その手をつかんで     記憶の中の手



いつ頃からだったろう。
放課後の教室の窓から、いつもグランドを眺めている顔があるのに、相良が気付いたのは
始めは、誰か部活をしている友達でも見ているのか?…そう思った。
でも、そうでもないらしいと気付くと、今度は変な奴…と思った。
そして、次第に、毎日毎日窓辺にあるその姿が、気になりだして

ある日、声をかけた。 「お前、いつも何見てんの?」
 
すると彼は答えた。 「夢…なんて嘘…夕陽だよ」
 
その時の彼の顔は、夕陽を浴びてほんのりと染まった頬が、なぜか初々しく、
まるで、恥らっているようにも見えて 相良は、暫く彼の顔を見つめていたような気がする。
 
それから相良は、彼の姿を窓に見つけると、何となく手を上げるようになった。
彼もそれに応えるように小さく片手をあげ、はにかんだような笑顔をみせた。
そして…彼が夕陽と答えたのが嘘だと気付いたのは、それから間もなくだった。
太陽が隠れ、薄暗い曇り空の下でも彼の姿はいつも窓辺にあり、その目は、グランドに注がれていた。
そして、相良の部活がない時は、窓は閉まったままだと知った。
 
俺を見ているのか? 聞きたいと思った。 なんで俺なんだ? 答えを知りたいと思った。
そんな事を思いながら、聞く事も、知る事もできず。
「お前、二組だろう? 何て云うんだ?名前…」  思いとは違う事を聞く…と。
「僕? 桑原 麻葵(あさき)」  彼が、自分の名前を言い。
「ふーん 俺は」  答えようとした相良の言葉を遮るように、
「知っているよ 相良 海斗君・・だよね」  彼が相良の名前を言った。
 
「知っているんだ、俺の事」 
驚くほどのことでもないのに、少しだけの驚きと…あぁ〜 やっぱり。
何となく、そんな思いで彼の顔を見つめると。
「うん、知ってる。 ごめんね」  彼はそう言うと、ちょっとだけ不安そうな顔をした。 
あぁ、そうか…俺が、気を悪くしたと思ったのか? そう思った相良は、わざと明るい声で、
「別に、かまわねぇよ…じゃな、桑原」  手を上げてその場から走り去った。
 
知っていたんだ俺の事…やはり俺を見ていたんだ。
それは、相良の自分勝手な確信に近く、それでも相良は、それが嫌だとか、迷惑だとか思いもしなくて、
何となく…ずっと自分を見ていて欲しい…そんなふうに思った。
それでも、3年になり相良が部活出なくなると、いつも桑原のいた窓は、開かれる事もなくなっていった。
 
 
相良たちの高校は一学期が始まると、すぐに体育祭がある。
受験よりも、体育祭の方が大事だと思っている相良にとっては、大いに楽しみでもあり、活躍の舞台でもあった。
何しろ、勉強の方はからっきし駄目だが、スポーツは何でも得意で、脳みそまで筋肉になってしまった、
そんなスポーツバカの見本のような奴だったから、出場できる競技には、何でもエントリーした。
 
そして障害物競走、一番は?で相良が拾ったカードは…一番・欲しい物は?
エッ! なんだ、これ?・・一番…一番好きな奴…
なぜか相良は二組にまっしぐら…そして桑原を探した。
 
「桑原ーーーーッ」  大声で名前を呼ぶ相良の声に、立ち上がった桑原に向けて手を伸ばす。
すると、桑原の華奢な手が相良に向かって伸び、相良はその手をしっかりと握ると
桑原を、抱えるようにして走り出した。 
一番にはなれなかったが、ゴールでカードと桑原を見比べた、係りの女子は、
ゲッというような顔で、相良と桑原の顔を交互に見比べていた。
 
「なんて書いてあったの?」 
二人並んで席に戻る途中で、桑原が相良を見上げるようにして聞く。
「…一番、とろそうな奴」 
「そう…だから、係りが変な顔していたんだ。 でも、本当だから仕方ないよ」 
桑原は苦笑いを浮かべて、少し寂しそうに言った。 
相良は、そんな桑原がちょっと可哀相になって…桑原の耳元で囁いた。
「本当は…一番好きな奴」
そう言うと、桑原の背中をポンと叩き走って追い越し…振り返ると、
桑原は、顔を真っ赤にしてその場に立ち尽くしていた。
 
どうしてあの時、欲しい物が、好きな人になったのか。 そして、なぜ真っ先に桑原を思いついたのか。
今になれば納得もいくが、その頃の相良はその訳を考えもしなかった。
そして、障害物競走が原因だったのか、あのあと、相良と桑原の事がちょっとした噂になり、
勿論、あの時ゴールにいた係りの女子が言いだしたのだと思うが、
その事で桑原は、みんなにからかわれ、嫌がらせをされたらしいと知ったのは、
大分あとになってからだった。
 
相良は、身体も大きく強持てする方だったせいか、誰も何も言わなくて、
体育祭が終わった後は、桑原と言葉を交わす機会も無かったせいもあり、
そんな、妙な噂になっているとも知らず、桑原ひとりを傷つけていた事にも気付かず、
やがて、高校生活最後の締めくくりでもある受験に向かう、大きな波に呑みこまれて行った。
 
