吉祥天になった猫(5)


忍が風呂から出ると次に神谷が続き、忍はその間に買ってあった缶ビールをあけて口に運んだ。
酒を呑む店でバイトをしていながら、酒はほとんど口にする事は無い。
それでも今日は、呑まないと言えない…そう思い、苦いとしか思えないそれを目を瞑って口の中に流し込んだ。
そして、暫くして風呂から出てきた神谷に向かって、冷えたビールの缶を差し出すと、
「神谷さん…お願いがあるんだけど…」
言いながら、忍は自分の声より大きい心臓の音を聞いていた。

「なんだ? また、バイトでも探してきたのか?」
神谷は、ニヤッと笑いながら忍の横に胡坐をかいて座り、忍が手渡した缶ビールに口を付ける。顎をあげたせいで露わになった喉。
その中を通るビールに合わせ上下に動く喉仏がやけにリアルで。あぁ、男なんだ…。なぜかそう思った。
途端、神谷に抱いている自分の感情が生々しいものに思えて、忍は視線を神谷の横顔からから自分の膝に移した。そして、
「あの、背中……見せてくれますか」 蚊のなくような声で言う。すると神谷の横顔が正面に変わり、
「背中?」 幾分怪訝そうに聞いた。

「はい…神谷さんの背中……吉祥天を」
「………。なんで…」
返ってきた神谷の声根が変わり、忍には神谷が少しだけ怒った…ように聞こえた。
それでも今夜は…どうしても……だから顔を上げ、神谷を真っ直ぐ見つめると決死とも言えるほどの覚悟で。
「見たいんです。どうしても…見たい」 言った忍の言葉に対して神谷は何も言わなかった。
それが忍の不安を煽り、それに押しつぶされそうになりながらも忍はさらに聞く。
「怒っている? 僕の事…嫌な奴だと思っている?」
「別に…思ってないよ」 
神谷はそれだけ言うとビールの残りを一気に流し込み、缶をテーブルの上に置くとパジャマのボタンに手をかけた。


目の前の神谷の広い背中で微笑む吉祥天が、とても幸せそうに見えるのは…なぜだろう。
髪飾りの一本一本にまで鮮やかに色が入り、しゃらしゃらと鳴る音まで聞こえそうな気がした。
その澄んだ音は、犯した罪を祓い清め…全てが許される。そんな気がして…触れたい…忍は唐突に思った。
鼓膜を打つ血液を送り出す音。そしてその音は髪飾りの鳴る音と重なり、熱く滾りながら身体中を流れ…焦がす。
そして、そっと伸ばした指先が微かに震えながら吉祥天の頬に触れた。

それは、確かに神谷の肌でありながら吉祥天の肌のようにも感じられ…忍は手にしたペンで、
微笑むその口元に小さな黒子を付ける。するとその感触で、神谷が僅かに首を回し忍に声をかけた。
「あんた、なにやっているんだ?」
「黒子…付けてあげたんです。僕と同じ場所に…」
そう言うと忍は、そっと吉祥天に頬を寄せた。指を滑らす度に、指先から痺れにも似たものが伝わり。
それは、甘く疼くような、それでいてちりちりと苛立つような奇妙な感覚。
そして…かすかに香るソープの匂いに混じったオスの匂いに、眩暈にも似た眩みを覚え…忍は心の中で問う。

この匂いに包まれ、埋れたら…僕は、貴方の吉祥天になれますか…。


背中に凭れるようにしていた忍が、突然へにゃり…と、崩れるのを感じて神谷は慌ててその身体を抱きとめた。
「おい! どうした!! あんた、大丈夫か! 忍!!」
忍は神谷の呼びかける声に僅かに身動きはしたものの、腕の中でぐったりと目を閉じたまま目を開く気配もなかった。
少しだけ開いた唇から吐き出す息が荒く、軽く叩いたその頬はやけに熱くて、
その顔をよく見ると頬から首にかけて薄赤く染まっているのが判った。

