吉祥天になった猫(2)



黒崎の処に世話になる事はなかったが、個人的には、その後何度か黒崎や凛と言葉を交わすようになり、
凛が、あの巨大怪物企業の心臓とも言える、情報部門の管理一切を受け持っているのだと聞き、
驚くより開いた口が塞がらなかった。
「神谷もパソコンとか扱うの? もし、そうだったら、僕が神谷用に色々メンテしてあげるよ。
神谷じゃ出来ないだろうからさ。自慢じゃないけど、僕はそういう頭だけは人より優れているのだよ」

相変わらず神谷に対して横柄な物言いをする凛であったが、なぜか生意気とか憎たらしいとか思えないのは、 
凛の無邪気さのせいばかりではないと判っていた。
凛は、いざとなったら兄の黒崎と変わらぬ冷徹さで事を運ぶ。人形のように整った顔と、艶を含んだ甘ったるい声。
それに誤魔化されてしまいがちだが、それは裏を返せばある意味黒崎より恐ろしいかもしれない。そんな気がしていた。

「はぁ、そうでしょうね。凛さんが、あの会社を護るような大変な御仕事をなさっているとは、正直言って驚きました。
私にはさっぱり解らない分野ですからね。本当に、尊敬します」 
神谷がお世辞抜きで、感心しながら言うと、凜は意外にも少し不満そうな声で、
「僕が護っているのは、会社じゃないよ。知晴を守るためさ。知晴のために、僕の全能力を使う…それだけだよ」
そんな事を言い。 凛の口から出た、初めて聞く名前が何となく気になり…聞き返した。

「知晴(ちはる)?」
「そう…将来、世界の高御座に座る奴。あいつのために僕の力がある…そう思っている」
何の迷いもなく、はっきりと言い切る凛の言葉と表情は、自分の父が持っていたものと同じもの。
そんな気がして、こんな少年がそこまで言いきる人物とは一体…それが喉に引っかかった小骨のように、
イライラと神谷の心に引っ掛り…またもや聞いてしまう。

「あの…それでは黒崎さんもそう思っているのですか?」 すると凛の表情が、途端に不機嫌そうに変わる。
「兄さん? 兄さんは違うよ…知晴の為じゃない。兄さんは…姫様の為。そのためなら全てをかける、
全てを捨てる…命さえもね。そして、必要なら…多分知晴でも敵にまわし…殺す。
知晴は、兄さんはそれで良いと言ったんだ。あの人を誰より最優先しろと。だから僕は知晴の為に…知晴を最優先する」
兄弟で、それぞれがたった一人の人間を命がけで守ると言う。
そして、その事に誇りさえ持っているような凛の言葉に、神谷は無意識に自分を重ね…その違いに臍を噛む思いがした。

「私の父は、先代組長を庇って亡くなりました。そんな父の事を、私は時代遅れの大バカ者だと…そう思って来ました。
でも、そうではなかったかも知れません。自分より大切なもの…父は、それを持っていたのですね。
だから、笑って死ねた。その大切なものが母や私ではなかった。それが、少し悔しい気もしますが、
私にも、そんなものが見つかるといい…今はそう思っています」
正直、今までそんな事を考えた事も無かった。一生妻は持たない…そう決心した時から、
自分は、大切なものや守るものを探す…それを止めてしまったのかも知れない。

「見つかるよ、神谷だったら。なんなら、僕でどう?」 凛が、冗談とも本気ともつかない顔で笑いながら言う。
「い、いや…それは…」
「なんだ…やっぱり、僕が相手じゃ嫌なんだ…」

「いえ、そうではなくて…自分の中で警笛が聞こえるのです。危ない、それは危ないから近づくなって。
あっ! すみません…別に、凛さんが、と言うことではなくて」  
言ってから、慌てて言いつくろう神谷に、凛は本当に可笑しい…とばかりにくすくす笑いながら、
「いいよ…神谷は正直だね…だから、僕は神谷が好きなんだ」 
そう言うと少し背伸びをし、神谷の頬にチュッとキスをした。 男にキスをされても嫌じゃない…と思うのは相手が凛だから。
本当にただの挨拶…そんなキスだから…だと思う。 それでも、それに慣れてしまった自分が恐ろしいような気もした。



