吉祥天になった猫(3)



床に頭を擦り付けるようにして詫びる忍の姿は、ただの脆弱な若者以外の何者でもなかった。
そんな忍に恨み毎を言ったところでどうなる訳でも無く、謝られたところで今の状況が変わる訳でも無い。
それよりも、こんな若者を預けられた…その事の方が神谷には重大な気がした。
代議士の息子なら僅かながらも接点はある。だが、今目の前にいる若者は一度も会った事が無ければ名前さえ知らない。
そんな若者をなぜ…神谷は凜の思惑が何処にあるのか全く理解出来なかった。

それでもこれが凜の言う償いなら逃げ出すわけにもいかない…そう決心すると。
「いいよ…そんな事をしなくても。別に、あんたのせいだと思っていないから。言ってみれば自業自得ってやつだ」
自分に言い聞かせる言葉を吐きながら、手にした荷物を部屋の隅に置き忍の前に座った。
その神谷に忍は頭を上げる事もせず涙声で謝り続ける。

褐色がかったさらさらの髪を床に付け、細い首に続く肩を震わせながら二つ折りになって謝る姿が哀れにも思えた。
おそらくそれなりの家の息子なのだろう。それが、詰まらない間違いで全てを失いたった一人裸で放り出されたのだ。
そう考えると、僅かばかりの恨み辛みは消え失せ、目の前の若者が気の毒に思えてきた。だから、
「もういい…気にするな。それよりあんた…名前はなんていうのだ。俺は神谷将吾といって、さっきヤクザを首になった男だ」
思ったより優しげな声で言った。その言葉に、浅井忍はひれ伏していた頭を上げると涙に濡れた目を神谷に向け、
「………。僕は…浅井忍…」  消え入るような小さな声で言った。

「浅井さんか。まぁ色々あるだろうが命だけは助かったのだ。それだけでも良かったと思うしかないだろう。
何が無くても命があれば何とかなる。お互いそう思って、まぁこれからよろしく頼むな」
笑みを浮かべながら言った神谷の言葉に、忍はまたもや大きな目からポロポロと涙を零し、
「すみません…本当にすみませんでした」 と言って頭を下げた。

「もう、泣くな。いつまで泣いていても何も変わらないぞ。それより、明日からどうやって生きて行くか。
それを考える方が先だ。情けない話だが俺はヤクザの世界しか知らない男だからな。
自分の事で手一杯で、あんたの世話までは手が回らないだろう。だからあんたも自分の事は自分で…。
そのつもりで考えてくれないか。そうしないと、二人共野垂れ死ぬ事になる。解ったら、もう二度と謝るな…いいな」
最後に少しだけ強い口調で言うと、浅井忍は頭だけ上げ、「はい…」 小さく返事をし頷いた。


忍にはそう言ったものの、神谷自身もこの先どうして良いのか見当がつかない…というのが本音でもあった。
だからと言って、凛から預かった忍を放っておく訳にいかないだろう…とも思いながら。
仮に放り出したとしたら…どう見ても生活能力の無さそうな忍はひと月も経たず蛆が湧くだろう…と。
それだけは自信を持って確信できた。だから、忍が自立出来るまで自分が面倒を見なければならない。
【一蓮托生って事か…】
神谷は、凜が忍を自分に預けた理由を勝手に解釈し、自分の役目が何なのか…何となく判ったような気がした。

「浅井さん、あんた大学生なのだろう。学校…どうするつもりなんだ」
神谷の問いかけに、忍はちょっと考えるような素振りを見せたが、それは本当に素振りだけで、
「はい…三年までは学費も納めてあると思いますが、四年の分は…まだ……だと思います」
やはり小さな声で自信なさそうに言った。それが本当なら後一年で卒業という事になる。
そしておそらく忍は、大学院に進む予定だったのだろうが、今の状況ではそれはとても難しい気がした。

それどころか残り一年分の学費も、払える可能性は皆無に等しい。
だが忍の様子を見ているとそんな事を考えている気配も感じられず、今までずっと親任せにしてきたのだと実感した。
だからと言って聞いてしまったからには見て見ぬ振りも出来ないと思い、一応それとなく聞いてみる。
「それ、何とかしなくちゃならないのだろう?」 だが、その問いかけに対して忍は何も答えず、
「いくら払うのだ?」 神谷が更に聞くと、
「さぁ……。でも、良いです…もう、辞めちゃうから」 少し拗ねたような口調で言った。

