えにし

 絆

【縁を結ぶもの 4】


祝言をあげてなお、白露に会いたい気持ちをどうしても押さえることが出来ず。
日をおかず白露の元へ通う理平に、「日を置いても良いのですよ」白露は笑いながら言った。
その言葉は、理平に少なからず寂しさを与え、自分は嫁をもらっていながら……と思いながらも孤独感覚えた。

白露の無邪気な笑顔は静かな笑みに変わり、理平の名を呼び飛びついてくる事も無くなった。
そして白い肌は、日毎少しずつ透けていくように見え、今にも消えてしまうのでは。
そんな不安にも似た思いが、理平の胸をざわめかせる。
それなのに、足には赤い鼻緒の草履、赤い組紐は白露の月色の髪にあり、目に鮮やかに突き刺さる。
そしてその鮮やかな赤が、自分と白露のえにしの糸のようにも思えた。
おらは、間違えたのでは。理平の頭に、そんな考えが浮かぶ。

あの時白露は、自分の問いかけに、ただ笑って答えなかった。
だから、それが白露の拒みだと勝手に思った。だが答えを、自分に預けたのだとしたら。
人と、人ではない者二人の行く先を、自分に選ばせようとしたのだったら。
人の世で、人として生きる事を選び、何があろうと白露と共にそう決められなかったのは自分。
そう思った時理平は、自分の選べなかったものが、自分の心からの想いだった事に涙した。

家も、家族も全てを捨て、今からもう一度白露とそう思った理平に、
嫁のはつが嬉しそうに、子が授かった事を告げた。
夫婦なら、別に不思議でも何でも無く、むしろ目出度い事に他ならないはつの懐妊が、
理平には、目の前にぽっかりと開いた奈落の淵そんなふうに思えた。

自分で間違えたのだ最後まで、悔いながら生きろ。そういう事なのか白露。
それなら、おらは白露をいつか天に昇らせるために・・人として生き、おらの血を繋げよう。
理平の乾いた笑い声は夜の闇に溶け流す涙は地に吸い込まれ、跡形もなく消え去り。
白露との出会いから、もう直ぐ4度目の夏が訪れようとしていた。

淵に着くなり理平は、大仰とも思えるような声で白露を呼び、
「白露、今年の暮れには、おらの子が生まれる。喜んでくれるか?」と、子供が出来た事を告げた。
すると白露が、一瞬目を瞬かせてから 、
「御子が生まれるのですか?」と、理平の言葉を確かめるように言い、その顔が満面の笑顔に変わった。
「それは、目出度いことですね。理平の御子なら、さぞかし可愛いでしょう。わたしも楽しみです。
理平は既にその日が待ち遠しくて、毎夜指折り数えているのではないですか?」
掬うような目で理平を見上げると、まるでからかうような口ぶりで言った。

久方ぶりに見る白露の曇りない笑顔は、決心したとは言え、理平の心に小さな痛みを感じさせ。
「そうかも知れねぇ。後は、無事に生まれてくれれば、役目がひとつ果たせる」
思わず、心にある本音が口を割って出たが、白露はそれに、気付いたのか気付かないのか。
「役目などと、そんな事を言ったら嫁さまに叱られますよ」やはり、笑顔のまま言う。
その笑顔に背中を押されるように、理平は決意への一歩を踏み出した。

「そうだな、これから腹が大きくなると、畑仕事も難儀になるだろうから、その分おらが手伝ってやらねぇとな。
だからひょっとすると、今までのように会いに来れねぇかも知れねぇ。すまねぇな、白露」
「良いのですよ。理平は父さまになるのですから、どうか嫁さまを大切にしてあげてください」

その日を境に、理平の白露の元に通う日が減りその代わりではないが、
理平は森の入り口に建っている、朽ちかけた祠を新しく建て替えた。
そしてその中に、こっそりと切り取った白露の絹糸のような月色の髪を納め毎日祠の前に立った。

理平は、田に畑にと寝る間も勤しみ働き、その間にも、はつの腹は目に見えて大きくなっていく。
そしてある夜、はつの腹の中で赤子が動くのを自分の手に感じた時、
今まで漠然としていた赤子が、現実のものとして、その存在を理平に伝えてきた。
この子が、おらの血を次に繋いでくれる。そう思った途端嬉しさがこみあげ、理平は、はつを抱きしめていた。
純粋に赤子への愛情なのか、白露への想いの歪んだ愛情なのかそれでも、愛しい思いだけは確かで。
理平は益々仕事に精を出し、はつを愛で、その年の暮れ、はつは玉のような男の子を産んだ。

