えにし

 絆

【縁を結ぶもの 2】


気付くと、理平は自分の家の自分の床のうえにいた。 そして、目の前には心配そうに覗き込む母親の顔。
何が何やらさっぱり訳が判らず、自分はどうしたのかと母親に尋ねる。 
すると母親が言うには、夕刻母親が田んぼから帰ってくると、理平が家の前に倒れていたのだという。

驚いた母親は何度も理平の名前を呼び、揺すってもみたが、理平はいっこうに気がつく様子が無く。
母親は慌てて、父親を呼びに田んぼに引き返した。
母親から話を聞いた父親は、不審に思いながらも取り敢えず駆けつけてきたが、
理平の尋常と思えない様子を見ると、それまでの半信半疑の顔が険しい顔に変わった。
そして母親に、医者を呼びに行くように言うと、自分は理平を家の中に運びこんだ。

それから少しして、母親が連れて来た医者は、理平を診ると特に異常は見当たらないと言って頷いた。
その言葉に、父親も母親もひとまず安心はしたものの、一向に理平の意識は戻る気配はなかった。
そのうち、理平の家の様子に不審を持った近所の者が、訪ねて来て
瞬く間に理平の奇病?が、村中に知れ渡った。

それからは、親戚、近所の者たちが次々と集まり出し、心配やら慰めやらの言葉をかけてくれたが、
中には死んだように眠り続ける理平を見て、理平は、お狐さまに魂を抜かれた等と言い出す者もいて、
親戚の者の強い勧めで、お祓いをするなどして、一昨夜から昨日は大忙しだったと聞かされた。
その間中祖母は、泣きながら仏壇に手を合わせていたらしい。

母親の話を聞いて、理平は自分が まる一日半以上も眠りこけていた事を知った。 
なぜそんな事になったのか理平には、どう考えても解らなかったが、
それでも森に足を踏み入れ、迷いながら死ぬかも知れないと思った時の恐怖や、
翠の淵で出会った、神か妖か判らぬ不思議な少年の事は、はっきりと記憶の中にあった。
だが母親の話から考えると、それら全てが眠っている間に見た夢だったのでは。
そんな気がしないでもなかった。

なぜなら、理平が田んぼを後にした昼過ぎから、母親が倒れている理平を見つけるまで、
それほどの時は経っていなかった。 
森で、迷い歩いた時間や、少年と過ごした時間を考えると、理平の直ぐ後に田んぼから帰った母親が、
家に着いた時に、理平が家の前で倒れているはずがない。
田に水が欲しいと願うがあまり、あんな夢をみたのかも知れない。 
淵で少年と出会った事も、夢の中の出来事だった。 そう思うと、なぜか寂しいような、悲しいような気がして、
理平はぽつりと白露か少年の名前を呟いた。
 
理平の意識が戻ったと、聞くと、またぞろ近所の者たちが集まり、良かった、良かったと、
喜び?の言葉をかけてくれる。 そして、茶を飲み世間話をし三々五々帰っていく。
理平は、それに、恐縮したように笑顔で応えながら変わらないそう思った。

いつもと変わらぬ、親戚、近所の面々、いつもと変わらぬ日常そして、水の足りない田。
父親は、水が届かなくて泥にもなれないような田に、今日も通い土を耕している。 
理平が気付いた事は直ぐに知らせたがそれなら安心して仕事に精を出せるそう言って戻ってはこなかった。 
この年になって、自分が無事だった事を、父親に喜んで欲しい等と思ってもいなかったが、
水が無くては、苗も植えられないのに何のために。 そんな思いがどこかにあって。
明日は、ばっちゃんと一緒に畑か。 理平は大きくため息を吐くと、ごろりと横になった。
 
ところが日も暮れた頃になって、やっと家に戻ってきた父親が、
全身土まみれにも関らず、やけに上機嫌なのを不思議に思い、母親が問いただすと、
父親は、嬉しさを隠し切れないといった様子で、
「喜べ! やっと米が作れるぞ!」  そう言うと、いきなり笑い出した。
そして、炉辺にどっかりと胡坐をかくと、囲炉裏に刺してあるハヤの串を手に取り、がぶりと噛み付いた。

片手に串を、もう片方の手に焼酎の入った茶碗を持ち、交互に口に運ぶ。
そんな父親の姿は、近頃には珍しいほど嬉しそうで理平は、父親と並んで串に手を伸ばしながら、
「とっちゃ、米が作れるって、どういうことだ? 田植えをするって事か?」  聞いた。
すると父親は、口の中のハヤを焼酎で流し込むと、満面笑顔で信じられない話をし出した。
 
