ひざまくら (2) 再会



土色の街…地面も建物も赤茶色の土色で覆われ、空気すらその色に染まっているような気がした。
その中で、救助隊の人間が目の前の瓦礫の山に挑んでいる。
この下に石津がいると言うのか…俺を見つめたあの双の目が、二度と開くことなく此処に埋もれていると。
ほほを伝う雫が、悲しみのせいなのか、舞い上がる土埃のせいなの判らなかった。

石津は大学三年の時、日本を出て中国に渡り、そこで三年間学ぶと日本には帰る事もなく。
そのまま中東でボランティア活動に参加していた。そしてなぜか…その後一度も日本には帰っていない。
家族には、自分は此処で骨になる…そう言っていたと言う。
まるで家族や祖国を捨てたように…。なぜ、其処まで帰るのを拒んだのか。
息子の心が解らない…石津の母親はそう言って悲嘆の涙を流した。

石津、お前が何を思いこの地に留まる事を選んだのか、俺には判らないが…お前は満足なのか?
この瓦礫の下に埋もれて、それで満足なのか。
俺は…悔しい。お前に会えない事が。お前に、俺の想いを伝えることが出来ないのが…悔しい。

救出は千路として進まず…俺はシャッターを切り続ける。
作業のほとんどである人の手で瓦礫を取り除く様子を。茫然自失で壊れた我が家を見つめる瞳を。
泣き崩れる人々の背中を…瓦礫の欠片を必死で取り除く小さな手を。
それら全てを、膨大な量のフイルムの中の一コマにして、ただひたすらシャッターを切る。

多分そのうち、俺のレンズに石津の姿も映るのだろう。
それでも俺は石津の最後の姿をこの目に…フイルムに焼き付けなくては。その為に俺は、此処に来たのだから。
雨でもないのにレンズが曇り…俺はそれを汗と埃で汚れた腕で拭いながら、ファインダーを見つめ続け。
その曇りぼやけた視界の中に、浅黒く日焼けした肌と黒髪の、東洋人らしき一人の男の姿を捉えた。

少しはなれた場所に設えたテントの中で動くその男は、ファインダー越しにもはっきりと判る、
伸びた無精ひげとくすんだ肌をしていて、男が何日も眠っていないことを覗わせた。
それでもその目の奥にある、強く輝くような光は男の意思そのもののようで、
いつか俺の頭からは、瓦礫の山も救助する人達の事も消え去り。
ファインダーの中の男とシャッターの連続音だけになって…俺は、ただひたすら男の横顔を撮り続けた。

厳しい表情で時折怒鳴りながらも、傷ついた人を見るその目は本当に優しい。
あぁ、あの目は…あの頃俺に向けられた目と同じ目だ。あの頃より遥かに逞しくなって、男くさくなって…
でも、その目の優しい光は少しも変わっていない。
そんな事を考えている自分に気づき、思わず苦笑しかけてそれが途中で止まった。

まさか…石津? だって石津は、瓦礫の下のはず。
俺は初めてファインダーから目を離し、瓦礫の山に向けると 其処にいるであろう親友を思った。
だが、一度芽生えた期待感を簡単に消し去る事は出来ず、もう一度ファインダーを覗き込む。
するとそこに男の姿はなく、どんなに覗き込んでも男のいた場所には、
男に代わって初老の女性が一人いるだけだった。

もしかしたら、会いたいと願う切なる心が見せた、つかの間の幻影だったのか。
期待が更なる絶望に変わった一瞬。
「Quem e voce?!!」 突然頭の上から降り注ぐ声に顔を上げると、
いた! 男が腕組みをしたまま、不機嫌そうな表情で俺を見下ろしていた。
そしてその側には、小学生ぐらいのひょろりと痩せた少年。その少年が、俺に向かって現地の言葉で何か言っている。

