ピジョンブラッドの赤−6


次の日、私が妻に連絡を入れ、話したい事がある…と告げると、妻は スーッと息をのみ…少しの間をおいて答えた。
「解りました…帰られるのですか? それとも、こちらから出向きますか?」  と。
その問いかけに、祖父の家に来て欲しい…私が言うと、妻は 今度は間を置かず、
「父も、一緒に伺ったほうが宜しいのですね」  と、言った。

賢い女だから、私の話というのがどういうものなのか、妻には察しがついたようだった。
私は既に、いざとなったら全てを捨てる覚悟を決めていたが、私たちの離婚は、夫婦二人だけの問題ではなく。
祖父や父の立場からは、簡単に、はいそうですか…で、済まされない事も判っていた。
だから…祖父の前で、一度に済ませてしまおう…私はそう考えた。

ただ…そんな私の事情に、上條を巻き込んでしまうのでは…と、それだけが気がかりだった。
それでも私は、踏み出した足を止めるつもりは無かったし、むしろ、一日も早く上条と共に歩むための出発点に立つ…
それが、最優先事項だと考えていた。

「すまない。 明日 迎えの車を差し向けるから、2時には出られるようにしておいてくれないか」  私が言うと、妻は
「いいえ…お迎えは結構です。 晴信を連れて、3時には御爺様のお宅に伺います」
既に、いつもと変わらぬ声と口調で答えた。 だから、私もいつものように、
「そうか…それでは 宜しくたのむ」  それだけ言うと電話を切り…最上階にある社長室へと向かった。

マンションの前に立ち、上を見上げるが、此処から、私の部屋の灯りをみる事は出来ない。
それなのに、上條は何度もそれをしたと言う。 
バカだな…あいつ。 思わず口にするそんな言葉までもが、上条への愛しさに変わり、私の胸は一杯になる。
そして、玄関ドアの前に立った私は、なぜか大きく息を吸い…吐き出す。
部屋の中には、私の帰りを待っている上条がいる。 そう思うだけで、幾分緊張している自分を感じた。
それでも、その緊張は嬉しさと期待のせいだというのも判っていた。
だから、ドアノブに手をかけ…私は中にある幸せが逃げないように…静かにドアを開いた。

「ひな…ただいま」 
ドアを開けた途端、良い匂いが漂い…上条が、私のために…そんな気がして
それだけで、胸の辺りがほんのりと暖かくなり、思わず口元に笑みが浮かんでくる。
そして…家庭を持つ男は、こんな些細な事に幸せを感じるのか…と、始めて解ったような気がした。
私の声と同時に、キッチンからエプロンをつけた上條が、手にお玉と菜箸を持ったまま飛び出し、
私の姿を見ると、少し照れたような顔で、

「お帰り…」  
そう言いながら、自分の手にしている物に気付くと、恥ずかしそうに両手をそっと後ろに隠した。
私は、上条のそんな仕草すら可愛い…と思ってしまい、その場で上条を引き寄せると、
ただいまのキスにしては、ディープなキスを交わす。
十九、二十歳の若者でもあるまい…に、と思いながら、上条の甘い吐息に煽られ、
そのまま、寝室に直行したい衝動にかられ、上條を抱きあげようとした時、上條が、潤んだ瞳でうっすら頬を染めたまま、
もう一度…「おかえり…まなぶ」  蕩けるような笑顔で言った。

「うまい! もう最高。 この味 あの頃とおなじ、少しも変わってない」
私は、上條の作った肉ジャガを頬張りながら、何度も頷く。 すると上条は、
「そう? いつも高級な物ばかり食べているから、珍しいだけなんじゃないの?」
掬うような目で私を見つめて言う。 それは、疑っているようでもあり、照れているようでもあり、

「高級だろうが何だろうが、口に合わなければ 美味いと思わないさ。
俺は、日向の作るものが一番美味いと思う。 あぁ、飯を食っている…そんな気がするんだ。
だから…食べたものが全部、俺の血肉になり、活力になる…本当だぞ」  私が言うと、
「…・変なの。 けど・・そう言われると、何となく嬉しいな」
そう言って笑う上条が、やはり滅茶苦茶可愛いく見えて、私の恋は重症化しているのを感じた。

