その手を掴んで  桑原麻葵



思いもかけぬ失敗で足元を掬われるとか、小さなミスが命取り…とかいうが
今回は、まさにそれを地でいくような結果になってしまった。
別に桑原本人の失敗ではないのだが、連帯責任という事なのだろう。
大切な場面で、極度に緊張したり、些細なことで激昂するタイプとは思えなかったメンバーの1人が、
契約の場に立ち会った相手の一言にカッとなって、いきなり殴りつけてしまったのだ。

怒った相手は、当然のごとく契約は白紙、挙句に今後の取引も打ち切ると言いだし、
会社にダメージを与えたとして、チームの責任者でもあった桑原は、
減俸の上 一週間の謹慎ということで処分が決定した。

ただ、この件に関しては、桑原が見ても非は向こうにあると思え、
報告書には、その場の状況だけは、きちんと書き添えた。
それを読んだ上司が、にやりと笑い、そうか…と言って頷いたところを見ると、
おそらく、もう一度折衝する事になるであろうと思われたが…。
それでも、処罰は免れない状況である事に変わりなく、

同寮は、首にならなかっただけマシだよ…と言って慰めてくれ。
ある者は、これで出世争いに、遅れをとった…等と言う者もいたが
桑原は今回の事が、自分にとって痛手だとは思ってもいなかった。

なぜ僕は…こんなにも自分の人生がどうでも良いのだろう。
その事の方が、はるかに問題で不可解な事のように思えた。

そんな諸々の事があったせいか、帰る途中で少し遠回りをしみようと思った。
家から少し離れたところを流れている川があり、その河川敷を通って帰路につく。
以前は、背の高い葦が茂って、人の踏み入れる状態ではなかったが、
今は、綺麗に整備されて、サッカーグランドに姿を変えていた。
其処では、子供達が声をかけながら、一心にボールを追いかけている。
大地を蹴り、躍動する脚が、夕陽を浴びてやけにきれいで、とてもまぶしく見えた。

あぁ…昔、あの脚に見とれたんだっけ…流れる汗が夕陽に光って、
汗と埃に塗れた笑顔が、とても眩しくて…眩暈がするようだった。
あの笑顔は、自分に至上の喜びと同時に、絶望と云うものを教えてくれた。
懐かしい思い出になる事もなく、今も心の澱となって、消え去る事も無く淀んでいる。
それに気づいたのは、上司の勧めで、妻と結婚してからだった。

妻を愛せない…。 
どうにか男としての役目は果たせても、快楽とは縁遠い、ただの排泄行為。
それは、まるで苦痛にも似て、桑原は、自分が妻を冒涜しているようにさえ思えた。
そして、次第に夫婦の営みを避けるようになっていった。
それでも、あまり身体の丈夫ではない妻は、さほど不満を口にする事もなく、
夫婦生活は、どうにか表面上は平穏に成り立っているように見えた。


「ただいま…」  ドアを開け、声をかけたが妻からの返事はなかった。
いつもは、もっと遅い帰宅なのだが、今日は処罰のせいで早い帰宅になったせいで、
キッチンにも、リビングにも姿の見えない妻に、夕食の支度の買い物にでも出ているのだろうと思い、
桑原は、着替えようとして寝室のドアを開けた。

そして…其処に見たのは…。
妻が見知らぬ男と、あられもない姿で絡み会っている場面だった。
一瞬、時間が止まったような気がした。
いつもは慎ましやかな妻が、髪を乱し男の腰に自分の脚を巻き付けて快楽を貪る姿は、
なぜか桑原の目には、ひどく淫らでもあり、とても自然なもののように写った。
恍惚とした妻の顔が此方に向き、桑原の姿を捉えると、
幽霊でも見たように目を見開いたまま硬直し…それを見た桑原は、
黙って背中を向けると、後手にドアを閉めそのまま家を出た。

あれが、本来の妻の姿なのだと思った。 自分は、妻にそれを与えてやれない。
だから、自分の責任で妻は悪くない・・そう思うだけで、
不思議と、怒りとか憎しみとかの感情は湧いてこなかった。
結局、夫婦はその後たいして話し合う事もなく、別れる事になった。
桑原は妻に、すまなかったと言う以外の言葉が見つからず、
妻はただ黙って、離婚届に判を押した。

会社も辞め、自宅で翻訳や校正の仕事をしながら、どうにか食い繋ぐ生活。
勉強しか取り得のなかった桑原は、教員とか国家公務員の資格だけは持っていたが、
それらを生かした仕事に就くでもなく、本当に情けない奴…自分でもそう思いながら、
それでも、自分1人なら何とか暮していける…と、小さく笑う。