俺には、少年が何を言っているのかさっぱり解りもしなかったが、どうせ、何をしているのか…そんな類の事だろう。
勝手にそう思いながら…なぜかその時俺は、男を下から見上げながら。
以前こんなふうに下から見上げた石津の顔と、今俺を見下ろしている男の顔を重ねていた。
そして、男が少年の耳元で何か囁く。すると少年が再び、今度はさっきより大きな声で言った。
「O que faz voce aqui?!!」

【だから、何を言ってるのか解らないんだって! 通じない通訳させてんじゃねぇよ!!】
心の中でぼやきながら、俺は少年の早口で喋る妙に甲高い声にイラつき、男に向かって少し乱暴に叫んだ。
「あんた日本人だろう! 日本語喋れんだろう。自分で話せよ!!」
すると男は、またも少年に何か囁き…すると少年は、にっこり笑うと
「解った…じゃまたね、バイバイ」
なんと! 達者な日本語でそう言うと、駆け去って行った。

なんじゃあれ…日本語喋れるじゃないか…って事は…こいつが態と。
そう思った途端、俺は完全に頭に血が上ってしまい、勢いよく立ち上がると、

「あんた、どういうつもりだよ、わざと現地語で喋らせたんだろう!」
男の襟首を掴み、よほどぶっ飛ばしてやろうと思ったが、考えてみると俺のもう片方の手にはカメラがある。
それを放り出す事も出来ない俺は、仕方が無いから殴るのを諦め。
その代り、間近に見る男の顔を精一杯睨み付けると、掴んでいたシャツごと男を突き放してやった。

「何なんだよ、訳わかんねぇ事しやがってよ。そんなに写真を撮っていたのが、気に入らなかったのか。
あんた等から見たら、俺のしている事はめちゃくちゃ腹立たしいんだろうな。
だから、口を利く気にもならない…そういう事なんだろう!
けどな、俺にとっては人の生も死も含め、どんな現場も飯の種なんだよ」
そう言いながら、なぜかトーンダウンしている自分が、少しだけ情けなく思えた。

それと言うのも、間近で見た男の顔が笑みを含んでいたから。石津と同じ優しい目で、俺を見つめていたから。
そんな俺に対して、男はやはり穏やかな表情のまま、やっと声を出した。
「腹を立てたからじゃない。殴られたくなかたからさ。それに、あの子はあの言葉以外日本語を話せないんだ」
「は? 何言って…」
「だって、お前言っただろう? 何処で会っても話しかけたらぶっ飛ばす…って」
「え?」

「もう、何年になるかな。お前に、二度と顔も見たくないと言われてから……」
男はそう言うと懐かしい記憶を辿るように目を細め、俺は、その言葉で記憶が甦る。
何度も何度も…そして今も悔い続けているあの苦い記憶が。
「ま、まさか…生きていたのか。 本当に石津…なのか?」
さっきの淡い期待が現実のものになったと判っても、俄かには信じられず。喉を割って出る俺の声は震える。
それに対して石津は、俺とは反対に余裕すら感じられる声で言った。

「あぁ、あの言葉、もう時効にしてくれるか?」
そう言って俺を見る石津の表情は、数年ぶりの再開にしてはやけに落ち着いて驚いた様子も見えなくて。
俺はその事が不思議に思えた。だから、嫌な予感と共に聞いてみる。
「もしかして、とっくに俺に気づいていた…のか?」
すると返ってきたのは、予感的中というか人をおちょくったような返事。

「当たり前だろう。昨日お前が此処に現れた時、直ぐに判った」
「バッ、バカヤロー! なんで、何で直ぐに声をかけなかったんだよ。俺がどんなに心配したか。
あの瓦礫の山を見ながらどんな思いでいたか。なのに…俺と判っていながら知らんふりしていたなんて……」
石津の無事が判って安心したせいなのか、それとも、昨日から俺と気付いていながら声をかけなかった。
その事に腹をたてているのか判らなかったが、脚が、身体が…諤々と震えだし、
俺は崩れるようにその場に蹲った。それなのに石津の奴は。

