その手をつかんで−1     相良 海斗(かいと)×桑原 麻葵(あさき)



何かが舞っていた。 それは風に舞う木の葉のように、空に舞う柔らかな羽のように、
ふわりふわりと優雅に、漂い 舞いながら…伸ばした指先に、微かに触れた。

指先から痺れるような甘い疼きが伝わり。懐かしい…それは痛みを伴うほどに懐かしい記憶の中の手と重なる。
そして、その手を軽く引くと、ふわり…と羽より軽く腕の中に納まり。 少し寂しげな瞳が俺を見つめた。
だが…腰に添えた手に力を入れ、抱しめようとした途端。それは崩れ落ち、形を変え、
無数の花びらとも、蝶ともつかぬものとなり、一頻り乱舞すると跡形もなく消え失せ…目覚めた。

窓の外は柔らかな日差しに溢れ、思ったより長く眠っていたのだと解った。
目に、手を当て…やはり涙を流していた跡に思わず苦笑する。
まったくな…あれから何年経つんだ…もうすぐ12年だぞ。
自分で自分にそう言いながら大きな溜息を漏らした。

この12年、何度見た夢だろう…その度に、声もなく涙を流し目覚める。
それでも、此処最近は、あまり見なくなっていた。記憶の中で少しずつ風化し、徐々に忘れていくのだろう。
忘れる事ができないのなら、諦めて区切りをつけ、現実を見据えて…
何年か前から、いつも、そう思いながら、やはり忘れる事も出来ず、諦める事も叶わず。
俺って何やっているんだろう…目覚めるたびに自嘲しながら繰り返す。

ノロノロと起き上がると、コーヒーメーカーをセットし、そのまま浴室に行きシャワーを浴びる.
それから身支度を整え、出来上がっているコーヒーをカップに注ぎ砂糖を二杯。
なぜか、コーヒーは甘いのが好きだった。 ブラックも、ミルクもダメ…苦手。
糖分の取り過ぎ…と言われた事もあったが、これだけはどうしても譲れなかった。

その代わりという訳ではないが、コーヒー以外の甘いのはあまり口にする事もなかった。
菓子は勿論、調味料も甘いのは苦手、ソースもマヨネーズも、ケチャップなど論外。
つまり、口にして甘いと感じるものは どうも好きではないようで…
どちらかと言うと塩分の取りすぎではないか…そう思っていた。 だから、コーヒーだけが例外中の例外ともいえた。
そのコーヒーを飲みながら、相良は、これから会う相手の事を考え、少しだけ、気が重くなるのを感じていた。

相良の結婚生活は、たったの二年も持たなかった。
ある日、妻から突然別れの宣告をされ、信じられないほどあっけなく、
世間的には、まだ新婚ともいえる結婚生活は終止符を打った。
早すぎたせいか…などと思ったりもしたが、26才と言えば遅くはないが、早過ぎるという年齢ではない。
それとも、結婚事態が間違いだったというのだろうか…
そんな疑問に、妻は思いもかけない別れの理由を投げつけた。

「貴方は、いつも誰かの事を思っている。貴方の心の中には私以外の誰かがいて、私と話している時も、
笑っている時も…私を抱いている時でさえ…その誰かを想っている」
想像もしていなかった妻の言葉。なぜ妻がそんな事を言うのか、相良には理解できず、
その言葉は、認めるものではなく、否定するものでしかなく…だから、

「そんな事ない、俺は君を愛しているし、他に誰かを思うなんて絶対に無い」
そう言いながら、自分の心の片隅でひらひらと舞うなにか…それを見ている自分に初めて気づいた。

「そう言い切れるの? 誰もいないって…私だけだって。確かに貴方は、私を愛しているかも知れない。
でも、それは私自身ではない…私の手。この手だけを愛しているのよ」
「手?・・」
「そうよ…手。気付かなかったの? 貴方が、私の手に触れる時、どんな表情をするか。
本当に、愛しそうに触れる。切なくなる程に…泣きたくなるほどに。それが、私への想いではないとしても、
私への愛だと勘違いしたくなる程優しくて、悲しい。だから…もう、耐えられないの。
たとえ、どんな感情でもいい、私に向けたものが欲しい。でも、それを貴方に望んでも、無理な事だって解った。
別れましょう。今ならまだ、二人ともやり直せるから」

相良は、迂闊にも 彼女に言われるまで気付かなかった。 自分が見ていたものが何だったのか。
彼女に言われ…それを、はっきりと見たとき、やっと理解した。
だとしたら、やはり彼女を苦しめ、傷つけたのは自分で…全て俺が悪い。
だから、謝る以外なかった・・ただ申し訳なくて、
その時始めて、彼女に対して何らかの感情を込めた言葉を言ったような気がした。

