吉祥天になった猫(4)



それから忍は、コンビニでアルバイトの募集を見つけ働き出した。 週に5日、一日5時間程度だったが、
それでも部屋に閉じこもっている時に比べ、見違えるように明るくなった。
それに、神谷が帰ると食事の準備が出来ていたり風呂が焚いてあったりと、家事を小まめにするようになり。
その度に神谷は、嬉しそうに忍の労を労う言葉を口にした。

そして三月ほどすると、どうにか二人で生活だけは出来るようになったが、やはり忍の学費までは手が回らず、
忍は半年の休学届けを出すことに決めた。出来る事なら何とかしてやりたい…そうは思っても、
私大の授業料は、今の神谷にとっては手の届く金額では無く、臍を噛む思いで忍が書類を書くのを見ているしかなかった。
それでも忍は落ち込む様子も見せず、バイト先で新しく出来た友人の事や店での事などを楽しそうに神谷に話し。
今の暮らしをそれほど嘆いているようには見えなかった。

だからと言って、忍が何処かへ遊びに行くとか、友達を部屋に呼ぶとか…そういう事は無くて、
「たまには、友達と出かけたりしたらどうだ? それに、もしあんたが嫌で無かったら、
俺が留守の時は、友達を部屋に呼んでもいいんだぞ」 神谷が言うと忍は…。
「此処は、神谷さんと僕の部屋だから…他の人は入れません」 忍には珍しく、怒ったような強い口調で返した。
おそらく、忍が産まれ育って来た家は、立派な屋敷きであっただろうから…もしかしたら、
こんな小さなアパート暮らしが恥ずかしいのか…神谷はそんなふうにも思い、二度とその事は口にしなかった。

その日暮しながらも冗談を言って笑いあい、平穏…とも言える時間が二人の上を過ぎていく。
そしてそんな日々が、ささやかな幸せ…そんなふうに思えるようになったある日の夜。
忍の様子がいつもと違う…と気になっていると…食事の後、忍が改まった様子で口を開いた。
「神谷さん、相談があるんだけど」
そう言われて、神谷は何となく胸のあたりがざわつくような気がした。

近頃見慣れているのは、いつも楽しそうな忍の笑顔。それなのに今目の前の忍は、見るからに真剣な表情で。
それが神谷に嫌な警鐘を鳴らし。あまり聞きたくない話…そんな気がした。
だが、忍が何か面倒な事を仕出かしたとは思えず。それなら忍の言おうとしているのは…微かな不安を覚えながら。
だからと言って聞きたくないと言える筈も無く、神谷は大人の平静を装い…いつも通りを装った。

「なんだ?」
「僕…夜のバイト、したら駄目かな?」
「夜って…コンビニで夜も…って事か?」 聞きながら、神谷の胸のざわつきは益々大きくなる。
「ううん、そうじゃなくて…飲み屋さん」
「飲み屋? 駄目だ。 あんたに、そんな仕事が出来る訳ないだろう」
一言の元に、否定の言葉を口にした神谷に、忍が珍しく異を唱えた。

「どうして? 別に難しい仕事じゃないし、ちゃんと教えてくれるって言うから大丈夫だよ。
それに、時給もいいし一日置きで良いって言うから、僕は良い話だと思うけど」
そう言いながら忍の表情は、既に決心している…神谷にはそんなふうに見えた。だとしたら、反対しても意味が無いだろう。
そう思いながら、それでも神谷はどうしても忍を思い止まらせたいと思った。

「あんた、誰かに何か言われたのか? それとも…。どっちにしても駄目だ。それだったら、俺が夜警の仕事もする」
言いながら神谷は、なぜ自分が頑なに反対するのか、正直自分でも良く判らなかった。
ただ、忍を夜の世界に浸からせたくない。それだけはどうしても嫌だ。神谷の気持ちが、そう言っているような気がした。
だが、忍はそんな神谷の心中を察する様子も無く、
「神谷さん…僕は、ずっと神谷さんの世話になって、迷惑ばかりかけている。だから…僕も、自分の事は自分で、何とかしたいんだ」
神谷の顔を真っ直ぐに見て、はっきりとした口調で言った。途端、神谷の中で胸のざわつきが確かな不安に変わった。

