ひとひらの雪−2


「お兄さん、また雪に濡れてるね。 傘に入らない?」
「あぁ、君か…。 傘はいらない…弟が見えなくなるから」

「弟?」
「あぁ、あの空にいて…私が行くのを待っているんだ」

「そう…」 若者はそう言うと、傘をたたみ
「今日暇なんだ。 俺を、買ってくれない?」  槙村を見上げるように言った。

「…そうか、暇なのか。 解った、買ってやろう…」
ほんのひと時 何もかも忘れてしまう その一瞬の為に抱き合う。
高みに昇る間際の 真っ白になる一瞬…あの白い世界に弟はいない。
それでも…その白い世界にいくために…結唯と肌を重ねる。

二度と会うつもりはなかった。  なのに…遠慮がちのメールは。
「今日 暇なんだ」  それだけ…。

それが合図のように、始めて待ち合わせた場所で、結唯と落ちあい…ホテルへ。
一緒にお茶を飲むでもなく、食事をするでもない。
ただ ほんの数時間 抱き合い…金を渡して別れる。 

それだけ…。

女ですら、一人に決めた事のない槙村が、どうして…自分でも解らなかった。

会いたいのか、結唯に…問う心 。
そうではない…否定する心。

なぜなら…槙村から連絡をした事は、一度もなかったから…。
窓の外は、静かな雨。 もう、雪の降る季節は、はるか遠くに過ぎ去っていた。


シャラ〜ン♪  メールの受信を知らせる音に、槙村は携帯を取った。
いつも決まって、仕事が終わる直前に入る 決まった人物からのメール。

「今日暇なんだ…」  画面に並ぶ文字も いつも同じ。 
槙村は それを見つめ…始めて、断りの返事を返した。
「すまない。 今日は都合が悪い。」

今日は…弟の誕生日。 そして…命日。 
花を買って…ケーキを買って…弟とふたり、ささやかなお祝いをする日。
花は赤いバラ。 ケーキはチョコレートケーキ。
あの日も…花を買って…ケーキを買って、帰る予定だった。


「兄さん、僕は大学には、行かないからね…。」
弟が、そんな事を言い出したのは 高校三年に上がる 少し前の事だった。
槙村は、その言葉に驚きながらも、弟は さほど考えも無しに 言っているのだろうと思った。
だから…

「何を言っているんだ。 大学ぐらい行っておかないと、後で後悔するぞ」
槙村も、軽い気持ちで言った。 だが、弟は…
「でも、僕は兄さんと違って 頭が良くないし 勉強も好きじゃない。
それより やりたい事があるんだ。 だから、進学はしない」
はっきりと、自分の意思を持って…そう言った。

それからは いつもその事でやりあった。
槙村は、たったひとりの弟には好きな道を歩ませてやりたい…と、心から思っていたが、
それは 大学を卒業してからでも 遅くはないと思っていた。
だが、槙村が 何度説得しても、弟は、

「いつまでも、兄さんにばかり頼っていられないよ。
僕だって 自分の事は自分で出来るようになりたいんだ」
いつも、その言葉を繰り返し…その言葉が槙村には、、
弟が、もう兄の自分は必要ない・・そう言っているように聞こえた。

顔を会わせても、言い争う事が多くなり…。 
そのうち弟は、家に帰らない日もあったりするようになった。
それがますます二人のすれ違いに 拍車をかけた。

最後の日の朝 槙村は出掛ける間際に まだ家にいた弟に声をかけた。

「のぶ…今日はお前の誕生日だろう。 ケーキ、買っても良いのか?」
躊躇いがちに言った槙村とは反対に、弟は
「うん…今年は、チョコレートケーキにしてよ。
花は…そうだな、真っ赤なバラの花束が良い…それにカードを添えて…」
最近では見られなくなっていた、にこやかな顔で言う弟に、槙村は答えた。

「判った。 花屋にあるバラを、全部買って来る事にしよう」

本当に そうしてやろうと思った。 その時弟は どんな顔で笑ってくれるだろう。
そう思いながら 帰りの自分の姿を想像し、苦笑をもらした。

槙村はその日、弟に…
無理して大学に行かなくて良いから、お前の好きな道に進みなさい 。
そう言おうと思っていた。

たった一人の 大切な弟だから・・そう思って勧めた進学だったが、
人の持つ価値観や幸せは、人それぞれであって、 
自分が思う弟の幸せと、弟の望む幸せは違うのだと、
弟が選び 決めた事なら、弟の好きにさせてやろう・・そう決心した。

「兄さん…僕は…」   槙村の背中を追うような、弟の声に、
「ん? なんだ?」  
槙村が振り向き…その目に映った弟は、本当に最高の笑顔を、兄に向けて、

「ううん なんでもない。 行ってらっしゃい。
それと…僕も…いってきます」   そう言って、小さく手をふった。

その言葉と笑顔を最後に 弟は本当に槙村の側から逝ってしまった。

のぶ…お前はあの時、何を言おうとしたのだ?
花も、ケーキも…本当は、どうでも良かったんじゃないのか?。
それなのに…どうして、チョコレートケーキと バラの花なのだ?

