ひとひらの雪−3


もう直ぐ終業時間…。 槙村は、無意識に携帯を取り出しては開き…それから閉じる。
あの日結唯は、二度と連絡をしない…と言った。 もう、終わりだと。
そして…その言葉どおり、あれから一度も結唯からメールが来る事はなかった。
なぜ、結唯が突然そんな事を言ったのか…槙村には、その理由も解らず、
ただ、最後に見た結唯の顔が、槙村を睨みつけた涙に潤んだ目が、脳裏に焼きついて離れなかった。


「課長・・どうなさったのですか。 お顔の色が優れませんが」
ボンヤリと外を眺めていると、部下の女子職員が 書類を手に立っていた。
「あ、あぁ・・すまない。 少し考え事をしていた」
そう言うと、槙村は窓に向けていた身体を 椅子ごと回転させ、彼女が差し出す書類を受け取る。
そして、それにちらりと目を通すと、印を押す為に机の引き出しに手をかけた。
その時…彼女が、

「課長にそんな顔をさせる方は どんな方なのでしょうね」  何気ない世間話でもするように言った。
槙村は、一瞬、彼女が何を言っているのか理解出来ず、彼女に顔を向けると…
「えっ? なにを言って…」  問いかけた。 すると彼女は、視線を少し上に向け。
「そうですね…。 仲直りの秘訣は 素直になる事が一番の早道ですよ。 
自分がどれ程愛しているか、自分にとってどれ程大切な人か。 
そう考えてみれば、謝るのに躊躇いはないと思いますね。
失って後悔するより、謝ったほうが幸せになれる近道…と、いう事もありますよ」  
そう言うと、槙村を見てにっこりと笑った。
なぜ彼女がそんな事を言うのか…それより、なぜ自分の心が解るのか不思議に思った。

「斉藤さん…」  どうして…と、槙村が続ける前に またも彼女は、
「あら…余計なお節介をしてしまいました。老婆心と思って、聞き流して下さい」  
そう言って、今度は少しだけ頭を下げる仕草をした。
だが今の槙村にとって、彼女の言った言葉は、溺れる者が目にした藁にもにて、
槙村は、思わずそれに手を伸ばすように、
「それじゃ…そのお節介ついでに、もう少し教えて欲しいですね。
課長の権限で、お茶でも一緒にどうですか」  印を押した書類を、差しだしながら言うと、

「そうですか…。 
若い男性にお茶に誘われるのは、その方が上司でも嬉しいものですね。 喜んでお供いたします」
彼女は、書類をファイルに挟みながら、屈託ない笑顔を見せて頷いた。

槙村より年上で、ベテラン職員の彼女には 確か二人の子供がいた。
その彼女が、子供を産んでも仕事を辞めないために、夫の母親と同居する事を選んだという。
彼女曰く 義母が子供を見てくれますから…。 家に 託児所があると思えば、安心して働けます。

なんとも合理的というか、楽観的というか、感心してしまう。
それでも合理性だけで、姑との同居が 上手く行くはずはない。
多分そこには、もっと肌理細やかな心配りや、彼女の言った大切なものがあるのだろう。

槙村は、自分がなぜ彼女をお茶に誘ったのか、はっきりとした理由は分からなかった。
何かを聞きたいと思ったのか…それとも話したいと思ったのか。
考えてみれば 自分はいつも何か肝心な事が、わからないような気がした。

弟の心…結唯の心…そして、自分の心。


手にしたカップの表面には、綺麗に描かれた一枚の木の葉。
水面を漂うように、ゆっくりと微かに揺れながら 広がり溶けていく。
それを一口啜ると、木の葉は形も留めず崩れ去った。

目の前には、フルーツが山盛りに載ったケーキを、美味しそうに食べる彼女の姿。
その顔が、一度だけ一緒に食事をした結唯の顔と重なり、
それを振り切るように、槙村はもう一度コーヒーを啜った。

