ピジョンブラッドの赤−3


ふわりと漂うシャンプーの香り。 開いた襟元から覗く首筋から鎖骨へのライン。
うっすらと色を帯びた、肌理細やかな肌。 
それらが突然、私の目の前にいる上條を、別人のようにみせた。
「へ! へんたい・・って  お前こそ、なんでこんな物を持っているんだよ」
「さぁ…知らないオヤジがくれた」  
上條は事もなげに言い。 私の胸は…訳も無くざわめく。

「くれたって…どういう意味だよ! もしかして、そのオヤジに誘われたって事か!!」
「知らない。 興味ないから」
頸に下げたバスタオルに、濡れた毛先からぽとぽとと雫が垂れ、
私を見つめる上条の瞳が潤んでいるように見えた。 
いつもより、うっすらと色のついた唇が、やけに目にやきついて、
上條って、綺麗だったんだ…。
私はそんな事を考えながら、ただじっと…彼の顔を見つめていた。

「なに、呆けた顔して人の顔マジ見していんだ。 変な事、考えるなよ。
やってないからな、そんなバイト」
上條は、私の頭を軽く小突くと そう言った。 
その上条の言葉で我に帰ると、またも胸の中で不穏なものが動き出す。

「バイト? バイトって何だよ!」  
「だから…そのオヤジに誘われたんだよ。 バイトしないかって…」
「なに! 男とやるのか!!」  その一言に、ベシッ! 私はいきなり頭をはられた。
「ばか! やるかよ。 ふりだよ ふり…そういう雑誌があるんだってさ。
そのモデルをしないかって、誘われただけだよ。 あのくそオヤジ、バカにしているよ。 
できるか! そんな事」  
上條は、その時の事を思い出したのか、苦いものでも吐きだすように言うと、
首に下げていたタオルで、頭を がしがしっと拭いた。


私はその夜、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。
頭の中で、グラビアのモデルの顔が、いつの間にか上條と重なり。
上條は…その時、どんな顔をするのだろう。 どんな声をだすのだろう。
あの気だるげな瞳は誰を映し…あの唇は誰の名前を呼ぶのだろう。
妄想は、果てしなく広がり…眠りを妨げ、私の身体を熱くしていった。
そして私は…上條を思いながら、自分の昂ぶったものに手を伸ばしていた。

次の日の朝、寝不足の目を擦りながら起きた私は、
いつもより、快調そうな上條と顔を合わせ…ますます沈みそうになった。
寝起きの悪い上條は、朝が苦手で、一日の中では、
朝が、一番気だるそうに見えるのが常だったのに、今朝は…にこやかでさえあった。 
「おはよう…。 朝飯、できているからさ、早く顔洗って来なよ」  上条に言われ、
「あ…うん…」  私はそれだけ返事をすると、洗面所へ向かう。
そして鏡に写った自分を見る…と、自分の顔が、一晩でやつれたようにみえた。

ばしゃ ばしゃと、顔を洗い…手にうっすらと触れた髭に剃刀をあてる。
寝不足だと、髭の伸びが早いというのは、強ち嘘ではなさそうだと思った。
いつもは気にならない、ジョリジョリと云う音と手ごたえに、
私は、朝方まで眠れなかった理由を思い、がっくりと肩をおとした。

上條を…おかずにした。 それも…今までに無いほどの興奮と快感で…いった。
ひなた…最後に呼んだ名前。 今は…それに、触れたいと思う自分がいる。
そして…鏡の中の私の顔が、醜く歪んで見えた。

朝食の間中、にこやかな上條に…私は、更に落ち込んでいくような気がして。
「なぁ…お前、いつもよりテンション高くない?」  
掬い上げるように上條を見ながら言う…と、上条は、
「うん。 だって 冬休みだしさ」  やはり機嫌よさそうな声で答えた。
上条の答えに私は、なんだ?そりゃ。 小学生か、お前は。 心の中で呟き。
「ねぇ。 正月はどうするの?」  
上条の更なる問いかけに、そんなもの、別に…と、言おうとして。 
ん? 正月? あれ? やばい! 私は急に思い出した。

今年の暮れには、海外赴任中の両親が帰ってくる。 
だから…元旦は、正月恒例の行事?で、祖父の家に家族一同が、
集まる予定になっている事を…。当然、私も其処に入る。
今年の正月は、上条も私も正月の二日間だけは、お互い別行動をしたが、
それ以外はずっと一緒だったから…不味い…どうするか…な。
あたふたとそんな事を考えていると…上条が、