「ゴメン、すまなかった。許してくれ」  妻に対する、最初で最後の心からの言葉を告げた。
「ありがとう…貴方が、始めて私に言ってくれた言葉ね。
貴方の気持ちの詰まったその言葉で、今までの渇いた結婚生活が、少しは潤ったような気がするわ。
最後に、貴方の心からの言葉をありがとう」
彼女はそう言って、涙に濡れた瞳で笑った。そして、夫婦は元の他人になった。

思えば、彼女の言った通りかも知れなかった。 相良は、彼女の細くて長いきれいな指に惹かれた。
ピアノを弾くという彼女の手が、遠い日の記憶の中の手と重なった。
あの日、宙に浮いたまま止まった手を…あの手を取っていたら…何かが変わっていたのだろうか。

相良が差し出した手に、伸ばされた手を掴めぬまま、
相良の手は横から伸びた、そう一つの手にさらわれてしまった。
それを後悔した事はないと思っていた…だが、あの手を忘れる事もなかった。

最後に目に焼きついた 宙に止まったまま、行く当てのない白く華奢な手。
たとえ、あの手を取っても…あいつは男で俺も男だ…どうにもならない。そう思い続けた12年…。
それは、止まってしまった時間。そして、あの一瞬に帰りたいと。今度は迷う事無くあの手を掴みたいと。
気付かせてくれたのは、比肉にも去って行く妻だった。

始めて後悔した。涙が溢れた。 何に対してか、どんな思いになのか。彼女に…あいつに…そして、自分に。
言い様のない感情が込み上げ、相良は声をあげて泣いた。そして、又…夢を見るようになった。



待ち合わせた時間に相良がカフェのドアを開くと、
彼女は、既にテーブルに座っていて、相良の姿を見ると小さく片手を挙げ、
「久し振り…元気?」  そう言って笑った。

今改めてみる彼女の顔は、相良と一緒にいる時より、生き生きと輝いているように見えた。
元々綺麗な女性だったが、相良との結婚生活に疲れてしまっていたのか、
それとも、相良が彼女を見ようとしなかったのか。こうして、目の前で笑っている彼女を見て、
改めて思い知らされた。彼女は美しく、とても魅力的な女性だったのだと。

「あぁ、何とかやっているよ…君も元気そうで、良かった」
言いながら、彼女の前の席に腰を下ろすと、それを待っていたかのように、彼女は自分の前のカップに手を伸ばし、
「ふふふ…女は開き直ったら強いのよ」
そう言って、カップにたっぷりのミルクを注いだ。
あぁ、そうだった。 彼女は、紅茶にはミルクをたっぷり入れて飲むのが好きだった。
結婚していたときには、気にも留めなかった些細なことが、今は鮮明よみがえる。そして

「そうかも知れないな…今の君を見ていると本当にそう思うよ。とても綺麗だし、生き生きとして輝いている」
一緒に暮らしていた時には、口にした事もなかったような言葉を、
別れた今になって、すんなり言えるのが不思議な気がした。すると案の定
「貴方にそんな言葉を言ってもらえるとは、思ってもいなかったわ。でも…だから、とても嬉しい、どうもありがとう」
彼女はそう言って、ちょっとだけ頭を下げる仕草をする。 あぁ、やはり…相良はなんとなくそう思った。

「ごめんな…今まで」
「もう、過ぎた事よ。いつまでも謝らないで」
「あぁ…ゴメン」
「ほらぁ、また」
彼女は屈託のない声で言い 本当に楽しそうに笑う。
だから、そんな彼女を見ながら、相良までもつられるように笑う。

以前の二人には、こんな他愛のない会話さえなかったような気がする。
そして最悪な事に、そのことに何の違和感もなかった。互いを見つめて笑い合う。
夫婦だった時にはなかったそれを、他人になって、始めて共有している。相良はその事に苦笑しながらも、
それが出来るのは、彼女のおかげなのだと心から思った。

「実は、今日来てもらったのは、報告したい事があったの」
彼女は紅茶を一口二口飲むと、それをテーブルに戻し、少しだけ真剣な表情で話し出した。
「報告?…」  
相良が聞き返すと、彼女は少し間を置き、意を決したように次の言葉を口にした。

「子供が、出来たの…」
「子供?…って、俺の?」 
「貴方以外誰がいるの? 別れる時、出来ていたみたいなの。
私も色々不安定で気付くのが遅れちゃって…今、5ヶ月だって」