作物は豊かに実り、家の中には赤子の泣き声と共に笑い声が響き何もかもが順調に、幸せに過ぎていく。
そして理平は親や嫁の笑顔の中で笑いながら、淵で一人きりの白露を思い心を涙で濡らした。

白露は、理平が姿を見せると嬉しそうな笑顔を見せたが、以前のように村での様子を聞くでもなく、
ただじっと、まるで理平の温もりを確かめるように、寄り添っているだけだった。
そして理平もまた、白露の肩を抱いたまま、着物の肩口が濡れるのは白露の涙のせいそう思うと、
その肩口から、欲情にも似たものが、徐々に広がっていくのを感じていた。
そんな自分を、そら恐ろしいと思い、浅ましい罰当たりとも思いながら、愛しさは益々募り。
その想いに逆らうように、理平の、淵に通う日は次第に間が空いていった。
三日に一度になり、五日、七日となって。この頃になると、十日に一度ほどになっていた。

「すまねぇ」何に対してすまないのか判っていながら、理平は白露に詫びる。
「なぜ、そんな事を言うのですか。少しも、詫びる事などないのに。
理平が、月に一度でも会いに来てくれたならわたしは、それだけで嬉しい。
理平が幸せに暮らしているそう思うと、残り29日の一人も、寂しくはないのですから」
笑顔でそう言いながら、白露の瞳からは止まらぬ涙が零れ落ちる。

抱きしめたいと心から思い。抱きしめたら、もう止められない戻れないと、思う。
それでも良い、自分の血を繋ぐ子は残した。だから戻らなくても良い頭の片隅で囁く自分の声が聞こえ。
だがその子を見守り、育て、次に血を繋ぐのを見届けなくては。白露を天に昇らせるために。
自分はその為に、白露と縁を結んだ。戒めるもうひとつの声が聞こえる、
そんな二つの声を聞きながら、縁とは想いに縛られる事理平にはそんなふうに思えた。

澄んだ秋晴れの高い空に、柿の実が目にも鮮やかに映る頃、
稲刈りの済んだ田には稲木が立ち並び、側を流れる熊川には鮭が上ってくる。
これから訪れる冬を前に、理平はその鮭を捕えるために、川の浅瀬に立ち流れに竿をさしていた。
中州に敷いたゴザの上では、はつが赤子に乳を飲ませながら、子守唄を口ずさんでいる。
穏やかな秋の日の、幸せな家族のひと時が、其処にあった。

「おまえさま、ちょっくら田に戻って、背負子を取ってきても良いかね。
昨日おっか様が、自分の背負子を田に忘れたで、持って帰るよう頼まれていたのを、忘れておった。
赤子も、寝付いたところだで、暫くは目も覚まさんと思うから、田に行って来ても良いだろうかの」
はつに声をかけられ、岸辺を見るとゴザの上では理平の背負子に乗った赤子が、すやすやと眠っていた。
田までは、半時もあれば行って戻ってこられる。だから、理平は、

「判った。背負子の紐に、その辺の石でも乗せておいてくれるか」何気なくそう言った。
はつは、理平に言われたとおり背負子の紐に大きめな石を載ると、くるぶし程の浅瀬を岸へと渡っていく。
それほど大きな川ではなく、川の半分以上は膝まで届く程度の水嵩しかない。
理平の立っている場所あたりから、対岸に向かい徐々に深さを増していくが、
それでも、対岸の一番深いところでも、大人の背丈ほども無かった。

はつが、川に理平と赤子を残し田に向かってから、四半時もしないうちに、
川上で、どーん!と地を揺るがすような音がし、何事かと、目を川上に向けると
目の先に、何かが盛り上がって押し寄せてくるのが見えた。
それが何かと考える間もなく、理平は突然水に足を掬われ流れに飲み込まれた。
したたか水を飲んで、それから必死に浮き上がると、目の前に見えた熊笹の枝を掴む。
その時になって、押し寄せてきたのが鉄砲水だったのだと、初めて知った。

そして、赤子は!そのことに気付いて、辺りを見回すと理平より少し上流の中洲のあった場所に、
今にも水に呑まれそうに浮いている背負子が見えた。
中洲は既に水の下で、はつが紐に石をのせたおかげで背負子は流される事なく、その場に浮いていたが、
赤子は流されたのではそう思った時、水音をぬうように赤子の泣き声が聞こえた。