「大丈夫か? 悪かった…すまない。別に、知らんふりしていた訳じゃないんだ。
お前が、仕事で来ているらしい事は判っていたし、俺のほうも猫の手も借りたい有様だったからな。
それに…お前が、俺が此処に居る事を知っているとは思えなかった。けど…知っていたんだな、お前」
まるで、俺が石津の所在を知っていた事が不思議でならない。そんな顔で聞き返す能天気さが腹立たしく。

【俺が立っていられなくて、蹲ってしまったというのに支えもしない。支えろよ! 昔みたいに】
そんな事を思ってしまう自分が、もっと腹立たしくて。俺はそれに目を背けるように声を張り上げた。

「当たりまえだ! お前は爆破に巻き込まれて生死不明って事になっているんだぞ。
だから俺は、お前を探しに…お前を撮りに来たんだ。お前が生きていようと、死んでようと、
俺のフイルムにお前の姿を残そうと、覚悟を決めて来たのに…なのに…お前は…」
言いながら見上げる目に映る石津の顔が、酷くぼやけて見えた。

腹立たしさも安堵も、通り越してしまうと胸が一杯になるものらしく、
それは目の中に留まりきれなくなり、頬を伝い流れ落ちた。そして…ぼやけた石津の顔も歪む。

「……ミノル、ごめんな」
そう言って石津が俺の前に屈み、俺の顔に伸ばした指先が頬に触れる寸前ぴたりと止まった。
そして、すっと引き戻され。その動きは…これが今の俺達の関係…そう言っているような気がした。
だからではないが、俺は石津の顔から瓦礫の山に目を逸らす。そして、
「もう良いよ。お前の無事な姿が見られたんだ、それだけで、もう良い」
言いながら、自分の口調が少しだけ拗ねているようにも聞こえた。

「悪かったな、心配させて。でも、お前に会えて嬉しかったよ。二度と会えないと思っていたからな。
本当に嬉しかった。ミノル…こんな所まで来てくれて有り難うな」
そう言ってもう一度差し出された手は、握手のための手。
俺はその手を見つめながら、今この手を握るのは嫌だ…そう思った。

この手を握ったら、俺と石津はただの同窓生になってしまう。そして、本当に二度と会えなくなる。
だから俺は、自分の手をぎゅっと握り締める事で、石津の手から目を逸らして言う。
「なんで…なんで日本に帰らないんだ。 お前のお袋さんも心配していたぞ。
お前に会いたいって…どうして帰ろうとしないのか、お前の気持ちが解らない。そう言って泣いていた」
すると石津は俺の無視した自分の手をみつめ、寂しそうな笑顔を浮かべるとゆっくりと立ち上がり。
そして、さっき俺が目を向けていた瓦礫の山に目をやった。

「お袋に会ったのか……」
「当たり前だ。 此処に来る前に、お前の家に行ってお袋さんに話を聞いてきた」
「そうか。お袋には、申し訳ないと思っている…けど、決めた事なんだ」
石津はまっすぐ前を向いたまま答える。だが、その横顔からは石津の心は読み取れず。
それでも、その言葉は自分自身に言い聞かせるための言葉。そんなふうにも聞こえた。

「こっち向けよ! まっすぐ俺を見て答えろ!! お前にとって、此処は何なんだ。何があるんだ。
お袋さんを泣かせてまで、此処に留まるのはなぜなんだ? 女がいるとか、結婚したとか…何か理由があるだろう」
うっすらと、確かではない程度でそんな理由ではないとは思ったが、
それでも、石津の口から本当の答えが聞きたいと思い俺は問い詰める。それなのに石津は

