ピジョンブラッドの赤−4 


私は、津村の言っていた店と云う言葉と、はる・ねこ・をキーワードに、
それらに当てはまる店をリストアップし、プリントアウトして行く。 
そして、改めてその数の多さに驚き…津村の奴、肝心な処で使えない野郎だな。
等と愚痴りながら、さらに自分なりに絞込みを計る事にした。
店で待ち合わせと、はるに関するもの、猫に関するもの…と考えて、ふと
確か津村は、はるとか、ねことか…。 そう言ったのを思い出し、
はると、猫は繋がっているのでは、と考えた。
 
もし、かりに、はるとねこが聞き違いだとしたら、余りにも言葉が、発音が違いすぎる。
それに…店に来てくれと言う事は、上條がその店を自分のテリトリーにしている。
そう考えると、店の方でも上條の事は知っているでは…と思った。
気に要らないのは、上條が自分を、ひなた…と、言った事だ。
つまり、電話の相手は、上條を名前で呼べる人物…と、言う事になる。

嫌な気がした。 しかし 私には引き返すつもりはなかった。
毎日、可能性がありそう…と、思われる店に電話を掛け捲り…二週間ほどして、
やっと、それらしい感触を持ったのが、あの店 Spring・=^_^=
そして…もう一月以上、店の定休日以外、毎晩通い続けている。
今日も又、日が暮れるのを待って、私は夜の街を店に向かって歩く。

二三日前から、幾分風邪気味かな…と、思っていたのが、睡眠不足と、
まともな食事をとっていないのが重なって、昼頃から悪化したらしく。
妙に身体がだるく、頭の芯がずきずきと痛む。 熱…か…。 
市販の薬を買って飲んだが、あまり効果はなかったようで、 
店に着いた頃には、自分でも大分熱が上がっているな…そんなふうに思えた。

この状態で、アルコールは不味いか。 こんな所で、ぶっ倒れたら世話ないよな。
そんな事を、ぼんやりとした頭で考えながら、
「ウイスキー ロックで。 あと…ウーロン茶を貰えないか」
と言った私に、店のマスターらしき男は、グラスを二つ私の前に置き。
大丈夫ですか? と、聞いた。 それ程私の体調は 悪そうに見えたのだろう。
 
事実、こうして座っていているのも疲れるような気がして、
自然と頭が下がり…カウンターの冷たさが、熱い頬にやけに気持ち良くて…
このまま目を閉じたら、今が何もかも消えて、あの頃に戻れるのだろうか。
戻れないのなら、いっそ…全て無くなってしまえば良い。 現実も 私も。
だるい身体と、ぼんやりと霞む頭で、そんな事を考えながら…
私は、気力を振り絞るように頭を上げた。
幸い、今日は暇なのか、それとも時間的なものがあるのか、
店には私以外に、客の姿は見当たらず、私はそれに誘われるように

「マスター。 私が、こうして意味もなく、毎日通ってくるのは迷惑ですか?」
何気なく、いつも頭にある疑問を口にした。
「いいえ、そんな事ありませんよ。 お客様ですからね。 それに、もし迷惑だと言ったら、
今度は外ででも、待つ事を止めないでしょうね。 貴方は」
穏やかなマスターの声は、私の精一杯の気持ちを、揺らすような気がした。

「どうかな…。 自分で決められないから、いっそ誰かに…。
無駄な事をしているのだと、言ってもらいたいのかも知れない」
「体調が悪い時は、誰でも弱気になるものです。 少なくとも、私は応援していますよ」
私の親父位の年齢かと思われるマスターは、品の良い笑みを浮かべると、
優しい目でそう言った。 だからではないが、私はその優しさに縋るように、

「応援? 妻と子供を放り出し、仕事は部下に押し付けて。
人が見たら笑ってしまうような バカな事をしている男を、応援してくれると言うのですか。  
こんな私を見たら…妻や上司は…そして部下達は、どう思うのでしょうね。
それでも、私を応援してくれると思いますか?
私は…わたしは、自分でも何をやっているのか、判らなくなってくるのです。  
誰もが羨むような生活があるのに、なぜ…毎日此処に脚が向くのか。
どうして、足が向いてしまうのか…判らないのです」
愚痴とも泣き言ともつかぬ言葉を連ねる。 