【ん? 酔っ払って、寝ちまったのか?】 
思った途端、安心すると同時に笑いが込み上げて来て、神谷は忍を腕の中に抱いたまま、暫くその寝顔を見つめていた。

既に二十歳は過ぎているのに、安心しきったように目を閉じている忍の顔にはまだ幼さが残り、
大人になりきれていない…そんなふうにも見えた。そんな忍が事故を起こした上に、その被害者を連れ去り監禁したのは…なぜ。。
神谷には、今になってもその理由が判らなかった。ただあの時忍は 「あの人の側にいたかった」 一言だけそう言った。
親に守られ、安穏と生きてきた忍にそうまでさせ、黒崎のような男や羽柴知晴が、何より優先し守ろうとする。

あの時はシーツに包まれていて、その姿を見ることも叶わなかったが、それでも漠然と思った。
近づく男に滅びか栄光を齎す…人間。だとしたら、それは人ではない。人とは違う何か…なのかも知れない…と。
それでも、その成瀬のおかげ?なのか、罰なのか…忍と出会えた。

始めはどうなるかと思われた不安だらけの生活も、昔のような贅沢はさせてやれないが、
二人でなんとか暮して行けるようになった。そして忍が働いた夜のバイト料は、そのまま手を着けず取ってある。
神谷も日勤より夜勤を増やしたおかげで、僅かだが収入も増え貯金に回せるようになった。
半年は無理だったが、一年後には忍を大学に復学させてやれる見通しもできた。

大学を卒業すれば、普通の会社に就職して一人でもやっていけるだろう。それまでが、自分の役目。
神谷は、自分にそう言い聞かせる。それなのに…心のどこかで、今の生活を手放したくない。
二人の生活が、ずっと続けばいい…そんな事を思っている自分がいた。
まさか、こんな気持ちになるとは。いっそ抱いてしまえば…自分のものになるのか。手放さなくてもよくなるのか。
そんな考えが脳裏を過ぎり、神谷は自嘲めいた笑みを浮かべるとそれを振り払うように小さく頭を振った。

それでも腕の中にある温もりは、嫌が応でもその存在を神谷に伝え愛しさを掻きたてる。そして、
無防備な寝顔の唇が微かに動き 「かみ…や……さん…」 聞き逃すほどに微かな忍の声が聞こえた。
神谷にはそれが、忍が神谷に呼びかけ…神谷を誘っているように聞こえ。
その抗えない誘惑に…神谷は、理性に目を瞑り道理に背を向け…口元の小さな黒子にそっと触れるとその唇に唇を重ねた。


あの日以来一度も音沙汰のなかった凛から突然電話があり。
「仕事が終わった後で会える?」 そう言われて、神谷は待ち合わせたファミレスに真っ直ぐに向かった。
夜勤明けのこの時間、店には客の姿も疎らで。その閑散とした店の窓際の席で、神谷の姿を見た凜がにっこりと笑い片手を上げた。
相変わらず艶やかなその笑顔が、しっとりとした落ち着いたものに変わって見えるのは、あの少年のせいか。
そんな事を思いながら、凛の座っている席まで近づくと、

「お久し振りです、凛さん。御無沙汰しておりますが…黒崎さんもお変わり無いですか?」
神谷はそう言って軽く頭を下げた。すると凛が、立っている神谷を見上げるようにして。
「うん、皆変わり無いよ。神谷も元気そうだね。それに…前より丸くなったのかな?」
そんな事を言いながら自分の前の席を指差す。神谷は、それに促されるように凛の前に座ると。
「さぁ…どうでしょう…自分では判りませんが」 そう言いながら少しだけ戸惑うような笑みを浮かべた。