槙村は、弟が最後に言いかけた…その、言葉が知りたかった。
それから毎年、この日はチョコレートケーキと、バラの花束を抱えて家路につく。

のぶ、ただいま…。 今日は、お前の誕生日だぞ…お祝いをしような。

テーブルの真ん中に、ケーキを載せ それにローソクを立てる。
毎年一本ずつ増やしてきたローソクも 今年は22本になった。
二人分の皿を並べ、グラスを置き それに2年前からワインを注ぐ。
大きな、赤いバラの花束に抱かれた 写真の中の弟は、
椅子に座って じっとその様子を見ていた。

「のぶ…22歳、おめでとう」
槙村が言うと、写真の中の弟が 嬉しそうに笑って頷いたような気がした。


都合が悪い…始めての断りに、なにか急用でもできたのか…それとも…。
会えないと判った途端に 会いたい思いが込み上げてくる。
会いたい…会いたいよ…さとるさん。
膝を抱え ベンチに蹲っていると、顔を押し当てた膝が 濡れてくるのが判った。

どうしてこんなに 好きになってしまったのだろう。
他の客と触れ合うのが嫌で バイトもしていない。 あの人以外に、触れられたくない。
こんなに好きになって、どうしたら良いのだろう。
考えても、答えなど見つかるはずもなく、結唯はただいつまでも そこに座り続けていた。

「やっと会えた。 久し振りだね・・覚えているかな」
僅かに聞き覚えのある声に、顔を上げると…以前付きあった事のある男が、
卑屈な笑みを浮かべ、結唯を見つめて立っていた。

こんな日に こんな男と…心の中で そう思いながらも、
「どなたですか・・」  そ知らぬ顔で言うと、男は、
「忘れちゃった? 以前 君に声をかけられた 吉田だけど」
相変わらず、妙に優しい声で言われ ぞくり、と肌が粟立った。

「…そうだっけ…で、俺になんか用?」
「うん…君に、もう一度会いたくてね。  どうしたの?何かあったのかな…眼が赤いけど」
言いながら、男の臆病な小動物のような目が 窺うように辺りを見回す。

「別に…コンタクトがずれて、目が痛かっただけだよ。
俺に会いたいって…俺とやりたいって事?」
結唯が、半分やけくそのような気持ちで言うと、男はちょっと間をおいて、

「はっきり言うんだね…」  と、言って下卑た笑みを浮かべた。
「だって、それしかないでしょう…俺に会いたいって」

「まぁ・・そういう事かな。 それじゃどうかな、これから付き合ってもらえる?」
本当に…イライラする声と口調だ。 虫唾が走る…はずなのに、
なぜか今は、その不快な海に 沈んでしまいたいと思った。 だから…、

「…いいよ…丁度・相手を探していた処だったから…」
結唯は自分から、その不快に足を向けた。

執拗に触りまくる手は じっとりと汗ばんで、気持ちが悪く。
チロチロとぬめる舌は 爬虫類のそれを思わせ、肌が粟立った。
不快の海は、余りにも不快すぎて…嫌だ!! きもいんだよ!! 
大声で叫び出したい衝動を 必死で押さえ…早く終ってくれと祈る。

充分に解されないそこに 男のものを突き立てられ、痛みに声が漏れる。 
たいした代物でもないのに、痛くて…涙が溢れてしまう。
それでも…男の吐く息が荒くなり…あぁ、もう少しの我慢だ…あと少し…
と、自分に言い聞かせて、耐えた。 そして…
うっ・・ううぅ…
喉に、餅でも詰まらせたような声を出して 男がいったのが判った。 

重石のように体重をのせて 満足げな男の下から這い出し、
結唯は、裸のまま浴室へと逃げ込んだ。
結唯自身は、とうとうピクリともしないままで、こんな事は始めてだったが、 
今は そんな事より、男の触れた身体を、早く洗い流したかった。

ソープを泡立て、男の触れた処をごしごしと念入りに洗う、
洗っても、洗っても あの嫌な感触は消えず…
さとるさん…名前を口にすると また涙が溢れた。

彼の手は暖かい…優しい。
始めての時は おそらく男とのセックスは、経験がなかったのだろう。
戸惑っていた彼を 強引に自分が犯すようにして、行為を完遂させた。

でも、次からは…本当に男は始めてなのかと疑うほど、
優しく丁寧に解してくれて、痛みなど感じる間もなく、なんども昇りつめて、
最後には 始めて意識を手放してしまった。 

