えにし

【縁を結ぶもの 3】


それから理平は、三日と日を措かず淵へと通った。
苗は日に日に緑濃くすくすくと育ち、泥の中では沢山の泥鰌が丸々と太り、
その泥鰌を捕まえに田に入る、村の子供たちの声が響き渡った。
そして夜には無数の蛍が飛び交い、ほんの数日の命で田をぼんやりと浮き上がらせ。
その様が見事に美しいと、またも村人が田の回りに集まり一夜の宴を催す。

やがて、嘗て無いほどのたくさんの小さな穂をつけた稲が、少しずつ頭を垂れ。
村の神社では、夏祭りの囃子や太鼓の音が聞こえるようになっても、理平は淵に通い。
他愛も無い日々の出来事を、白露に話して聞かせた。
白露は、それを嬉しそうな顔で聞きながら、時に声を上げて笑い、時には拗ねて理平に文句を言い。
人と同じように、様々な表情を理平に見せた。
そのたびに、白露に自分の見るものを見せ、聞くものを聞かせてやったらどれほど喜ぶのだろう。
白露が人だったら、自分と白露は同じ時を過ごせる。理平はそんな思いを抱いた。

理平が淵で過ごす時間は、理平の一日の時間から見事に消えうせていたので、
たとえどれ程の時を淵で費やそうと、誰も不審に思う者はいなかった。
だが淵から戻った理平は、まるで淵での時間を埋め合わせるかのように、ひたすら眠り続け。
そんな理平を、理平の身近な者は、理平の奇病はまだ癒えていない。そんなふうに思っていた。

それでも、何度も淵に通っているうちに、徐々に理平の眠る時間は短くなり、
いつの間にか、昼寝をする程度の時間で、済むようになっていた。
すると、理平の淵に通う日は、更に多くなり、ほとんど毎日といって良いほどになった。

やがて季節は巡り、山の紅葉や漆の葉が真っ赤に色づく頃、
理平の家の稲は、村の何処の家の稲より沢山の穂を実らせ、黄金色に輝く。
理平は、刈り取った稲を稲木にかけながら、足元で跳ねる蝗を見て、その多さに驚いた。
それなのに、稲には何の害も無く……有りはずがないと思いながら、やはり何もかもが去年までと違う事に。
稲も、虫も、生き物全てが、それぞれに脈々と息衝いている事に。
白露の言った、命を育む水。その言葉の意味が、初めて解ったような気がした。


「これは……。何ですか。何か、足のようなものが出ていますが、もしかしたら、虫……ですか」
そう言うと、白露は指先で摘んだものを、恐る恐るといった様子で眺めながら、気味悪そうに眉をひそめた。
その様子が、可愛いというか、可笑しいというか。理平は心の中で、為て遣ったり…と思いながら、

「うん、蝗だ。白露の水のおかげで豊作だったせいか、今年は蝗もやたら多くてな。
本当なら、蝗は稲の大敵なんだけど、不思議と稲は食い荒らされていなかった。
白露の水で育ったものは、米の一粒、虫の一匹も無駄にしちゃ罰があたる。だから、有難く食う事にした。
そんな訳で、ばっちゃが、蝗を煮てくれたから白露にも持ってきてやった。旨いから食ってみろ」
そう言うと、蝗をひとつ摘むと口の中に放り込んだ。

甘辛い味の蝗は、少しだけ口当たりは良くなかったが、理平は美味そうに蝗を食べる。
それを見ていた白露が、もう一度自分の指先にある蝗を繁々と眺め。
もう片方の手で、足と思しきところを摘みもぎ取ると、目を瞑って残りを口に入れた。
考えてみると、人ではない白露が、物を食べるのかどうかも判らないのに、理平に言われ蝗を口にしている。

その顔を見つめながら、おらは…本当に罰当たりな事をしているのかも知れない、と思う。
自分の見るもの、聞くもの、味わうものを白露にも……そんな事を思い。
人にあらざる者に人と同じように、と願う自分が滑稽でもあり、哀れにも思えた。
そして理平は、何を思ったか淵の傍の木を切り倒すと、其処に小さな小屋を建て始めた。

毎日淵に通い、小屋を作る理平の傍では、白露が楽しそうに足手まといの手伝いをする。
白く華奢な手で柱を押さえては柱と共に倒れ、羽目板を踏み外しては擦り傷をつくる。
それでも、長く艶やかな髪を鳥巣のように乱しながら、絶え間ない笑顔を理平に向けた。