ワンルームのアパートで、窓の外に広がる河川敷を眺めながら、
桑原は、遠い記憶の中の、眩しかった笑顔だけを見つめていた。



  その手をつかんで   残された父子

別れた妻が産んだ子供は、男の子だった。
産まれそう…との連絡をもらい駆けつけた病院で、初めて小さな命を腕の中に抱いた時、
自分の身勝手さで、結婚生活が続かなかった事を、相良は心から子供に詫びた。
その償いではないが、この小さな命に、父親として出来るだけのことはしてやりたい。
どんな事をしても守ってやりたい…そう思った。

だから、時間があれば子供に会いに行き、
子供が少し大きくなると、親子三人で遊園地や動物園にも出掛けた。

他人が見たら、仲睦まじい家族に見えていたのかも知れない。
妻の両親はもとより、相良の両親にも復縁を勧められ、
子供のためにと、気持ちが動かないでもなかったが、どうしてもそれは出来なかった。
彼女を、子供の母親として大切に思えても、
妻として愛せるかというと、また同じ事を繰り返すような気がした。
そんな関係が不自然でありながら、自然なようでもあって、毎日が充実しているように思え。
そのせいか、不思議と あの夢を見る事が無くなっていた。

だが…運命とは残酷なものだと思う。
子供が二歳になったある夏の日、突然彼女が死んだ。

仕事で子供のお迎えが遅くなってしまい、急いで保育園に向かう途中。
信号が変わったのに気付かずに、前のトラックを追い越した車が、
赤信号で交差点に突っ込んでしまい、横断中の彼女を跳ね飛ばした。

知らせを聞いて相良が駆けつけた時、案内されたのは地下の霊安室だった。
病院に運ばれて、間もなく息を引き取った彼女は、一度も目を開くことも無く逝ってしまった。
眠っているような彼女の顔は…なんだか、とても悔しそうで…ひどく無念そうにも見えた。
多分それは、迎えに行けなかった子供のことだったのだろう。

だから相良は、もの言わぬ彼女に約束した。
自分が子供を育てるから心配要らないと…安心していいよ…と。


あれから一年、相良は子供と二人の生活で、毎日子育てに奮闘する。
勿論、母親から多大な協力を受けてのはなしだが、
それでも、泣きたくなるような日もあれば…寂しいと思う夜もあったが。
彼女に誓った約束…それと、子供の顔を見ていると癒される苦労、
それがあるから…なんとか頑張れる…そう思っていた。

そんなある日、相良はふと立ち寄った本屋で、何の気なしに手に取った本を買った。
ミステリーなどと言うものは、ほとんど読んだ事が無かったが、
暇つぶしにと思って買ったそれが、意外と面白くて、
つい時間の経つのも忘れて、読みふけってしまったのだ。

以前にも翻訳物を読んだ事はあったが、そのときに感じた違和感がなかった。
正直あれは、ひどかった気がする。
そのせいで、二度と翻訳物は読みたくないと思ってしまったくらいなのだ。
翻訳する人間の感性や、言葉づかいとか、いろいろあるのかも知れないが、
この本はとても滑らかで、翻訳されているという印象を感じさせない。
一体何と言う人が訳しているのだろう…そう思って改めて名前を見た。

相良 葵…。 相良、俺と同じ姓じゃないか・・なんか余計馴染んでしまいそうだな。
意味もなく、親しみすら感じている自分が滑稽に思えたが、
それからも、本屋に寄ると何となく洋書の棚に脚が向いた。
そして、相良葵が、結構いろんな分野の、
それもかなり専門的な内容のものまで、翻訳執筆している事を知った。

普通は、それなりの知識がないと無理だろうと思うのだが…。
凄い人なんだ…と単純に驚き、感心する自分が可笑しくて、笑いがこみ上げる。

そうだ、息子にもなにか買って帰ろう…。ふと、そんな事を思い、
幼児向けの絵本を探すと、流石に相良葵の訳した物はなかったが、
自分でも読んでやれそうな、簡単な原文の絵本を一冊買うと、息子の待つ保育園へと急いだ。


いつものように、持参した弁当を食べた後、側にあった雑誌をぺらぺらとめくっていると、
そこに、相良葵のコメント記事が載っているのが目に止まった。
そして、コメントと一緒に小さな顔写真…はにかんだような、少し寂しそうな笑い顔は…。
まさか…相良は、その写真に眼を疑った。 もう、何年になるだろう…それでも記憶は鮮明に甦る。

桑原…お前だったのか。 けど…なんで、相良なんだ? まさか…俺の、名前なのか?

