その手をつかん



相良は子供を膝の上に抱き上げて、小さな手についた砂を、ハンカチで払い落とす。
そうしている間にも、子供は遊びつかれたのか、相良の胸に凭れて、
何度か瞼を閉じたり開いたりしていたが、とうとうぴったりと合わせたまま、開かなくなってしまった。
安心しきったような子供の寝顔と、それを見つめる父親の顔。
桑原はそんな二人を見ながら、相良は幸せな人生を送っているのだと思った。

確実に前に進んできた相良と、いつまでも立ち止まったままの自分。
自分が不幸だと思った事は無いが、幸せだと思った事も無かった。
戻したくても戻せない時間…それでも、もう一度あの日に…何度も願った。
通りすがりを装って、ほんの偶然を装って…そして、心から願う。 今この一瞬が永遠に止まれば良い…と。

ゆっくり流れて欲しい時間は足早に通り過ぎていき、ときを刻む針の音さえ聞こえるような気がした。
そして、響き渡るタイムリミットを告げる声。

「桑原…今日はお前に会えて嬉しかったよ」
それに対して、伝える想いの言葉を探しても、言葉は見つからず
「……。うん、僕も嬉しかった」  ただ、そういうのが精一杯の桑原に。
「なぁ、桑原。もし良かったら、今度ゆっくり遊びに来ないか?
忙しいなら無理にとは言わないけど……出来たら又会いたいんだ」
思いがけない相良の言葉に、桑原は自分の耳を疑うより先に、言葉が口から飛び出していた。

「え? 会いに来ても良いの? 僕は、毎日暇だからさ! 君の都合の良い日を連絡してくれたら、いつだって飛んで来るよ」
すると、そんな桑原の反応が可笑しかったのか、相良は一瞬目をみはり、それから、くつくつと笑うと、
「じゃ明々後日はどうだ? 急すぎるか?」  と言った。
「明々後日? 平日だけど良いの?」  桑原が聞きかえすと
「あぁ、俺の会社は水曜が休みで、日曜は隔週なんだ。 お前は、平日は都合悪いのか?」
「うぅん、僕は大丈夫だよ。 明々後日、此処でいいの?」  
まるで折りたたむように聞き返すのは、どうしても会いたいから。

「いや、駅に着いたら電話をくれれば、すぐに迎えに行く」
「解った多分、吃驚するほど早い時間だと思うよ。だって、今から楽しみで、明々後日が待ちきれないと思うからさ」
心に思うより先に言葉が飛び出すのが、自分でも信じられなかった。
本当にこのまま時が止まってしまえばと願った事さえ忘れ、今度はこの一瞬が夢で無い事を願ってしまう。
そして、自分の止まった時間が動き出すような気がした。

「お前なぁ、せめて保育園が始まってからにしてくれよ」
「保育園、何時から?」
「早くて、7時半かな」
「じゃ8時にする、それでもいい?」
「あぁ、8時に駅で待っている」

天にも昇る心地とはこういう気持ちなのだろうと思った。
足取りは軽く、見るもの、聞くもの全てが微笑ましく、見慣れた景色さえ、昨日と違って見える。
そして、世界は様々な色彩と光に満ちあふれている事を知った。

明々後日と言う日は、その前に明日と明後日があるから、その二日間を、どうやって過したらいいのだろうと悩む。
明日と明後日を飛び超えて、目が醒めたら明々後日になっていれば良い。
明日も明後日も要らない桑原は本当にそう思った。

まるで、恋をしている少女のような、30過ぎの男は
それでも、飛び越す事の出来ない二日間を、どうにか仕事に費やし、
当日は、信じられないほど、朝早くに目覚めてしまい、
自分の心がどれ程、相良に会いたいと望んでいるのかを思い知る。

会わなければ我慢できたものが、会ってしまった途端、
自分でも押さえられないほど欲張りになってくる。
この心を抑えられなくなるのが怖い。
それでも願ってしまう。
わがままは言わないから、君の幸せの邪魔はしないから、
会えるだけで良いから、それ以上望まないから、