「辞めるって…大学行かないのか?」
「はい…無理ですから」
余りにも簡単に、無理…と言った忍に、こいつは本当に考えているのか? と幾分呆れながら神谷は、
「あんたなぁ、無理だとしてもそう簡単に諦めるなよ。折角三年通ったのだろう。
今すぐは無理だとしても、もう少しすれば何とかなるかも知れないだろう。少しは、考えてみろよ」
思わずそんな事を言ってしまう。本当は神谷自身、充てもないのに無責任な…とも思いながらも、
忍の投げやりな様子に、どうしても言わずにいられなかった。だが、その忍からは、

「…僕は、自分の事を自分で考えた事ないから。いつも親が決めていたから、どうしたら良いのか判らないんです」
神谷を益々呆れさせる答えが返ってきた。そこまでいくと、呆れると言うより何だか腹立たしくも思えてきて、
神谷の語気も、少しだけ強いものになった。
「その親が今はいないだろう。なのに、自分で考えなくてどうするんだよ。俺も良い加減に生きてきたから、
あんたの事を如何こう言えた義理じゃないが。けど実際、俺たちはそんな甘い考えじゃどうにもならない処にいるんだぞ。
そろそろ、本気で自分の人生を考えてみろ…って事じゃないのか」

神谷は、そう言いながら最後の言葉は忍にというより自分自身に言っているような気もした。
すると忍がどうでも良さそうな表情を少し不安げなものに変え、神谷の顔を見つめた。
「でも…どうしたら」
「そうだな、まずメシを食っていかなくちゃならないだろう。その為には取りあえず、何でも良いから仕事を探す。
後の事はその次だ。俺は自慢ではないが身体だけは丈夫だからな。道路工事でも土方でもやれる事は何でもするさ。
それであんたは…なんかやった事あるのか?」

今は高校生でもバイトをする子が多い。ましてや大学生なら一度や二度バイト経験があるだろう。
神谷はそう思い聞いてみるが、忍は不思議そうな顔をし…神谷に聞き返した。
「仕事ですか?」
その声と表情で、神谷は何となく忍の答えが予測できたような気がした。それでも、
「ああ、アルバイトとか…」 一応言ってみると、案の定返ってきた答えは。
「いいえ、何もした事ないです…すいません」 神谷の予想を裏切らないものだった。


考えてみれば、ヤクザの世界以外知らない男と親のすねかじりの坊っちゃんに、世の中はそうそう甘いものではない。
その事を実感したのは、とりあえずと思って始めた職探しで脚を棒にして歩きまわった後の事だった。
履歴書などと言うものを書いた事のなかった神谷が、いざ書こうとしても職歴欄は空白で何も書く事が無い。
だからと言って、まさかヤクザの組名を書く事もできず。そうかといって空白と言うのも、
神谷の年齢では不審に思われ…その時点でけられる。
しかたがないから組の名前を少し改ざんして、零細警備会社で警護の仕事をしていたと詐称した。

神谷は、先代組長のおかげで大学まで卒業させてもらったが、それが何かの役にたったかと言えば、
ヤクザに経済の動きや、経営の何たるかなど全く意味を成さない事で、学歴はあってないに等しいものでしかなかった。
今まで、まともな仕事などした事がないのだから出来る仕事は限られている。
それでも神谷は何日か歩きまわって、どうにか査証した履歴どおり小さな警備会社での仕事を探してきたが、
忍はといえば、ただ部屋に閉じこもり蹲っているだけだった。


何をするでもなく、黙りこくったままボンヤリと座っているだけの忍を見ていると、正直どう扱って良いのか解らなかった。
慣れない仕事は、たとえ簡単な事でも今までにない疲れを感じさせ、アパートの階段を登る自分の足がやけに重く感じられた。
そして、気持ちまでが重く沈んでいくような気がするのは、強ち疲れのせいばかりではない事も解っていた。
それでもドアの前に立ち、ノブにかけた手をそのままに大きく息を吐くと、神谷は何かを吹っ切るようにドアを開いた。