30にもなろうという男が、可愛い…というのも変な話だが、実際そう思えるのだからしょうがない。
もしかしたら…上条は、年を逆行しているのでは?などと、バカな事を思ってしまい、
「お前…変わった?」  つい、愚にもつかない事を聞いてしまう。 すると、上条は、
「なんで? 別に…変わっていないと思うけど」  と、頭を捻るが、その仕草、表情さえも、なんともいえず可愛いくて…
「なんか…お前、すごく可愛いぞ」  私の言葉に、上條は目を丸くし、
「かっ! 可愛くなんてない。 俺は、男だしもう直ぐ30だ。 あんたおかしいぞ!」  
そう言いながら頬を染め、プイと横をむいた。

「やっぱり…可愛いな。 あんまり可愛いと、今直ぐにでも食べたくなってしまうぞ。
料理も美味いけど、ヒナは…もっと美味しいからな」
私の、変態中年親父のような言葉に、上條は更に顔を真っ赤にすると、手元にあった布巾を、私めがけてバシッと投げつけて。
「バ! バカな事、言っているんじゃない! 腐れ 変態!」 と、相変わらず、顔に似合わず口が悪い。

それでも…それすら可愛く、愛しいと思ってしまうのは…私が、変わったせいなのか。
食事が美味しい 他愛の無い会話が楽しい…人の温もりが心地良い。
忘れていた小さな幸せ…それを、思い出させてくれたのは…今、腕の中にある温もり。 
意識のない上条を抱きしめたまま、その瞼に…唇に…髪に…そっと口付け。
生命ある限り、この温もりに溺れて生きていきたい…私は、ただそれだけを願った。



当日…私と上条が、祖父の家に着いたのは、3時にはまだ少し間のある頃だった。
こっそりと中庭に廻り、私がこの家に居たころに使っていた、部屋の窓から入り込む。
その頃私の父は、仕事柄海外赴任が多く、各国を転々としていた事もあって、
私は、中学入学時から高校を卒業するまでの6年間、祖父の家で暮らしていた。
祖父の忙しさを良い事に、何度も深夜に抜け出しては 朝帰りをした私専用の出入り口が、
未だに変わりなく、すんなりと私達を迎え入れたのには、懐かしさと感動すら覚えた。

その窓から上條を招き入れ、カーテンを引くと上條の手を引いて、ベッドに腰をかけさせ、
「ゴメンな。 お前に、こんな泥棒みたいな真似をさせて」
私がそう言い、上条の足もとに跪くと、上條は黙って首を横に振った。 そして、
「無理しなくて良いのに。 今からでも遅くはない。 別れるのは、やめても良いんだよ。
俺は…時々、学と会えれば…それだけで充分だからさ。
ずるいかも知れないけど 奥さんには申し訳ないと思うけど…ただ時々会えれば。
俺は…学の家庭を壊そうと思ってはいない。 子供もいるのだから…」
上條は、自分では気が付いていないのだろう。 今にも、泣きそうな顔でそう言った。
  
私はその白い頬にそっと触れると、唇を指でなぞる。 そして、上条の耳の赤いピアスに口付けた。
「日向…それは無理だよ。 俺の心は此処にある。 お前と一緒にいたい。 時々ではなく、いつもだ。 
毎日、お前の待つ家に帰りたい。 その家で、俺も、お前の帰りを待ちたい。 だから…もう、妻とは暮せない。
書類の上だけ夫婦でいるのは、俺も嫌だし…彼女に対しても侮辱だ。 

考えてもみないか。 男を愛し、男と暮したいと望む夫の妻でいる事が、彼女にとって幸せかどうか。 
俺には、幸せだとは思えない。 俺は、お前がいれば他に何もいらない。 
だから…お前も決めてくれないか。 俺と一緒に生きていくか…それとも…」
私が、最後の決心を促すように言うと、上条はじっと私をみつめ…そっと、自分の耳に手をあてた。

「こうして耳に触れると、いつも…あんたの温もりが、感じられるような気がしていた。
だから…このピアスをあんただと思い、ずっと一緒だ…そう思って生きてきた。
それでも時には…・・。 そんな時は、あんたのマンションの下に立って、見えもしない部屋を見上げた。
でも…本当に学の側に居られるなら、誰に何を言われようと、どんな目で見られようと、
俺は…世界中で一番幸せな人間でいられる」
そう言うと上條の泣き笑いのような笑顔に、一筋の涙が零れ落ちた。
私は、その涙を指先で拭い、少しだけ色のついた上条の唇をなぞると、そっと唇を寄せ…そして…

