えにし

 絆

【縁を結ぶもの 白露と理平】


ピチャ…ピチャ…ピタ…ピタ…途切れる事無く刻む音が、色も無く光も無い無の世界に響き、
何年も何十年も…何百年も…時が過ぎる。
そして、地の底から絶え間なくごうごうと響く音が聞こえ始め、ふと、それが何か不思議に思った。
すると…無は闇となり、音は耳となり…不思議は意識へと変わった。
それから更に長い時が過ぎ…闇の中に我が生じ我と闇が隔離する。
我は闇の一部ではなく、我は私。私は…生きるもの…そう認識した。

それでも闇は深い闇で、闇と隔離した私の一部に、闇とも違うものが当たる事に気付く。
さらさらと、ちろちろと…何かが動き流れていく。 それを意識した時私は…意識せずに私を動かした。
動ける…。私は…動くもの。生きて動くものになった。
もぞもぞと私を動かすと直ぐにまた何かに当たり、闇もまた形あるものへと変わっていく。
それから更に長い時が過ぎ、闇の中遥か先に、小さな、小さな光が生まれる。 
そして生きて動くものは、闇に促されるように、それを目指し進み始めた。

深く水を湛えた淵は辺りを鬱蒼とした木々に囲まれ、ぽっかりと開いた天には青空を抱いて生きて動くものを迎える。
闇は、幾多の色に彩られた形あるものに覆われた世界へと変わり。
生きて動くものが成長するにつれて、淵もまた大きくなり、其処に湛える水嵩も増していった。
水面は薄紅色の花びらを漂わせ、木々の緑を映し、やがて赤や黄色に染まりながら季節を巡らせる。
蝶は舞い、小鳥は歌を奏で…どれほどの雨が天から降り注ごうと、一粒も降らなかろうと、
淵は少しも変わることなく水を湛え…其処にある命と、生きて動くものを育み続けた。


決して人の踏み込む事のできない龍ヶ淵。 
水の神、龍神の住む淵…に続く森。 その森に、ある日一人の若者が迷い込んだ。
その若者は、龍ヶ淵の裾に広がる成沢村に住む百姓…理助の息子で名前を理平、年は19の若者だった。
理平の家は代々百姓をしていたが、理平の家の田圃は、田に水を引く熊川より上にあったため、
川から水を得る事が出来なかった。 だから、川に注ぐ沢、成沢から水を引いていたのだが、
一昨年辺りから沢の水量が減り、その上今年は春先から雨も少なく、川の水嵩もそうだが、
沢に至っては頼りないほどの流れで…田の土を潤すにも事足りない有様だった。
このままでは、苗を植える事も出来ず米も作れない。
途方にくれる両親を見かねた理平は、沢の中ほどに建っている、朽ちかけた小さな祠の前に立った。

成沢の奥深くには、満面水を湛えた龍神の住む淵があり…其処に辿り着く事が出来れば、
龍神様の加護で、水を恵んでもらえる。 
村には、古くからそんな言い伝えがあり、昔は龍神を奉った祠でもあったが、
川から水を引くようになってからは、祠に詣でる者もなくなり、今は無残に捨て置かれたままになっていた。
理平は、そんな古い伝承など信じている訳ではなかったが、本当に水を湛えた淵があるのなら、
何かの理由で、沢への水がせき止められているのかも知れない。
そしてそれを取り除く事が出来れば、毎年水の心配をしなくても良いのでは…そんな事を考えて、
小さな祠の後ろに広がる深い森に足を踏み入れた。

だが…沢に沿ってどれほど歩いても辺りの景色は、少しも変わることがなかった。
木々は、まるで理平の行く手を阻むように、右も左も前も後ろも同じ様相で立ちふさがり、
沢は延々と曲がりくねる。そして、頭上から射し込む陽の光がキラキラとさざめきながら、
理平の周りで渦を巻き…あざ笑いながら迷宮へと誘う。
閉じ込められた…生きて此処からは出られないかも知れない…そんな不安が脳裏を過ぎり。
理平は、方角すら判らなくなった深い森の中で立ちすくみ…滴る汗に背筋を凍らせた。

背後から恐怖が追いかけてくる。 
理平は、それから逃げるように必死に足を動かし続けるが、行けども、行けども森は理平を捕らえて離さず。
やがて理平の足は皮膚が破れ、流れ出る血が草履を赤く染めはじめた。
腕も、顔も…木の葉や小枝に切りつけられ…滴る赤い雫が、汗なのか涙なのか判らなくなり。
自分は、此処で死ぬのだ。 そう思った時、未だに水も張れない田を鍬で鋤く父母の姿が目に浮かんだ。
おっかぁ…すまねぇ…。 
理平の足が止まり…紛れも無い涙が溢れ出て視界をかすませた。

