広田 円(まどか)×三浦 聡(さとし


あれ? 財布…。無い! 無い、ない…えっ? 落とした?
広田円が、慎ましやかな夕飯の買い物をして、レジで財布を出そうとしたら、
ポケットの何処を探しても、財布が無かった。

持っていたカバンの中に手を入れたが、手に触れるのは何冊かの本だけ、
レジの女の子は、露骨に嫌そうな顔をし、

「どうします? 止めますか…」
と言うと、買い物籠を降ろそうとして、籠に手をかけた。

「あ、はい・・すみません」

広田は、周りの訝しげな視線に促されながら、小さな声で答える。
すると、レジ係りの女の子は 
迷惑な…と、いった顔で、籠を手に持った。
その時…

「金、払うよ。」

声と同時に、広田の背後から にゅっと長い腕が伸びて…
その手が、千円札を二枚トレイの上に載せた。

「良いんですか?」
レジ係りが、広田にとも、後の男にともつかぬように言うと 男は

「うん・・構わないよ」 と、言って会計を促す。

「あ・あの…」

広田は、何がなんだか判らず、おろおろと後ろを振り返って見るが

男は、そんな広田を 気に留めるでもなく、当然のように釣銭を受け取り、
まるで自分の物のように籠を手に持つと さっさと備え付けの台に移動した。


そのごに及んでも、広田はどうしていいのか分からず、
とりあえず男の後について、台まで移動する。

すると男は、ほれっ とばかりに、広田に籠を突き出した。
そしてついでに、しげしげと籠の中味を覗くと、

「たいした物食ってねぇな。
だから、そんなにほっせぇんだ…」 と言った。

男のその言葉に、ついムッとして、広田にしては珍しく言い返す。

「なっ! 何言って…。 
大きなお世話です。何を食べようが 僕の勝手でしょう!」
すると男は、更に…

「そうだけどさ、なんか風が吹いたら 飛ばされそうジャン・・」
と、ダメ押しの一言を発した。


確かに男は、広田よりも悠に大きく、
今だって、広田は見上げるようにして 話しているのだから、
しょうもないと言えば、しょうもないのだが、それでもやはり面白くなく、

「僕だって、好きで痩せてるんじゃない。
食べても太らないんだから、しょうが無いじゃないか。
でも、健康には自信があるんだ。風邪もひかないし、腹だって丈夫だ。

それにいつもは もっとちゃんとした物を、食べてるよ。
ただ、今日は、銀行に寄る時間がなかったから…」

籠を両手に抱えたまま、力説している自分が、急に恥かしくなったのは、
目の前の男が、さっきから、くすくすと笑っているから。
そして男は…

「面白いね、あんた。
そんなに、ムキにならなくても…けど、めちゃ可愛いジャン」 と、言った。

ま! また、この男は…
広田は、そう思いながら自分の顔が、カーッと赤くなるのを感じた。


そんな広田を、ニヤニヤしながら見つめていた男は、広田の前に手を差し出す。

「はい、これ…・あんたの財布だろう?」
俯いた目の前、男の手の上に載っているのは、確かに自分の財布。

「えっ?…どうして?」

「さっき、果物を手に取って見てた時 財布を台の上に置いただろう。
そんで、そのまま忘れたんだよ、あんた。
俺、そん時側に居たからさ、持って来てやったんだ」

男のその言葉に、広田はビックリしてしまい、思わず

「え? えーー! 見てたの? 
だったら、すぐに声をかけてくれれば、 
レジで、あんな恥ずかしい思いをしなくても済んだのに…」

拾ってもらった事も忘れ、頬を膨らませて抗議する。
すると男は、

「だって、あんた、買い物してる時一生懸命、値段見てるからさ、
なんか、本当に一生懸命考えてるって感じで、声 掛けにくかった」と、言った。

流石に、そこまで言われると、広田は急に
自分の行動が、ひどく恥ずかしいものに思え、

「…今日は、持ち合わせが少なかったから…つい、計算してて」
言い訳めいた言葉を口にするが、その声も小さくなる。


ところが…男が次に言った言葉は、広田を更に驚かせた。

「ふ〜ん、じゃ、拾ってやった礼は、今日は無いんだ」

「はっ? 礼・・って?」

「えっ? だって落とし物拾ったら、礼を貰えるんだよな、たしか。
一割だっけ? 二割だっけ?