「斉藤さんが さっき言った言葉は どういう意味なのか、
私には よく解らなかったのですが、教えてもらえますか?」
槙村は、ケーキを食べ終え ティーカップを手にした彼女に聞く。
彼女は槙村を見つめ、それからカップを テーブルに戻すと穏かな笑みを浮かべた。

「そのままですよ。 三月ほど前から、課長の表情がとても柔らかくなられました。 
時々 とても嬉しそうなお顔をされ、含み笑いなどされたりして。
あぁ、何方か良い方がいるのだな…と、思っておりました。

でも、ここ数日前から…失礼ですが、以前の課長に戻ってしまわれたようなので、
喧嘩でもされたのかと思いまして…余計な事ですが、つい差し出口をしてしまいました」
彼女の言葉に、槙村は 自分では気付かなかった 自分の姿を見たような気がした。

「私が嬉しそうに…そんなふうに見えていたのですか。
私は 嬉しかったのか…。 そんな事すら、自分では気付きもしなかった。
斉藤さん 私は自分の気持ちにも、大事な人の気持ちにも、気付く事の出来ない、
どうしようもない人間なのです。 考えても…考える事を拒む自分がいて、本当に解らないのです」

「それは…課長が、ご自分の心に正直ではないから…ではありませんか。
何かに目を瞑り ご自分の心を見ないようにしている。 だから 大切な人の心も見えない。
目を覆っていたら 何も見えないと思いますよ。 
かりに、見たくないものだったとしても、目を開き、真っ直ぐに見る事で、真実が見える事もあります。

私には 課長が何を拒み 何を見るまいとしているのかは、解りませんが、
それは 案外それほどには 嫌なものではないかも、知れませんよ。
課長はお優しい方ですから。 その分、臆病になっておられるのかも知れませんね。
大丈夫ですよ。 目を開いて 御自分の心に正直に…それを見つめれば、
きっと もっと幸せに…もっと素敵な課長になられると思います。 私は、そう信じていますよ」
彼女はそう言って 自信ありげに頷いてみせた。


自分に正直に…のぶ、お前は正直だったのか?  俺は…何に、目を瞑ろうとしていたのだ?
お前が可愛くて、何処へもやりたくなくて。 一生俺の側において お前だけを、守って行きたくて。
この腕の中に 閉じ込めてしまいたかった。 お前だけが俺の全てだった。 
可愛くて…愛しくて…。 俺は…愛していたのか…弟のお前を…。

『 兄さん…今度産まれてくる時は 赤の他人に』

あの言葉は…・。 お前は気付いていたのか。 俺の想いに…俺の臆病な心に。
弟に向けてはならないものだと、無意識に封じて、否定する俺の心に…お前は、気付いていたのか。
槙村の問いかけに 写真の弟は変わらぬ笑顔で…

「なんだ…やっと、気が付いたの? 僕も 兄さんが好きだった。 愛していたんだ。
でも、それは…兄弟で持ってはいけない感情で、兄さんを苦しめる。
ずっと僕の為に いろんなものを捨ててきた兄さんに、全てを捨てて欲しいと言えなかった。 
だから僕は 消える事にしたんだ。
それでも やっぱり、兄さんを苦しめてしまった…ごめんね、兄さん。

僕達は兄弟で 恋人同士のように愛し合う事は出来なかったけど、
僕は、兄さんの愛情をたくさんもらったから。 もう、これ以上持ち切れないから。
あとは、兄さんの大切な人にあげて。 僕の代わりなんかではない…本当に大切な人。
兄さんを 本当に愛してくれるその人に…愛しているよって…伝えてあげて」  
愛していたのは…弟  愛しているのは…結唯  そう言っている様に見えた。



バイトはやめた…と、言っても男を相手にするバイトの方。
もう 好きでもない男と、セックスなんて出来ない…それが、よく解ったから。
その代わり 昼のバイトの他に、夜も警備の仕事をすることにした。

