えにし

 絆

【縁を結ぶもの 5】


それから、村人たちが総出で懸命に理平の行方を探した。
そして夕刻になった頃、やっと、はるか下流の岸に打ち上げられている、理平の亡骸を見つけた。
激しい流れに揉まれたであろう筈なのに、理平の顔には傷ひとつ無く。
茜色の夕日を受けてまるで笑っているかのように、穏やかな顔をしていた。

「赤子が助かったのを見て、安心して逝ったのだろう」村人たちは口々にそう言って、はつを慰めたが、
どれほど慰められようと、夫が死んだ悲しみが癒されるはずは無く。
はつは、理平に取り縋るようにして泣き続けた。
自分が赤子の側を離れなければ、理平は流されながらも泳いで岸に辿りついたかも知れない。
そんな思いが、はつの後悔を呼び、理平へのすまなさで、涙は止まる事なく流れ落ちる。
それでも、穏やかな笑みを浮かべ、幸せそうにさえ見える理平の顔を見ていると、
赤子が助かった奇跡とも思えるあれは、理平の思いが成した奇跡だったのでは…そう思えてきて、
「はつ、赤子を頼んだぞ」理平の声が、聞こえたような気がした。

だが、理平を送るその夜から雨が降り出した。
雨は理平の死を痛むように、怒るように激しく地を叩き、瞬く間に沢の水を溢れさせ道を川に変えた。
そして夜だというのに、空は不気味な鉛色の稲妻で網の目のように村の上空を覆い。
地を揺るがすような轟音と共に天を切り裂き、村の木々をめがけて雷を降り落とした。
まるでこの世の終わりとも思えるような激しい雨と雷に、村人は恐ろしさで眠る事も出来ぬまま目を赤くして夜明けを待った。
だが次の日になっても黒雲は空を覆ったままで、村の空から日の光を消し去ったかのように思えた。

やがて雨は地を削り、押し流し、橋さえも落とし、村人の逃げ道を絶とうとする。
溢れた熊川は幅を広げ、田を水の底に沈め、刈り取った稲を押し流し、其処が田だったことも判らなくした。
村人たちは、それまで水神の事など頭にも無かった事も忘れ、水神様の怒りだと言って恐れ戦いた。
雨は三日三晩降り続き、四日目になっても止む気配も見せず。
そんな嵐の早朝、川のようになってしまった坂道を、流れに足を捕られながら泥に滑り下り。
祠の後ろにある森へと、足を踏み入れる理平の祖母の姿があった。

祖母は森に入ると其処に跪き、地に頭を擦り付けるようにして白露を呼んだ。
「主さま、どうかお怒りを鎮めてくだされ。
わしが、わしが悪かったのですだ。理平を、主さまから引き離したのは、わしですだ。
理平は、本当は主さまを好いておって、主様の元に行きたい。そう、わしに言いましただ。
それを聞いて、神様に懸想しとる理平がそら恐ろしくて、哀れで。
理平のせいで村に災いでもあったらと、わしは恐ろしくなったですだ。
わしが理平を引きとめ、嫁を持たせなければ、理平は主さまの淵におって死なずに済んだかも知れねぇ。
わしの、浅はかな考えが理平を死なせただ。主さま、すまねぇ。本当に、すまねぇです。
わしは、これから理平の流された川に入り、理平の元へ行って詫びるつもりでおりますだ。
こんな年寄りの命ひとつで、主さまの怒りが納まるとは思えんが、それでも頼みます。
このばばの命に免じて、どうか、どうか怒りを堪えてくだされ。お願ぇします」

祖母はそう言うとふらつく足で懸命に身体を支え、やっととの様子で立ち上がると森の奥に向かって、二つ折りになって頭をさげた。
それから森を後にしようと背を向けた。その時、背後に何かの気配を感じた。
そしてその気配に向かって振り向くと、其処には真紅の瞳から、血のように真っ赤な涙を流している美しい少年が立っていた。
半分透けて見えるその姿はどう見ても人とは思えず。なのに、透けた足には赤い鼻緒の草履を履き、
水が滴り出来たような髪を赤い組紐で結わえているその少年が、理平の言った白露だと一目で判った。

