03 罰にも勝る君の笑顔に

   −涙と笑顔−

「保坂先生! どうされたのですか? その顔…」  朝から何度目かの同じ質問と答えに 保坂は、
「はぁ、ちょっと転んでしまいまして…。 年でしょうかね、ハハハハ…」
ひきつったような笑い顔で答えながら、思わず はぁ〜と溜息をもらした。
朝 鏡を見て…初めて、心底職場に行きたくない…と思った。
たまに生徒が、目の周りや口元に 痣をつくって登校してくるのを見る事もあったが、
そんなものの比ではない自分の顔が、目の前にあった。

あぁ…人の顔じゃないな。 自分の顔ってどんなだっけ…そう思いたくなるほど酷い顔。
それでも 休むわけにはいかないと、思い直し出て来たものの…。
生徒や同輩たちの好奇の目は 保坂が想像していた以上だったのと。

「喧嘩は不味いですよ…保坂先生」  顔を合わせた途端 校長に言われ、
「先生 俺がしかえししてやるから。 誰? 相手」  生徒ににまでそんな事を言われ。
自分の言い訳が、全く意味の無い事だったと思い知らされた。

そのせいか、普段は 仕事を家に持ち帰ったりしないのだが、今日は早く帰りたいと思った。
疲れたな…残りは家で。 そう思い、保坂は少し早めに学校を出る。
何度かチェックした携帯は 着信もメールも履歴はなく…又一つ溜息がもれた。
コンビニで、あまり美味そうでもない弁当を買って帰ると 一人それを食べる。
ふと 二日前の三人で食べた食卓を思い出し…楽しかったな…保坂はぽつりと呟いた。

「晃ちゃん。 保坂のおっちゃんに、連絡したのか?」
真が、いつものように のたばって新聞に目を向けたまま聞いた。
「お前、その おっちゃんって言うのを止めろよ、保坂さんに失礼だぞ。
第一あの人、そんな年じゃないし…。 それに 先生だって言っていたぞ」
先生…その言葉によって、自分の中の不穏な気持ちを 押し隠す自分がいた。
すると、真が顔を上げて…意外そうな表情を浮かべ晃亮を見る。

「先生? 学校の先生って事?」
「多分…。 俺も、あまり詳しくは、聞かなかったけど、そんな感じだった」
「ふ〜ん 先生なのか。 それじゃ今度から、先生って言う事にするよ。 
で? 晃ちゃんは先生に連絡したのか? あれから」
にっこり笑いながらそう言った真に、晃亮は 幾分不機嫌そうな声で答える。

「してないよ。 別に、用もないし…」
「用ならあるじゃん。 晃ちゃんの背広を、弁償して貰うって理由がさ」

「そんなもの…クリーニングに出して綺麗になったし、元々そんなつもりなど無かった」
「……だったら晃ちゃん! その、辛気臭い顔やめろよな」

「辛気臭い? なんだよ、それ」
「気付かないの? 自分の憂鬱にさ。 先生の事、気になっているんだろう? 俺も何となく気になる。 
なんか、先生って頼りない感じで、ほっとけないじゃん。 今頃…一人で泣きながら、コンビニ弁当食ってるかもな」
真が、まるでわざと意地悪でもするように、そんな事を言い。
晃亮は、保坂が帰り際に見せた、泣きそうな笑顔を、思い出していた。

「…泣いてねぇよ。 一人で居たって、泣いたりしないよ…あの人は。 
俺がいないと泣かない。 俺だけなんだ あの人を泣かせられるのは…」
「晃ちゃん…」

「だから…もう会えない。 会えないん・」  
それは真にというより、自分に言い聞かせる言葉で…それなのに真は、
「そうかな…おれは違うと思うぞ。 泣かせる事が出来るんだったら、笑わせる事もできるだろう? 
いっぱい泣かせて、その何倍も笑わせて。 そんな事ができるなんてすごいよ。
先生…おっちゃんのくせに、結構可愛いしさ。

晃ちゃんだって 自分の不機嫌が、先生のせいだって解ってるんだろう?
背広の弁償なんてさ、そんなもん口実でいいだろう?
もう一度会って…自分の本当の気持ちを、確かめて見るのも良いと思うぞ」
そう言うと、今度はにっこりと笑った。 

いつだって…どうしてこうも痛い処を突いて来るのか、半分逃げている自分を見透かすように、
逃げる理由に、しっかりと正しい答えを突き付けてくる。
泣かせたら、その何倍も笑えるように…か。 敵わないな、お前には…。
そう思うと、晃亮の中で少しだけ何かが 吹っ切れたような気がした。