確かに今の暮らしは以前とは違い、今日を生きるために食事をし、眠り、働き…そのどれを怠っても明日が危うくなる。
そんな暮らしでも、不思議と毎日が結構楽しく充実しているような気がしていた。
そして何より、誰かの為に…そんな気持ちになっている自分が、以前の自分からは想像もつかない変りようにも思え。
もしかしたら…自分は忍の毘沙門天になりたいのでは…そんな気がした。
そんな神谷を、凜は何とも言えない目で見つめ…言う。
「そうかも知れないね、自分の事を一番解らないのが自分だからね。
ところで神谷…ネコちゃんはどうしているの? 元気にしているのかな? それとも……」
その声は、何となく心配しているようにも聞こえたが、何処か楽しそうにも聞こえた。

神谷はそれが忍の事だと直ぐに判ったが、どう答えて良いものかと一瞬だけ迷い。だから、明確な答えを探す前に、
「はい…なんとか」 とだけ答えた。すると凛の顔が安心したかのように和らぎ。
「そう、良かった。 それで、神谷はどうしたい訳?」
と聞く。迷った答えに更に意味を図りかねる問いかけをされ、神谷は凜の真意を測りかねる。だからその言葉をそのまま、
「どうしたいとは?」 幾分怪訝そうな顔で凜に返した。


その時学生アルバイトのような若いホールスタッフが脇に立ち、水の入ったコップとメニューをテーブルの上に置いた。
いくつも並んだ朝食向けのメニュー。それに重なるように、忍が用意してくれる質素な朝食が神谷の脳裏に浮かんだ。
すると、夜勤明けで空腹感を覚える身には 些か目の毒に思えるそれらが、何処となく色あせて見え…それが不思議にも思えた。
だから、中を開くこともしないままコーヒーだけを注文する。

そして凜は、顔面の筋肉がマヒしているのかと思うほど無表情にオーダーを取るホールスタッフを興味深げな顔で見ていたが、
オーダーを取り終えて何も言わず去っていくホールスタッフの背中から、神谷に向けた顔はちょっと意外そうな表情で、
「別に、僕に気を使わなくて良いんだよ。ネコちゃん…もう抱いたの?」
神谷が予想もしていなかった事を…けれど心の奥底に潜むものを余りにもはっきりと言い当てた。

「まさか! そんな事」
神谷の声が少しだけ強張り。 途端、凛の身体が前に乗り出し、真っ黒い瞳が真っ直ぐに神谷を見つめる。そして、
「神谷って、本当にノーマルなの? 女以外は駄目なの? だったら、ネコちゃんは返してもらうよ。
あれはネコだからね。オスに預けてあげないと、幸せにはなれないからさ」
相変わらず人を人とも思わぬような凛の言葉に、神谷はその意味を考える前に、なぜか今までには無い不快感を覚えた。
だから…自分を見つめる凜の目を睨むように見返し、そのままはっきりと言い返す。
「ネコですか…。でも忍は人間です。動物ではありません」

すると凜は、神谷の言った事など気にも止めぬどころか、その顔に如何にも皮肉めいた笑みを浮かべ。
「へ〜。だったら、さっさと抱いてやるんだね。あれは、如何あがいてもオスにはなれない。
自分では気づいていないけど、正真正銘ネコだからね。オスの膝の上が一番安心できる場所だって事に気付かせてやるのが、
あのネコを幸せにする早道だと思うよ。神谷だったら、あのネコを一生飼ってやれると思ったけど、違ったみたいだね。
だったらもう、お前に預けて置く意味はない。近いうちに、引き取りに行くから…いいね」
言った凛の口調が、有無を言わせぬものに変わった。そしてそれは、神谷が予想もしていなかった凜の通告。

その余りにも突然の言葉に、何が凜の気に障ったのか…そんな事を考える前に神谷の頭の中は真っ白になった。
忍が自分の前から居なくなる。それは神谷にとって何より重大な事で…一番望まぬ事で。
どうにかして凜に思い止まってもらなくては…ただそれだけを考え、その為の言葉を必死に探す。

「まっ、待ってください。忍を俺に預けると…そう言ったではないですか。もうすぐ大学に戻れるんです。
そうすれば、ちゃんと卒業して立派に一人立ちできます。ですから、もう少し待って……」
忍はもう大丈夫だ。ちゃんと一人でも生きて行ける…と、神谷はその事を凜に伝えようとするが、
当の凛は益々呆れたような、本当に判らないの?とでも言いたげな顔で神谷を見つめる。そして、

