【 ひとひらの雪 】

槙村 暁…弟の死から、立ち直れないでいるリーマン
樋口結唯…バイトで、身体を売っていた大学生
「淡雪 消えてなくなる前に」 の数年前の話になります。
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   雪の夜の出会い


頬に触れた 小さなしずく。 
振り仰ぐ空から ひとひらの雪が舞い落ち、広げた手のひらに載る前に 雫に変わった。
手の中に留まらぬものなら おちて来なければ良い。 この手に掴めぬものなら…いらない。
なのに…雫となりこの手を濡らし 心を濡らす。


弟が死んだ…。
スピードの出しすぎで カーブを曲がり切れず崖から転落したんですな。 おそらく即死でしょう…。 
十七才ですか、人生これからだと言うのに、お気の毒です。

警察官は型道理の悔やみの言葉を述べて 遺体安置所のドアを開けた。
少しだけ顔に擦り傷があるだけで まるで眠っているかのように横たわる弟の顔をみつめ 
槙村 暁は 手を伸ばしその頬に触れた。 

冷たかった。
掌から伝わるその冷たさは、このまま触れていたら 自分の温もりが 弟を温めてくれるのでは…
そんな微かな望みさえ打ち砕く なんとも言いようのない冷たさで、
どんなに温めても 決して 温もりを取り戻す事がないのだと実感した。
そして、始めて弟の死が現実だと思い知らされた。

どうして こんな事が起きるのだろう…なにも感じない。
両親が死んだ時は 悲しかった。 涙も出た…泣いた・・。
そして傍らには一緒に泣く まだ小学六年生の弟がいた。

槙村は 両親の代わりに その弟の面倒をみなければならなかったから、 
涙を流し 泣いたとしても 先を見ていたような気がした。
だが、弟の死は…槙村に一人で泣けと、一人で生きていけ…と言っていた。

先も見えなかった。 涙も出ない…悲しみも…ない。
あるのは途切れた道。 立ち止まったまま進む事が出来なかった。
その時気付いた。 依存していたのは…自分だったのだと。
それでも 呼吸をし 食事をし 眠り…朝には目覚める。


「お兄さん 傘に入れてやろうか?」
その声が、自分にかけられたものだと気付くまで、少し時間がかかった。
そして、頭の上に差しかけられた傘で 始めてその声が 自分に掛けられたもので、
横にいる誰かの発した言葉だったと気付いた。

「濡れてるよ…。
雪でもこの辺の雪はびしゃびしゃだからさ、傘がないと 結構濡れちゃうんだよね」
そう言って、自分より背の高い槙村に 傘を差しかけてくれたその人物の顔をみると、
まだ若い、学生のような若者だった。

「あぁ、そうだな。 でも私は大丈夫だ。 
それより君が濡れてしまう。 私はいいから 自分でさしなさい。」
目の前にある、傘をもった若者の手を押し戻すと、

「お兄さん、温かいね。 そうだ、もっとくっつけばいいんだ。 そうすれば 二人共濡れない」
そう言うと、若者はいきなり槇村の腕に、自分の腕を絡めピッタリと寄添った。
突然の、思ってもいなかった若者の行動に、 槙村は驚きとりも戸惑いを覚え、
「お、おい! 君…」  そう言うと、もう一度若者に顔を向けた。

「平気、傘でみえないからさ。 それにこうしてると暖かい」
若者は、槙村の腕に絡めた腕を解こうともせず、そんな事を言いながら、ニコッと笑顔を見せた。
若者の言葉も行動も 槙村にはとても理解出来るものではなかったが、
そうかと言って 突き飛ばして逃げる訳にもいかず、
なんだか 連行されてる気分だな…と思いながらも 若者に尋ねる。

「君は…どうしてこんな事をするんだ?
私を知っている訳でもないのに。 それとも、何か理由でもあるのか」
すると若者は、槙村を見上げるようにして、

「別に、理由なんてないよ。  ただ お兄さんが濡れて寒そうだったから」
いともあっさりとした口調で言った。
寒さなんて感じていなかった。あの弟の肌の冷たさに比べたら、
寒さも 暑さも、そんな事は どうでもいいような気がしていたのに…。
そんな槙村を、若者は寒そうだったと言う。

「…寒そう…か」  槙村が、ぽつりと呟くように言うと、

「俺は 北国生まれだから、寒いのは平気なんだ。 けど…こっちの寒さは好きじゃない。
体温を根こそぎ奪われるみたいで、身体の芯から寒いって思っちゃう。
でも…こうしていると暖かい…。 お兄さんの腕は温かい。」
そう言って若者は、槇村の腕を抱くように 絡めた腕にぎゅっと力を入れた。