「そうか…そうだな。 また三人で…今度は鍋にでもするか」
「うん! 俺、シャブシャブ喰いてぇ!」

「しゃぶしゃぶもいいけど…俺は、蟹鍋がいいな」
そんな事を言いながら晃亮は、明日保坂に電話してみようと思った。


  ―繋がらない電話−

晃亮くん…どうして、連絡をくれないのだろう…。
いっぱい迷惑をかけたから…もう関わりたくないと、思っているのだろうか。
考えてみれば、あの子達は若いんだ。 私のような小父さんと話したり、食事をしたって,
ちっとも、楽しくなんて無いのも当たり前かも知れない。
なのに…馬鹿だな、ずっと連絡がくるのを待っているなんて。 そんなもの 来るはずないのに…。

「先生。 保坂先生。 目、まだ痛むんですか?」
同輩の声に、何を言っているのか判らなくて、保坂は不思議に思った。
「涙が出ていますよ…」  そう言われて、頬に手をやる…と。
あれ? なんで? 変だな…。

「あっ、昨夜あまり眠れなかったから…。 なんか…コンタクトが、痛くて…」
そう言うと、保坂は目をごしごしと擦った。
「ああ! 先生、そんなに擦ったら、瞳が傷付いちゃいますって。
あらら…うさぎさんの目みたいに 真っ赤になっていますよ。 
不自由でしょうけど、少しの間だけでも、コンタクトを外されてみたらどうですか?」
女性教諭はそう言って、ティッシュの箱を保坂に差し出した。 保坂は、そこから数枚抜き取ると

「ありがとうございます。 なんか…最近ボケてしまって。 本当、恥かしいですね」
そういいながら、濡れた頬をぬぐい、引き出しからケースを取り出した。
コンタクトを外すと 途端に視界は霧の中…その中で、

「保坂先生にしては、珍しいですね…少しドジっぽいと言うか、可愛いというか。
あっ!すみません。 でも、私は最近の保坂先生が好きですよ…」
英語を担当しているその女教師は、そう言ってにっこり笑った。

「はぁ〜 喜んでいいのかどうか…微妙なところですね…」
答えながら保坂は、自分がほんの二日ほどで自分は変わった…のだとしたら、
それは多分晃亮のせいなのでは…何となくそんな気がした。

なにより、人恋しい…誰も居ない部屋に帰るのが寂しい。
一人で食事をするのが寂しい…冷たい布団が嫌だ…。
言葉を交わす相手がいないのが寂しい。 寂しい…さみしい…さ・み・し・い…
晃亮くん…会いたいよ。 声が聞きたいよ。 暖かい手に…触れたい…よ。
そんな事ばかり、考えてしまう自分が信じられなかった。

それでも…そんな自分を振り切るように、保坂は精一杯の笑みを浮かべて言う。
「しょうがないですね…・今が正念場だと言うのに、教師が呆けているなんて。
これじゃ 頑張っている生徒達に申し訳ないですね」

「確かに…あと少しで、あの子達は此処から巣立って行ってしまうんですね。
いつもこの時期なると 忙しいのとは別に、何となく気持ちが緊張するのは、
子供たちとの別れが、目の前に迫っている…そんな思いがあるからなのでしょうね」
「そうですね。 でも、別れがあっても 直ぐに又 新しい出会いがある。
そう思って、頑張るしかないですね」
保坂がそう言うと、ぼやけた視界の中で、出会った若者の顔が頷いたような気がした。

真っ暗な部屋で、買ってきた弁当に手をつける気にもならず。
炬燵の上に、顔を載せて丸くなっていると、微かな電子音が聞こえた。
あぁ…電話が鳴ってる。 でも面倒だから…いいや。
保坂は、今までだったら考えられない無視を決め込む。
電話は それから何度か繰り返し鳴っていたが、一頻り鳴ると突然ぴたりと止んだ。
静かだな…こんなに静かだっけ。 嫌だな…こんなの…寂しいな…。

目を覚ますと 炬燵に凭れたまま眠っていたらしく、妙に身体中が痛くて。
そっか…また、あのまま寝てしまったんだ。 
最近ずっとそうだ…良くないとは判っていても、どうしても布団に入る気になれない。
あのひんやり感が嫌だ。 寂しくて…悲しくなる。

立ち上がると、辺りがぐらりと揺れた…あれ? 地震? 
そう思った途端 目の前が真っ暗になり脚から力がぬけて…
保坂は、へなへなと崩れ落ちるように、その場に倒れこんだ。

金曜の夜から、何度電話をしても、呼び出してはいるものの保坂は一向に出る気配がなく、
そのうちに、電源を切ったのか繋がらなくなってしまった。
始めは 何かあったのだろうか…と心配になった。 
それから……もしかしたら避けられている? そう思い、諦めた。

だが…なんだか腹がたってきて、迷惑なら迷惑だと はっきり言えばいいじゃないか。
それを弁償するだの、連絡をくれだのと調子のいい事ばかり言っていながらいざとなったら逃げるのか。
ムカつく。だから電話を鳴らし続けた。まる一日、何度も鳴らして。
これじゃ、ストーカーだな。そう思い、諦めかけた時。「だれ?」 小さな声で、相手が聞いた。
その声に晃亮は胸が一杯になり、鼻の奥に痛みを感じた。


