指きり(2)    忘れていた約束



透太と理玖は学年こそ同じだったが、産まれたのは透太のほうが半年ほど早い九月で理玖は次の年の三月。
そのうえ3600グラムで産まれた透太に比べ、理玖は2300グラムと大分小さく。
そのせいか母親たちも、理玖は透太の弟…のような感覚でいた。そしてそれは、透太も同じであった。
実際、活発で外で動き回るのが大好きな透太に対し、肌の色も髪の色も瞳の色まで色素の薄い理玖は、
その見た目のまま大人しくか弱げで、どちらかと言うと静かに絵本などを見ているのが好きな子供だった。

それでも二人はいつも一緒だった。一緒に絵本を読み、一緒におやつを食べて、一緒に昼寝をし…一緒に風呂にはいった。
透太の父親が経営している整備工場の敷地に置いてあった、廃車済の車で運転の真似事をして遊んだ。
車の大好きな透太は、自分たちが乗る事の無い大型トラックや緊急車両、工事現場の重機などを遠くから眺めては、
「カッコいいな。側で見たいな。乗ってみたいな」 いつも羨ましそうな顔で理玖に言った。
だからあの日も…透太が喜ぶなら…そう思うと、母親に止められている工事現場に行くことに何の躊躇いも無かった。

周りを鉄の板で囲い、道路に面した出入り口にはいつも警備員が立っている為普段は近づく事も出来ない。
だがその日は、たまたま工事が休みだったのか、それとも別の場所で作業していたのか、
警備員もいなければ、沢山いる作業員の姿も見当たらず、二人は簡単に現場に入り込む事が出来た。
敷地内には普段道路を走る事の無いショベルカーやクレーン車。一度も見た事の無い機械やら、道具などが置いてあり、
間近で見るそれらは家にある乗用車とは違い、無骨に大きくて、頑強で…ある種の感動で目に迫った。

大きな穴の中からは、打ち込んだコンクリートから生えているようなループ状に組んだ鉄筋の柱が、
高さもそれぞれに上へと延び。それが何かの攻撃で崩壊したビルの残骸のようにも見えた。
今にも空間が歪み、次元の裂け目から巨大ロボットでも出現するのでは…悪の軍団が現れるのでは…そんな気がして。
二人にはこの場所が、SFアニメの世界に繋がる入口のようにも思えた。

そして、ふたりで走り回っているうちに透太が何かにつまずいた。その一瞬透太の身体がスロー映像のように傾き、
それから早送りのスピードで段差の下に落ちた。そして理玖は…何が起きたのか解らないまま透太に抱きついた。
透太の身体の感触を確かに感じながら、そのすぐ後一瞬息が止まり。それから開いた目に映ったのは透太の背中。
段差はそれほど深い段差ではなかったが、地上は子供の背丈より上に在った。
その時、理玖の上に乗っていた透太が起き上がろうとし、その動きで理玖の身体に焼けつくような痛みが走り貫けた。

理玖がクッションになったせいで透太はほとんど無傷で済んだが、下になった理玖は。
外側をグルリと囲っていた鉄筋の一本が脇腹を抉り…顔は頬から顎にかけてぱっくりと切れていた。
痛みは痛みを通り越し、半身がただ焼けるように熱く。みるみる広がっていく真っ赤な血が、
着ていた服を肩から腰まで赤く染めていった。それを見た途端、意識が地の底に引き込まれそうになり、
目の前の透太の顔が霞んだ。だから…理玖は半分赤く染まった青白い顔で、透太に向かってにっこり笑って見せた。

だが透太は…声を出す事はおろか、瞬きすら忘れたかのように眼を大きく見開き、理玖を見つめたままで。
恐怖に竦んだ頭には、悲鳴をあげるとか人を呼ぶとか、そんな簡単な事すら思い浮かばなかった。
時間が止まったかのようでもあり、現実が別の場所へ流れ出てしまったようでもあり。
それでも不確かな現実は時を刻み、西の空を赤く染め始めた。
地上より低く下がった場所には闇が這い出し、理玖の赤く染まったシャツを黒色に変える。
そして理玖の瞼が落ち、手が力なくコンクリートの上に落ちるのを目にした時、透太の中に現実に戻った。
その一瞬、透太は理玖の名前を呼びながら四方に響き渡るような大きな声で…泣いた。

透太の泣き声を聞いた作業員たちが何人か駆けつけて来たが、血まみれの理玖を見た途端皆一様に青ざめ。
それでも、すぐさまタオルなどで止血をしながら救急車を手配すると、一緒にいた透太を上に引き上げてくれた。
その後、連絡を受けた現場責任者が血相を変えて駆けつけ、透太にいろいろ聞こうとするのだが、
緊張が限界に達したのかそれとも安心したのか、何を聞いても泣くばかりで全くと言って良いほど要領を得なかった。
実際透太は、その時の事は後になってもあまり記憶の中に残っていなかった。