結構きついし、今までの倍近く働いても収入は少く…どうにか、生活するのがやっとで、
それでも、今の方が良い…結唯はそう思った。 
もうすぐ夏がくる。 外で工事現場の交通整理をしていても、寒さに震えることもない。
それなのに…結唯の心だけは冬のままだった。 槙村からは、あの後何度か、
『会ってくれないか…』  そんなメールがきたが、結唯はその度に、震える指でそれを削除した。

会ったら もう離れられなくなる。 
弟の代わりでも、誰の代わりでも良い…あの人の側にいたい…そう望んでしまうから。
あの人は、多分駄目とは言わないだろう。 でもそれは…俺が俺ではなくなる事。
俺は 樋口結唯として、あの人を愛したい…そして、樋口結唯として あの人に愛されたい。
だから…会えない。 それは…頑なまでに悲しい、結唯の決意だった。

「お前、最近 会わないと思ったら…こんな所で何してんの? もう、あっちのバイトは止めたのか?」
声に振り向くと、例のバイトを教えてくれた友人が、結唯を上から下まで眺めるようにして立っていた。

「あぁ、お前か…。 うん、なんかしんどくなって…今はもっぱら、肉体労働中だ。
あっ! そうか…考えてみると、前も肉体労働だったよな」
結唯は、そんな事を言いながら、笑ってみせる。
すると、友人は一瞬間を置いてから、結唯にあわせるように笑った。

「確かに…そう言われればそうだ。 あれも、身体使うもんな。
あ! そう言えば、お前の客で 男前の、若いエリートみたいな奴がいたろう?
あいつが、お前を探しているところを、何度か見たぞ」
友人からの思いがけない情報に、結唯の心臓がドキンと鳴った。 そして、気持ちとは裏腹に、
少しでもあの人の事を…そんな思いで、
「えっ? 何処で?」  それに飛びつく自分がいる。

「何処って…たまたま道で、あの人に声を掛けられたんだよ。
以前、お前と一緒にいる時に、何度か会っただろう? だから、俺の事も覚えていたみたいでさ。
お前が よく居る場所とかを聞かれたんだ。 
俺、お前が逃げているなんて、ちっとも知らなかったからさ。 あの人に、お前の居そうな所教えちまった。
そしたらあの人、その辺りでも、お前の事を いろいろ聞き回っていたらしいぞ。

なぁ、なんか面倒な事でもあったのか? もしかしたら、あいつが原因で、バイトやめたのか?
もしそうなら…俺、ちょっと 知っている人とかいるからさ、 話をつけてやろうか。 
まぁ 慰謝料の幾らかは もらえるようにしてやるよ。 そうすりゃ、こんなバイト しなくていいだろう?」
友人の言葉に、結唯は思わず大きな声をあげた。

「止めろよ! そんな事! もし、あの人になんかしたら、絶対許さないからな!」
すると、友人は驚いたように結唯の顔を見つめ…それからニッと笑った。 そして、

「そっか…お前、あいつに惚れたんだ。 
あいつの事、本気で好きになったから、他の男と出来なくなったんだ。 
なんだ、そういう事かよ。 だったら…どうして、逃げているんだよ」  と言った。

「良いんだ…これで。 でも、あの人には 俺と会ったってこと…言わないでくれよ。 。
そうじゃないと、俺、この街にいられなくなる。 もっと遠くに 行かなくちゃならなくなる」
結唯が言うと…友人は、結唯の肩に手を載せただけで、それ以上何も言わなかった。
そして…少しだけ悲しそうな目で結唯を見つめ、背中を向けた。

後一年…ただ働いて、ただ大学に通って…疲れて帰っては、泥のように眠り。
何とか卒業した後は田舎に帰って、子供達相手に先生でもしながら 暮していけばいい。

これ以上、誰かを好きになる事は二度とないだろう。 ましてや、結婚なんて事も、考えられなかった。
年老いた母親と二人、肩を寄せ合って ひっそりと生きていく自分の姿。 
いくら考えても、結唯にはそんな未来しか見えてこなかった。