年が明けて少しすると、相良もどうにか私立大学に合格が決まり、
その後、桑原が1人飛び抜けて、国立大に合格を決めたと聞き、おめでとう、の言葉でもかけてやろう。
そんな思いで二組の教室を覗くと、桑原は友達に囲まれて笑っていた。
それを目にした相良は、自分でも解らない不可解な感情が湧き上がってくるのを感じた。
 
なんだ、結構友達と仲良くやっているじゃないか。 俺の事ばっか、見ていた訳じゃないじゃん。
勝手に、そう思い込んでいた自分と、皆と笑っている桑原に苛立ち、
結局そのまま、言葉をかけることもなく自分の教室に戻ってしまった。
 
そして、卒業の日を間近に控え…その前のお別れレクで、
最後に好きな人と手を繋いで、退場するという事になった。
今まで、告白出来なかった奴は、最後とばかり女子の手を取るが、
なかなか繋いでもらえず、中にはふざけて友達同士で手を繋ぐ者もいて。
相良は、なんとはなしに桑原を探していた。
 
別に、帰るだけなんだから…誰にともなくそんな言い訳をし、桑原の姿をみつけると側によって、
「帰るか?」  そう言って手を伸ばした。
桑原は、少し複雑な表情で相良を見つめ、それから小さく頷くと、
相良の手を掴もうとして…伸ばしたその手が宙で止まった。
 
桑原の手が届く前に、横から伸びた女子の手に相良の手はしっかりと握られ、
女子とは思えぬ力で引っ張られ、桑原の前から引き離されてしまった。

桑原の宙に止まったままの、華奢な細い指が相良の目に焼きついた。
一旦外に出て、女子の手を振りほどくと、急いで体育館に戻ってみたが
すでに桑原の姿はなく…教室まで探したがとうとう見当たらなかった。
 
ずっとあの手が、相良の頭から離れなかった。
最後に見た・・桑原の、泣きそうな顔が、棘のように胸に突き刺さったままで…痛い。
思えば、桑原が楽しそうに笑う顔を見た事があっただろうか。
記憶のなかの桑原は、いつも寂しそうな笑顔で。
今もそうなのだろうか…写真で見た笑顔も、あの頃と同じようにどこか寂しげで
もし、そうだとしたら、一度でいいから本当の笑顔が見たい。 相良は心からそう思った。


 その手をつかんで     踏み出したい一歩     
 
相良先生。 先日御依頼のあった、例の投稿してこられた人物ですが、
一応名前と住所を、メモ書きにして送りました。
御承知と思いますが、外部には漏らしてはいけない規則になっていますので、
くれぐれも内分に、ということで宜しくお願いします。
 
先日の話にあった投稿者の名前と住所が、ファックスで送られてきた。
内分というわりに、ファックスとは…桑原は苦笑いを浮かべ、
メモ書きで付け足しまで入っているそれを手に取った。
 
相良 海斗…やはり彼だった。 ほろ苦い懐かしさと、眩しい思い出の中の人物。
大地を蹴る力強い脚に見とれた。 何処までも高く、何処までも遠くに、
空も大地も赤く染めた、あの夕陽にまで駆けて行くのでは…そんな気がして、彼だけを見つめ続けた。
その彼が、最後に差し出した手を掴めなかったあの一瞬から、桑原の時間は止まったままで、
歩き出す事すら出来ないでいる。
 
メモを片手に外へ飛び出すと、桑原は真っ直ぐ駅へ向かった。
電車に乗っている間中も、目は其処に書かれた住所だけを見つめ…。
気付いたら彼の住んでいる場所の、すぐ側まで来ていた。
 
僕はバカな事をしている…今更会ってどうしようというのか。
友達と呼べるほどでもなかった彼に、何と言って会えば…。
僕のことなんて、覚えていないかも知れないのに…。
そう思ったら急に足取りが重くなり、側にあった少し大きな公園に入ると、隅のベンチに座った。
 
以前は何処の公園にもあった、ジャングルジムや、箱ブランコ、そんなものは何処にも見当たらず、
砂場もネットで覆われている公園は、小さな子供たちを端に追いやり、
代って老人達がゲームを楽しむ場所に変わりつつあった。
 
パパ〜 なげて〜
よ〜し、それじゃ、もう一回蹴るぞ。 今度は上手に捕れよ。 端の方から、父親らしい男と子供の声が聞こえ、
見ると、父と子がサッカーボールで遊んでいるのが見えた。
その父親の声に一瞬身体が震えた。 少し低くなっているが、間違えようもない彼の声。
いつも、大きな声をあげボールを追っていた彼の声を、忘れるはずなどない。
そして思い知らされた。 相良の時間は、自分の想いとは関係なく流れていた事を。
なのに、無意識に立ち上がると、桑原の足はふらふらと相良の方へと近づく。
そして
 