いつだって優しく抱いてくれた。 抱かれる事が嬉しかった。
あの人のものを この身体に受け入れることが嬉しくて、  
愛されていると 勘違いしてしまうほど優しい愛撫に…溺れた。

でも、あの人が愛しているのは…俺じゃない。 あの人が愛しているのは…。 
俺はその人の…代わり。 こんなに好きなのに…心も身体も、あの人に触れて欲しいと、
あの人だけが欲しい…と、泣いているのに…。

槙村を想うだけで、熱くなる身体が、悲しく…厭わしい。
結唯は、ずるずると床に座りこむと、自分のそれに手を伸ばした。

降り注ぐシャワーは、結唯の涙と、放った白濁を流し去っても、
槙村への想いだけは、流し去ってはくれなかった。

部屋に戻ると 男は鼾を立てて眠っていた。 
それを横目に見ながら、音を立てないように急いで服を着ると、
前金でもらった金を ポケットに押し込み…結唯はホテルを後にした。


携帯の画面にメールの文字…「会いたい…」  と、一言あった。
「今日は無理だ…明日、いつもの所で」  槙村が返すと、すぐさま次のメール 。

「会いたい…会いたくて死にそう…」
槙村は 不思議に思った。 どうして 「今日は暇…」 じゃないのか…と。

「会いたい…」  
結唯…それは、仕事ではないのか…。
その時、メールの文字から 結唯の涙が見えたような気がした。

「昨日は 悪かったね…どうしても、都合が付かなくて」
顔を会わせた最初の言葉が、言い訳じみて…なぜか槙村は、それに後ろめたさを覚えた。
「いいよ、別に…俺が勝手に我が侭を言ったんだから…。
貴方は お客様だから…謝る必要なんてないよ」

拗ねているのか、結唯は 何処となく素っ気ない口調で、にこりともせず言った。
そんな態度が やけに子供じみて可愛くみえると同時に、その言葉は 槙村の心に小波を立てた。

「…客か…そうだったね」

自分と結唯は 客と男娼の関係…その関係はいくらか奇妙で、
いつも売り手からの誘い…買い手から誘う事はなかった。
いつものように ただ売り物の身体を抱いて、欲求を満たして別れる。
なのに、今日はほんの僅かの時間 結唯を抱きしめていたいと思った。

「今日は 少し時間を延長してもいいかな…もう暫く こうしていたいんだ」
結唯は返事をする事もなく ただ槙村の腕の中で、瞼を閉じたまま、夢の中を漂っていた。

何度目かの行為の時 結唯は最後には意識を失ってしまい、槙村はひどく驚いてしまった。
腹情死…の言葉が頭に浮び、結唯が 心臓麻痺でも起こしたのか・・と思い、
慌てて胸に耳を押し当て、脈をみたほどである。

トクトクと刻む心臓の音を聞き、指先に少し速いが規則正しい脈の触れを感じた時、
意識を失っている?…その事に驚いた。
まさかセックスで、本当に失神するなどとは、思ってもいなかった。
安心すると同時に、心の底から湧き上がってくる感情。 結唯が、たまらなく可愛いと思った。

無防備に横たわる 結唯の唇にそっと口付け、何度か髪を撫でる。
その一瞬だけ 槙村は、結唯と自分が買い手と 売り手である事を忘れた。
今日槙村は、その時間を もう少しだけ…そう思った。

暫くして 気付いた結唯を そっと背中から抱きしめ、
項に唇をよせ 軽くキスをする…。
結唯が僅かに甘い声をもらし、槙村の腕に頬を寄せ 唇を押し当てた。

「昨日は 弟の誕生日だった。 だから、君に会いに行けなかった」
その言葉に…
「誕生日?」  結唯がゆっくりと 槙村の腕をほどき、身体の向きを変えた。

「弟は…18才の誕生日に死んだ。 もう・・5年になる。
それでも毎年、誕生日には、バラの花束とチョコレートケーキで、お祝いをしてあげるんだ。
最後の日 そう約束をしたからね…。
でも弟は…チョコレートケーキを食べる事も、バラの花束を 手にする事もなく、逝ってしまった。
私は、最後に弟が 何を言いたかったのか・・それも解らないまま、
果たせなかった約束を どうしたらいいのかも判らず… 毎年 弟の誕生日を祝ってやるんだよ」