まさか、あんな事が起きるなどとは思ってもいなかった。
先代がこれだけは…と言って手を出さなかった薬に、組長はいとも簡単に手を出した。
神谷自身は、直接それに携わる事はなかったが、若い連中が薬を捌いているのは知っていたし。
考えてみれば、一番手っ取り早く、且つ確実に資金源になるそれに、組長が手を出さない筈が無い事も判っていた。

だからと言って、神谷がそれに口出し出来る事でもなく、どうにか出来るものでもなかった。
そして…組長も、神谷には直接関わらせようとはしなかったから、見て見ぬふりを通すことで、
波風が立つのを避けていたような気がする。 その代りではないが、神谷には神谷の仕事があった。

表には出ないところで繋がっている企業や政治家たちとの、秘密裏にしなければならない仕事。
それが神谷の主な仕事だった。その為に、地元の有力者といわれる人間たちと、何度も席を共にした事があり。
言いかえれば、偉そうな顔をしている彼らの汚い部分を一番知っているのも神谷だった。

その日も、その有力者の一人から、神谷の携帯に直接連絡が入った。
別荘にいる息子が、強盗らしき者に襲われたから、助けに行って欲しいという事だった。
神谷に連絡が来たという事は、当然警察には連絡をしていない。 むしろ、出来ない理由がある…と思っていたら、
案の定…悪ガキ共が、3人で誰かを拉致してきたはいいが、反対に助けに来た連中に脅されてしまった。
そういう事らしい。

まったく…そんなクソガキ共は、少し痛い目にあった方がいいのに。
内心ではそう思っても、仕事だとなればそんな事を言ってもいられず…とりあえず、別荘まで駆けつけて見ると…
悪ガキ3人は、がん首揃えて一様に顔に青痣を作り、ふて腐れた様子で正座させられていた。
みると、その三人の他にも、二人の若者がいて。 一人はベッドに腰掛け…もう一人はその側に立っていた。
その二人は、どちらもまだ学生と思えるほど若そうに見えた。

依頼主の議員は息子の顔を見ると、慌てたように側に駆け寄り、一所懸命、息子の身を案じる言葉を連ねていたが。
神谷はそんな事より…ベッドに腰を降ろし、シーツかなにかですっぽりと包んだ人間を、
大事そうに膝の上に抱いている、若い男の事が気になった。
神谷達が、部屋の中に入って来たというのに、まったくと言って良いほど、動じる様子も見せず。
一言も喋らず、ひたすら腕の中に抱いているそれを、愛しむようにシーツの上から撫でている。

そして、その若者の側に立っていた、身体は大きいが顔にまだ幼さの残した、まだ高校生と思える少年が、
代議士相手に、堂々と脅しをかけているのがなんとも恐れ入った。
一体、どういう連中なのか。ただのガキとも思えないその様子が、神谷には妙に気になった。
ついに、金で済まそうと思ったのか…代議士が、はした金を提示した時、ベッドに座っていた若者が始めて口を開いた。

「八千億…だ」
最初は、神谷にも何の事か意味が解らなかった。

「お前と息子、家族四人の命の値段。 糞の値段だ」
そう言った若者の声に、神谷は悪寒で背筋が凍りつくのを覚えた。 この若者は…一体何者だ。
以前、初めて黒崎に会った時に感じた緊張とは全く別の…恐怖。 そして…漠然と思った。
もしかしたら、とんでもないもの…パンドラの箱を開けてしまったのでは…と。

そんな神谷の思いとは裏腹に、議員は怒り心頭に達したように、神谷に向かって彼等を痛め付ける様に促した。
正直、関わりたくない…警報が此処まで来ては、もう後には引けなかった。組としての面子もある。 
できれば思い過ごしであるように…そう思いながら…彼等を、下に連れて行こうとした時。