木々は地を揺らすかのように轟々と鳴り、光はぐるぐると渦を巻く。 
その真っただ中で、理平は…ぐいと顔をあげ空を仰ぐと…暫くそうして立っていたが、
やがて、覚悟を決めたかのように、再び前へ進むための一歩を踏み出した。 
その途端、木々のざわめきがぴたりと止み、渦を巻く光は木漏れ日へと変わる。
沢を流れる水の音が耳に届き…足元には道らしきものが見え…遥か先に視界が開けた。


森をくり貫いたかのように、突然開けたその場所には、溢れそうなほどに水を湛えた翠の水面。
漣ひとつ無いその水面は、辺りの景色のすべてを収め、幾多の色と光に溢れていた。 
そして…その水面に、一本だけ大きく張り出した枝。 其処に、人らしき姿をみつけ理平は我が目を疑った。
まだ少年のようにも、既に成人した大人のようにも見えるその人の姿をした者は、
透けるように白い肌に、美しい真紅の瞳で、じっと理平を見つめていた。
人の形はしているが…人ではないのでは…そんな考えが頭に浮かんだが、
理平は不思議にも、恐ろしいとは思わなかった。 そして、思わず、
 
「おらは理平という者だが、お前さまは…龍神…なのか?」  そんな言葉が、口をついて出た。 
すると、その人の形をした者は、理平を見つめたまま首を傾げる仕草をする。 
その様子が、本当に解らない…そんな人の仕草にも思えたが、
こんな場所に人がいるとは信じがたく、龍神でないのなら魑魅魍魎の類なのか。
そんなふうにも思ったが、神も魔物も見た事のない理平には、そのどちらとも判る筈もなかった。

ただ…どちらにしても、此処が龍ヶ淵ではないらしい事だけは、朧気に感じた。 だから、
「此処は…龍ヶ淵…じゃないのか」  理平が、落胆した声で呟くように言うと、
「此処は、翠の淵です。 龍ヶ淵は、此処より遥か奥にあり、人にはたどり着くことは出来ませんよ」
はっきりとした声と言葉が…耳にというより、頭の中に入り込んできた。 
そして、人の形をしながら、人にあらざる美しさを持つそれは、気がつくと理平の傍に立っていて、
理平を見あげてにっこりと笑った。

遠くに見たときには真紅に見えた瞳が、間近で見ると水を張ったような黒い瞳に変わり、
透けるように見えた肌も、頬や唇にうっすらと色のついているのが判った。
そして、大人にも見えたその生き物が、まだ幼さの残った少年で…水面に張り出した枝の上から、
音も立てず 動いた気配も無いまま、瞬きの間に理平の傍にいる。 どう考えても人とは思えなかった。
それなのに、その笑顔は…理平の心に、恐怖とか警戒とかを感じさせないほど、邪気の無い笑顔をしていた。

「足に傷を負っているようですね。 此処の水に浸すと、痛みが和らぎますよ」
そう言いながら、その理解できない生き物は、理平の手を取ると理平を水際へと誘う。
無骨な理平の手とは正反対の、白く華奢な手はひんやりと冷たく…理平は、誘われるまま水際に腰を下ろした。
翠に見えていた水が、こうして傍で見ると何処までも澄みきっているのに驚きながらも。
理平は草履をぬぐと、皮膚が破れ血の滲み出ている足を、少しの躊躇いと一緒に淵の水に浸した。
ひんやりと冷たい水は、少しだけ傷に沁み。 
それでも熱った足を冷やし…じくじくとした痛みを少しずつ和らげていく。

理平と並び腰を下ろした少年もまた、理平と同じように足を水につけ…その足で水を弾きながら、
「此処の水は、命を育む水です。 だから…足の傷も直ぐに癒えますよ」 
そう言うと、理平を見上げるようにして、またもにっこりと笑う。
その時になって、理平はもう一度辺りを見回したが、木々に塞がれたように戻りの道は見当たらず。
自分は、この場に閉じ込められた…そんな気がした。

命を育む水…か。 足の怪我が治っても、此処を抜け出せるかどうか判らないのに…命など。 
溢れるほどに水があるというのに…父母のいる田に、水を引く術もない。
森で死ななかったのは…この妖の生贄にされたのかも知れない…二度と生きて戻れない。
そんな事を思うと、一度は取り直した気持ちが、少年の無邪気な笑顔で絶望に変わっていった。