そんな私に、マスターは呆れたのか、それとも心配してくれたのか…、
「…・今日はもう、お帰りになられた方が良いようですね。
無理をされますと、取り返しのつかない事になりますよ。 なんなら、車を呼びましょうか?」
と言って、カウンターの下から携帯を手にとった。

「いえ…結構です。 外に出て拾いますから。
今日は、申し訳ありませんでした。 御迷惑をおかけしました」
そう言うと私は、ポケットから昼に買った解熱剤を取り出し、残りの錠剤を手に押し出す。
そして、それを口の中に放り込むと、氷が溶け、薄くなったウイスキーで一気に飲み干し、
グラスを、少し乱暴にカウンターに置いた。

これで、明日には熱も下がり、又以前の生活に戻る。
足りないものなんてない。 たとえあったとしても…私は生きていける。
グラリと身体が揺れ…私は、カウンターに手を付いてふらつく身体を支えると、
過去の亡霊と決別する為の一歩を踏み出した。 その時…。

「こんばんは…」  ドアを開けて、一人の男が入って来た。
柔らかな声…口調…ほっそりとした身体、気だるげな瞳もあの頃のままに、
幾分大人びたものの、以前よりアンニュイな雰囲気と、匂うような色香を漂わせ。
上條日向は、マスターに向かってうっすらと笑った。

「いらっしゃい 今回は長かったですね」
「えぇ、 一寸、遠くまで行っていましたから」
なにげない様子でマスターと話す上條に、
私は、熱など どこかへ飛んでいってしまったかのように、訳の解らない怒りを覚え、 
懐かしいとか、会いたかったとか…そんなものではない感情。
あえて言うなら、やはり…怒り…というのが一番近い…それに突き動かされ、
私は、つかつかと上條に近づくと、
その気配に、此方を向いた上条の顔を、思いっきり殴りつけていた。

一回り以上も大きな、私の手加減なしのパンチに、上条は遥か先まで飛ばされ、 
椅子を蹴散らし床に転がったまま、一体何が起きたのか理解できない、そんな顔で、 
殴られた頬を手で押さえながら、私を見上げる…と、その目が大きく見開かれ、
「ま・な・・ぶ…」  上条の唇が私の名前を呼んだ。
本当に変わっていない。 その目も、唇も…滑らかな肌も、細い指先すらも。
私の頭はそんな事を考えながら、口は別の言葉をはじき出す。

「上条ーー! 貴様、ふざけた事しやがって、ぶちのめしてやるから覚悟しろ!」
私は、起き上がろうとする上條の上に跨ると胸座を掴み、もう一度拳を振り上げる。
だが、私を見つめる上條の大きな目が、みるみる涙で潤み、溢れて、ぽろぽろと零れ落ち。
「まなぶ…まなぶ…・」  声に出すこともなく私の名前を呼びながら…
ふわりと両腕を伸ばし、私の頸に絡ませ抱きついた。
な! なに? 私は、そんな上條の行動に驚き、戸惑いながらも。
振り上げた拳のやり場に困ってしまい。
ただ涙を流し、私に縋りつく上條の背中に、その手を回した。

ずっと以前、8年も前…たった一度だけ、抱きしめて眠ったその温もりは、 
私に、安らぎと幸せを与えてくれた。
そして今又…この8年間、一度も満たされなかった心を満たし、飢えと渇きを潤す。
そうか…お前だった。 
お前だけが、私の心を潤し私を生かす…かけがいの無いたった一つのもの。
私は…二度と手放せないだろうその温もりを、力一杯抱きしめていた。



「何なんだよ。 いきなり殴り付けるなんて酷いよ。 あんまりだろう」
赤く腫れ上がった頬を、濡れタオルで冷やしながら、上條は私を睨み付ける。
その目…その目に、私だけを写して欲しいと思ったあの時から、私は道を間違えた。
もっと、自分の想いを素直に認めていたら、無為に過ごした8年間が
少しは変わっていたのかも知れない。 そう思いながら。