無事だ!ホッとすると同時に、どうにかして赤子の側に・そう思うのだが、
水の流れは、益々激しく滔滔と流れ、掴んでいる熊笹を離したら、川上に向かって泳ぐどころか、
岸に辿り着く事も出来そうもなく思えた。このままでは、赤子は直にでも水に呑まれてしまう。
誰か赤子の泣き声に気付いて、赤子だけでも理平は、ただひたすら声を張り上げて、助けを呼んだ。

誰かーーー!助けてくれー!赤子が流される、だれかーーー!!
叫ぶ毎に、口には水が入り苦しさに、何度も沈みそうになりながら、理平はそれでも叫び続けた。

熊笹は、流れに押し流される理平の身体を繋ぎとめるには、余りにも頼りなく、か細く。
掴んでいた手が、ずるずると滑り、今にも手から離れてしまいそうになる。それを、あらん限りの力で握りながら、
身体に纏わる水の流れに、叶わぬ想いを抱き続けた白露の事を思った。

白露おらはもう、約束を果たせそうもねぇすまねぇ。
とその時、理平を嬲る水の流れが穏やかになり、身体が何かに包まれたような気がした。

「白露?白露か!」 白露の名を呼びながら、自分を包み込んでいる水が、白露だとなぜか確信した。だから、
「白露!おらは良い。頼む、赤子を赤子を助けてくれ!」必死に呼びかけるが、返ってきた答えは、
「嫌です。わたしは、理平のために来たのです。赤子など」
赤子など初めて聞く白露の冷ややかな言葉に、理平の頭の中が真っ白になった。
白露が、こんな薄情な事を言うはずが無いそう思いながらも、これが白露の本当の思いだったのでは。
そんな気がし、今まで自分の想いを持て余すだけで、白露の想いに気付けなかった事に、
今更の後悔をしながらそれでも、何とか赤子を助けてもらわねばそんな思いで、

「すまねぇな、白露勝手なことばかり言って本当に、すまねぇ。
けど赤子は、背負子がひっくり返ったら死んでしまうが、おらはこうして、捕まっていられる。
赤子の後でも大丈夫だ。おらの為にと言ってくれるなら、頼む赤子を助けてやってくれ」
「嫌だ!いやだ!!わたしは、理平がいれば何も要らない!赤子など、どうでも良い。
わたしは、理平のいない天になどに昇りたくもない。淵で、ずっと理平と一緒に。
これからは、月に一度などと言わない、年に一度でも我慢する。だから、言ってください、一言助けろと。
わたしには、理平の意に沿わぬ事は出来ません。理平が願わなければ何も出来ない

「そうかおらが願わなければ、助けられないのか。だったら、おらはこのままで良い。
おらは、神様に懸想をした罰当たり者だ。だからその償いに、白露を天に昇らせると決心した。
そして白露が天に昇る時、おらもその背中に乗って天に昇る。そんな夢みてぇな事を、願っていたんだ。
白露それでも天に昇るのは嫌か?おらを連れていくのは嫌か?」
「理平。それならわたしが、赤子を岸へ運び戻って来るまで、必ず待っていてください。
今のわたしの力では、理平と赤子を同時に助ける事は出来ません。だから、約束してくれますか」
「ああ、約束する大丈夫だ。白露を一人にはさせねぇ」

理平の笑い顔と同時に、流れは元の激しさを取り戻し理平の前から流れに逆らうようにうねりが遡り始めた。
そして、赤子の側まで行くと、赤子を飲み込むように水が覆い被さり、うねりは岸へと進んで行く。
既に岸には村人たちが集まり、その中に泣き崩れるはつの姿がありうねりが、はつの目の前に、
大量の水に載せた赤子を吐き出した途端に赤子の泣き声が響き渡り、はつが赤子をかき抱くのが見えた。
それを視界の隅に捕らえ理平の手がゆっくりと掴んでいた熊笹から離れる。そして、
白露すまねぇ・・な・理平の微かな声とその身体は水の中へと飲み込まれていった。

白露が戻った時、理平の姿は何処にもなくただ、理平の掴んでいた熊笹の葉が千切れ、
細い枝だけになりながら、流れの中で漂うように揺れていた。
「理平?理平ーーー!理平ーーーーっ!!」
岸にいる村人には聞こえない、白露の悲鳴のような声が、空に水中にと木霊し響きわたる。

あれほど約束したのに待っているとわたしを一人にしないと約束したのに
わたしにうそを言ったのですか。
どれほど呼んでも、白露の声は理平に届く事もなく、次第に治まる流れに連れ添うように、
白露の声は次第にか細くなり、消え入るように流れに溶けていった。



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