そんな白露のために、ある日理平は町に下り、赤い鼻緒のついた草履と、同じく赤い組紐を買い求めた、
それをこっそり懐に忍ばせ、白露の目の前で懐から取り出すと、
いつも裸足でいる白い足に草履を履かせてやり、光を纏ったような長い髪を組紐で束ねてやる。
白露の、水を張ったような瞳から溢れた雫が、透けるように白い頬へと伝い流れた。

白露と過ごす時間はそれだけで楽しく、白露が喜ぶ。それは理平にとって、この上なく幸せな事で。
白露が人であったなら……そんな思いが理平の中で益々膨らんでいく。
そして一年をかけ、やっと小さな家らしきものが完成した時、飛び跳ねて喜ぶ白露を見ながら、
此処で白露と一緒に暮らせたら。自分は、白露がいなくては生きていけないかも知れない。
そんな事を考えている自分に気付いた。


だが、誰も気付いていない筈の理平の行動きや、心の変わりように気付いていた者がいた。
理平はある日、家を出ようとしたところを、突然祖母に呼び止められ、部屋に来るように言われた。
そして、祖母は目の前に前に座った理平に、
「理平。おめぇは、家の者に何か隠していねぇか。
とっちゃや、かっちゃは、何も気付いてねぇみたいだが、ばっちゃには、よーく判ってるだぞ」
祖母は、いきなりそんな事を言い出した。理平は一瞬、白露の事を思ったがそれを打ち消すと。

「ばっちゃ、何の話だ?おらは、隠し事なんてなんもしてねぇだ」そ知らぬ顔で答えた。
すると祖母は疑わしそうな顔で、理平の顔をじっと見つめていたが、はぁ〜と小さく息を吐き出すと。
「理平、悪い事は言わねぇ。もう、森さ行くのは止めろ。
おめぇが、何かに憑かれたように……足しげく、森さ通っているのは判っているのだぞ。
考えてみりゃ、おらん家の田が人様の田より豊作になったのも、牛が良い乳を出すようになったのも、
おめぇが、森さ行くようになってからだ。ひょっとすると、その何かのおかげかも知れね。

けどな。そんな力を持っているのは、人ではねぇ。幸い、今のところは、悪さはしねぇみてぇだけど、
そのうち、何を捧げろと言いだすか判ったもんじゃねぇ。
判るだろう理平。たとえ神様であったとしても、ただじゃ何も恵んではくれんぞ。
ばっちゃはな、おめぇを見ていると、その何かが恵みと引き換えに、おめぇを連れて行く気じゃねぇか。
そんな胸騒ぎがしてなんねぇだ。頼むから、もうそれに会いに行くな」
まるで理平の心を読んだような、祖母の言葉に、まさか気付かれていたとは思いもしなかったのと、
白露の事を、悪神か何かのように思われているのが悲しく。思わず口が滑った。

「はくろは、白露はそんな事は言ねぇし、悪い事もしねぇ。優しい主さまだ」
言ってしまってから、しまった!と思ったが既に遅く。祖母は、一瞬息を呑むと怖いぐらいに表情を強張らせ、
「理平!白露と言うのは、その主さまとやらの名前か!おめぇ、名前を聞いたのか!」
祖母には珍しく強い口調で聞いた。その様子が、ただならぬ事のようにも見えて、理平は戸惑いながら、
もしかすると祖母なら、白露が何者なのか知っているのでは……そんなふうに思った。

「い、いや。名前を聞いたら、名前は無いって言うからおらが付けた。
ばっちゃ。ばっちゃには、全部判っているみてぇだからおらは全部正直に話す。聞いてくれるか?」
理平はそう言うと、水を得ようと森に足を踏み入れた時から、今に至るまでの事を祖母に話した。
ただ…小屋を建てた事と、其処へ自分も住みたいと思った事だけは言わなかった。

祖母は、やはり真剣な顔で理平の話を聞いていたが、理平が話し終わると一際大きく息を吐き出し、
「その主さまは、お前が名前をつけたおかげで、ただの主さまから竜王になっただ。もう、縁は切れねぇ」
妙に掠れた声でそう言うと、がっくりと肩を落とし。その姿は理平の目に、祖母が一回り小さくなったように見えた。

祖母の口から出た竜王が何なのか解らなかったが、祖母の様子からあまり良くないもの。そんな気がした。
だから、白露が祓われてしまう。それだけは止めさせなくては。理平の頭の中はその事で一杯になり、
「ばっちゃ。白露は、ばっちゃが思っているような、悪いものじゃねぇ。優しくて良い子だ。
竜王さなったとしても、絶対に悪さなんかするような子じゃねぇ。本当に、虫も殺せねぇような優しい子なんだ。
頼むから、それだけは信じてくれ。そして、白露を祓うなんて言わねぇでくれ」と縋るように訴えるが。