傘をさしているとはいえ 男が二人で腕を組んで歩く様は、
どう見ても異様だと思うが 若者は気にする様子も見せなかった。

もしかしたら…なのか? いや、仮にそうだとしても 余りにも堂々?としている。
それに 道行く周りの人達も、さして気に留める様子もなく、振り返る素振りも見せない。 
本当に誰も気付いていないのか? 槙村は そんな事を考えながら ふと・・気付いて尋ねた。

「君は、何処まで行くんだ? 私の帰る方向と違うのではないのか?」
すると若者は、またも槙村を見上げるように、顔を上げると、

「お兄さんは電車? それとも歩き?」  と聞いた。
「私は 電車で帰るのだが…君は?」

「俺は これからバイト。 でも、まだ時間があるからさ、駅まで送ってあげるよ。
なんなら 傘も貸してあげようか?」
若者のその言葉には、流石に槙村も呆れてしまい 思わず笑みを浮かべて、

「私に傘を貸したら 君はどうするのだ?
君の嫌いな びしょびしょの雪で 今度は君が濡れてしまうだろう?」
そう言うと、若者はやっとその事に気づいた、というような顔で、

「あっ! そうか。 でも 貸した傘は返してもらえるでしょう?
そしたら その時 またお兄さんと会える。 そっちのほうが嬉しいかな」
と、言って、にっこり笑った。

「……」  若者のその言葉に、何と答えて良いか判らず、槙村が無言でいると、
「あれ? なんか変な事言っちゃった?」  若者は、槙村に問い返す。

「君は…男をナンパしているのか?」
槙村は、さっきから少しだけ心にひっかかっていた事を、言葉にした。

「えっ?」  
若者は、少しだけ驚いたような顔をし…それから、くっくっと笑い出すと、 
「もし、そうだとしたら ナンパされてくれるの?」  と言った。 
それには槙村も、自分で問いながら一瞬言葉に詰まり。

「えっ?」  
ぎょっとしたように、一瞬体を引く…と、そんな槙村の反応が よほど可笑しかったのか、
若者は、本当に可笑しいとばかりに 身体全体で笑い。
それが組んだ腕を通して、槙村に伝わってくる。

改めてよく見ると 若者は思った以上に可愛い顔をしていた。
後ろで束ねている少し長い髪が、今時の若者には珍しい黒髪のままで、
それが鳥の飾り羽のように、弾けてふわふわと揺れている。

北国生まれだと言ったが それを証明するようなきめ細かな白い頬と、切れ長の黒い瞳が、
降る雪と重なり雪女を思わせた。 雪女など見た事もないし、いるとも思ってはいないが、 
もし いるとしたなら、この子のような女性かもしれない…等と思っていると。

「冗談だよ。 嫌だな 本気にした?」
その言葉にホッとする自分と、なんだ…と思う自分がいて、更に それに戸惑う自分がいた。 
そして、駅はもう目の前に迫っていた。

「傘を借りるか否かはともかく おかげで助かったよ。
お礼にはならないだろうが もし君さえよければ、お茶ぐらいは御馳走させてもらうよ。
君が大人なら お酒でも一杯という処なのだが、未成年者相手に、
呑みに誘う訳にも いかないだろうからね」

思ってもいなかったのに…なぜこんな事をいってしまったのか。
言葉が 勝手に口をついて出てしまい、槙村は 自分の発した言葉に驚いた。
すると、若者もちょっと驚いたように、槙村の顔を見つめ、

「それって…俺を、ナンパしてるの?」  そう言って、今度は嬉しそうに笑った。


のぶ…ただいま…。
部屋の明かりを点け、ボードの上で笑っている写真に声をかける。
古い小さな家…両親が残したたった一つのもの。

其処に弟とふたり 泣いたり笑ったりしながら肩を寄せあって暮してきた。
ふたりでいたから泣けた。 そして笑えた。 でも 独りでは…泣く事も 笑う事もできなくなった。
なのに…写真の中の弟は、いつも笑っている。 
そして槙村は その笑顔に向かって、毎日語りかける。

のぶ…今日、変な奴にあったよ。
お前と同じぐらいの年だろうと思うけど…本当に変な奴だった。

いきなり、傘差し掛けて来たんだぞ。 そのうえ腕まで組まれた。
男だぞ、変だろう? ホント変だよな…。

それなのに…今度その子に、食事を御馳走する事になったんだ。
傘のお礼に…だってさ。

ごめんな、のぶ。
お前が居ないのに…俺は今日 少しだけ笑ってしまった。
本当に…ごめんな。


待ち合わせの時間に少し遅れてしまい 槙村は、急いで階段を駆け下りる。
今日は 先日傘にいれてもらった若者に、 食事を御馳走する約束をしていた。

改札を抜け 駆け足で目当ての場所に行くと、若者はすでに待っていて、
少し不安げな顔で辺りを見回していたが、槙村の姿を捉えると、 大きく両手を振って嬉しそうに笑った。
おいおい…そんな事をされたら、こっちが恥かしくなるだろう。
槙村は苦笑しながら、自分でも気づかぬままに、若者に小さく片手を上げた。