「しょっぱい…」   私が言うと…上条は、
「うん…」   と言って、恥ずかしそうに頷いた。
上条が、今まで流したであろう涙を思うと 私の心はきりきりと痛み、二度と涙など流さぬように、
いつも笑っていられるように…上条は上条のまま…で、それが私の一番の幸せ…だった事を思い出していた。

「日向…この涙も、今日で終わりだ。 これから俺たちは、共に歩むための出発点に立つ。
俺に迷いはない。 だから、お前も迷うな。 
もし、連中の前に出るような事があっても、お前は有りのままのお前でいれば良い。
何を言われ、何を聞かれても…自分の思った事だけを答えろ。 俺の立場など考えるな。 
いいか、日向! お前が、お前のままでいる事が、俺の一番の幸せだという事だけを忘れるな」
私の言葉に、上條は潤んだ瞳を掃くように瞬きをすると、吸い込んだ息を止め大きく頷いた。


上座に祖父 テーブルを挟んで左に私の父と母、そして、その向かいには妻と妻の父。
私は祖父に向き会うように、一番入口に近い席に座った。
「本日は私の我侭で、皆様に御足労をお掛けしてしまい、申し訳御座いません。 
今日は、皆様の前で美鈴に大切な話があります。そして、その話如何によりましては、
皆様にお願いしたい事が出来るかもしれません。 その際には、是非とも、お力添えくださるよう、心よりお願いたします」
私は、とりあえず簡単に挨拶を済ませると、妻に身体を向けた。

「美鈴…君には申し訳ないと思っているが、私はもう君の待つ家には戻れない。 すまないが…別れてくれないか」 
幾分予想はしていたのだろう、皆一様に、苦虫を噛み潰したような顔で私を見つめ、 
妻の父に至っては 怒りに顔を真っ赤にして、私をじっと睨み付けていた。
そんな中で、一番表情を変えなかったのが、妻の美鈴だった。 そして、私の言葉が終わると、
「どなたか…おできになられたのですか」  と、静かな声で言った。

「そうだな…出来たと言うのは、正しくはない。 気付いた…と、言うべきだろうな」
私が答えるや否や、美鈴よりも早く聞き返したのは、やはり義父だった。
この場にいる誰よりも、私を憎々しく思っているのは、私に向けられるその視線から、容易に感じる事が出来た。 
だが、義父にしてみれば、娘婿に突然呼びつけられた挙句、理由も解らぬまま、
可愛い娘との別れ話を切り出されたのだ。 理不尽この上ないと思うのも、無理からぬ事で、
「気付いたと言うのは どういう事かね!」  私を問い詰めるその声は、怒りに震えていた。

私は、それに引きずられないように…出来るだけ冷静に、感情を抑え、
「私にとって、一番大切なものに気付いた。 そういう事です」
それが火に油を注ぐだろう事は解っていても、私は上条と再会する前の仮面をつけ…答える。 
「それじゃ君は 美鈴はどうでも良いと云うのかね。 そんなに大切な女に、
急に気付いたなどと言うのも 妙な話じゃないか。 本当は二人で一緒に、ずっと美鈴を騙していた。 そうじゃないのか?」
暗に上条も共犯だ…とでも言いたそうな口ぶりで言う。

確かに、そんなふうに疑うのは当然かも知れないが、上条も共犯…そう思われるのは、
身勝手と解っていても不本意であり、我慢がならなかった。 だから、その事だけは…と、思い、
「それは断じてありません。 その人と再会したのは、ほんの数日前ですから」  一応弁明を試みる。 すると今度は、
「再開? と言う事は、以前の知り合いか何か…なのかな」
父が母と顔を見合わせ、訝しげに私に訪ねた。 その問いかけに私は、
「はい…大学時代の…友人です」  とだけ言い…上条が男である事は、あえてはっきりとは言わなかった。

