笑う。 
嬉しい…楽しい…そんな些細なことが嬉しくて…僕は益々欲張りになる。彼に甘えたく…なる。

「あの…ヴァイオリン、弾いてもいいですか」
僕はソファーに載せていたヴァイオリンを胸に抱え彼に聞く。 彼は、そんな僕を見上げ、
「あぁ、構わないよ」 口元に笑みを浮かべ…答え…そして僕は…開いている窓に目をやり、
「騒音だと、苦情にならないですか?」 問う声が少しだけ心配そう。 だが、彼は…
「この部屋の音は下には届かない。なんなら庭で弾くか?」 そう言って目が笑う。 

「え? でも…余計苦情の元になるのじゃ」
「下手な奴ならそうだろうが、君の弾くヴァイオリンなら耳の保養になるさ。
まぁ、苦情がきたら…その時はその時だから気にしなくて良いよ」
彼の言葉と、この一瞬のやりとりが嬉しくて…この空間で練習できる事が嬉しくて…僕はケースを持つと…テラスに出る。

僅かに頬をなでる風と、降り注ぐ初夏の陽の下…課題の、パガニーニ・ヴァイオリン協奏曲第2番が、
地上より空に近い…周りを遮るもののない空間で風に乗り…伝わる。 この音はどこへ流れて行くのだろう。
できるなら 黒い瞳をしたあの人の心にまで…僕はそんな事を願いながら弦を弾く。

彼の黒い瞳が僕に向けられるなら、どんな事でもできる…我慢できる。 愚者の道も…辛くは無い。
だから…僕はヴァイオリンを放り出し…彼の側に駆け寄ると。
「昨夜、僕が言った事は本当です。だから…アメリカには帰らないでください。ずっと日本に…僕の側に居て下さい」
彼の足もとで縋るように言う。 すると…彼の黒い瞳が悲しげに揺れ…

「私は…真澄しか愛せない。 君の側にいても、君を傷つけ苦しめるだけだ」 声までもが悲しみに溢れる。
「それでも…それでも僕は、貴方の側にいたい。 ずっと、貴方を探して…待って…そして、やっと会えた。
もし…どうしても帰ると言うのなら…その時は…僕のこの目を持って行ってください」
この目が彼を求めるのなら…いっそ千原真澄に返し、僕の心を目と共に彼の側にと…縋る。
それはまるで、はらはらと…千原真澄が泣いているかのように。
目は…彼を引き止めようとして泣くのか…それとも留まるな…と言って泣くのか…僕の心と瞳は共に涙を零す。

その溢れる涙を唇で拭うように僕の瞼に口付けると…彼は、苦悩に満ちた黒い瞳で僕を見つめ…
「わかった…。こちらに移る手続きをしよう」 その一瞬、彼の目の中の苦悩が…絶望に変わったように見えた。
「それで私は…君をなんと呼べばいいのかな」 彼の問いに…僕は全てから目を背け答える。

「僕は…相沢梓音です。できたら…梓音と呼んで下さい」
「……解った、梓音だな」
「あの…」
「なんだ…」

「貴方の事を…優也さんと呼んでいいですか…」
「…………。好きに呼んで構わない」
「嬉しい…。ありがとうございます…優也さん」

そして僕は…愛を捨て…自分を捨て…彼を失い…アランフェスを奏でる愚者になる。


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