「神谷…お前、なにか勘違いしていない?」
「はい?」
「僕の言った一人前というのは、一人で生活が出来る。そういう意味じゃないんだよ。何度も言うけど、あれはネコだからね。
嫌でも、いつか本当の自分に気づく。その時同時に気付くのが、偏見や蔑みという目に見えない人の視線。
現実の社会は、物珍しくは扱ってもそうそう優しくはないからね。もしかすると、自分で自分を否定したくなるかも知れない。
その時自分で選ぶ強さと、貫く覚悟を持って欲しい…そういう意味なんだけど」
「凛さん…」

「それと…判っているのかな。預けるという事は、預けた人間が引き取ると言えばそれで終わりだよ。
そういう事だから、お前に無理だったらあれは引き取るしかないね。あれは…方法は間違えたけど、成瀬を大切に思ってくれた。
多分…とても優しくて純粋な心の持ち主だと思うよ。けど…弱い。心が弱いから優しさを貫けない。
でも…身勝手な持論でも成瀬を救おうとした事だけは確かだからね。知晴は…成瀬を大切に思う人間には、限りなく寛大だからさ。
あいつの事は僕に任せると言ってくれた。だから…僕には、あいつが社会に戻れるようにする責任がある」

それだけ言うと凛は席を立ち、さっさとレジへと向かった。その突然の動きに、神谷は茫然とその後ろ姿目で追いながら、
凛の姿が店から消えて…初めて我に返り…慌てて後を追った。そして、車に乗り込もうとしていた凛に向かって叫ぶ。
「待って下さい! 俺が、一生あいつの罪も背負って行きます。そして…忍は、俺が必ず幸せにします。
だからお願いします。あいつを連れて行かないでください。忍を…俺にください!!」
凛には「忍は人間だ」と啖呵を切りながら、その忍をくれと叫んでいる。その事に神谷は自分でも気づかなかった。

ただ、このまま凛に去られたら二度と取り返しがつかない。どんな事をしても、忍を連れて行くのだけは。
忍と引き離されるのだけは…その想いから叫んだ言葉だった。すると、凛がピタリと止まりゆっくりと振り向く。そして、
「神谷、返品はきかないよ。僕から、もらうのだからね。それと、並の幸せじゃ駄目だって事…解っているよね」
「はい、必ず…俺の命に代えても」
神谷が渾身の覚悟で言うと、凛は はぁ〜という顔でゆっくり神谷に向かって近づき、やはり呆れたような顔で言った。

「相変わらずバカだね…神谷は。お前の命と引き換えた幸せを、あいつが喜ぶと思うの?
お前たち二人で幸せにならなくちゃ意味が無いんだよ。神谷はもう、ヤクザじゃないんだ。普通の人。僕と同じ一般人。
命に代えてもと言うなら、その命を二人で生きる事にかけて一生あいつを……だろう。解った?」

それからにっこり笑い、お決まりのキスをしようと神谷の肩に手をかけ、少しだけ背伸びをしたが…
唇が神谷の頬に触れる直前で止まった。そして、
「そうか。もう、こんな事をしてはいけないんだね。神谷は、あのネコちゃんのものになったのだから」
そう言うとすっと離れ、今度は右手を差し出した。
神谷は、凜のそんな態度に一瞬戸惑い、それからその意味に気付くと唇の端に笑みを浮かべた。

一般人…か。貴方の何処が…。そう思いながら、本当に食えない人だとも思う。
自分よりはるかに歳下の凛が、いろんな意味で世の中を知っている。そして人間の本性と偽善を理解している。
それがこの人の才…なのかも知れない。だとしたら、やはりこの人には敵わない…か。
神谷はそんな事を思いながらも意外な程清々しい気持ちで、差し出された凛の華奢な手をしっかりと握り締めた。



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