『男神さまじゃったのか。それにしても、なんと……。理平が懸想したのも、無理も無いかの』
祖母は、白露を見つめそんな事を考えていたが。白露は、ひやりと冷たい手で祖母の手を取り。
「ばばさま。わたしは、理平を失った悲しみで今にもこの胸が張り裂けてしまいそうです。
そんなわたしの悲しみが、仄暗い憎しみを生みだし、流す涙までもが血の色に変わってしまいました。
理平の嫁御も、赤子も。わたしから理平を奪ったもの全て流れてしまえば良い。
そんな呪詛のような、黒く禍々しいいものが、身の内から湧き出て止まらぬのです。
それに……。最後まで、自分の命と代えても赤子を守ろうとした理平にさえ怒りが湧いてくるのです。
理平はわたしに嘘を言って赤子を助けさせた。そんなふうに思えて憎くくさえ思えてくるのです。
理平がそのような人間ではない事は解っているはずなのに、わたしの心がわたしの言う事を聞かない。
理平の大切にしたものを、わたしが壊してしまう。それを自分で止める事が出来ない。それが悲しくて辛いのです」
そう言うと白露の赤い目から、目の色と同じ赤い雫がはらはらと零れ落ちた。

自分が、好き合うている者を引き離し。そのせいで理平は死に白露は悲しみを憎しみに変えて悪神になろうとしている。
理平を諌めた事が、災いを生もうとしている。そう思うと、祖母は自分のした事を始めて後悔した。
それでも、二人のどちらかにでも、何を捨てても……そんな強い想いがあったなら違っていたかも知れない。
だがそうするには二人とも優しすぎたのだ。今となってはせん無い事だが、理平の為にも白露を悪神にだけはさせてはならない。
祖母はそう決心すると 「主様。理平は幸せ者です。人の身でありながら、主様にそこまで想われてほんに幸せ者です。
けどな、今のままじゃったら主様は、災いを齎す悪神になってしまう。それは、理平が一番悲しむことですだ。
理平は言っておった。主様はほんに優しい方じゃと。虫も殺せんような優しい方じゃと。
そんな優しい主様を、理平は好いてしまったのじゃろう。だから、縁を結んだ。
それは、いつかもう一度主様の前に立ちたい為ですだ。わしは、そう思うております。
理平は、いつか自分と同じ魂を持つ者が、理平の血を受け継ぐ者の中に産まれる。
そして主さまの前に立ち、理平の想いを伝えてくれる。そう信じておったのじゃろう。
だから、あんなにも穏やかな顔で逝けた。そうにちげぇないです。
むしの良いお願ぇだが、理平のためにも、これ以上理平の死を悲しまねぇでやってくだせぇ。
それで……いつかその者が主様の前に現れるまで待ってやってくだせぇ」
言いながら祖母の目にも涙が溢れ、降る雨に紛れて頬を伝い流れ落ちた。

「理平と同じ魂を持つ者。理平の血はあの赤子に受け継がれ。いつかもう一度わたしの前に現れると」
そう言うと、白露の口元に僅かに笑みらしきものが浮かんだように見えた。
だが同時に白露の姿は益々透けていき。歪み始め、今にも崩れそうになっていた。
それを見た祖母が、最後とばかりに精一杯の思いを込めて大きく頷く。すると
「ばばさま。蝗…美味し……かった……」微かなその言葉を最後に人の形が崩れ落ちたと思うと白露の姿は消えてしまい
祖母の足元には赤い鼻緒の草履と赤い組紐だけが残された。

ああは言ったものの、理平の血を継ぐ者が白露と廻り逢うとは限らない。
だが、叶う事なら……。いつか理平の想いを継ぐ者が産まれ、白露と回り逢って欲しい。
祖母はそんな事を思いながら、白露が残していった赤い鼻緒の草履と、組紐を拾い上げた。
白露の姿が消えて半時もすると、ほんの今しがたまで、滝のように降り注いでいた雨が嘘のようにピタリと止み。
空を覆っていた黒雲は消え去り、みるみるのうちに空は、抜けるような青さと日の光を取り戻した。
それでも、嘗て無いほどの雨に叩かれ嬲られた田畑は、作物のほとんどを失い荒地に変わっている。
その惨憺たる有様を目の前にして、村人たちは言葉も無く立ち尽くすだけだった。

だがそんな中で、赤子を背負ったはつだけが、気丈にも理平の弔いの支度をし始めた。
泣いていても何も始まらない。ならば理平の最後の願い。『赤子の為に泣くまい』
はつはそんな思いだったのだが、不思議な事に、はつの思いが伝わったかのように村人たちが集まりだし。
まるで、何事も無かったかのように、理平を送る弔いが執り行われた。
そして村人たちは、弔いが済むとそれぞれが自分の田や畑へと出て行く。
祖母は少しだけ切り取った理平の髪を、白露の残した赤い組紐でくるくると巻くと、
それを草履と一緒に懐に入れもう一度祠の前に立った。