僕の止まった時間を…動かして欲しい…と。


駅に着くと、電車を降りるなり電話を取り出しボタンを押す。
耳に当て、呼び出し音が鳴ると同時に相手が出た。
「俺…着いたのか?」  
受話器を通して伝わる声が耳をくすぐり、
それだけで、泣きたくなるような感情が全身に広がる。

「うん、今電車を降りたところ…どれくらいで着く?」
「階段を下りたら、ロータリーにあるバス路線の端にいるから…」
思いもかけない返事に、一瞬立ち止まり
見えもしないのに、ホーム越しにロータリーに目を向けた。

「えっ? もう待っているの?」 
「道が空いていたからな、思ったより早く着いた」
「すぐ行く! 待ってて!!」  
電話を切るのさえもどかしく、桑原は目の前の階段を駆け登る。

階段も通路も通勤時ほどではないが、それでも人の数はある。
歩く人にぶつかりそうになりながら、急いで改札に向かい、
改札を出て左…。

都市近郊の駅の階段にしては、立派過ぎると思えるほどの、
幅の広い階段を下りると、駅前ロータリー。
通勤時間を少し外れた今は、その階段には人の数も少なく、
それを扱けるようにして駆け下りると、目の前がバスターミナルで、
そのだいぶ後方に、一台のRV車が停車しているのが見えた。

運転席の窓が開いて、其処に相良の顔を見つけると、
桑原は、まるでデートに待ち合わせた少女のように
恥ずかしげもなく大きく手を振った。

そんな桑原の姿に、相良はクスッと笑みをもらし
車をゆっくりバックさせ方向を変えると、
運転席から身体を伸ばし、助手席のドアを少し開いた。
「おはようごめん、待った?」
開いているドアを大きく開き、桑原が助手席に乗り込む。
そして、ほ〜 胸に手を当て大きく息を吐くと、
相良に向かって、本当に嬉しそうな笑顔を向けた。


今まで、一度も見た事のない笑顔に、
目をそらす事も忘れ、呆けたように桑原を見つめる相良に、
桑原は、ん?というようにちょっと首を傾げると
「どうしたの? 吃驚した顔して…僕の顔、変?」 と聞いた。

その言葉で、相良は慌てて桑原から視線を逸らすと前を向き、
「い いや…なんでもない。 車出すぞ、シートベルトしたか?」
そう言いながら、ブレーキペダルを踏み込むとギアを入れた。

一瞬桑原に見とれた自分に…そして、桑原が可愛いい…
などと思った自分に、少し呆れながらも 思わず口元が緩む。
桑原が、肩の上からベルトを引き出し止め口にカチッと差し込み
「うん、大丈夫…ちゃんと締めたから、良いよ出して」
その言葉を合図のように、車はゆっくりと滑り出し、
ロータリーを半周すると、片側二車線の国道へと出て行った。

もう少しすれば、蜃気楼のように熱を吐き出すアスファルトも
今はまだ、乾いたタイヤの音を響かせるだけで、走りは快適。
抜けるような青空に、濃さを増した街路樹の緑…
そして、助手席には桑原がいる…相良には、それら全てが嬉しい…と思えた。

その桑原が、今まで外を眺めていた顔を突然相良に向け
「さっきさ、久し振りに階段一気昇りしたら、足がガクガクしてしまった。
自分じゃ、あのくらい平気だと思っていたんだけどね、全然ダメ
普段、いかに運動不足かって事が証明されたようなものだね」
まるで、その事実すら楽しそうに言う。

「そりゃそうだ…学生の頃と違って、滅多に運動なんかしないし
今は、歩く事もそうそうは無いからな…
だから、ある日突然、俺ってこんなだっけ?って、気づくんだよ」

「へぇ〜 相良君でもそんな事あるんだ。
僕は昔から、運動は得意じゃなかったから、なんとなく解るけど、
相良君は、スポーツ万能だったじゃないか」

「…歳を考えろよ、もう30過ぎているんだぞ・・いつまでも若くないさ」

「そっか…そうだよね。
何年になるかな、卒業して…でも、昨日の事のように覚えている。
僕の時間は、あそこで止まったままじゃないかと思うほど 鮮明に」桑原は、呟くように言った。
まるで自分自信に言っているかのように 小さな声で、
相良には、それが、胸が切なくなるような響きにも聞こえた。
だから、わざと明るい声で言う。
「桑原…少しドライブでもするか?」 