「遅くなってすまない。 待たせてしまったかな?」
若者の側まで行くと、そう言って また顔の前で手を上げる。 すると若者は、槙村を見上げるようにして、
「ううん・・俺も、今さっき来たとこ」  
そう言ってにっこりと笑ったが、若者の芯から寒そうな顔と、 色をなくした唇をみれば、
その言葉が嘘だというのは、すぐに判った。 ふと…いじらしい…そんな感情が湧きあがり、

「そうか・・。 待たせたかと思い心配だったが…よかった」 
槙村はそう言いながら、自分の首に巻いてあったマフラーを外し、そのマフラーを若者の首に巻く。
すると若者は、一瞬驚いたような顔で 槙村を見つめ…それから ふわ〜と微笑むと、
頬をマフラーにすり寄せるようにして、
「暖かい…」  と言った。


美味しい…と言って、嬉しそうに食べる若者を目の前に、槙村は自分の皿を、彼の前に差しだすと、
「良かったら これも食べるか?」 と聞いた。 すると若者は、
「えっ! いいの? でも お兄さんの分…」  パッと顔を綻ばせ、それから少しだけ心配そうに言う。 
その表情が、なぜか可愛らしく見えて、槙村の顔にも笑みが浮かぶ。

「私は 昼が遅かったからね…あまり、腹も空いてないんだ」
「そうなの? じゃ、俺・・もらっていい?」

「あぁ、今日は 君が主役だからね。
他にも食べたい物があったら、遠慮せず 好きに注文しなさい」
槙村が言うと…若者は、今度は本当に嬉しそうに、

「ほんと? 俺、すっごく嬉しい」   そう言って、メニューに手を伸ばした。
若者の笑顔は 久方ぶりに槙村の心に、人の温もりを思い出させる。
生き生きとした表情は 時折目に痛いほど輝いて見え、
笑顔にも いろんな心が宿っている事を 思い出させてくれた。  かつて 弟がしてくれたように…。

そうか…。 君の笑顔は、弟の笑顔を思い出させるんだ。
そう思いながら、若者を見つめる自分の顔が綻んでいる事に、槙村は、自分では気づいてもいなかった。

本当に…若者は 身体の割にはよく食べた。 
見た目には、華奢で細く見えたが、もしかすると槙村よりも、食は良いのかも知れない。
そんなふうに思いながら 若者を見つめる槙村の心が、少しだけ温かいもので満たされる。

デザートにと ケーキとアイスクリームまでたいらげて、 若者は満足そうな顔で、
「ごちそうさま すっごく美味しかった」  と言って、この上ない笑顔をみせたが。
「満足したか?」  槙村が聞くと
「うん、大満足。 でも お兄さんあまり食べなかったよね。
もしかして、俺が食いすぎたから?」  少しだけ心配そうな顔をして 槙村を見つめる。
それが、槙村の食欲を心配するというより、別の事を心配している。
そんなふうに見えて、槙村は思わず小さな笑みを浮かべた。

「なんだ? 私が、会計の心配していると思ったのか?」
「う・・うん…。 そう言う訳じゃないけど」

「バカだな・・そんな事を心配するくらいなら、食事に誘ったりはしないよ」
「そ・・そう? よかった。 俺、一寸食いすぎたかな、と思って心配した」

「そんな事はないさ。 若いのだから、食べられて当たり前だ。
見ている私の方が 気持ちいいと思ったくらいだよ」
槙村が言うと、若者の顔に安心したような笑みが浮かんだ。

「俺、みんなに 痩せの大食いだって 言われているからさ」  
「そうかも知れないな。 普通それだけ食べたら、太るだろうからな」

「だよね…俺って、超不経済な奴かも」
若者は屈託のない笑顔で、槙村を見つめ…話す。
久し振りに、穏やかな時間が流れ…気持ちが和らぎ…胸の辺りが暖かく…。
だがそれも もうおしまい これで礼は済んだから。