晴天の霹靂のような、彼女の告知に、こんな時、男はどういう態度なり、言葉なりを発したら良いのか、
正直、相良はなにも思いつかなかった。 というより、嬉しいような…困ったような…複雑な戸惑い。
何しろ、離婚した元夫婦に、子供が出来たのだ。だから…。
「……で?」  愚かにも相良の口からは、そんな言葉しか出てこなかった。

「なに?その不安そうな顔。 大丈夫よ、撚りを戻そうなんて言わないから」
そんな言葉を口にしながら、彼女の目が悪戯っぽく笑う。
「えっ? あ、そうか…そういう事もあるのか…ゴメン、気づかなくて。でも…どうするつもりでいるんだ?」
なんとも他人事にも聞こえる相良の問いかけに、彼女は
「もちろん、産むわよ」  はっきりと言い切った。 

半分予想していたような、そうでないような彼女の答えに、やはり、どう言えば良いのか判らず
「産むって…君…」 
言ってから、自分の言葉がなんだか嫌がっている、そんなふうに聞こえ
相良は、少しだけ後ろめたい気持ちで彼女の顔を見た。 だが彼女は、

「大丈夫、一人で産んで一人で育てるから。せっかく授かった命ですもの。
少なくとも私は、貴方を愛していたから、その貴方の子供を産む事に迷いはないの…ただ…」
彼女はそこまで言うと、ちょっとだけ話すのを止めると、相良の顔を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の中に、彼女の強い意志のようなものを垣間見たとき、
相良は、自分のちっぽけな戸惑いなど、塵ほどの重さも無いことを知った。だから、きちんと覚悟を持って問い返す。

「ただ? なに?」 
「この子は…貴方の子供だという事を判っていて欲しいの。だからと言って、父親としての義務だとか、役目だとか、
そんな事を言うつもりも無いし、それを押し付けるつもりはないわ。貴方に迷惑はかけない…それは、本当よ」
「でも…一人でなんて…」
無理だろう…そう言おうとして、相良はその言葉を飲み込んだ。

「正直、母には反対された…どうしても産みたかったら、自分が貴方に会って、複縁してもらうように頼む…って言われた。
でも、私はそんなつもりはないの。だから、やっと母を説得して、きちんと納得してもらったうえで、
協力してもらう事になっている。だから、心配しないで」
「……」
言葉も出なかった。 そして、自分と彼女は本当に他人になったのだと思った。

「そんな顔しないでよ…出来たら、喜んで欲しいの。 自分の子供の誕生を…。
ただ、それだけなの…仮に喜んでもらえなくても、知っていて欲しい…子供の為に。
自分が生まれた事すら、父親に認めてもらえないなんて、可愛そうだから」
その時だけ、彼女の顔に翳りのようなものが浮かんだ。

それは、生まれてくる子供に対し、大人の身勝手さでハンデを背負わせる。
そんな、罪の呵責なのかも知れない。 だとしたら、責任は父親の自分にもある訳で…
腐肉にも、罪を意識する事で、相良は初めて自分が父親になる事を、自覚した。

「…解った。 僕からも頼む…元気な子供を産んでくれ。 
たとえ、一緒に暮していなくても、僕が父親である事に変わりはないからね。
子供の為に、僕に出来るかぎりの協力はする。そして、その子が無事生まれてくる事を、心から願っているよ。
君のような女性が、僕の子供を産んでくれる事に心から感謝する。本当にありがとう」
相良は本当に、心からそう思った。

男と女が、セックスをして・・ましてや結婚している夫婦が、避妊を考えなかったら、
愛情の有無や、回数とは関係なく、妊娠する事は充分有りうる事で、
形の上でシングルマザーとなってしまう彼女は、自分とは比べ物にならない、苦労とハンデを背負う事になる。
それでも産みたいと言った彼女は、すでに 強くて優しい、母親の顔になっているように見えた。

その時相良は、始めて彼女を護ってやりたいと思った。
男としてとか、夫としてではなく。子供の父親として、その子の母親である彼女を。
別れる前だったら、子供を間に普通の家庭が成り立ったのかも知れない。世の中の夫婦とは、
概ねそんなものだろうと思う。不平や不満を並べたて、その中に垣間見る僅かな愛情の欠片に妥協し、
そんなものだと、自分に納得させ納得し暮している。

自分達も、そうなるはずだった。 それなのに、俺達は別れた。
それが、間違いでなかった事は、今日の彼女の顔を見て確信した。
だから、自分も歩き出そう。 遅いかも知れない、それでも自分自身が納得するために、
あの手をしっかり掴むために。掴んで…二度と離さぬために…。


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