ただ鮮明なのは…救急車のサイレンの音と赤色灯の回転する赤。血まみれで笑った理玖の…笑顔。
そして…顔の半分を布で覆われたピクリとも動かない理玖。
それと…救急隊員の一人が透太に向かって言ってくれた 「大丈夫だよ。きっと助かる」 その言葉だけだった。


病院に着いて間もなく、母親たちが血相を変えて駆けつけて来たが、その頃には大分落ち着いていた透太は、
言いつけを守らず理玖を誘って工事現場に行き、そのせいで理玖に大けがをさせた。
その事をどんなに怒られるか、どう言って謝ろうか…それだけを考えながら椅子の上で膝を抱え小さくなっていた。
だが…そんな透太を母親は何も言わずただ抱きしめ、抱きしめたまま理玖の母親に向かって頭を下げた。
恐らく何も聞かないまでも、誘ったのは透太の方だと判っていたいたのだろう。それに対してリクの母親は。
「透太…大きな声で泣いてくれてありがとう」 そう言って透太の頭を撫でた。
すると治まっていた涙がまたも溢れ出し、透太は母親の胸に顔を埋めるようにして…泣いた。

そしてそれからが慌しかった。オペ室から出てきた看護師が、理玖の出血が思ったより多く、
予備の血液では足りないかも知れないと告げた。理玖はAB型のしかもRH−なのでストックも少なく、
血液センターに連絡は入れたが、念のため輸血できる方がいれば申し出て欲しい…と言われ皆の間に緊張が走った。
だが、それを聞いた建設会社の工事責任者が彼方此方電話をかけて、理玖と同じ血液型の人を探してくれ。
そのおかげで、会社の社員と作業員の何人かが輸血を申し出てくれた。

理玖の手術が無事に終わりオペ室から出てきた医師が 「もう心配ありません」 そう告げた時。
透太は今度こそ病院中に響くほど大きな声で泣いた。

考えてみれば、工事現場で子供が大怪我をしたのだ。
子供が勝手に入って勝手に怪我をした…で済むような簡単なものでは無いのだろう。
下手をすれば、企業は現場の管理責任を問われ。親は…子供の教育がどうのこうのと言われかねない。
得てして世の中とはそういうものだ。事実、何度か工事関係者の人間が見舞いに訪れては、
理玖の両親といろいろ話をしていたが…理玖のの両親も透太の両親も…その度に。
「大変迷惑をおかけしました。皆さんのおかげで命が助かったようなものです、ありがとう御座いました」
そう言って頭を下げた。それを見ていると、二人はとても悲しい気持ちになった。

普段から、あれほど近付いてはいけないと言われていたのに、警備員の姿が無いのをラッキーと思い中に入った。
色んなものが珍しくて、わくわくして、楽しくて。だから、遊んでいる時は自分たちが悪い事をしているとは思いもしなかった
だが理玖が大怪我をし、現場の人たちに助けられ、血をもらい…親が頭を下げているのを見た時。
初めて、自分たちが沢山の人たちに迷惑をかけたのだと痛感した。
その報いではないが、医師に…理玖の脇腹と左頬から顎にかけて傷が残るだろう…と告げられた時。
理玖は泣かなかったが、透太は 「理玖、俺のせいで…ごめんな」 と言ってまた大きな声で泣いた。


それでも入院して暫くすると、顔の包帯が取れ…理玖の顔を見た母親が少しだけ悲しげに…でも、笑いながら言った。
「あぁ…この傷じゃ…もうお嫁には行けないわね」
母親のその言葉で、それまで一度も泣かなかった理玖がなぜか泣き出してしまった。
透太は大きな口をあけて大きな声で泣く…が、理玖は涙をぽろぽろ零しながら歯を食いしばり、肩を震わせて泣く。
だからその時も、口をへの字にしたまま声も出さず、ただ涙だけを零した。顔に残った傷が嫌だとか、悲しいとか。
そんなものでは無い。たった一つの望みが潰えた…そんな絶望に近い悔しさだった。だが…その時。

「大丈夫…理玖は俺がもらってあげるから、俺のお嫁さんになればいいよ。
俺が大きくなったら、絶対理玖をお嫁さんにする。やくそくするから…だから、そんなに泣かないの…」
そう言って透太が、涙で濡れた理玖の眼の前に小指を立てた右手を出した。そして理玖の右手の小指に絡めたまま、
何度も手を振り…指きりをした。すると、それまで泣いていた理玖が本当に嬉しそうに笑い。
そして透太は…理玖がこうして笑ってくれるなら、本当に理玖をお嫁さんにしょう…そう思った。