「俺、今年は暮れから家に帰ろうと思っているんだけど…あんたは、どうする?」  
何となく言いにくそうな様子で切り出した。 
私は、それにホッとしながら、上条の家に帰る…に、便乗するように答えた。
「あ・・あぁ。 俺も、親が帰って来たら、一緒に爺さんの所へ行く…かな」
すると上条も、何となくホッとしたような顔で、

「そっか、御両親帰ってくるんだ。 そうだよな、正月だもんな。
じゃぁさ…俺、あんたの都合に合わせるから、携帯に連絡をくれる?」
上条にそう言われ、私は何の事か判らず問い返した。
「俺の 都合?」  
「うん。 俺が居候している事を、ご両親が知っているかどうか、判らないからさ。
挨拶をした方がよければ、御両親のいるうちに帰るけど、
そうでなかったら、ご両親が帰られるまで、実家にいるようにするからさ」
上条にそんな事を言われ、私は何となくくすぐったいような嬉しさで、顔が緩む。
そして…

「挨拶か…それって なんか意味深っぽくないか?」  
笑いながら言った私の言葉に、上條はいつになく慌てたように、頭を数度振ると、
「ち、違うよ!
あんたには世話になっているし、部屋を使わせて貰っているのだから当然だろう? 
友人と言ってもさ、御両親は俺の事知らないんだから。 挨拶ぐらい…」  
そう言った上條の頬が、気のせいかほんのりと染まったように見えた。

友人…友人をおかずに、自慰をする事を知ったら、
それでも上條は、私を友人と言うのだろうか。 などと、頭の片隅で思いながら、
「いいよ、気使わなくても。 実家は別にあるからさ、此処は俺専用。 
親は、用のある時以外此処へは来ないよ」
私が言うと、上条は…信じられない…そんな顔で、

「そうか…あんたは、俺には想像もできないくらい、金持ちなんだ」  ため息混じりに言い。
「だから…そうだって言っただろう」  
私がわざと呆れたように言うと…上條は、今度は眩しそうに私を見つめ、
「そうなんだ。 やっぱり お坊っちゃんだったのか…あんたは」  と言った。



なんだよ。 その、お坊っちゃんという発想…どこからくるんだ?
22にもなって、坊っちゃんなんて言うのは、昔から家にいる多岐さんぐらいだ。 
若いメイドは、名前で呼ぶぞ…等と思いながら、
そう言えば…上條は、一度も私を名前で呼んだ事が無い事に気付いた。
姓すら口にしない。 いつも、ねぇ・・とか。 あんた…。

「なぁ…お前。 俺の事、名前で呼んだ事ないよな」
「そう? 良いだろう・・別に。 ちゃんと通じるんだから」

「そうだけど…。 一回ぐらい呼んでみろよ。 宮田とか 学とか」
「…・呼ぶほどの距離にいないから…」

「距離の問題ではないと思うけどな。 古亭主か古女房を呼ぶみたいだろう?いつも」
「ふ!古女房って。 あんただって、俺の事をお前って言うじゃないか」

「そっか? それじゃ、今度から日向って呼んでいいか?」
私は これ幸いとばかりに 上條に言ってみた。  だが、返って来た答えは、

「嫌だ…。 名前を呼ぶのも・・呼ばれるのも…嫌だ。 
もし、名前で呼んだら…あんたとは口きかない」  
上條はそう言うと、フイと横を向いてしまった。 
え? なんだよ、その反応。 友達だって名前くらい呼ぶぞ…と、言おうとしたが、
上條の様子から、もし名前で呼んだら 本当に口をきいてもらえなくなる。
なぜかそんな気がして、私は ハ〜 と大きく溜息をついた。


あれから私は、毎晩上條を抱く…
回を重ねるごとに上條は、私の腕のなかで、腹の下で、淫らに喘ぎ私に縋る。
それなのに 私を見ない 声が聞こえない 温もりが伝わらない。 当たり前である。 
私の頭の中で 私に抱かれる上條は、上條であって上條ではないのだから…。
私は 一体何をしている…。

28日。 明日は上條が家に帰る日…そして両親が赴任先から帰ってくる。
私は、暗闇の中で目を凝らしたまま、天井を見つめていた。

ドアは音も無く開き…そして、そっと部屋に入ると、相変わらず本の海。
上條は、その本の隙間に布団を敷いて寝ていた。
今夜もまた、本を読んでいてそのまま眠ってしまったのだろう。
枕元に置かれたままの本と、そこに灯るスタンドがそれを語っていた。 
足音を忍ばせ、眠っている上条の枕元に座り、寝顔をみつめる。
淡い灯りの下で、柔らかそうな髪が額に影を落していた。