「おお! 聞いて驚くなよ。 
今日は、一昨夜からのバタバタが祟ったのか、昼飯を食って一息ついたら 妙に疲れた気がしてな、
それに、お前が目を覚ましたという知らせを聞いて、気が緩んだのもあってか、どうにも目が重くなって、
畦に横になったら、つい眠ってしまったんだ。 半時も、うつらうつらしとったかの、
その時、ばしゃっという水音でびっくりして目が覚めたんだ。
目が覚めて、驚いたのなんのって目の前の田んぼいっぱいに、水が張っていたんだよ。
 
おそらくは、山の上の方で強い雨が降ったせいで、沢の水嵩が増えたのだろうがほんの半時でだぞ。
いやぁ不思議な事もあるものだ。 それにあの水音で目が覚めなきゃ、田んぼに落ちていたところだ。 
蛙の跳ねた音だったろうが、おかげで泥を呑まずに済んだ。 真に蛙さま様だよ。 
これで、やっと田植えができる。 明日は、朝早くから田に行くから、朝飯は後で持ってきてくれるか?」
本当に嬉しそうに最後に、母親に朝飯の事を頼んでいる父の顔を見ながら、
理平は、背筋から震えが伝わってくるのを感じていた。

【白露だ。 白露が、田に水を運んでくれたのだ。 あれは夢ではなかった】 そう思った途端、
理平は手にしていた串を囲炉裏に突き刺し、すっくと立ちあがると、土間に飛び降り急いで足に草履をひっかけた。
そんな理平の突然の行動に、父親と母親が驚いたような顔で声をかける。
「理平。 一体どうしたんだ?」 
「お前、今から何処へ行くんだ? 外は、真っ暗だぞ」
「田んぼ。 本当に水が来たのか、見てくる!」  
理平は怒鳴るように言うと外へ飛び出し、田んぼまでの坂道を転げ落ちるように走った。

どうして、忘れていたのだろう。 どうして、夢だったなどと思ったのだろう。 
あれは、夢などでは無かったのに。 どうして

はぁはぁと吐く息も荒く、膝に両手を当て身体を支えながら、畦に立つ理平の目の前に、
理平の足元までも、たっぷりと水を湛えた田んぼがあった。
暗闇の中、空の月を呑んだ水面は、そつぐ風にきらきらと月色の漣をたてて、
其処が田んぼと思えない、美しい光景を理平の目に見せ付ける。
  
綺麗だまるで白露の髪のようだ。 そうだ、確かにあの時、白露はおらに言った。
白露は、本当に嬉しそうだった。 名のある者になれたと言ってとても喜び、涙さえみせた。
そしてやはり、ひんやりと冷たい両の手を、理平の頬に添えるとゆっくりと顔を近づけ。
理平の額に、自分の額をそっと押し当て。 そして言った。

「わたしにとって、名前をもらうということは、えにしを繋ぐという事です。 
たった今より、わたしは白露となり理平とえにしを繋ぎ、理平の血に繋がる者に水の恵みを約束します。
私は此処で、理平を待ち」  其処まで言うと、白露は言葉を切り
「願うなら理平の心が変わらぬように」  そう言うと、
「さぁ、戻りなさい」  白露が、言葉と同時に理平の額から自分の額を離した途端、
理平の意識は、何かに呑まれるように消えた。
 
そして、理平が目覚めた時、白露と過ごした時間も消え失せていた。 良かった理平は心からそう思った。 
それは、田に水が引かれた事もあったが、それよりも嬉しかったのは、白露が夢ではなかった事。
これから、自分も約束を果たせる白露に会えるその事のほうが嬉しいような気がした。

理平は、田に映る月を眺めながら、そんな事を考えていたため、家に戻った頃には夜も大分更けていた。
理平を心配していた父親と母親は、帰ってきた理平の顔を見ると、安堵の表情を浮かべただけで、
特に何かを問い正すような事は無く、理平は、それが有難いと思った。
たとえ問われたとしても、白露の事を話すつもりは無かったし、
仮に話したところで、信じてもらえるとも思っていなかった。
ただ変わらないと、思った日常が、理平の中で少しだけ変わったそんな気がした。
 
他所の家では、既に田植えを済ませているところも多く、今まで水に困っていた理平の家の田が、
最後となっていた為、その分手伝いの手が多く借りられ、田植えは思ったより日もかけずに済んだ。
植えられた苗で、一面緑に変わった田んぼ。 
これも、白露のおかげだと思うと、一日も早く白露に会って礼を言いたい。 
そんな思いで、理平は森に入って白露の名前を呼ぶ。
 