「ただいま…?…」
声を出してから、部屋に漂うなにか得体の知れない匂いに頭をひねった。すると…忍がキッチンからバツの悪そうな顔を覗かせ。
「お…お帰りなさい…」 と言った。
此処に来てから、忍が部屋の片隅以外で神谷を迎える事など無かった。
だから、キッチンから顔を覗かせたのには一瞬戸惑いもしたが、それよりも部屋中に漂う匂いに疑問が先に言葉になった。

「なんだ? この臭い」
すると忍が、ばつの悪そうな顔を赤く染めながら、
「…すみません。夕飯を作ろうと思って……。でも、上手く出来なくて」
消え入りそうに小さな声で答えるとお玉を手にしたまま俯いた。
その姿が、妙に可愛いらしいというか情けないというかで、神谷の顔に思わず笑みが浮かんだ。そして、

「そうか、メシを作ってくれていたのか。腹が減って死にそうだったから助かったよ。で?すぐに食えるのか?」
そう言いながら部屋に入ると、キッチンから続くダイニング兼居間に置かれたテーブルの上には、
煮物だか炒め物だか判らないような食べ物が載っていた。正直見た目はお世辞にも美味そうには見えなかった。
それでも、忍が何かをしようとした。その事が神谷にはとても嬉しく思えた。だから…つい油断した。

狭い二間だけの部屋、その奥の座敷で神谷は着替えようと服を脱ぎ。そして、洗ったシャツを手に振り返ると、
鍋を手にした忍が、驚いたような顔で神谷をじっと見つめていた。
【しまった!】 神谷は一瞬そう思ったが遅かった。

神谷の背中から二の腕、そして胸にかけてキッチリ入った刺青は、誰もが見惚れるほど見事なものであった。
だがそれは、あくまでもそういう世界の人間達に通じることあって、堅気の人間にとっては…。
自分達とは別の世界の人間だと認識する証拠以外の何物でもなく、避けて通る対象でしかなかった。
忍と暮し始めてから肌を晒さないように気をつけていたのに、気が緩んだのか…後悔したがすでに遅かった。

一瞬、気不味い空気が流れる中で、先に口を開いたのは忍だった。
「綺麗ですね…なにが描いてあるんですか?」
神谷の背中から目を逸らそうともしないで…それでも、幾分躊躇うように聞いた。
「…怖くないのか…」
「怖いけど…でもそれより…とても綺麗だと思います」
忍は鍋をテーブルの上に置くと神谷の側に近付き、背中を眺め…それから神谷の周りをぐるりと回った。


「本当に綺麗だ。全部が繋がった絵になっているんですね。皮を剥いで広げたら大きな一枚の絵になるんだ。凄いな…。
この、背中の女の人はなんという人ですか?」
物騒とも思えるような言葉が、ほ〜っという微かなため息に混じって聞こえた。
忍が初めて興味?を初めて示したのが自分の刺青だった。それは神谷に、微妙に複雑な思いを齎したが、
それでもシャツを着る手をそのままにして忍の問いかけに答えた。
「吉祥天だ。毘沙門天の女房と言われている」
すると忍は、なぜかその事が気になったようでまたもや神谷の後ろにまわると、今度はまじまじと吉祥天に見入り。

「綺麗な人ですね。それじゃ神谷さんはその毘沙門天ですか。いつも背中に奥さんを背負っているんだ」
そんな事を言いながら、妙に納得気に頷いた。神谷はなぜかそれが可笑しくて、
「ばか…吉祥天は人じゃない、神様だ」
「へぇ、そうなんだ。神様を背負っているんですか」
「あぁ、人間の分際でな。だから……」 罰が当たった…と言いかけて、神谷はその言葉を飲み込んだ。

確かに自分は、毘沙門天のようになりたかったのかも知れない。何かを守り戦う、武神毘沙門天のように。
だが守るものも見つけられず、役に立つ事もできず終わってしまった。背負ったものは余りにも大き過ぎて。
人に神など背負えるはずがない。だから…自分は押し潰されたのかも知れない…神谷はそんな気がした。
「まぁ、ばかな自分を背負っているようなものだ。そんな事より、そろそろメシを食わしてくれないか。
さっきから腹の虫が鳴ってしょうがないんだ。それに、せっかく作ってくれた夕飯が冷めちまうだろ」
神谷はそう言うと急いでシャツを着、テーブルの前に座った。