「うん、良いね…僕は、あまり遠くに出掛けた事ないからさ…
そうだ!此処から海は遠いの?」
桑原の口から出た行き先に、相良は少しだけ意外な気がしたが
「海? この時期に海か?」 聞いてみた。

「うん、出来たら、一度砂浜を歩いてみたいな」
「まさか…海、行った事ないのか?」
「あるよ、小さい子供の頃…でも、大きくなってからは一度も行ってない」
「…そっか…じゃ、海でも行ってみるか」
「ホントに? ありがとう…すごく嬉しいよ」

桑原が何かを言うたび、相良は ちらりと助手席に視線を向ける。
目の端に写る桑原は、
相良の横顔に向かって話しかけたり、前を向いたままだったりしながらも、
相良と目が会うと、その度に嬉しそうに笑う。

本当に表情がよく変ると思い、それが微笑ましく思えた。
いろんな感情が、素直に表情や仕草に表れる。
学生時代は、そんな事も知らなかった。
いつも、少し寂しそうな笑みを浮かべ、窓からグランドを眺めている、
そんな桑原の顔しか知らなかった。
だから、もっと…桑原のいろんな顔が見たい…そう思った。


子供の頃、両親に連れられて海水浴に行った。
楽しかったかも知れないが、覚えているのは日焼けして痛かった事だけ。
皮膚が水ぶくれになって、熱が出て何日も痛くて…挙句に入院してしまった。
その時、自分が人より日光に弱い体質だと知った。

普通ならなんでもない程度の日の光にも、長時間晒されると肌は赤くなり
ヒリヒリと痛んで、熱を出した。
それから、海もプールも、二度と行くことはなくなり、日中の強い日差しも、できるだけ避けるようになった。
だからこそ、太陽の下を自由に駆ける、相良に惹かれたのかも知れない。
日の光をいっぱい吸い込んだ、褐色の肌をした彼に…。

季節はずれの海辺には、人の姿もほとんど見当たらず、打ち寄せる波も遮るものが無いのを幸いと何処までも伸びてくる。
素足に絡まり、足裏の砂を浚っては小さな窪みを造り、次には、それを平らに均し跡形もなく消し去る。
永遠に繰り返す営みは、いつか地の形すら変えてしまう。

「気持ちいいね…風も波も穏やかで、日差しも柔らかい。
季節はずれの海がこんなに素敵だったなんて、今まで知らなかった。なんか、とっても損をしていた気分だよ。
もし知っていたら、もっと早く来てみるんだったな」
そう言うと桑原は、まだ少し冷たい海水に素足で入ると
膝までたくし上げたズボンの裾が濡れるのも構わず、
本当に楽しそうに、波を追いかけては逃げ、逃げては追いかけた。
大の男が…本当に楽しそうにはしゃぐ。そして、一頻り戯れると、満足そうな顔で相良に近づくと、
濡れた両手を、相良の目の前でぱっと開くと、其の手の中には、沢山の稚貝が乗っていた。

「これ、蛤だよね…沢山拾って帰ったら、お吸い物に出来るかな?貝は食べられないけど、ダシにはなると思わない?」
目を輝かせてそんな事をいう桑原に、相良は少し呆れながら
「お前、初めて海に来た子供みたいに、本当に楽しそうだな。言って置くが、その貝は来年の為に漁師が放した稚貝だぞ。
それを盗ったら、泥棒になっちまうんだぞ」
わざと難しい顔で言った。