「神谷〜」
聞き覚えのある甘ったるい声に…やはり…パンドラの箱だった。 そう思った途端、目の前が、真っ暗になったような気がした。
凛が、この場に居るという事は…。 あの、シーツに包まれているのが…凛の言っていた姫様だとしたら…。
それを、大事そうに抱いているあの若者は…羽柴知晴。 それから後の事は、ほとんど覚えていない。
そして、さすがの議員も、MG・CCの姫様の事は知っていたらしく…茫然自失でへたり込んでしまい、後は沈黙。
やがて黒崎が到着して、羽柴知晴は隣の部屋へ消えた。

黒崎と凛の計らいで、取りあえず状況を把握し、姫様が元に戻る目途がたてば、命の危機だけは免れると言われ、
薬を捌いていた若い者を、電話で呼び出し話を聞いた。 そして、その時。
この状況を引き起こしたと思われる、議員の息子の友達だという、浅井忍と始めてまともに顔を合わせた。
男にしては繊細な面立ちと、翳りを帯びた大きな目が印象的な若者は、ただ一言。
「あの人の側に居たかった」 そう言った。

手に入らぬものを欲しいと願い、手に入らぬなら壊してしまえ…まるで、駄々をこねる子供と同じだと思い。
お前のせいで…。 そう思いながら…なぜか、その若者を哀れだと思った
そして、そこまで何かに執着できる彼が、少しだけ羨ましい気がした。



大凡の状況を把握した黒崎が、羽柴知晴に報告をするために部屋を出て行くと、それと入れ替わるように、
凛が神谷の側に寄って来て…耳元で声を潜めた。
「神谷…ごめんね。 兄さんが、なんとか最悪の事態だけは免れるように頑張っているけれど、
無罪放免はないと覚悟しておいてね。知晴はさ…親の目の前で、あいつらをダルマにしろと言った。
そしてそれが済んだらダルマは売り払い、奴らの血を全て絶てと…全員始末しろと言った。

正気じゃないと思うだろうけど、成瀬が絡むとそれが知晴の正気なんだよ。
成瀬の為なら、世界すら壊してもかまわないと思っている。知晴にとっては、世界中全ての人間の命より、
成瀬一人の命の方が重いからね。そんな知晴を抑えられるのは、姫様の成瀬だけなんだ。
その成瀬があの状態では、僕達にはどうしようも出来ないんだ」 凛は、本当にすまなそうに言った。

「ありがとうございます、凛さん。 私は、既に覚悟はできています…どうか、気になさらないで下さい。
腐った鯛は…やはり生ゴミ以外の、何物でもありませんでした」
神谷はそう言いながら、本当にそうだと思った。 父のように誰かを護って死ぬ事もできず、
悪ガキのしでかした、とばっちりで命を落とす。自分に確固たる信念がなかったから、自分の責任で誰のせいでもない。
せめて最後だけは、見苦しくないように…そう思うしかなかった。

そんな神谷を、凛は複雑な表情で見つめていたが、
「神谷…鯛だけが魚じゃないよ。僕は…小魚だって、メダカだって立派な魚だと思っているよ。
とにかく…僕も何とか頑張ってみるけど…覚悟だけはしておいてね」  凛はそう言うと、部屋を出て行った。

羽柴知晴は、人間一人の命の値段を2000億と言い、そしてそれは…糞の値段だと言った。
そんな気が狂っているとしか思えない彼に、凛や黒崎が唯々として従う。
それは単に、彼の座る椅子に対するものか…とも思ったが、それとは違うもののような気もした。

考えてみると、ここにいるガキらも、数時間後には自分たちが跡形も無く消えてしまうかも知れないというのに、
なぜ必死で逃げようとしないのか不思議な気がした。そして、そういう自分もなぜか逃げようと思わない。
現に今だって、此処にいるのは例の高校生のような若者一人ではないか。
それなのに、なぜ…そう思った時初めて理解した。