忍の作った味噌汁と何だか判らないおかずで…まさに一汁一菜の夕食。
「……変な味…」忍が、眉をひそめて言った。
「そうか? まぁ、多少不味くても食えりゃ腹一杯になるさ」
そうは言ったものの確かに不味かった。味噌汁の大根は親指ほどもあるほどに太く、
挙句にそれを、最初から味噌を入れて煮たのか…どろどろでしょっぱいわりに大根はまだ硬かった。

そして…なんだ?これは…と思えるものは野菜炒め?らしいのに、株が付いたままほうれん草まで入っていた。
おそらくは、冷蔵庫にあった野菜をかまわず入れ込んだのだろう。それらがベタベタに柔らかくなり赤子の離乳食のよう。
そして味は…味噌なのか醤油なのか…判らない味がしていた。
それでも神谷は、味わうことを辞めて食べることにした。そんな神谷を見て、忍が

「神谷さん、無理して食べなくても…お腹壊したら…」
情けない泣きそうな顔で言う。そんな顔をされたら不味くても不味いなどと言えるわけも無く、
「ばーか…このぐらいで腹なんか壊さないよ。それに始めて作ったのだろう? 誰だって最初は、こんなもんだよ」
一応労を労い、慰めのような言葉を言ってやると、忍は、半べそのように顔をゆがめ。
「…すいません。なんか僕、本当に役立たずで」 と…言った。

「俺は嬉しいんだよ。あんたが何かをしようと思ってくれた事がな。上手く出来るとか出来ないとかよりも、
夕飯を作ろうとした…その事の方が数倍も嬉しいんだ。だから、そんな事を言うな」
神谷はそう言うと本当に嬉しそうに笑ってみせ。その言葉で…忍の目が今にも溢れそうに涙で潤む。
そして忍は、それを堪えるように何度か瞬きを繰りかえした。
「…神谷さん…」

忍は、そんな事を言われたのは始めてのような気がした。下手でも良いと…親は決して言わなかった。
出来て当たり前…ずっとそう言われ続けてきた。もっとも、勉強とスポーツ以外は何が出来ても意味をなさなかった。
それなのに神谷は…忍が何も出来ない事を知ったうえで、たとえ小さな事でも出来たらそれを認めてくれる。
そして…少しずつでもそれが増えていけば喜んでくれる。親のように出来て当たり前か、必要の無い事…では無い。
そう思った時忍は、やっと自分で自分の明日を考えてみよう…と思った。

「ありがとう…神谷さん。僕もこれから自分の出来ることを頑張ってみます」
「そうか。それじゃ俺も、あんたに負けないようにしないとな。なんせ歳を食っている分歩が悪いからな」
神谷が冗談めいた口調で言うと、忍がちょっと驚いたような顔で、
「えっ、神谷さんって…そんな年なんですか?」 と聞いた。

「俺か? 俺はもうすぐ30だ」
「なんだ…まだ、若いじゃないですか。大丈夫、全然いけます」
そう言うと、忍は始めて顔を綻ばせた。今までは、泣き顔と無表情の顔しか見せた事がなかったのに。
そう思うと、僅かながらでも表情に変化が見られたのが嬉しかった。これで、今までの重苦しい空気がなくなる。

それに…こうして笑った忍はなかなかに可愛い顔をしていると思った。

少し長めのサラリとした髪と、大きな目が年令より幼くみせているが…街に出たら、今時の若者の中でも、
俗にいうイケてる方なのだろう。 神谷はそんな事を思いながら、
「あんた、そうやって笑っている方がずっと良い顔しているぞ。辛気臭い顔をしていても笑っていても、
今が変わる訳じゃないんだ。 だったら、いつも笑っていろ…その方が可愛い」
等と言ってから妙に照れくさくなって、窺うように忍を見ると…忍は、顔を真っ赤にして俯いていた。



前へもどる            次へすすむ               拍手