「あんたは、ちゃんと働いているじゃないか。飯の支度や、洗濯…ほとんど、あんたがやってくれているだろう。
助かっているんだぞ、俺は。少しも迷惑などと思っていない、むしろ感謝しているくらいだ。
それと…あんたの授業料なら、俺が必ず何とかする。だから、心配するな」
もうすぐ休学届けの期限の半年になろうとしているにも拘らず、授業料の目途もたたず、一向に復学出来そうにない。
それが原因で、忍がこんな事を言い出したのだとしたら、それは自分の不甲斐なさのせいだ。
そう思いながらも、どうしても気持ちが…納得出来ない。嫌だと訴える。 そんな神谷に忍は。

「でもね、そういう事じゃないんだ。 授業料とか、食事の支度とか…そういう事じゃなくて…」
と言って、そこで言葉を切った。そして神谷はその時、もう自分には忍を止める事が出来ない…そんな予感がした。
「やりたいのか…その、飲み屋の仕事」
「ううん…それとも違う。 でも、それしか思いつかないんだ」
少しだけ不安そうに、それでも其処に自分の意思を込めて忍は答える。

「そうか…だったら、好きにすればいい」
「怒ったの?」
「別に、俺が怒る事じゃない…あんた自身の事だ」
そう言いながら、少しだけいらだつ自分の心。忍が本当は何を思い、そんな事を言い出したのか神谷には解らなかった。
ただ…手の中の雛が飛び立とうとしている…そんな気がした。

夜の商売が、忍が思っているほど簡単なものではない事を、神谷は良く知っていた。
今までそういう人間達を相手にし、嫌というほど見てきた。彼等の大半は、最初は本当に軽い気持ちで足を突っ込み。
そして、自分はいつでも抜け出せると信じている。だが、そんな彼らの大半は浮びあがる事もできぬまま沈んでいく。
其処で成功する者や、昼に戻れる者はほんの一握りしかいない。
だから、忍が夜の世界に足を踏み入れるのだけは、どうしても我慢が出来ない気がした。

それでも、忍が決めたのなら自分に止める権利などないのも判っていた。
自分は、忍の親でもなければ、保護者でもない。何より、忍は成人した大人で、自分はただの同居人なのだから。
自分が、もっとしっかりしていれば、忍にこんな事を言わせなくて済んだかも知れない。
それとも忍は…もう自分の事など信頼していないのか、必要としていないのか…そんな事を思いながら、
神谷は自分の不甲斐なさが腹立たしく、忍に対する自分の気持ちが、変わってきていることに気付きもしなかった。

そんな神谷の心を見て取ったのか、忍は尚も話を続けた。
「店によく来るお客様がね、自分のお店を持っているんだって。小さなお店だけど、結構忙しいらしくてね。
良かったら僕に8時から深夜2時まで…手伝ってくれないかって言うんだ。本当は僕、始めはその話断ったんだ。
でも、その人とっても良い人でね。僕に言ってくれたんだ。「神谷さんに相談して、駄目だって言われたらもう誘わないよ」 って」
突然忍の口から出てきた自分の名前に、神谷は驚いて忍の顔を見つめた。
自分の事を知っている人間…もしかしたら、以前の……そう思ったら、驚きよりも心配が先にたち思わず声が大きくなった。

「! なんで、そいつが俺の事知っているんだ!」
「うん、僕がその人に話したから。神谷さんはとても親身になって、何の関係もない赤の他人の僕の面倒をみてくれて。
僕は神谷さんのおかげで生きていられるって。そしたらその人、神谷さんに相談しなさい…と言ってくれたんだ。
だから…神谷さんに良いよって、言ってもらいたいんだ。 しっかり頑張れって、言って欲しいんだ。
そしたら僕は、どんな仕事でも頑張れる…そんな気がするんだ」
忍はそう言うと神谷の手を取って、何度も頷いてみせた。まるで…僕は、もう一人でも大丈夫だよ…そう言っているように。

そんな忍を見て神谷は思った。雛は自分の羽で空へ飛び立とうとしている…と。
そして、青く大きな空に羽ばたいたら、二度と手の中には戻って来ないだろう…と。
それでも…雛が飛びたいと望むのなら、自由に羽ばたかせてやりたい…と。 だから…大人のふりをして答える。