だがそれは、まだ幼くて嫁さんの意味も知らない頃の話である。
それに、あの頃透太より小さくて弟のように可愛かった理玖が、今では身長180センチ、体重62キロにまで成長して。
頬の傷は大分目立たなくなったが、そんな傷など減点の対象にならない程女生徒の間では人気がある。
彼女に、嫁になりたい…という女子が後を絶たず。それに比べ透太は、身長も伸び悩み、体重も増えず。
おまけに童顔で、女に間違えられる事もしばしばあって。なのに…性格は幼い頃と少しも変らず、やんちゃで男前。
理玖の兄のつもりでいる。それが理玖からみると逆に可愛く見えてしょうがなかった。

「理玖…お前の腹や顔に傷が残ったのは俺のせいだ。あんな所に行かなければ、お前が怪我をする事も無かった。
本当に悪かったと思っている。そのうえ変な約束をして…お前に勘違いさせていたとしたらそれも謝るよ。
でも考えてみろよ。俺達は男同士だし…従姉弟だし。第一お前の方がでかいし…どう見ても、嫁さんって柄じゃないだろう? 
それに…お前は女にもてるから俺の嫁にならなくても、反対に良い嫁さんがいくらでも見つかるって。大丈夫だ、俺が保証する。
ただ…俺のつまんない約束が、今までお前を縛りつけていたのだとしたら謝る。ゴメンな」

言いながら透太の胸に去来するのは、なぜか少しだけ寂しいような、悲しいような…言葉に出来ない妙な感情。
そして理玖もまた、
「そうなんだ。透ちゃんは、もう僕を嫁さんにする気はないんだ」
神妙にシュンとして…のはずなのにその顔には、透太が今まで見た事も無い笑みが浮かんでいた。
「理玖…?」
「解ったよ、透ちゃん。でも、やっぱり約束は守ってもらう。指きりまでしたんだからね、今更その約束を反故にはさせないよ。
どうしても、僕を嫁にする気がないと言うなら…透ちゃんには、僕の嫁さんになってもらう事にする。良いね」

「えっ? えーーーーーっ!! い、嫌だ。絶対いやだ! 俺は、嫁になんかなりたくない!!」
透太が悲鳴のような声をあげながら壁に退き…理玖はこれ以上ない嬉しそうな顔で、足を一歩前にだした。



  理玖の決意


既に母に約束をした…そして…自分自身にも。一週間で透太の気持ちを、自分に向かせる事が出来なかったら、
その時は透太への想いを封じ込めると。潔く諦めて二度と表に出さないと。
一週間は、人の気持ちを動かすのに短すぎる時間なのか、それとも充分過ぎる時間なのか判らなかったが、
少なくとも簡単ではないという事だけは解っていた。だからと言って、決して無理矢理…という意味ではなかった。
なぜなら…透太が自分から良いと言わなければ、理玖にとって意味の無い事だったから。

「ママ、大好きな人とずっと一緒にいるには、どうすればいいの?」
幼い頃母に尋ねた問いに、母は笑顔で理玖に答えた。
「そうね…大好きな人を大切にして護ってあげる。いつも優しい気持ちを忘れないようにする。
そうすれば、その人も理玖を大切に思ってくれるようになって、理玖を好きになってくれると思うわ。
そして…ママとパパのように結婚すれば、ずにと一緒にいられる…かな」
! 「けっこん?」
「そう、理玖ちゃんが大きくなった時!大好きな人をお嫁さんにすればごいまよ」

だから理玖は…高校入学が決まった日…鍋太朱分の生馨パートナーにする…と母に穀げた。
「母さ寄…僕、透ちゃんを嫁さんにするゃて決めたから」
「なに、馬鹿な事言っているフ」
0母は、反対も賛成も無がままに笑った。

`「だって母さんが言ったじゃないか。大好きな人とずっと一緒にいるには、結婚するのぐいいゃて」 理玖が言うと、母親は理玖の言った言葉を理廻する前に、それこそ到然だというような顔で、
「そんなの…誰だって好きな人と結婚したいと思うのは、当たり前でしょう」
言ってから、ハッとしたように息を呑むと、それから妙に引きつったような笑い顔を作り…言った。
「えH…まさか、理玖……冗談はしょう?」
`
「冗談でも無やし嘘でもないよ。僕はずっと、透ちゃんが大好きだった。
これからもそう…多分、透ちゃんより好きな人は出来ないと思う。だから、透ちゃんを僕のパートナーにする事にした。
今の高校を選んだのも将来透ちゃんを幸せにしてあげるために、それなりの職業に就こうと思ったから。
だって、愛情とは別に生活の安定は必要不可欠なものでしょう? 透ちゃんに不自由はさせたくないからさ。
たとえ母さんや父さんが反対しても、僕の気持ちは変わらない。でも…きちんと僕の意志は伝えておきたいからね」
` まるで宣戦布告ともとれる理玖の言葉で‖理玖が決して冗談を言っているのでは無いと判ったのだろう。
母親は、それまでの曖昧な表情を強張らせた。そして、今度は真面目な声で。