そういえば…名前…聞いていなかったな。
でも、いいか… 名前を知ったからと言って もう呼ぶ事もないのだから。
そんな槙村の思いと裏腹に 若者は唐突に言う。

「お兄さんさ。 名前…何ていうの?」
「えっ!」  
一瞬…槙村は、自分の心を見透かされたような気がした。

「だから、名前。 だって、お兄さんじゃ、しょうがないでしょう」
「まきむら…まきむら さとる」
槙村は戸惑いながらも、問われるまま自分の名前を告げた。

「へぇ〜 まきむら さとる…か。 さとるさんって呼んで良い?」
「…・でも…もう・・」   会う事もないだろう…その、続く言葉を発する前に、若者が、

「俺の事は 結唯(ゆい)って呼んで良いから。 で、次いつにする?」
矢継ぎ早の、若者の問い掛けに、槙村はその意味を図りかねて問う。 

「次って?」  
「嫌だな・・。 次に会うのは、いつにするって聞いているの」

若者のその言葉に…槙村は、
自分と若者との出会いが、自分の思惑とは違う方向に向かっているのを感じた。

どうしてこんな事になってしまったのだろう。
産まれて始めて、男を抱いた。 いや…抱いたと言うより、
抱かされた…と言った方が、あっているかも知れない

あの日…結唯と名乗った若者は 今日の食事の礼をすると言った。
槙村にとってそれは 少なからず嫌な事ではなかったので、軽い気持ちで次の約束をしてしまった。

別に 本気で礼など望んでいたわけではなかった。
ただ 若者と一緒にいる時間が穏やかで、温かかったから、
どこかで その日を心待ちにしている自分がいた。
ただ、それだけだったのに…若者は礼だと言って、自分の身体を差し出した。

訳が分からないまま ホテルに誘われ。 呆気に取られている槙村を他所に、
若者は妙に、もの慣れた様子で自分が先にシャワーを使うと 槙村を浴室に追い立てた。

後は どうだったか…あまり良く覚えていない。
あっという間に 裸に剥かれたと思ったら、上に乗られてしまった。 
本当にそんな感じだった。 それでも快感はあったし、射精もした。 
一体どういう事なのだ? これは。 はっきり言って やられた…と言う気がしないでもなく、
そして 終った後に若者は言った。

「お兄さん、今日はお礼だから無償。 でも次からはお金もらうよ」
唖然としながらも、あぁ、やはり…と思っている自分と、それでも、信じられないと抗う自分がいて、
喉をわって出た声が、妙に乾いて聞こえた。

「君は…こんな事を、誰にでもするのか?」
「うん これが俺のバイトだから…」 
事もなげに答える若者と 雪の日の傘が重なった。

「そうか…それじゃ最初の日も、そのつもりで声をかけて来たのか」
「う〜ん それは…俺にも判んない」
若者は、その時だけは本当に解らないというような顔で、ちょっと小首を傾げた。

「まぁ・・良い。 これで、もう二度と君に会う事もないだろうから。
私は、君が思っているほど良い客にはならなかったようだ」
若者に向けて放ったつもりの声が、なぜか自分に向けた 嘲笑のように聞こえた。

槙村にとって若者は 弟の存在が抜け落ちた穴を 少しだけ埋めてくれそうな気がした。
期待していた訳でもなければ 望んでいた訳でもない。
それでも…少しだけ、裏切られた思いがしたのは、なぜ…。

「お兄さんが そんな人じゃない事は解っていた。 
けど…俺に出来るお礼は、これしかないからさ。 いいよ、軽蔑したって」
若者は、ひどくあっさりと言いながら、その声には、少しばかりの悲しみに似た色があった。

「軽蔑なんてしないさ…私にはそんな資格も、権利もないからね。
ただ 今日のお礼とやらは、出来ればしてもらいたくなかった。 それだけだよ。 
でも ありがとう…。 君と一緒に過ごした時間は、私には、とても楽しい時間だった」
槙村は そう言うと身支度を整え、あとは若者に声を掛ける事もなく、一人で部屋を出て行った。


のぶ…今日始めて、男とセックスをした。
思ったより嫌悪感とかは、なかったような気がするよ。

お前が生きていたら…こんな俺を 軽蔑するのだろうな。
あの子は…樋口 結唯、と言う名前だけど、あんな事をしなければ二度と会う事もない。

あの子と会う為には、お金を出して あの子を買う事になるんだ。
だから…もう、会う事もない。

罰が当たったのかも知れないな。 ほんの少しの間でも、お前を忘れた罰が。
のぶ…ごめんな。 もう ひと時も、お前を忘れたりしないよ。

今年の冬は暖冬だと言いながら 二月に入ってから よく雪が降る。
ちらちらと舞う雪は 見上げる者を空へと 誘うように落ちてくる。
このまま、あの真っ暗な空まで行けたら 弟に会えるのかも知れない。
また、一緒に暮せるのかも知れない・・そんな気がして、槙村は空を見上げる。


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