「そうか…ほんの少しの間に変わったんだな、あんたは。解った、やってみると良い。ただし、学費が貯まるまで…それで良いか?」
それが自分に許された小さな足掻き…神谷はそんな気がした。
「うん、ありがとう…僕、頑張ってみるね」
そう言って忍が本当に嬉しそうに笑う。その笑顔を見ながら、神谷は心の中に風が吹き抜ける音を聞いていた。


事実忍は、神谷の気づかないところで少しずつ、だが確実に変わってきていた。
今まで20年以上生きていながら、生きる事になんの意味も目的も感じた事がなかったのに、今は少しでも神谷の役に立ちたい。
神谷に認めてもらいたい。神谷に喜んでもらいたい。ただその想いで一杯だった。
そしてそんな気持ちになったのは生まれて始めてで…だから、そのために無理をするのも厭わなかった。

バイトに行く前に洗濯を済ませ。バイトから帰る途中夕飯の買い物をして帰る。
そして、アパートに着くと急いで夜の食事の支度をし、忍と入れ違いに帰って来る神谷の為に、風呂をセットし夜のバイトに出かける。
神谷が帰ったら、すぐに食べられるようにしておきたい…神谷が、少しでも身体を休めるようにしてやりたい。
その為なら、休む暇なく動くことすら楽しくてしょうがなかった。

だが、夜の仕事は思っていたよりきつく、特に昼のバイトと重なっていると半日以上立っている事になり。
始めの頃は足がジンジンと痛んで、客の相手や仕事を覚えるどころではなかった。
それでもやはり若さのせいか、何日かすると足の痛みは気にならなくなり、身体は疲れても、
今が一番幸せ…そんなふうに思えて…毎日生きている事が嬉しい。あの時死ななくて良かった…心からそう思った。


夏の盛りに長袖のシャツを着て、きっちりボタンをとめている神谷に、忍はクーラーを買おうと言った。すると神谷が、
「暑くて眠れないのか? もしそうだったら、今度電気店に行ってみるか?」
そう言って少し心配そうな目を向けた。暑いには暑いが、忍は夏生まれのせいか暑さはさして苦にならなかった。
だがそれを言うと、神谷は自分の為なら必要ない…そう言うだろうことも判っていた。
それでも、夜勤の時は昼に睡眠を取らなければならない神谷の事を思うと。涼しい処で寝かしてやりたい…忍はそう思った。

その思いからか、店の客が省エネ型の新しいクーラーに買い代えるという話を聞いた時、思わず。
「古いクーラーを捨てるならください」
と言ってしまい、そんな事を言った自分に驚き…信じられない気がした。
そして、客も一瞬驚いたような顔で忍を見つめたが、直ぐに穏やかそうな笑みを浮べ。
「良いよ。どうせ電気屋に引き取って貰うつもりだったから、使ってもらえるなら喜んで君にあげよう。
ただし、取り付け工事は自分持ちだよ」 笑いながら言ってくれた。

そしてその数日後、客の家で取り外し作業を終えたクーラーをそのままアパートに運んでもらい、
クーラーは二人の住む部屋に無事引っ越しを終えた。 当然取り付け工事費を取られたが、スイッチを入れると、
幾らかの出費には代えがたい涼しい風が吹き出し…これで神谷が快適に眠れる…そう思うと唯々嬉しかった。
神谷が長袖のシャツを着るのも、ボタンを全部止めるのも刺青のせいだと解っていた。
それでも忍は、それが自分に対して神谷が築いた垣根…のような気がして少しだけ寂しかった。

その夜、帰ってきた神谷は壁に設置されたクーラーを見て、一瞬複雑な顔をしたが、すぐに忍に向かって。
「涼しいな…」 それだけ言うとニッと笑い、忍の頭にコツンと拳を載せた。

嬉しい…そんな些細な事がとても嬉しくて…嬉しくて…胸が痛くなる。


週に何度かでも、忍が夜のバイトをするようになってからは、二人ともすれ違う日が多くなり。
顔を合わせるのは、朝仕事に出る前と寝る前ぐらいしか無かったりもした。だから忍は、それが寂しくてならなかった。
だからその反動ではないが、一緒にいられる時間は何がどうという訳でも無いのに…とても楽しくて幸せに思えた。
そして今日は、忍の夜のバイトが休みでその上神谷も夜勤ではない。久し振りに一緒に夕飯を食べられる。
そう思うと、夕食の支度をする時間さえも、心が浮き立つような嬉しさで一杯だった。