財布の中身は二千だから、二百円か、四百円・・か
どっちでも良いけど…どうする?」

男はニヤニヤ笑いながら広田の前に、やけに指の長い大きな手を差し出した。

それに釣られた訳ではないが、広田は、さっき男から受け取った、
レシートに包まれた つり銭を広げてみる。

今の買い物で、貰ったお釣りは…
えっ?・・なんで? ちゃんと計算して 籠に入れたはずなのに…

男が、広田に渡した釣り銭は…157円…うそ!。
買い物籠の中味を良く見ると、自分では入れたはずの無いジュースが二本。
唖然として、顔を上げ男の顔を見る…と、目の前男が、

「あっ! それ、俺が入れた。 だって、喉乾いていたからさ」
いとも平然と言いはなつ。

「そんな! いつの間に」

「うん、さっき札を出す時…あんたが、俺の方を向いてた時」

悪びれた様子も無く、平気でそんな事を言っている男に、
流石に広田も、完全にブチ切れてしまい…
少しだけ、親切な奴と思った事さえ 腹立たしく思えて。

「それじゃ、これは君の分だから…この分をお礼にするよ。
ジュウス二本と この残りのお金も渡す。それで文句はないだろう」

そう言うと広田は、袋に買った物を詰め込み、
レシートに包まったばら銭と、ジュウスを二本、男の前に置くと、
さっさと店から出て行った。


全く、なんて奴だ。 人の弱みにつけ込んで、本当に呆れた奴だ。
親切どころか・・・最低最悪な奴。 

あぁ〜 腹が立つ。
口の中で、ぶつくさ言いながら、なぜか前のめりで早足になる。


「なぁ〜待てよ。
悪かったよ・・別に わざとしたんじゃないから、そう怒らなくても」

あろう事か、男は広田の後を追うように、後から付いて来て声を掛ける。

うるさい! お前なんか、口もききたく無い。無視・・ムシ・・むし・・

足早に、急いで、一生懸命…歩いているのに…なんで?
男は、へらへらしながら広田の隣に並んで…並んで。

こいつ…足が長いんだ。
自分が必死に急いでも、コイツのゆっくりの歩幅と変わらない。
そう思ったら、益々腹立たしく思え、

「なんで、後をついてくるんですか。
まだ、何か礼を 要求するつもりなんですか!」

広田は、歩くのを止めて男を見上げると、
毅然とした口調でそう言った。

「ゴメン…俺が悪かった。 本当は、礼なんかどうでもいいんだ。
ただ、あんたが…あんまり、一所懸命そうだったから」

男は、少しバツが悪そうに頭を掻きながら、もう一度「ゴメン」と言った。

その様子が、少しだけ子供っぽく見えて、だからと言うわけではないが、広田は幾分声を和らげると、
「別にもう良いから。これ以上僕に構わないで。それと、財布拾ってくれてありがとう」
そう言うとこれ以上関わるのはゴメンとばかりに歩き出した。


「あ〜ぁ 怒らしちゃったかな。
でも次は、しっかりハートをゲットしてやるから 待ってろよ、広田 円」

広田の後姿を見つめながら、男が呟いた声は 
勿論、広田の耳には届かなかった。



広田は、始めはそれが 自分を呼んでいるのだと、気付かなかった。

「ま〜どかちゃん。 まどかぁ〜。 財布を落とした、まどかさん」
そこまで来ると、流石にそれが自分の事だと、嫌が応でも気付く。

「えっ! まさか!!」  振り返った先で、ヒラヒラと手を振っていたのは…。
ゲッ! 途端に、広田は走り出してしまった。

ガツガツ・・ガツガツ・・ガツガツ…
革靴が こんなに走るのに適していないとは 知らなかった。

音の割には、思うように前に進まない。 あっという間に追いつかれ。
挙句に腕を掴まれ、気持ちは先に進もうとしても 体が…。

「何で、逃げるのさ」 
男は、がっしりと広田の腕を掴んだまま、憮然とした声で言った。

「追いかけるからだろう! なんで、追いかけるんだ!」
「逃げるからだよ」

鶏が先か、卵が先か…のような問答をしながら、つい声が大きくなる。

「離せよ! もう、用はないだろう!!」
「ダメ…離すと逃げるから」

「なっ! なんで構うんだ? 関係無いだろう!」
「だって、可愛いし…・面白いから」

「ふざけるな! 人を馬鹿にしてるのか? 良い加減にしろ」
捕まれていた腕を振り解くと、思ったよりきつく、掴まれていたのか 腕に痛みが走った。

「いたっ!」  
「あっ、ゴメン…痛かった? ゴメンよ。
でも、円ちゃんが いきなり逃げ出すから、つい・・ほんと、ごめん」

? ? ?  まどかちゃん? さっきから呼ばれていたのに、今 改めてその事に気付くと
広田は、うす気味悪そうに 男を見上げて尋ねた。
「君は…なんで僕の名前 知ってるんだ?」
「だって、見たから。 財布の中の免許証。 広田 円、名前も可愛いんだな」
男はそう言って、ニッと笑った。