別に、相手が男だから後ろめたいとか、隠そうなどという気持ちは無かった。
むしろ、此処にいる全員に上条を引き合わせた時、皆がどんな顔をするか…それを想像するだけで、
私は心が浮き立つような気がしていた。 そんな私の、幾分歪んだ心情にも気付かず、
「それにしても…再開して日も措かず、どうしてこのような事になるのですか?
どういう方か存じませんが、少し軽率ではありませんか?」  母が言う。

母の言う軽率は、上条と再会する前の私には当てはまる言葉だが、今の私にはそうでは無い。
そして、その事だけでも、私が如何に変わったのかを、自分でもはっきりと自覚した。
だから…私は、その事をきちんと伝えなければ…と、思い。

「そのように思われるかも知れませんが、再開してみて、はっきりと判ったのです。
私は、学生の頃から その人が好きだったのだと…。
ずっと、その人が好きで。 私が、生きて行くのに、どうしても必要な人だと…確信しました。

私は…いつも、何かが足りない、何かが欠けている、そんな気がしていました。
仕事も家庭も、世間から見れば恵まれすぎているはずなのに、その思いは、ずっと心のどこかにあって。
時折、学生時代の日々を思い出しては、周りの全てが輝いて見えた頃が懐かしくて…。
でも、あれは…若さに溢れていた頃の、蜃気楼のようなものだったと、自分に言い聞かせてきました。
それでも、その過ぎた日々は…思い出すたびに、私を癒してくれました。

お義父さん 美鈴は妻として申し分のない女性です。 聡明で美しく、その上優しい。 
母親としても、とても良く出来た女性だと思います。 私のような男には、勿体無いほどの女です。 
それなのに…私は、美鈴を愛せなかった。 多分それは…私には、人を愛する心が欠けていたからです。 
私の心は、あの人が持って行ってしまったのだと…再開して、やっと気付きました。 
あの人は、私の心を大切に、大切に…守ってくれていた。

私の中に無くとも、それはあの人の中で大きく育って…あの人と一つになっていて。
だから、もう取り戻せないのです。 取り戻したら…あの人の中から取り出したら、粉々に砕け散ってしまう。 
私もヒナも…生きてはいけない。 美鈴には、本当に申し訳ないと思っています。 
こんな私の、子供まで産んでくれたというのに、本当にすまないと…私には、詫びる事しか出来ません」
殊勝とも思えるような私の言葉に、義父は少しばかり意外そうな顔をすると、今度は、私を諌めるように声を和らげる。

「そっ・・そんな事・・君らしくないじゃないか。 
昔の女に会って、懐かしくなっただけじゃないのかね。 そうに決まっている。
生きるだの死ぬだのと、子供でもあるまいし、たかが女一人の事で、どうかしたんじゃないのかね。
そうだ! そんなに好きなら、君が飽きるまで愛人にでもなんでもしてやれば良い。
美鈴は、夫が愛人の一人や二人作ったところで、騒ぎ立てるような娘ではない。

悪い事は言わん、そうしなさい。 君だって、それが一番良い解決策だと判っているのだろう?
それと よく考えてみなさい。 君は、いずれは企業を背負って立つ身なのだよ。 
美鈴と別れると言う事は、私とも縁が切れると言う事だ。 それが、どう言う意味か解っているだろうね」
本当に…宥めたり脅したり…流石、海千山千の古狸、などと思っても、そんな事を、口にするなど出来るはずもなく、

「解っております。 私は、端から会社を辞める覚悟はできております。
祖父や、父には申し訳ないと思いますが、晴信が成長するまで、一線で頑張っていただきます。
大丈夫です 晴信は私と美鈴の子供です。 そして、お義父さん…貴方の孫です。
必ず、立派な若きリーダーになれます」  と言い、私も義父を立てる事を忘れない。
 
正直、そこまでいくとディベートに近い?様相をきたしてくるような気もしたが、
自分の我が侭が、簡単に認めてもらえるとは思っていなかったし、後に引く気も無かった。 
そんな私と義父の間に入るように、父が搦手をしかける。

「お前は…本気で、そう思っているのか? 会社を辞めてどうするというのだ。
世の中が、そんなに甘いものではない事は、お前も良く解っているだろう。 
現にうちの会社でも、正規の社員として採用されるには、かなり厳しいものがある。
正社員の中途採用など有りえないと思うがね。 親として、こんな事は言いたく無いのだが、
もう少し、大人の狡さを身に付けても、良いのではないのか?」