その髪にそっと触れると、思ったよりさらさらと指の間をすり抜けた。
形よく曲線を描く眉 その下の 長い…長い…ながい?
睫毛 なげぇーー! 髪の色と同じく色素が薄いせいで、今迄気付かなかったが、
まるでつけ睫毛でもしているように、きれいに広がり…反り返っていて。
割り箸でも載りそう…そんな事思ってしまった。

細く通った鼻筋、その下で、うっすらと色付いた唇は、膨らんだ蕾のように見えた。
指先で触れると、それはしっとりとしたマシュマロのように柔らかく。
私は、しばらくその寝顔を見つめていたが、スタンドの照明を落すと、
その蕾にそっと唇を合わせた。  
柔らかい…そして…なぜか甘い。 その甘さに、私の脳は溶けてしまいそうだった。
これをもっと…全てがとけるほどに…

「なに してるの…」  それが、上條の声だと気付いた時、私は覚悟を決めた。
「キス…したい」  私の言葉に、上條は私を真っ直ぐ見つめた。
あぁ…この目だ。 いつもより大きく、強い光を放つ瞳。
その奥に揺らめくのは、喜びとも悲しみともつかぬ、複雑な色。
私は、その瞳に向かってはっきりとした言葉で言った。

「お前と キスしたい」
上條は、黙って自分の身体を布団の端に寄せると、空けた側の布団を持ちあげた。
私は、そこへ滑り込むと上から上條を見つめたまま、
「良いのか?」 と聞いた。
上條は、やはりそれにも答えず、ゆっくりと瞼をとじると両腕を伸ばし、
私の頸にふわりと絡ませ…私を引き寄せた。

あれほど眠れなかったのが、嘘のように満ち足りた深い眠り。
それは、腕のなかに上條がいたからか。 上條の温もりがあったからなのか…。
私にとって、女との情事は、数こそ数えた事はないが、
経験としては有るほうだと思っていた。 だが、同性相手は始めてで、無知に等しく。 
無理矢理抱く事で、上條を傷つけたくない…そう思った。
だから私達は、結局最後の一線を越える事はなかった。

だが、あれは…本当に上條を傷つけたくなかった…のか、
それとも、足を踏み入れる事で、引き返せなくなる予感に怯え、逃げたのか。

そして次の日…上條は家に帰り…・私の前から姿を消した。
暮れも正月も、何度連絡をしても、上条の携帯には繋がらず。
上條からも、何の連絡もなかった。 そして…一通のメールが届いた。

まなぶ…最初で最後に、君の名前を呼ばせてください。
俺は…もう其処へは帰れません。 母が倒れ…帰りたくても、帰れないのです。
学と暮した二年間は、今迄生きてきた中で一番幸せな月日でした。
学には、言葉で言い表せない程感謝しています。
たくさんの幸せと、思い出をありがとう。 それだけで生きられます。  ひなた

私は 狐に抓まれたような思いで そのメールを何度も読み返した。
そして、新学期が始まっても帰ってこない上條と、既に解約された携帯から、
あのメールの内容は事実なのだと、初めて理解した。
それでも私は、自分の失ったものが 上條だけではないという事に気づきもせず、
やがて卒業し、就職し、能力に見合った仕事をこなし、その代償の給料を貰い。
着実に、人より早く階段を昇って行く。

課長代理になる年に、良家の娘と結婚をして、直ぐに一男を儲けた。
会社での地位 社会的信用 美しい妻 可愛い子供
郊外とはいえ 広い庭付きの瀟洒な家。
全てが順調で、人も羨む幸せな生活…全て私が手に入れたもの。

それなのに私の心は、一度も満ち足りていると感じた事は無かった。
何かが欠けている。 何かが足りない。 それを埋めるために仕事に打ち込む。 
そんな私に、妻は黙って随ってくれる。
美しいだけではなく 聡明で良く出来た妻だと、誰もが言う。
私も、そう思い…妻に感謝している。 だが…愛しい…と、思った事はなかった。

小さな違和感は、年を追うごとに私に纏わりつき…少しずつ大きくなって、 
私はわけもなく苛立つ。 なぜだ? どうしてだ? 何が違う…何が足りない。
そして…あの名前を耳にした。 ひなた…上条日向。
私の欠けていたものが埋まり、足りなかったものが満たされるのを感じた。
そして、やっと解った。 
上条が、あのピジョンブラッドと供に、私の心を…持って行ってしまったのだ…と。

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