「お前が悪いだろう。 突然消えちまって…俺が、この8年どんな思いで生きてきたか。
お前のせいだ。 お前が、俺の大切なものを持ったまま、消えてしまうからだ。
それなのにお前は、しゃぁしゃぁ、のうのうと…」
口にする言葉は、上条に対する恨み言。 
そんな情けない私に、上条の紡ぐ言葉が突き刺さる。

「しゃぁしゃぁとなんて、していない。 
あんたは大学を卒業、し社会に出てどんどん変わっていった。 
会社で仕事をこなし、やがて結婚をして 子供も生まれ…新しい道を歩いている。
それなのに俺は…俺の気持ちは、いつまでもあの頃のままで。 
戻れないと解っているのに、戻りたくて。
 
あんたのくれた血の一滴は、俺をいつまでもあそこに縛り付けて、前に進ませない。
こんなもの…何度そう思っても、どうしても捨てられなくて。
ずっと、あんたが好きだった。 俺はもう、一杯一杯で…あれ以上、あんたの側にいたら、
あんたが好きだって、愛している・・って言いそうで…俺は、あんたから逃げたんだ。
けど…何年経っても逃げきれなくて。 だから、もう返すよ。 
あんたの大切な物を返すから…それで、俺の事を許してくれよ」

上條は片方の耳に付けていた、赤い石のピアスをはずすと、私の前に差し出した。 
ピジョンブラッドの赤は、鮮血の赤。 私の心の一欠片。 上条はそれをずっと耳に…。
上條の震える声と、手の上の一欠片の赤に、上條の8年間を、みたような気がした。
胸が、きりきりと痛んだ。 上条は、私以上に辛い8年間を、生きてきたのかも知れない。
私のせいで…謝るべきは私の方で、殴られて当然・・なのは私の方なのだ。
それなのに私は…。 
ならば、私の手で上条の8年間を、未来に繋げたい…と、思った。 

「上條…正直に答えてくれないか。 今付き合っている奴 いるのか?」
私の問いかけに、上條は小さく首をふり俯く。
「それじゃ、好きな奴はいないんだな?」  すると上條は、又首を振った。

「いるのか…好きな奴」  その問いに、こくりと頷く上條に、私の心がざわめいた。
「そうか…いるのか」
「でも…どうにもならないから…・」  上条の消え入るような、か細い声に。
「なら 忘れろ! 忘れてしまえ、そんな奴!」  声を荒げる私がいる。

「できない。 忘れるなんて…・できない…」
嫌だ…と言うように頭をふる、上条の湿った声が、震えているのにイラつき。
「なんでだ! そんな あてにもならない奴の事を、いつまでも思っているなんて、
お前はバカだよ。 いい加減、忘れちまえ!」  
私は、上条の肩に手をかけその手に力を込めた。 だが、上条は俯いたままで、

「できない! 10年も好きだったんだ。 忘れるなんて…できっこない。
でも 思っているだけだから。 迷惑はかけない、二度と口にも出さない。
あんたの前には、絶対姿を出さない。 だから・・忘れろだなんて。 
お願いだから そんな事言わないでくれよ」
そう言うと、顔を上げて私を見つめた上条の瞳が濡れていた。

「上条…・その、今も好きな奴って…もしかして俺の事か」 
私の、なんとも間の抜けた問に、上条は涙に濡れた顔を手の平で擦り、
「ずっと、そう言っているじゃないか」  そう言うと、なぜかフイと顔を背けた。
相変わらず、気だるげな瞳に涙を湛え、今にも零れそうなのに…
精一杯の強がりで、微かに覗く白い歯が震える唇を噛みしめる。