その言葉は 槙村の心の空洞を吹き抜ける風のように、 ひどく渇いて 
心の泣く声が、聞こえるような気がした。

「…・どうして、亡くなったのですか」
「バイクで、カーブを曲がりきれずに、崖から落ちた」

「事故…ですか…」
「そう思っていた。 警察もそう判断した。 でも…そうではなかったのだよ。 
暫くして、弟から手紙が来た」

「手紙? 亡くなった後に?」
「期日指定の配達になっていたらしい…その手紙は、遺書だった」

「遺書…。 それじゃ…自殺…ですか」
「そうだね…。 弟は、自分から崖に向かって ダイビングしたんだ」

「そんな…遺書にはなんて?  あっ、ごめんなさい。 そんな事を俺が聞くのは…」
「いいんだ…私には 弟の言いたかった事が分からない。
どうして、私をおいて逝ってしまったのか、解らないんだ」

槙村はそう言うと 視線を天井にむけた。
その瞳は…はるか遠く空にある、槙村だけに見えるなにかを、見つめているようだった。


『兄さん、ごめんね。 僕は今日 父さんと母さんの処に行く。
今度産まれる時は 僕は兄さんの弟ではなく、赤の他人として生まれてくるね。
そうすれば…。 ごめんね…僕のせいで、兄さんに辛い思いをさせて。 
でも、僕は幸せだった…本当に幸せだった。
だから、この幸せな心のまま 父さんと母さんの元へ逝きます。
兄さんがくれた、たくさんの思い出と…愛情。 
抱えきれない程の幸せに…ありがとう…を言います』

何度も、何度も読み返したのだろう。 一語一句 頭の中に刻まれた短い手紙を、 
槙村は 本の一小節でも読むように なんの感慨もない口調で、
そこに溢れる想いに、目を塞ぐように…声にした。

愛していたんだ…。 結唯はそう思った。
弟は愛を自覚し 兄はその愛に、眼を塞ぎ錯覚しようとした。
いつも優しかったあの目は 弟に向けたものだったのだ。

愛する弟を失い…なおも、それにすがる槙村が 可愛そうだと思った。 
そして…はじめて、槙村を抱きしめてやりたいと思った。

「弟さん…なんていう名前だったの?」
「名前? 信幸…」

「のぶゆき…のぶ・・ゆき…・。 ごめん。 俺 先にシャワー使わせてもらう」
想いとは反対に 肌にふれる温もりから逃れるように、結唯はベッドから降りると浴室へ向かった。

別れた人なら いつかは他人になる。 
誰かを抱くはずの腕も、いつかは俺を抱く腕になる。
でも 死んでしまった人は、時を止めて 心に居続ける。 ましてや弟では…。 
一度だけ…微かに、槙村の唇を割って出た名前・・のぶ・・そう呼んだ。

あの人が抱いたのは…俺ではなく弟だったんだ。
錯覚しようとしたのは…自分の中の想い、弟に向けた…愛。

自分の愚かさと 死なせた罪悪感 そして喪失感。 
それらが太い鎖になって、あの人を縛り続ける。 いつまでも…いつまでも。
迷い込んだ迷路の中で、俺を抱き続けても、あの腕は…俺を抱く腕にはならない…。
だから…もう・・会えない…。

テーブルの上に、いつもより多めの 一万円札が載っていた。

「いいよ、今日は…。 俺が無理に頼んだから」
金を手にし、それを槙村に差し出すと、槙村が。

「私は 君を抱いたのだから…払って当然のお金だよ」 と、言った。
今はその言葉が、ひどく結唯を 蔑んでいるように聞こえ、

「要らない! そんなもの!!」  結唯は、思わず大きな声で言った。
「どうしたんだ? 私の勝手で、時間も延長させたのに…。
君は、黙って私の我が侭を聞いてくれた。 私は、とても感謝しているよ」

初めて見る、槙村の頼りなげな顔。
あぁ…この人は、こんな表情もするのか…気づいた事すら遅く思えた。

「要らないって 言っているだろう! 
どうせ俺は、あんたから見ると、金で男に抱かれる薄汚い奴だけど…俺にとっては…。 
安心しなよ、二度と連絡なんかしないから。 あんたとは、今日で終りだ!」
紙幣を、槙村に投げつけると、結唯は、急いで服を着て部屋を飛び出した。

バカな俺…あの人には関係ないのに。 自分の想いを持て余し あの人に当たって。
たとえ誰かの代わりでも、いつだって優しかった。 
暖かかった…勘違いしていたかった…愛されているのだと…。

今にも泣き出しそうな曇り空。 あの空に、弟がいると言っていた。
だから…絶対に、空は見上げない…歩道を見つめたまま歩く。

雨でもないのに…ぽつり…足元に雫が落ちた。

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