それでも、最後の気魄を振り絞るように、
「龍神でないのなら…お前様は…妖か? 
おらを捕らえて、どうなさるつもりか判らないが…おらの命と引き換えに、お前様に頼みがある。
此処の水を、おらの家の田に…。 妖だったら、造作もない事だろう。 その代わり、おらの命はくれてやる」
理平が言うと、少年は不思議そうな表情を浮かべ。
「水が、欲しいのですか? そのために、此処まで来たのですか?」 今度は、声が耳から声が聞こえた。 

その声は、涼やかな風の音にも似て、優しい響きで水面を渡り…空へと溶けていく。
そして、理平の中にあった不安やら絶望といったものまでも、その声と共に溶けていくような気がした。
そのせいでもないだろうが…理平は、自分が森に踏み込んだ訳と 此処へたどり着くまでの状況を、
少年に向かって話し始める。 

【おらは…溺れそうになって、藁を掴もうとしているのかも知れねぇ…】  理平は、心の中で思いながら、
もう一度森に戻っても、自分は家に辿り着けないだろう…そんな、泣き言のような事までも…話した。
すると少年は、もう一度理平の手を取り そっと握りしめると…今度は耳を疑うような事を言った。

「そうですか…大変な目にあったのですね。 解りました…私が、あなたを家に送り届けましょう。 
それから、あなたの田に、良い水を送ります。 その代わり…私の頼みを聞いていただけますか?」  
と言うと、続けて頼み事を口にした。
その頼みとは…月に一度少年の元を訪ね、様々な話を聞かせて欲しい…それだけだった。

そんな事で、水を得られるのなら…自分も家に戻れるのなら、いくらでも少年の元に通う。
一度は、命も無い…と、覚悟したのだから、少年の頼み事などどうという事もない。
月に一度と言わず、三日と空けず通っても…などと思いながら、
理平は、ふと此処に辿り着くまでの道のりを思った。

そうだった…次も辿り着けるとは限らない。 森に捕らわれたまま、抜け出せないのでは…。
僅かに浮かんだそんな不安を、理平は少年に告げる。 
すると少年は、一瞬ポカンとした顔をし…それから、クスクスと笑い出した。 そして、
「森は此処とあなたの居る地を繋ぐ戸です。 ですから、森に足を踏み入れたら、私を呼んでください。
そうすれば、戸は簡単に開き、水があなたを此処に導きます」  と、言った。 その言葉に、

【そうか、森も この淵も ひとつの家のようなものだったのだ】  理平は、大いに感心しながら、今度は。
少年の言った、私を呼んで…に、戸惑った。 呼ぶ…といっても、どう呼べば良いのか…。
だから…その事を告げ、一応名前など聞いてみる…と、少年の顔が俄かに曇っていく。 そして、
「私には…名前などありません」  そう言うと、俯いてしまった。 
俯いたことで、はらりと落ちた少年の長い月色の髪を、小さな光の雫が、転がりすべり落ちる。 
その雫が、俯いてしまった少年の零した涙のようにも見えて、理平はそっと少年の頭に手を伸ばした。

「龍神さまでも、妖でも…名前が無くては、おらはお前さまを呼ぶ事はできねぇ。
だから…おらは、勝手にお前様に名前をつけて呼ぶ事にする。 それでも、お前さまは応えてくれるか?」
そう言いながら、理平が少年の頭に載せた手で、ひとつふたつ頭をぽんぽんと叩くと、
俯いていた少年の顔があがり、その顔を花のように綻ばせ、
「名前を? 私に名前をくれるのですか?」  嬉しそうに瞳を輝かせた。
その表情は、理平の想像を遥かに上回る喜びようで…理平は、少しだけ戸惑いながらも、
「名前をやるなど…。 おらが、勝手に呼ぶだけだ」  と、照れたような口調で言った。

「それでも良いのです。 それで…あなたは何と…私を何と呼ぶのですか?」
「白露…。 おらは、お前さまを白露と呼ぶことにする」

「白露…私は、白露…というのですか。 ありがとう…理平。 
あなたのくれた名前で、私は…名も無きものから、白露という名のある生き物になれた」 
そう言うと白露となった少年の瞳から、幾筋もの透明な雫が頬を伝い零れ落ちた。

仮にも、神様かも知れぬものの頭に手を載せ…挙句に名前をつけるなど、罰当たりな…そう思いながら、
理平には白露の嬉しそうな顔が、神や妖というより人そのものにしか見えなかった。



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