「ミノル…。お前、何で此処に来たんだ? 取材だっていうのは解るが…俺を撮りに来たって言ったよな」
視線を前に向けたままで。俺はその横顔を見上げ…。照り付ける太陽と、肺まで焼くような熱く乾いた空気。
地面も建物も全てが土色で…それなのに、あの屋上のあの場面が蘇る。
「……膝が…」
「膝が、どうしたんだ」
石津の横顔がゆっくりと俺に向けられ、互いの目に互いを映し出す。その時俺は思った。
石津の瞳に映っている俺の顔は、あの時と同じように、泣きそうに歪んでいるのだろう…と。

「覚えているんだ。お前の頭の重さを…温もりを…この膝が覚えていて、忘れてくれない。
切なくなるほど、俺の心が…身体が…お前を忘れない。
だから俺は、俺の惚れた男の最後を、どうしてもフイルムに残したかった」
苦痛にも似た後悔と、絶望に近い想いを声に乗せる。お前の元に…お前の心に届けと願いながら。

「ミノル…」
「もう遅いかも知れないが、それでもお前に。たとえ亡骸にでも、俺の本当の気持ちを伝えたかった。
お前だけが、俺を切なくさせる。お前しか俺を……灰にしてくれない」
「遅いな。けど、俺もお前に隠していたことがあるから…お前と同じだ。
俺はずっとお前が好きだった。男のお前が、どんな女より可愛いと思った。誰にも渡したくないと思った。
だから、お前の一直線な性格を利用して、俺と関係を持つようにしむけた。

お前が俺のものになった時は嬉しくて、お前を騙しているような後ろめたい気持ちはあっても、
この先ずっと、お前を大切に守っていけば帳消しになると思った。
けど、やはりばちが当ったんだろうな。あの日お前に、二度と顔も見たくないと言われた。
お前に会いたい…謝りたい…許して欲しい…そう思ったが、
お前は本当に怒って…声すら聞くこともできなくなり、もう終わりだと思った。

でもな…俺は、お前を忘れることなんて出来ないから、お前の居る日本ごと捨てて、
お前への想いを断ち切ろうと思ったんだ」
石津の告白に俺は一瞬眩暈を覚えながらも。本当は、あの頃から石津の想いを感じ取っていたような気もした。
振り返ってみれば…上着の裾を引かれるのも手を添えられるのも、いつだって危ない場所。

見守るような目も、優しい声も…俺だけに向けられたもので。俺は大切にされている…その事を、
本当は判っていたはずだった。それなのに俺は、お前の腕の中がどんなに幸せかも気づけなかった。
大馬鹿者は俺の方だったのに、そんな俺の為にお前は…大切なものを捨てようとした。
胸に熱いものが込み上げ、それが目から溢れそうになり。それなのに俺は、相変わらずの強気で憎まれ口をたたく。

「馬鹿かお前。俺なんかの為に、祖国や、親兄弟を捨てちまうなんて、どうしようもない大ばか者だよ。
本当に…呆れてしまうほどの馬鹿だよ」
「そうだ。大馬鹿だよ…俺は。お前を強引に引っさらう事も出来ず、そうかと言って諦める事も出来ず、
ただ逃げただけの、卑怯な臆病者さ。それでも、お前が幸せに暮らしているなら、それで良い。
そんな言い訳をしながら未だに忘れられない。本当に…余にも可笑しくて情けなくなる」

「そうだな。俺もお前も救いようのない馬鹿だな。それでも、俺にはお前しかいない…それに気づいた。
だから石津。もし今でも俺が欲しいと思ってくれるなら、今度は俺がお前の手を掴んでも良いか?
お前が俺を諦める為に国を捨てたのなら、今度は俺が…お前を選ぶために国を捨てる。
俺の帰る国は無くなり、お前だけが俺の帰る場所になる。
それでも良かったら…もう一度、あの頃のように俺を側に置いてくれないか」

差し出した手は、二度と離れないという誓いの証。
この手を引いてくれたら…その一瞬から、お前は俺の故郷であり、親友であり…たった一人の人になる。
だから、しっかり握って……離さないで。


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