「え〜っ! そうなの? それじゃ、やっぱり不味いよね」
桑原は急にシュンとして、手の中の貝を名残惜しそうに見つめ、
再び波打ち際まで行って、丁寧に戻してくると今度は照れくさそうな顔で相良の隣に並んで座った。
「僕は、人より日焼けし易いみたいで、すぐ水ぶくれになるんだ
それがジクジクになって、熱が出てなかなか治らなくてさ。
だから、強い日光の下には、長い時間いられなかったんだ」
海とも空とも区別がつかないほど、はるか彼方に目を向けたまま
桑原は、懐かしい思い出でも話すような口調で言う。

「そうなのか…それで、海にも来られなかったのか。
それじゃ、いつも窓から見ていたのも…」
「うん、そう特に夏は、日差しをさけるようにしていたからね。」

だから、放課後太陽の下でグランドを走っている君が、とても眩しくて、
君と一緒なら、僕も太陽の下で大地を駆けられるような気がした。
桑原は、まっすぐ前を見たまま穏やかな声で話す。
その時相良は、桑原が遠く地平線に窓辺から見ていたあのグランドを見ているような気がした。

「そうか…お前、肌が白いから、きっと焼け易いんだな。
俺なんか、冬でも真黒だったからな…
流石に今は、それほどでもなくなったけど、それでも夏になれば、真黒になる」

「今もずっと、サッカーやっているの?」
「いや…大学2年の時怪我をしてから止めた」

「怪我? 酷い怪我だったの?」
少し眉を寄せ心配そうに相良を見つめた桑原の顔が、
頬や鼻の頭が、ほんのりと赤くなっているのが判った。

夏にはまだ早いと言え、太陽は真上にあり、日差しはやはり強い。
相良は立ち上がると、着ていたシャツを脱ぎ、それを桑原の頭にかぶせた。
そして、桑原の前に屈み込むと、桑原のたくし上げていたズボンを下ろし、
捲りあげていたシャツの袖も伸ばした。
その間、桑原は…ただじっと相良を見つめて…顔を上げた相良と目が合うと、

「え? あ…あぁ…ありがとう」
そう言って、日焼けとは別に、顔を真っ赤に染めた。
そんな桑原の横に座りなおした相良を、桑原がシャツの下から見上げる。

「まぁ…練習中の事故だったけどな。治っても、長時間走るのは無理だって言われた。
その時はショックで、人生が終わったような気がしたよ。
けど、走れないもんはしょうがないだろう? それから、必死に勉強した。
なんせ俺は、勉強の方は全く駄目だったからな。
どうにか、卒業できて就職が決まった時は、嬉しかったと言うよりホッとした。」

「大変だったんだね…でも、今は幸せだから」 良いじゃない。桑原はそう言おうとして、その言葉を飲み込んだ。

「お前こそ、その若さで先生と呼ばれているじゃないか。
人生順調に階段を昇っているそうだろう?」
別に比肉でもなく、相良は心底そう思っていたのだったが、意外にも桑原は

「僕はどうなのかな。窓から、グランドを眺めていたあの頃と同じだと思う。
ワンルームの部屋の窓から、毎日グランドの代わりに河川敷を眺め、
そこでサッカーをする少年達を、見つめながら生きている」
その言葉に、相良はそこに自分の責任の欠片を見た思いがした。

「順風満帆ではないってことか。桑原俺は、お前に謝りたい事があったんだ。
ずっと、その事だけが気がかりで、お前に一言侘びを言いたくて」
「謝るって何を?」 桑原が不思議そうな顔で相良を見返す。

「俺は、あの日最後のあの日、お前の手を掴むつもりだった。
それなのに女子に握られた手を、振り払う事も出来なくて
ずっと、お前の手が宙に止まった、お前の手が目に焼きついて。
なのに、気づかない振りをして、忘れたつもりで生きてきたんだ。

でも、女房に言われた。「貴方が愛しているのは私の手よ」
そう言われて始めて俺は、本当はお前の手を掴みたかったのだと解かった。
お前は、何とも思ってなかったかも知れないが、それでも俺はお前に謝りたかった。謝りたかったんだ」