  −会いたい心−

「俺…南 晃亮だけど…」
晃亮がそう言うと、電話の向こうで、保坂の息を飲む音さえ聞こえたような気がし。それから、
「み、南君? 晃亮君なの?」 小さく頼りない声が耳に届いた。
「そうですよ」
「こうすけ…くん…だ…」  そして一瞬で、声が涙色に染まる。
それが、たとえ悲しみの色ではなくても、保坂の涙は晃亮が流させるもの。それが嬉しくもあり辛くもあった。

「…なんだ…また、泣いてる?」
「泣いてないよ。 泣いてなんかいないけど…涙が…」
「勝手に出てくる?」
「会いたいな。 晃亮……会いたいよ」
「会いに来てよ、保坂さん。 それで一緒にご飯食べましょうよ。俺、駅まで迎えに行くから、今すぐ出てきて」
「行けないよ、歩けないんだ。 歩けないから、会いに行けない。会いたいのに……晃亮に会いたいのに。行けないよ」
もう…子供と同じ。べそべそと泣きながら、会いたいと、行けないを繰り返すだけで晃亮が何を聞いても、要領を得ない。
『全くな……』そう思いながら、
「保坂さん住所判るよね。そっちのアパートの住所、俺に教えて」
晃亮のその言葉に、保坂がグスグスしながらも自分のアパートの住所を答え。晃亮は、それをメモに書きとめると、
「保坂さん、俺が今すぐにそっちに行きますから。良いですね?」
「うゔゔ…判った」  保坂が答え終わるや否や、メモを手に外に飛び出した。

駅を挟んで、三角形の位置にある保坂のアパートは、直線にすれば意外と近い場所にあった。
歩けないって…どういう事なんだ? 怪我をしている様子も無いし、本人も解らないと言っていた。
大変な事になっていなければいいが…そう思うと心が焦る。
それにしても…晃亮…だって。 会いたい…か、なんか…参るよな。
あんなに、文句の一つでもと思っていたのに、保坂の声を聞いただけで、何もかも吹き飛んでしまった。
会いたい…と言って泣かれた事なんてないから。 あんなに求められた事がないから…。

しょうがないか…掴まったこっちが、立場弱いって…諦めるしかないか。
そんな事を思うのすら嬉しいような気がして、
晃介は笑みを浮かべ、保坂の待つアパートへ足を急がせた。

「どうして、こうなるんですか!」  
そう言って、自分を見つめる晃亮の顔が怖い。
「だって、布団は冷たいし、弁当は食べたくないし。晃亮君は連絡くれないし」
ぼそぼそと、小さな声で言い訳のように 言葉を連ねる保坂に、
「だからって、飯も喰わない、炬燵で雑魚寝…そんな事を続けていたら、
誰だって風邪をひきます、具合も悪くなります。
俺から連絡がなかったら、保坂さんが、すればいいじゃないですか。
晃亮!飯食わせろ。 寒いから、一緒に寝よう…って」

「そ! そんな事。 それに僕は…晃亮君の携帯の番号知らないし」
熱で少し上気した頬を、更に赤くして保坂が言う。
「何を言っているんですか? ちゃんと保坂さんの携帯に、入力してあげたじゃないですか。
どうしたんですか、あれは。 まさか、消去しちゃったんじゃないですよね」
「えっ? そうなの? 全然気が付かなかった。だって…晃亮君から、連絡がくるとばかり思っていたから…見てもいなかった。
もう、嫌われたのかと思ったら、胸が一杯になって…ご飯も食べたくなくて」
保坂は、その時の心境を思い出したのか、最後の方は消え入るような涙声で言った。

お、おい! 嫌われたって。 まだ、好きともなんとも言ってないのに。
心の中で言いながら、なぜか嬉しさで 顔が緩みそうになる。 
晃亮は、それを隠すように、態と真剣そうな顔を作ると、
「保坂さん…俺は毎日でも、保坂さんと一緒に、ご飯を食べたいですよ。 貴方といろんな話がしたい。 
でも保坂さんは、本当は迷惑じゃないのかなって…電話するのを躊躇っていたんです。
まさか、保坂さんが こんな事になっているなんて、思ってもいなかった。
でも貴方が迷惑でないのなら、これからは毎日電話します。 それでも構いませんか」晃亮が言うと、
「本当に? うん、していいよ。 毎日していいから」 保坂はそう言って、今度は本当に嬉しそうに笑顔を見せた。

薄黄色になった顔の痣は、まだ少しだけ残っているものの、腫れの引いた保坂の顔は、あの時とは、まるで別人のように見えた。
特に大きいという訳ではないが綺麗な二重の目が、熱のせいで潤んだ瞳に晃亮を映してゆらゆらと揺れていた。
薄く紅を差したような唇が、やけに誘うように目に刺さり。
晃亮は自分の中に芽生えそうなものを、大きな息と共に吐き出すと心の中で呟いた。

何をして良いって? 毎日して良いって? ほんとにやっちゃうよ……穂




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