「………」  最悪…とんでもない奴に、財布を拾って貰ったらしい。
そう思ったら、広田はなぜか嫌な予感に、ブルッと身震いをした。


男の名前は三浦……三浦なにがしで、現在進行形の大学生。年は二十歳 。
三浦なにがしは、むすっと完全無視を決め込んでいる、広田の隣に並んで歩きながら、
勝手に自己紹介を始めた。  
趣味は…趣味はむにゃむにゃ 特技も…むにゃむにゃ。 
ろくに聞いてもいないし、聞く気も無い広田は、それで更に 気分が最悪になっていた。

「ねぇ、円ちゃん…なんでそう、ムスッとしているんだ? 
でもまぁ、膨れてる円ちゃんも 可愛いから良いけど」
三浦は、広田の機嫌の悪さを気にしているようでもあり、全く、気にしていないようでもあり…
それが、益々広田の不機嫌に、拍車をかけた。

「…その、円ちゃんって呼ぶの 止めてくれないかな。 
はっきり言って、僕の方が年上だし、君に そんなふうに呼ばれる間柄でもないから。
それに、君に自己紹介されても、僕は 君とこれ以上関わる気ないから」
それだけ言うと、広田はそれっきり一言も口を開く様子も無く…。
さすがに これ以上怒らせると不味いと思ったのか、三浦聡は、
「じゃ、俺 寄るところがあるから…円ちゃん、気を付けて帰ってよ」  そう言って、途中で方向を変える事にした。

【やばい! なんか本当に嫌われたかな。 やっと、接触できたのに、これで終りなんて、余りにも情けない。 
2年間、ただじっと待って、やっと決心したのだからさ】


三浦聡の家の直ぐ側のアパートに 広田が越してきたのは2年前だった。
当事 大学生だった広田が 社会人になった今年の春、引き続き、其処のアパートに住む事を知った聡は、
丁度、広田の部屋の真下が空いたのを、これ幸いとばかりに、自分も其処に、無理やり引っ越す事にした。

そのアパートは、聡の家の持ち物で、つまり聡は大家の息子になるのだが、
親は息子に、何をバカな事を…と、言って反対していたが、爺ちゃんっ子だった聡の我が侭は、
祖父の、一人暮らしも社会勉強…の一言で、すんなりアパートの部屋に移る許可が降りた。

広田が越して来た時は、聡は高校生だったが、 ある日、学校から帰ってくると、見慣れない青年が、
聡の家の側で、庭の向日葵をみつめ 佇んでいた。
聡の家の庭には、結構な数の向日葵が植えられていて、
夏になると、大小の向日葵が、少しでも太陽に近づこうとして、一斉に背伸びする。

そして青年は、その向日葵に向かって話し掛けていたのだ。

「お前も、ちゃんと太陽に向かって顔を上げなよ。 
お日様に向かない向日葵は、向日葵じゃ無いよ」
青年の言葉に、その視線の先を見ると、空を仰ぐ沢山のひまわりの中で、
一本だけ、西に向かう太陽から顔を背け、項垂れているひまわりがが見えた。
そして、青年はそれに向かって、話し掛けているのだと判ると、なんだか可笑しくなって、

【変な奴…でも、優しい人なんだな。 それに…なんか可愛い】  と、思った。
その時、広田に一目惚れをしてしまったのかも知れない。


夕食時に、なにげなくその話をすると、母親が、
「あぁ、その人は、最近アパートに越してきた、広田さんという大学生だと思うよ」  と、言った。 

以来 二階にある自分の部屋から 覗き紛いの事を日夜繰り返し、
広田が、最初の印象通り、とても優しい笑顔の持ち主だと知った。
だからと言って、言葉を交わした事もなく、顔を合わせる事も無いまま、
ただ、自分の部屋の窓から、広田の部屋の窓越しに、彼の姿を眺めるだけで。

大学生じゃ、卒業したら引っ越してしまうだろう…そう思っていた。
それが、引き続き契約を更新したと聞き、決心したのだ。

大家の息子としてではなく、普通に一人の男として広田と知り合いたい。
そして、やっと先日、言葉を交わすチャンスに恵まれた。
それなのに…よほど印象が悪かったとみえ、聡に向ける顔は
いつも笑顔で挨拶している広田からは想像も出来ない、これ以上ない不機嫌な顔ばかり。

【う〜ん、思ったより手強いな、円ちゃん。 どうにかして、名誉挽回を計らなくては】
広田と別れて 別の道を帰りながら、聡は真剣にその事を考えていた。