「お前…変わってないな。 全然変わっていない、あの頃のままだ」
私は、そう言いながら上条の手を取り、その手にもう一度ピアスを載せた。
「上條 お前が返すと言った俺の大切なもの…この先、一生持っていてくれないか。
それは、お前のものだ。 お前だけが、それを輝かせる事ができる」
私はそう言うと、上条の指を折りしっかり握らせると…それを上条の胸に戻した。
上条は、信じられない…と、いう様に私を見つめ…私は、そんな上條に、
「その代わり、お前の大切なもの。 お前の心を俺にくれないか、一生大切にするから」 
私が言うと、上条の長い睫がゆっくりと涙を拭い…ちいさな雫が頬に伝わる。

「で…でも・・」
「妻とは別れる。 子供は…話合いによっては、引き取る事になるかも知れない。
おそらく、会社もやめる事になるだろう。 
当然、家は妻にやるから、俺にはあのマンションしか残らない。 
いや、もしかすると…妻への慰謝料で、あれすらも残らないかも知れない。
けど…瘤付きの、ただのサラリーマンになっても、
俺は…お前だけは、どんな事をしても護る。 それだけじゃ、嫌か? 上條」

「嫌なんて…嬉しいに決まっている。 でも…俺のせいだったら、止めてくれよ。
奥さんと、別れるなんて言うなよ。 子供もいるのに、そんな事をしたら駄目だ」
「上條、言っただろう。 俺の8年間には、何もなかったって。
楽しいことも無ければ、幸せだと思った事も…妻を、愛していると思った事さえないんだ。
何もない8年間…当たり前だ、俺の心はお前が持っていたのだからな。
今更返されても 俺の中には戻す場所がない。 其処には、お前の大切なものが入るのだから
俺には、無為な8年だったけれど…お前は、俺のものまで抱えて、
悲しみや、苦しさも、倍だったんだよな。 ごめんな…辛い思いをさせて。
それなのに…いきなり殴ったりして、本当にすまなかった」

私はそう言うと、上条の頬にそっと手を当てた。
私が殴ったせいで頬は赤くなり、歯に当たって切れたのか、唇の端が腫れあがり、
僅かに血の跡が残っていた。 上条の血…。
そう思った時、私は…唐突に思った。 その唇に、口付けたい…と。
そして…顔を近づけようとした時…それを遮るように上条が言った。

「後悔しないのか…それで。 全てを失うかもしれないのに…」  
「全てじゃない。 お前がいる・・俺は、それだけで幸せになれる。 他には何もいらない」
私が言い終わる前に、上條はひしと私に抱きつくと、
「もう絶対逃げないから…離れないから…俺をしっかり掴まえていてくれよ」
そう言って、8年間の思いを吐き出すように、涙を零した。
私は、そんな上条を抱きしめたまま、上条の震える背中を擦り続けた。

そして…少しすると、上条が恥ずかしげに私から離れ、
それまでカウンターの中で、黙って私たちの様子を見ていたマスターが、
カウンターを出て、私の側まで近づくと、
「この子のお相手が、貴方で良かった。 どうぞ、日向を頼みます」
そう言って私の手を握り、頭を下げた。

おそらくは、マスターの計らいなのだろう。
私と上条がやりとりをしている間に、店は看板の灯が落され、閉店となっていた。
いくらそういう店とは言え、痴話めいた話を人に聞かれるのは、吝かではないから、
マスターに感謝すると同時に、上條を日向と呼ぶこの男の事が、
気にならないと言えば、ならない事も無いが…
少なくとも上條を心配し、上条のために心を痛めてくれた人なのだろう…と、思った。

私は、もう二度と此処へ足を向ける事はない。 そして、上條も…。
それでも…これで縁が切れた…そんなふうには思いたく気もした。 だから、
「いろいろお世話になり、迷惑をかけました。 
この先、上條の事は、どんな事があろうと私が護っていきます。 どうぞ安心して下さい。 
それと…マスターのご都合がよろしければ、私共のほうにも脚を運んでください。
上條も心強いだろうし喜ぶと思います。 是非、機会をみつけていらして下さい」 
そう言った私に、マスターは小さな笑みを浮かべ…
ありがとうございます…と言った。


Back ← → Next
web拍手 by FC2