「理玖、いきなりそんな事を言われて、はいそうですか…と認められる訳ないぷしょう!
理玖が小さい頃から、透太の事が大硬きだっていうのは‖母さんも良く知っているわよ。
でもそれは、従姉弟としてずっと兄弟のように育って来たからで、結婚とか恋愛とかいう感情とは違うですょう。 もう少し醍人になれば、今の感情が理玖の思っているようなものとは違うって事が判るわ。
だから、軽はずみでそんな心臓に悪い冗談を言わないでちょうだい」
そう言うと、はぁ〜と大きく息を吐いた。

「大人になっても、変わらないよ。僕には、透ちゃんより大切な人ができるとは思えない。
もし、透ちゃんと一緒になれなかったら、僕は一生結婚しない…そう決めている」
「あなたね…もし今の言葉が本気だったとしても、母さんは反対としか言えない。そんな事解るでしょう?
透太は…生垣の家のたった一人の跡取りなのよ。結婚して、子供を残して…家を護っていかなくちゃならない。
たとえ理玖ぜどんなに好きでも、一マ盾ノなんてなれない。透太が女の子だったらいざ知らず、絶対に許される事じゃ無いわ。
` 今理玖から聞いた事は母さんの胸に閉ま「チて‖お芙さんにも叔母さんにも言わない。母さんと理玖だけは会話。
だから、理玖もその気持ちは封じなさい。封じて…二度と口にしない…いいわね」
" !
「出来ない…そんな叱できないよ。透ちゃんにその凝が無いのなら諦める。
透ちゃんに嫌な思いはさせたく無いから、僕の感情を押し付けるような事はしない。
その為にも…透ちゃんの気持ちだけは確かめたいんだ。僕が透ちゃんを想う気持ちと同じ気持ちで、 " 「確かめるって“まさか、あんた! 無理矢理とか竣ってないでしょうね」

! 「爪さか…僕が透ちゃんにそんな事をする訳ないでしょう。だでて、母さんは言ったじゃ鎚ゅか。
(大好きな人大切にしなさい…優しくしなさいって。たとえ透ちゃんにその気がなかったとしても、
僕が透ちゃんを好きな気持ちは変わらない。だから、透ちゃんが嫌がる事はしない、悲しませるような事もしない。
ただ…透ちゃんが、自分から僕を好きだと言ってくれるのを願うだけ…。期間は一週間でいい。
それで駄目だったら、僕は一生口を噤んで、透ちゃんを見守って生きていく。

でも、透ちゃんも僕と同じ気持ちだったら…その時は、叔母さんや叔父さんには申し訳ないけど、透ちゃんは僕がもらう。
そして、透ちゃんには生垣の家も棄てさせる。勿ク_その時は、僕も里見の家を棄てて透ちゃんを守って生きていく。
母さんや父さんにも迷惑をかける事になるけど…僕は、自分の決めた事を後悔しながと思う」=br~ 「……。理玖…あなた`そこまでチv
目に映る母親の顔が、ひどく悲しそぇに見え。多分自分は、この上も無い親不幸な事を言っているのだろう…と思う。
そして、そんな事を言わなければならない自分が、なぜかとても悲しい…と思っ「ス。

「うん…ごめんね、母さん。ょも、僕は男だし透ちゃんも男だから。半端な覚悟のままじゃ、透ちゃんを選べない。
幸せにする事も出来ない。だからお願い…時間を。透ちゃんの気持ちを確かめる時間と、僕の気持ちを決める時間が欲しいんだ」
母親は、理玖の気持ちが動かないと判ったのだろう。また大きく息を吐くと、肩を落とし、
理玖を見るその目が、今にも零れそうなほど涙で一杯になっていた。

「夏休み…お父さんには帰って来ないように頼む事にするわ。その代わり、母さんがお父さんの所に行く。
一週間留守にするけど…その間留守を頼むわね。もう高校生だから、一人でも大丈夫よね。
一週間たって帰って来たら、一生姉さんに顔向け出来なくなっているかも知れないわね」
そう言って母親は両手を目に押し当てた。多分、そうする事で溢れる涙を押さえたのだろう。
それから微かに浮かべた笑みは、泣き笑いのように歪んでいた。その時理玖には、母親が急に小さくなったように見えた。

【ごめん…母さん。親を悲しませて、人の道に外れて…きっと僕は許されないし、いつか罰を受けるかも知れない。
それでも僕は…透ちゃんを選びたい。透ちゃんが欲しいんだ。ごめんね……かあさん】


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