「ばかたれ!竜王は水神様だ。人に神様が祓えるか!それにしても、とんでも無い縁を結びおって」
祖母の一括するような言葉に、白露に害?が及ばない事が判ると、ホッとすると同時に嬉しさがこみ上げ、
「ばっちゃ、白露が水神様なら、おらはずっと白露を守っていけるだな」
思わず、そんな事を口走ってしまった理平に、祖母は現実を突きつける。

「おめぇが、そこまで言うからには、さぞかし美しいおんな神様の姿で出なさったんじゃろう。
けどな、理平。どんな姿であろうが、神様は人じゃねぇ。護ったとしても、想っちゃなんねぇ。解るな」
祖母の声は、白露に傾いていく理平の心を見て取り、それに釘を刺すかのように厳しく、
それでも一抹の哀れを含んで聞こえ。途端、理平の目から涙が溢れ出た。

「ばっちゃ。おらは……おらは白露を」
「そうか、やはりの。どんなにおめぇが好いても、それは神様に対して持っちゃならねぇものだ。
辛いの理平。けど、堪えてくれ。辛抱してくれ」そう言いながら、祖母もまた目に涙を浮かべていた。


縁を結んだ人間から数えて7代護りぬけばその最後の日、竜王は天に昇り天龍になると言われている。
そして、天龍となった竜王は、その息吹で風をも操り、驕り高ぶる人間に水と風、雷の力を揮う。
だが、天に昇るその日まで、水の恵みで縁を結んだ一族に繁栄を齎すと信じられていた。だが、逆も然り……で。
祖母は、理平の心を慮ってか、それとも期待したのか、恐れたのか。理平に縁談を勧めた。

理平も嫁をもらうに早い年ではなく、当然両親は異を唱えるはずも無く。
理平の気持ちとは関係なく、隣村の大地主の末娘、はつと見合いをする事が決まった。
理平の家からみれば、信じられないほどの良縁に、親戚一同が諸手をあげて喜ぶなか、
重く沈んでいく自分の気持ちを、どうする事も出来ないまま、理平は白露の元へ足を運び続けた。

小屋が出来てから、白露はいつも小屋の前の小さな縁台に座り、理平を待つようになっていた。
そして、理平の姿を見ると、大きな声で理平の名前を呼び、飛びついてくる。
いつもなら、その身体を受け止め、頭を撫で……それで済むはずなのに。
この人では無い者が愛しい。そう思うと思わず抱きしめてしまい、腕を解く事が出来なかった。

「理平。どうかしたのですか?」腕の中で、白露が理平を見上げ心配そうに聞く。
「いや、何もねぇ。ただ、白露が大きくなったみてぇだから、ちょっと確かめてみただけだ」
理平はそう言うと、抱きしめていた腕を解き、白露の手を取ると淵の傍まで行き、其処で胡坐をかいて座った。
すると白露が、理平の胡坐の中にぽふっと収まるように座り、理平の腕を取り自分の腰に回す。
その度に、ひやりとした白露の身体が、人ではない事を否応なしに伝えてきた。
それでも、愛しい。理平は白露に回した腕に力を入れ、後ろからもう一度強く抱きしめた。

「白露……。おらは嫁をもらう事にした」
理平のその言葉に、一瞬白露の顔から笑顔が消え。そしてまた、笑顔が浮かんだ。
「理平が、嫁御を……。それはめでたい事ですね」白露の言葉は、理平の心に微かな苛立ちを生み
「目出度い。白露は、本当にそう思っているだか」なぜか、問い詰めるような口調になった。
だが、一瞬だけ消えた白露の笑顔は、それからは消える事無く。
「はい。理平の幸せ、それはわたしにとっても幸せな事です」理平の苛立ちを、諦めに変えていく。
だから、最後の足掻きで、
「そうか。それなら、おらが此処で白露と一緒に……と言ったらどうするだ」
賭けとも思えるような事を聞くと、白露は笑みを浮かべたままで、答えは返ってこなかった。

それから間もなく、理平の祝言が執り行われ、理平は新しい所帯を持った。
嫁のはつは、小作人を抱えている大地主の娘にも関らず、たいそうな働き者で、
毎日理平の母親と一緒に野に出ては畑を耕し、牛の世話をし……家に帰っては飯の支度と、
本当によく働く、申し分の無い嫁だった。そのうえ、愛想が良いので近所でも評判も良く。
理平の母親も父親も、良い嫁をもらったと言って喜んだ。
理平にしたところで、はつに何の不満があるわけでも無く、自分の嫁だと思えば大事にしてやろうとも思う。
それなのに、理平の日常から白露の元へ通う時間が消える事は無かった。



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