それなのに道は開けず理平は、中に進もうかどうしようかと迷いながら3度目の諦めで引き返した。
水が引かれた次の日、理平は早速、白露に会うために森へ行った。 
そして、白露の名前を大きな声で呼ぶが、森は少しも動く気配を見せず、白露の元へ導こうとしない。
【白露どうして応えてくれねぇおらの声が聞こえねぇのか。 それとももう】
二日目も三日目も五日目になっても森は森のままでそれでも理平は、森に入り白露の名を呼び続けた。
 
今はもう 水の礼というよりただ、白露に会いたいそんな気持ちでいっぱいだった。
 白露は、月に一度でもと言った。 それは、月に一度しか応えないという事なのか?
いいや、一度でもと、いう事は、二度でも三度でも良いという事なのでは等と、思い直すと、
自分が何かを忘れているのではそんな気がして、理平は、白露の言葉を一字一句思い返してみる。
そして気がついた。 森は戸で、水がわたしの元に導くと、言ったその言葉を。

【水水そうか、沢の水がおらを白露の元に運んでくれるのか】  
辺りを見回すと、理平の立っているところは、沢の流れから大分離れた場所だと気付く。 
理平は、一度森から出ると祠の建っている所まで坂を上りだした。 
そして、祠の脇から森の中に入り、沢に注ぐ細い流れに足を浸けると一際大きな声で、白露の名を呼んだ。

途端木々が揺れ風が唸り、光が渦を巻く。 森がひとつの生き物のように、うねり蠢き。
理平は、自分の身体が渦に呑み込まれ、森に溶けていくような感覚に思わず堅く目を閉じた。
それでも、白露の元へそう思うと、不思議と恐ろしさは無く、理平はじっとうねりに身を任せる。
一瞬のようでもあり、とてつもなく長いようでもあったうねりが、ぴたりと収まり柔らかな風と光に変わった。
理平は、堅く閉じていた眼を恐る恐る開きみると、目の前に白露の背中があり、理平は
「白露」  それだけ声にすると、なぜか胸が一杯になり言葉に詰まった。

理平の声に、淵に足を投げ出すように座っていた白露が、ゆっくりと振り向き、
「水が、届いたようですね」  そう言うと、その顔が嬉しそうな笑顔に変わる。 
と効果的面で、白露の笑顔を見た途端 理平の感慨は消え去り ただの嬉しさだけになり
白露の隣に寄り添うように腰を下ろすと 草履を脱ぎ、白露と同じように淵に足を投げ出した。

「ああ、届いた。 やっと田植えも終わり、田は此処と同じ綺麗な翠に覆われた原のようだ」
言いながら理平は、翠に輝く水面に 風に揺れる苗の海を見ていた。
「そうですか此処と同じ翠に」  
白露はそう言うと、理平と同じように水面に目をやり淡い笑顔を浮かべた。 その笑顔は少しだけ寂しげで。
【できる事ならおらの田を 白露にもみせてやりたい】  本当は、そう言いたいと思った。 
だが、理平はその言葉を飲み。
「全部、白露のおかげだ。 白露は、おらに水をくれた。 
本当なら、捧げ物のひとつもしなきゃなんねぇだろうがおらには何もねぇ。 本当に、すまねぇ」
そう言うと、白露に詫びるように頭を下げる。 すると、白露が驚いたように理平を見つめ、それから、

「理平わたしは、理平の喜ぶ顔を見られるならそれが一番嬉しい」  
そんな事を言い、今度は理平を驚かせた。 その言葉は、理平に何とも気恥ずかしさを感じさせたが、それよりも嬉しさの方が勝っていたのか、
「おらも 白露に会えたのが、一番嬉しい。 白露は、淵の主様みてぇだけど、おらにとっても主さまみてぇなものだ。
だから白露が喜んでくれるなら、おらは月に一度と言わず何度でも、白露に会いに来る」
心にある思いを口にすると理平を見つめる白露の水を張ったような瞳が、漣立つように揺れ。

「わたしは、理平が月に一度でも会いに来てくれるなら、それ以上は望まないつもりでいました。
でも理平にそんな事を言われたらわたしは嬉しさの余り、
この淵よりも深い、欲深な事を望んでしまいそうです。 我が侭を言ってしまいそうです」 
そう言うと、白露は少しだけ悲しそうな顔をした。白露の笑顔は可愛い理平を嬉しくさせる。
だが、寂しげな顔や悲しげな顔は理平の心を切なさで満たした。 だから

「白露白露は、おらの主(ぬし)さまだからな。 白露の我が侭はおらには、この上もなく嬉しいことだ。
それにおらは、毎日でも白露に会いてぇ。だから、会いにくる。 待っていてくれるか?」
などと、告白紛いの事を言ってしまい、それに気付いた途端 自分の顔に血が上がってくるのを感じた。



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