「上手だね。 まだ、小さいのに…。 パパに似たんだ」
どうして声を掛けたのか解らない…気付いたら声を掛けていた。
振り向いた相良の顔が、桑原を見ると驚いたように目を見開き、そのまま桑原を凝視したまま、
「…・くわはら…・」  唇が桑原の名前を形作った。 

「覚えていてくれたんだ…僕の事」
「あ・・あぁ…お前こそ…俺の事がよく判ったな」
「…・・まぁね…」
相良の驚いたような顔と、曖昧な笑みを浮かべた自分の顔、その違いが、想いの違いのような気がした。
 
子供がトコトコと近づいて、相良の足元で彼の手を掴む。
あの日、自分が掴めなかった手を、いともさりげなく…掴む。
あぁ、そうか…この手はもう…そう思ったら、切なさがこみ上げてきた。
 
「パパ…誰?…」 子供が彼を見上げて聞く。
「まーくん、この人はパパのお友達だからね…ごあいさつしようか」
「なかよしのお友達?」
「そうだよ、大事なお友達…」
 
子供は、彼の言葉に納得したように、にっこり笑うと
「…こんにちは。 まーくんです」  可愛い声で言うと、ぺこりと頭をさげた。
だから、桑原も子供と同じ目線になるように、その場に屈みこんで
「こんにちは、お利口さんですね。 おじさんは、くわはらあさき、と言います。 宜しくネ」
そう言うと、子供は嬉しそうに頷いた。
 
「おい、おじさんはないだろう…まだ」  
相良がそう言って…笑う。 だから、桑原も何気ないそぶりで
「もう、おじさんだよ…パパと同じ年なんだから」  そう言いながら…笑う。 
その言葉に相良は、「お前は、充分お兄さんで、通るよ」  そう言うと、ちょっと苦笑いを浮かべ、今度は子供に向かって、
「まーくん、パパは其処のお椅子で、お友達とお話をしたいから、
まーくんは少しの間、お友達と砂場で遊んでてくれるかな」
優しい声で子供に話す顔は、確かに愛情溢れる父親の顔をしていた。
 
「うん、いいよ。 僕、ユウ君と遊んでくる」
子供はそう言って大きく頷くと、砂場のほうへかけていく。「いいの? 折角パパと遊んでいたのに、邪魔しちゃったみたいだね」
子供の小さな背中を見送りながら、桑原が言うと、
「いいんだ、本当は砂場で遊びたいんだから…気にするな」
気のせいか、自分に向けた顔が、父親の顔から一人の男の顔になっているように見えて、
少しだけ嬉しいような…複雑な思いにとらわれ、桑原はそんな自分に戸惑う。

「そうなの?」
「あぁ・・だから気にするな。 それより、どうして此処に?」
相良はそう言いながら、さっきまで桑原が座っていたベンチに向かって歩き出した。
桑原はその後を歩きながら、あの頃より大きく逞しくなった彼の背中に、
あの日の背中が重なり…二度とおいていかれたくない…そう思った。

「久し振りだな…げんきそうじゃないか」
「うん、何年振りだろう…相良君も元気そうだね」
「あぁ、マサキがいてくれるから、何とかやっているってところだな」
言いながら、相良の目は砂場にいる息子に注がれる。「可愛い子だね…何歳?」
「3歳になる」
「3歳か。 一番可愛い時だって言うから…幸せだね、相良君」
「…お前は?・・子供…」
「僕は、残念ながら…」
そう答えながら、自分に子供…そんな事は、考えてもみた事がなかった事に気付いた。
本能とも言える種の保存…もしかすると、その本能が自分には無かったのでは。
だから自分は、妻を愛せなかったのかも知れない…そんな気がした。
それでも、相良の子供をみて…子供は可愛い…そう思った。

「そうか…。 で?今日は、こんな所まで取材かなんかなのか?」
「まぁそんなもんかな。 でも、吃驚した。 いきなり相良君の声が、聞こえてきたから」
まさか相良に会いたくて…そんな言葉は言えるはずもなく、桑原は、わざと明るい声で偶然を装う。

「声? お前、俺の事が声で判ったのか?」 
「うん。 あの頃よりも、少し大人になっているけど、君の声だと直ぐに判った」
「凄いなお前の耳。 俺は、もうすっかり親父くさくなったけど、
お前は、昔とちっとも変わってない。 本当、同じ年だなんて思えないよな」
空を見上げた相良の瞳が、夕日を映し赤く染まる。
その瞳のまま自分を見てくれたら、時間はあの頃に戻るのだろうか。
そして、もう一度…その手を差し伸べて…。
相良の横顔を見つめながら、桑原は切ないほどそう願った。

「そんな事ないよ。 君は、今もあの頃と同じ…僕にはそう見える」
「ほんと、お前は変な奴だよ…」

夕暮れは、辺りを赤く染め人を家路へと急がせる。 忍び込む薄闇が、色ある色を飲み込み、
物悲しさだけがとり残されて、二人の間を吹き抜ける風が、互いの距離を感じさせた。
そして、公園に人の姿が減り、子供が彼の側に寄って来た時、
二人の、ほんの短い再会の時間は、終わろうとしていた。


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