思い過ごしかも知れない…多分、思い過ごしなのだろう。
そう思いながら、心のどこかで、そうではないと思う自分がいた。

あの、行くあてを失って、宙に止まったままの細い指先が、今でもあのままだとしたら。
掴んでくれるのを待っているのだとしたら…。 いいや…あれから、もう何年経っている。
それにあいつは、先生と呼ばれるほど立派な人間になっている。
それに比べて自分は、勤めていた大手企業も辞めて、残業のない小さな会社に転職し、
毎日子育てに追われている、しがない子持ちのサラリーマン。
今更、あの手を掴めるはずがない…そんな事は判っている。

それでも…桑原の文章だから、自分は惹かれたのかも知れない。
そこに、桑原の匂いと…色を、感じたから、自分はあの本たちに惹かれた。
相良は開いていた雑誌をそっと閉じ、もとあった場所に戻すと、
食べ終わった弁当を袋に仕舞い、席を立った。


  その手を掴んで    垣間見えた過去

出版社の女性が、桑原の差し出した原稿を受け取ると、
「あ!そういえば先生のフアンだという読者の方から、面白い要望がきているんですよ」
ふと 思い出したように言った。 どうせ、苦情に近いものだろうと思いながらも、

「僕に…要望ですか?」  一応聞いてみると。
「はい、先生に幼児書の翻訳もやって欲しい…と、そんな投稿があったんです」
女性の言葉に、苦情ではなかったのか…と幾分安堵しながら、
同時に、少しの揶揄をこめた笑みを浮かべ、桑原が言う。

「幼児書…それは又、教育熱心なお母様ですね」
「そうですね。 でも、今は幼児の英語学習は当たり前ですから。
ただ、その投稿者は、母親ではなく、父親からのようでしたね。
相良さんの紡ぐ言葉は、とても優しいから、そこに広がる情景や色を、子供にも見せてやりたい。
確か、そんなふうな事を言っていたようです」
その言葉に、桑原の口元から笑みが消えた。

英語教育のためとか、お受験に備えてとか、そんな理由だろうと思っていた桑原は、
女性の言った言葉が、自分の予想もしなかった理由なのに意外な気がした。 
だから、幾らかの興味を持って、
「…そんな事を言ったのですか?」  聞き返すと、

「えぇ…相良さんの書く文章は夕陽の色ですって。 結構…っぽいですよね」
編集さんの女性は、微妙な言い方で語尾を濁した。 
だが桑原は、それよりも その投稿者の言ったという言葉が、心の奥の扉に触れるのを感じた。
「夕陽の色…そう言ったのですか? その男性は」
ざわざわと湧き上がる、喜びにも似た不安。
そして網膜に焼き付いて、どうしても消えない光景が目の前に広がり…。
「はい、もしかしたら同業者かも知れないですね」  そう言った女性の言葉は耳に入らなかった。

鼓動が早まり、やけに喉の奥が乾いて…ただ、目の前にある光景に辿りつくために、
その微かな糸を手繰り寄せるために、声を絞り出す声が掠れて聞こえた。

「…その人の、名前とか…判りますか? 一応、投稿してきた相手の確認はするのですよね」
桑原の様子に、女性はちょっと不審そうな表情を浮かべたが、
「まぁ…簡単に…住所、氏名ぐらいは…と思いますが」  曖昧に答えた。
女性の頼りない返事に、桑原は それを確かな糸にしようと、
「それ、なんとか調べていただけませんか?」  尚も言い募る…と、

「はぁ…それはかまいませんが、何か気になることでもあるのですか?」
完全に何かを察したような女性の言葉に、
「いえ、 あ、はい…もしかしたら、知っている人かも知れないので、どうしても知りたいんです。
もし、そうだとしたら…。 僕の事、気付いてくれたのかも知れない」
言葉にした途端、胸の奥から熱いものがこみ上げ…それは、不覚にも目まで潤した。

「…なにか、事情がありそうですね。
判りました、これから帰って調べてみます。 それで、判ったらすぐ連絡しますね」
「ありがとう…宜しくお願いします」  深々と頭を下げた桑原に、女性は優しい笑みを浮かべると
「先生、再会できると良いですね…その方に」  そう言って帰っていった。

信じられなかった。 まさかとは思うが、もしかしたら本当に彼なのかも知れない。
そう思うだけで、桑原の胸は高鳴り 息さえ苦しくなるような気がした。
いつも、教室の窓から眺め続けた。 言葉を交わしたのは何回あっただろう
それでも、ただ彼を見つめているだけで嬉しくて、幸せで……毎日窓辺に立ち続けた。


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