『白露は二度と姿を見せる事は無いであろう』そう思いながら、もう一度あの真紅の瞳を見てみたい……とも思った。
祠の扉を開くと、中に何かが置いてあるのに気付き、祖母はそれを取り出した。
雨が入り込んだせいで、祠の中は水浸しにも関らず、その懐紙らしきものは少しも濡れていなかった。
開いてみると、零れる日の光のような髪が、大事そうに包まれてあるのを見て。
白露の髪。理平が納めたもの……祖母はそう思った。
そして、理平が此処に立ち、会えぬ白露を偲んでいたであろうと思うと、今更ながら理平と白露が哀れに思えてならなかった。

「理平。ほんにすまなかったの。今更侘びてもどうにもならんが、せめて此処に主様と一緒に納めてやるからの。
もう何があっても、離れるではないぞ」
祖母はそう言いながら、涙をぼろぼろと零し。懐から理平の髪を取り出すと白露の髪と一緒に懐紙に包んだ。
そして、先に置いた草履の上に二人の髪を乗せ。
「これからは、此処で誰憚る事無く仲よう暮らせ」小さく呟くと、祠の扉を閉めた。

理平の家の田は、川より高いところにあった為、幸いにも稲は流される事も無くそのまま残ったが、
ほとんどの田の稲は流されてしまっていた。それなのに、村人たちが田畑を見て回ったところ、
水に沈んだだけで田に留まっている稲が、いくらかは残っていたのには皆驚いた。
それらの稲は、不思議な事にあれほどの流れにも関らず、稲穂をしっかりと付けたままだった。
そして、無駄と思いながらも天日に干してみると、刈り取った後と少しも変わらぬように籾を膨らませた。

それで、残った稲はほんの僅かで、来年の種籾にしたら自分たちの口は養えない。
途方にくれる村人を前に、祖母は、脱穀した米を村人たちで平等に分けると言い出した。
「充分ではないにしろ、どうにか飢えだけは凌げる。こんな時に助け合わんでどうする」
毅然と言う祖母に、父親は害の少なかった他の村人たちにも、自分から頼んで回った。
そのおかげなのか、その年は嘗て無い凶作だったも関らず、明日の米にも困る家は出なかった。

そして次の年も、籾苗は皆で分け合い、田起こしや田植えも今までに無いほど助け合った。
村人が力を合わせた結果なのか、水が上流から肥えた土を運んできたのか、それとも……溢れた水が命を育む水だったのか。
秋には、どの家の田も黄金色の稲穂の海となり、前の年の凶作を補うほどの豊作となった。

理平の死から一年が経ち、はつの周りでは、笑い声を上げて走り回る赤子の姿がある。
そして、理平の父親はその次の年田を二枚増やし、其処で獲れた米を種籾にする事にした。
苗となって、村人の田に植えられた白露の恵みは秋には実に結び、村を近隣に名を馳せる米処にしていった。
祖母は、刈り入れが終わると新しい草履と組紐を買い。蝗を煮てそれを祠に納める。
やがて祖母のそれを理平の母親が受け継ぎ、はつが受け継ぐ。水に呑まれて尚生き延びた子、水神様の加護を受けた子供。
皆にそう言われ大切に育てられた赤子は成長し、何処と無く理平に似た面差しの立派な若者となり。
白露は翠の淵で、水面を水鏡に毎日その様子を眺めていた。

理平は死に、赤子はすくすく育ち、作物は益々豊かに実り。やがて皆の記憶から理平が少しずつ薄れていく。
それで良いのだとも思いながら、それが悲しいと思い。理平が恋しい……と思った。
白露は、理平を失ってはじめて、理平に向けた自分の想いが何だったのかを知った。
祖母の言うように、人には畏怖の感情がある。自分を選べる筈が無い。それなのに自分は理平に選ばせようとした。
自分が選ばなければ人が畏怖を乗り越え人では無い者とは契れない。
だが、その事に気付くには生きてきた年月こそ長くとも、白露は幼過ぎたのかも知れない。
「理平。わたしは、ばばさまのおかげで、邪龍にならずに此処に留まっていられます。
だからこの地で、理平の大切にしたものたちを守り続けます。
そして、いつか理平の想いをわたしに伝えてくれる者が現れるまで、この淵で……」
白露はそう言うと、手にしていた草履をそっと胸に抱いた。

それは、理平の着ていた着物の端切れで作った鼻緒を挿げた草履。
理平の祖母が、母が、嫁が……毎年祠に納める理平の形見。
それを抱きしめる白露の真紅の瞳から、一粒の透明な雫が流れ落ち。白露は淵へと繋がる森を閉じた。

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