忍の料理の腕前は見違えるほど上達していたが、だからと言って手の込んだ料理を作れるほどではなく。
煮たり焼いたりと簡単なものが多かった。それでも時にはスーパーに置いてあるレシピカードを持ち帰り、
目先の変わった料理を作ったりもする。そんな時神谷は、たとえ上手に出来なくてもいつも喜んで食べてくれた。
だから今日も、以前神谷が美味しいと言ってくれた、チキンのトマトソース煮を夕食のメニューに決めた。

コトコトと煮込むソースの香りが部屋の中に漂い、風呂掃除を終えた神谷が忍の後ろから鍋の中を覗き込む。そして、
「お、今日は御馳走だな。 うん、美味そうだ」
そう言うと、そっと忍の肩に手を置いた。その手の温もりが忍の胸の中で切なさに変わり…訳も無く泣きたくなる。
神谷と一緒にいるだけで……。そして忍は…その気持ちが何なのか、既に自分でも気づいていた。

僕は…神谷さんの吉祥天になりたい……。


「あと片付けは俺がするから、あんたは風呂に入れ…」
食事が済んで一息つくと、神谷は二人分の湯呑みに茶を注ぎ、一つを忍の前に置きもう一つの湯のみを啜りながら言った。
フルコースでもない食卓で二人分の食器は一度に運べる量。だから後片付けも大した仕事では無かった。
それでも神谷がそう言ってくれた事が嬉しくて、忍はテーブルの上の食器を重ねながら言う。
「いいよ、僕がするから。 神谷さんは、ゆっくりしていてよ」 すると神谷が、

「あんたこそ、たまにはゆっくり風呂に入ってのんびりしろよ。いつも、独楽鼠みたいに働いているんだからさ。
最近、少し痩せたんじゃないか? 夜昼のバイトで、身体がきついんじゃないのか?」
そう言って忍を見つめる神谷の目が優しい。
だが…その目に見つめられると、身体の中で何かが蠢くような気がして落ち着かなくなった。だから、

「うん、大丈夫…ちっとも大変じゃないよ。毎日楽しい…」
言いながら重ねた食器を流しに運ぶ。茶碗も湯呑も皿も、全てこの部屋に来たときに置かれていたもの。
それはおそらく、凜の計らいだったのだろう。そして、今に至ってもあれから何一つ増えた物はない。
たった一つクーラーを除いては。 何不自由なく暮らしていた頃に比べたら、考えられない程質素な生活だった。
それでも一人ではない。側に誰かがいる。それだけで生きていける幸せがある事を初めて知った。

「楽しい? そうか、楽しいか」
忍をみつめたまま浮かべた微かな笑み。その笑みが少しだけ忍の心に引っかかる。その意味は…そのまま? それとも…。
「神谷さんは楽しくないの? 僕みたいなお荷物と暮らすのは、もう嫌だと思っている?」
思わず聞いてしまう微かな不安の根源。すると神谷は、ちょっとだけ驚いたような顔をし、それからフッと息を抜くように笑った。

「ばか、そんな事思う訳ないだろう。俺は、あんたが作ってくれるから毎日きちんと飯が食える。
クーラーのおかげでゆっくり眠れるから仕事も辛くない。全部あんたのおかげだ。お荷物な筈ないだろう」
「それじゃ、僕も少しは役に立っているんだ。 嬉しいな」
「少しどころか、大いに助かっているよ。あんたは立派な同居人だ。もっと自信を持て」

神谷の言葉は、とても嬉しいはずなのに…でも、自分は神谷にとって同居人でしかない…それが悲しくて。
胸の辺りが、ギュッと締め付けられるように痛くて、泣きたくなってしまう。だから、
「うん、ありがとう…それじゃ、お言葉に甘えて、先にお風呂に入っちゃおうかな」
そう言うと忍は立ち上がり…その場から逃げるように浴室に向かった。



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