オーライ、オーライ…トラックを誘導しながら…霞む視界を 手の甲で拭った。


何度メールをしても返事がなかった。 
友人らしき若者から、結唯の居そうな場所を聞き出し、その辺りも探し回った…が、
最近は、結唯の姿を見てない…と、答えは誰も同じだった。

もうこの街には居ないと言うのだろうか。
私はまた 大切なものを失ってしまうのだろうか。
そんな思いに捕われ…当てもなく、夜の街をさまよう。

振りだした雨が 頭から肩を濡らし、着ている物が肌に張り付き…。 
こうしていると、今にも結唯が 傘を差しかけてくれそうな気がした。 その時…

「兄さん…濡れてるぞ…」  かけられた声に、
「!!結唯?」  振り向いた先に、何度か見掛けた若者の顔があった。

「違うよ…。 兄さんは、まだあいつを探しているんだ」
若者は 何ともいいようのない顔で、槙村を見つめそう言った。
「みっともないだろう…。 多分、私のしている事は、君達から見たら笑える事なのだろうな」
そう言って笑ったつもりなのに、上手く笑えず…濡れた髪が額に張り付き、眼鏡が曇る。

「別に、笑いはしないけど…。 けど、兄さんは…あいつを探して どうしようって言うの? 
あいつと兄さんの間に、何があったのか知らないけど。 あいつが消えちまったのには、
それなりの訳があると思うよ。 だから、もう そっとしとおいて やってよ」
若者の言葉は、なぜか悲しみの色をふくんでいるように聞こえた。

「私は…結唯をどうにかしようとは、思っていない。 ただ ひとことだけ、結唯に言いたかった。

結唯は…のぶ、の…弟の代わりなんかじゃないって。 
私は客なんかではない。 結唯を、金で買ったのではない…と。
結唯といると本当に楽しかったから…だから一緒に居たかったのだと」

それは、槙村がやっと気付いた、自分の本当の心だった。 
結唯と一緒の時間は、穏やかに満ち足りた時間で、結唯が可愛いと思ったのも、
触れていたいと思ったのも、全て紛れも無い真実。 決して、弟と重ねていた訳ではなかった。

ただ…その想いが、結唯に対する愛情だと自覚できなかっただけで。 
だが今は はっきりと判る。 自分は、結唯を愛しているのだと…。 
だから・・それを 結唯に伝えたかった。 たった一言 「愛しているよ…」 と
弟が死んだあの日から 泣く事も出来なかった槙村の目に、初めて涙が溢れた。


紫陽花に降る雨は 夜になって本降りになるという予報どおり、
灯点す頃から 空はぽつぽつと水滴を落としはじめた。
目の前で開く傘の花が数をます。 その隙間をぬって 見知った横顔が一瞬よぎって消えた。

結唯! 人の波を掻き分け 傘にぶつかりながら後を追う。
傘の数は益々に増え 人の足並みは速くなり…。雨の矢は地上に降り注ぐ。
そして…結唯の姿は 波に呑まれたように、視界から消えてしまった。

立ち止まって見回すと…傘の波間に漂う自分が居た。
足もとには 水しぶきを立てて足早に行く人の靴…靴…靴。
降る雨が 心まで濡らす事を知った。

「お兄さん、濡れてるよ…傘に入れてあげようか・・」

聞きなれた声と 自分より少し低い位置から差しかけられた傘。
槙村は、振り向きざま その声ごと 傘ごと 愛しい人を力一杯抱きしめた。
傘に隠れ 抱き合ったまま立ち尽くす二人に、雨は強さを増し。 傘を叩く雨の音が、

兄さん・・やっと捕まえたね。 もう離しちゃ駄目だよ…弟の声に聞こえた。

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