妻と別れて以来ずっと心に思っていた事を言葉にして、
桑原に伝えられて相良は、少しだけ胸が軽くなったような気がした。

「ありがとう相良君。本当にありがとう。僕は、それだけで嬉しいよ。だから、もう気にしなくて良いんだ。
僕のことは気にしないで奥さんの事を大事にしてあげて」桑原は晴れやかな笑顔でそう言うと、相良に向かって右手を差し出す。
その手は、強く握ったら折れてしまいそうなほど華奢で、相良はその手を、そっと、大切なものを包み込むように両手で握った。

「女房は、死んだ」
「! しんだ?」
「俺と女房は、三年前に別れたんだ。
でも俺と別れて間もなく、マサキを身籠っている事が判った。
それでもあいつは、一人で育てると言って俺の子供を産んでくれた。
なのに去年マサキを保育園に迎えに行く途中車に撥ねられ、俺が駆けつけた時は、もう。
幸せにしてやる事も出来ず、辛い思いばかりさせて逝かせてしまった。
マサキが出来たと知った時、俺が決心すれば復縁する事もできたのに、
俺は、自分の事ばかり考えてマサキから母親を奪ってしまったんだ」

「辛いね。慰めにはならないけど、奥さんは相良君に生きる希望を残してくれたじゃないか。
君の事を本当に愛していたんだね。だから、マサキ君を産んだのだと思う。
奥さんの愛と、その愛が残した自分の分身がいるんだ、幸せだよ相良君は。
僕には何もないから。あるのは……」目を伏せ、その後の言葉を飲み込む桑原に、
相良は桑原の言った、ワンルームという言葉がひっかった。

「お前、上手くいってないのかかみさんと」
「僕も、妻とは別れた。僕には、妻を幸せにしてやる事が出来なかった。
妻は、僕に不満を言わない代わり、それを他の男に求めたんだ。
それを目の当たりにみてしまっては、流石に僕も、それ以上彼女を縛りつける事は出来なかったし。
黙って判を押す妻に、本当に申し訳ないと思った。
僕はたぶん、人生に未来を見ていないのだと思う。
見ているのは過去だけ。だから、今なんてどうでも良くて妻の事も愛せなかった。
僕の時間は止まったままで、僕は何時までもあそこに留まっている」

「……俺のせいか?」 相良が苦しそうに言う。
「うん、君がいたから」 桑原は、いとも自然に答える。
「俺も、お前がいたから」
「戻れないのにね、あの場所には」 諦めにも似た言葉に
「戻れないなら始めるしかないんだ」 希望の光を射す言葉。だから、それに縋りたい。
「いいの? 始めても」 
「お前が、あの窓からいつもグランドを見つめている時、俺は、お前が俺を見ているのだと気づいていた。
だから、ずっとそうして俺の事を見ていて欲しい…そう思った。
体育祭の借り物競技で、一番欲しい物……とあったのに、俺の頭には、お前しか浮んでこなかった。

バカだよな。あの頃から俺は、お前を好きになっていたのに、気づかぬ振りをして自分を偽り続けた。
妻にも子供にも。そしてお前にも、辛い想いをさせてしまった。そろそろ、自分の心に正直になっても良いのかも知れないな。

桑原…お前が好きだった。その気持ちは、今も色あせる事無く俺の心の中にある。
この12年間、俺はお前にそれだけを伝えたかった」
「うん。僕も、ずっと好きだった。だから、君と一緒に始めたい」 
笑顔で答えたはずなのに、言葉は繋がらず相良の顔が歪んで見えた。
「泣くな。俺は子持ちの、しがないサラリーマンだ。給料も安いし、何の取り得もない。それでも良いのか?」
「それでも、僕には君が眩しいんだ」

あの夕日に照らされたグランドで、大地を蹴る相良に見とれた。笑顔が眩しくて、いつまでも見続けていた。
そして、目も眩む程の喜びと絶望を与えてくれた人は、今止まった時間を動かして未来を幸せで満たしてくれる。
その眩しさに向かって、桑原は涙に濡れた最高の笑顔で笑った。


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