そして…父の言葉に、母が後押しの援護をする。
「そうですよ・・学さん。 後で後悔する事のないように、もう少し慎重に考えたほうが」

「お父さん お母さん あの人は大人の狡さや、打算。 そんな物で、手に入るような人ではないのです。
そんなもので手に入れられるような人なら…私は、心を預けたりしません。
自分が、どんなに辛くても、苦しくても…私の預けたものを、必死で守ってきたのです。
一点の曇りもなく、透明なまでに澄んだまま…守り続けてきたのです。 だから…今度は、私が守ってやりたいのです。 
あの人を…あの人に預けた私の想いを…どんな事をしても守りたいのです」
上条の事を思った途端…不覚にも私の仮面が剥れ…私の目から、一筋の雫が零れ落ちた。
その時、美鈴が、

「知っていましたから…。 会わせていただけますか? その方に。
私は、学さんの妻として、一度その方に会ってみたいと思います。」  私を真正面から見つめ…言った。
「えっ?」  
それは、私の言葉であり、義父の言葉でもあり…父、母の言葉でもあった。
そして、その視線を受け止め、美鈴は 皆が感嘆するほど落ち着いた声で話し始める。

「私は、学さんが思っていらっしゃるよりは、貴方の事を見ていましたし、愛していましたのよ。
ですから…貴方の心が、何処かに置き去りにされているのも、判っていました。
この人は、一生誰をも愛さないだろう。 いいえ、愛せないだろう…そう思っておりました。
私を含めてですが、人を愛せない貴方が他所に何人女性を作ろうとも、そんなものは、妻の座にある私にとって、
夫が外で食事をしたり、排泄をしたりするのと同じで、どうという事はありませんでした。 

誰が、どのような事をしても…妻の私に並び立てるはずはないのですもの。 ですから 安心していられたのです。 
貴方は、何処へも行かない…と言うよりも、行けない…そう思っていました。 
それなのに…まさか、預けてあったとは…思いもしませんでした。
何処かも判らぬ所に、置き去りにされていた方が良かった…正直、そう思います。
 
預けた物は、預かった者が捨てない限り 取り戻すことができますものね。
たとえ雲っていようが、汚れていようが…また、貴方の中で輝き出す。
普通は、捨てておしまいになるものなのに…預けたときのまま持っていようとは。
ですから…どうしても、お会いしたいのです。 会って確かめたいのです。 貴方の心を抱くに、相応しい方なのかどうかを」

美鈴はそう言うと、やはり穏やかとも言える笑みを浮かべ…微かに頷いた。
我が妻ながら、たいした女だと思う。 一番取り乱して然るべきはずなのに、一番理性的で…その分手強い。 
だからこそ、へたな隠し事や小細工は通用しないだろう。
それと…今まで、ただの一言も発せず、座ったままの大古狸が…真正面に鎮座していた。
その祖父が、美鈴の上条に会いたいという言葉に、にやりと笑みを浮かべた。

やはり事態は、想像していた最悪の方向へ向かっているような気がした。
だが…上条を皆に会わせるのが、私の決意を示す一番近道では…そんな気もして、
日向…すまない。 私は心の中で上條に詫びながら。

「判りました…。 では、ただ今連れて参ります」  と、言うと
「ほほぉ…まさか、連れて来ていたとはな。 どうやら、口先だけではなかったようだな。
学…本気で、わしと美鈴に会わせるつもりなのか」  祖父が、始めて口を開いた。

「はい。 もしかしたら、避けては通れぬか…とも思いまして、一緒に連れて参りました」
「そうか、いい覚悟だ。 では、連れてきなさい」
祖父の顔は穏やかに笑みを浮かべながらも、その目は眼光鋭く、まるで、空から獲物を狙う猛禽類の目のように見えた。

美鈴と祖父のことだから、上條に何を言うか判ったものではないと思った。
罵詈雑言を吐きかけられる事は無いだろうが、なし崩しに傀儡されてしまうのでは…。
頼むから…間違っても、自分から身を引くなんて言葉だけは、口に出さないでくれよ。
私は、その事だけを心から祈っていた。


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