此処にいる全員、羽柴知晴のあの狂気に、呑まれてしまったのだと。
やはり、怪物の高御座に座す者もまた、怪物なのだと…と。


「神谷…ちょっと来て…」
凛に呼ばれて廊下に出ると、今度は黒崎が入れ違いに部屋に入って行った。
階段を下りていく凛の後をついて一階に降りると、凛はくるりと身体を回転させ神谷に向き合い。
「神谷…神谷はもう組には戻れないよ…と言うより、戻る組は無いからね」
普通ならあり得無いような事を言った。それなのに神谷は、凛がそう言うならその通りなのだろう。
不思議と何の疑問も無くそう思った。そして、少しだけ気がかりな事を凜に問うてみる。
「そうですか…それで、組長は」

「あの人は、一応監督不行き届き…って事で、仕方ないだろうね。
組はうちが解体して、組員は酒巻と幅生の処に預けられる事になる。でも、何処の組もお前を拾ってはくれない。
兄さんが通達を出したからさ。金看板を掲げているやつらは誰も逆らえないよ。
だから、神谷は今日から一般人として生きなさい。大変だよ…今更堅気に戻るのは。覚悟するんだね」
そう言った凛の言葉に、神谷は…はい…としか答える事が出来なかった。だが、凛は更に言葉を続け。

「それと…ネコを一匹お前に預ける。それを一人前に育てる事。
それが…僕が知晴に頼んで、最大譲歩してもらったお前の償い…解った?」
思ってもいなかった事を神谷に告げた。そして神谷は、命が助かったという現実を喜ぶより先に。
ネコを預かる…その事の方がより大きな不安…そんな気がして、


「ネコ…犬猫の猫ですか?」
怪訝そうな顔で問い返す…と、凜は少しも表情を緩めず。
「そうじゃない。ネコ…あれを一人前にする。あれは…たった今から親兄弟と縁を切ってお前に預けられる。
自分一人の力で一人前になって、この先一人で生きて行かなくてはならない。それが、彼の償い。
だから、お前に預ける事に決めた。これは絶対だからね。逆らう時は、死ぬつもりで逆らうんだね」
と言って凛の指差したほうに顔を向けると……そこに、浅井忍が立っていた。

その後黒崎のところの社員に付き添われるようにして、一度組に戻ってみたが誰の姿も見る事はできず。
一つの組がほんの数時間で跡形も無く消滅してしまった。その事実だけが神谷を眼の前にあった。
組長に忠誠を誓った訳ではないが、先代への恩を考えればこんなことになる前に何かする事があったのでは。
それなのに自分は不条理に目を瞑り、諦め…無関心を装う事で平常を保ち、結局何もしなかった。
今更悔いても遅い…と思いながら、せめて組長が何処かで生きながらえているように…神谷は初めて心から願った。

北側外れにある自分の部屋に行くと、両親の位牌と一緒に僅かばかりの着替えをバッグに詰めた。
そしてそれを手にもう一度玄関に戻ると、付き添ってきた社員が丁寧な物腰で後部座席のドアを開けた。
罪人にVIP待遇のようだな…そう思いながら車に乗り込むと車はゆっくりと走り出し。
何処に連れて行かれるのか神谷には予想も出来なかったが、暫く走って行きついた先は小さな古いアパートの前だった。

そのアパートの前で部屋番号とその部屋の鍵を渡され、着替えの入ったバッグを手に言われた部屋に入ってみると、
何も無いガランとした部屋の中で、浅井忍が膝を抱え小さくなって座っていた。
どうして自分に彼を預けると言うのか…どんなに考えても、神谷にはその理由が解らなかった。
だが忍が此処に居ると言う事は、凜のいう贖罪の始まりで逃れようのない現実。そんな気がした。

そして神谷の姿に気付いた浅井忍は、床に平伏す様に頭を下げて「すみません、許して下さい…」
泣きながらその言葉を繰り返し……詫びた。


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