吉祥天になった猫    神谷 将吾(元ヤクザ)×浅井 忍(大学生)


 浅井忍 21歳  大学生


別に不満があった訳ではなかった。 社会的地位のある人間だった親は 何一つ不自由のない生活と、
望まずして子供の将来すら約束してくれ、自分は普通の人間達とは別の人種なのだと思っていた。
仕事に忙しい父親と、それを埋めるように子供にべったりの母親。
そんな親達は子供に見合わない小遣いをくれ、何も教えてくれない代りに我侭を聞いてくれた。

不満などなかった。だがその分、全てが不満だったのかも知れない。
思えば僕の人生は、親が曳いたレールの上を走る車に、ただ乗っているだけだったのだろう。
高校生で高級車を乗り回し、遊ぶ相手は幾らでもいた。

そんな毎日の中で、学校をサボって遊びに行ったあの日…僕は始めて、自分の意思でレールから逸れた。
その時から僕の人生は、自分でも予想しない方へと転がり出した。
ヘッドライドの中で、驚いたように目を見開き、一瞬僕を見つめたその顔が、
僕をレールから外れさせたような気がする。

いつもだったら、すぐさま親に連絡をし、親の指示に従うはずの僕がそれをせずに、
自分の意思で行動したのはどうしてなのか、今になっても解らないままで。
ただあの時…純粋にそれを自分のものにしたい…そう思ってしまった。

なのに自分のものにはならなかった。それどころか、僕の欲しがったものが、
どんなに望んでも、決して手に入れる事の出来ないものだと知った時、僕はそれを壊してしまおうと思った。
そして、自分も壊れかかっていたことを思い知らされた。

僕の犯した罪に与えられた罰は…ひとりで生きること。親も兄弟も友達も…全て失い。
たった一人で生きること。そんな僕の隣に、同じ罰を与えられた神谷さんがいた。


神谷将吾…彼も、その時関わりのあった一人で。本当なら、あの件に関わった者は、
全員この世から消えてしまうはずだった。それなのにこうして生きているのは、
ひとつの条件が達成できたら許すと…ある人に言われ。 僕達は、それまで持っていた物をすべて失い裸で放り出された。
神谷さんも、その時から、ただの普通の人になった。
彼がヤクザだと知ったのは、僕がこれから暮すことになるアパートに、連れて来られた時だった。

「神谷はね、昔かたぎの本当のヤクザだから僕は気に入っていたんだよ。
けど…今回の事で、神谷は普通の人になってしまった。ヤクザの世界しか知らない神谷が、どうやって生きて行くのか…
生まれて初めての堅気の世界は、神谷にとって甘いものじゃないと思うよ。
そういう意味では、神谷もお前と同じで何も解らない、何も出来ない。
どうするのかな…神谷。いじけちゃうかも。だから、お前にはその責任も負ってもらうよ」

僕を連れて来た、とても綺麗な男の人はそう言って僕にキスをした。間近に見たその人の瞳の中には、
怒りとか悲しみとか、蔑みとか…様々な感情が入り混じって、揺れているように見えた。
僕はその時始めて、自分の犯した罪に涙した。他人の人生まで、めちゃめちゃにしてしまったという事実が、
嫌でも目の前にあり、それは取り返しのつかない過ちなのだと、やっと気づいた。

神谷さんが、入っていた組を離れて生きて行くのは、普通の人が想像するより大変な事なのだろう。 
その上、こんな事になった原因の僕を押し付けられ…殺しても足りないくらい憎んでいいはずなのに、
彼は…優しかった。

「お前も男だったら、自分のした事の責任を取れ」 彼はそう言って…僕を叱った。そしてその後…。
「覚悟を決めろ。その代わり俺も一緒だ。お前にだけ負わせない…俺も半分背負ってやる。
だから背負え。男なら、歯を食い縛って背負え」 そう言って、僕の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

僕は、親にもそんな事を言われた事がなかった。自分のしでかした事には、自分で責任を持つ。
そんな簡単な事も知らないで生きていたのだと、その時始めて知った。

それでも嬉しかった。そう言ってくれた彼の言葉が胸に刺さって、痛くて…涙が止まらなかった。
それから、僕と彼の新しい生活が始まった。
何も知らず何も出来ない僕は、彼の重荷になるだけと判っていたが…僕は独りではない。
それが、少しだけ嬉しかった。



 神谷省吾29歳 職業、元ヤクザ


神谷からヤクザを取ったら何も残らない…そう言われるほど、ヤクザの世界で生きてきた男である。
父親もヤクザで、神谷が10歳の時に先代組長の盾になって死んだ。
昔堅気の古くさい義理だの人情だの…そんな事ばかり言って、女房や子供よりそっちが大切で。
息を引き取る時も「 親父を護れた、悔いはない」そう言って、笑いながら死んでいった。

そんな父親でも神谷にとっては、たった一人の父親で、母にとっては、愛していた男だった。
ヤクザなんて人間の屑だ 絶対親父のような人間にはならない。 そう思っていたはずなのに…
父親が亡くなった後、残された母子の面倒を見てくれたのが…父が、命を賭して護った先代組長だった。
当事大学生だった自分の息子と同じ様に可愛がってくれ、これからの人間は学問だ…と言って、大学までだしてくれた。

それが、父に対する贖罪なのか、それとも…父が生前言っていたように人情に厚い人だったのか。
どちらにしても、神谷にとって恩人に違いはなかった。

結局、気が付いたら父と同じ道を歩いている自分がいた。多分、一生こうして生きて行くのだろう。
そう思った時、神谷は決心した。一生妻は持たない…と。 どんな自分であれ、死んで泣く者がいるのが嫌だった。
母の涙も、自分の涙もよく知っている。だから…自分が死んで、涙を流す者がいるのは耐えられないと思った。

先代に比べ、息子である今の組長はヤクザと言うよりハゲタカに近い男で、義理人情など微塵も無く、
非合法かつ営利を第一とする男だった。そのせいか、父親のように自分の命を張ってでも護ろうとか、
どんな事があってもついて行こう…などとは思えなかった。それはただ単に、自分も組長と同様の人間だったから。
神谷はそんなふうに思い、それが今のヤクザの世界のようにも思えた。

そんな神谷でも、一度だけ堅気として普通に生きよう…と思った時期もあった。
大学を卒業し、普通の企業に就職してはみたが、神谷にとって堅気の世界で生きるという事は、 
陸にあがった河童と同じだという事を、通感したに過ぎなかった。

慣れ親しんだ水に比べ、陸の空気はとても息苦しく足が地につかない感覚と、居心地が悪いだけの場所で、
その世界が自分の住んでいた世界と あまりにも違う事を思い知らされた。
だから…どんな組長であれ、ただ従うサラリーマンやくざでいよう…そう決めた。
その頃から、神谷の顔から笑顔と言葉が極端に減った。

その神谷が、黒崎に会って僅かながらも自分の先を考えるようになった。 
黒崎商会…暴力団ではないが暴力団をも牛耳る、社会の裏を仕切る会社。
ある巨大企業と繋がりがあり、その企業の清掃業務と言うか、表立って出来ない仕事を、
全て取り仕切っている会社だと聞いていた。

噂ではあるが、国すら思い通り動かす力を持っていると言われる怪物企業の汚い部分、闇の部分を総て受け持つ。
そこの会長が黒崎だった。初めて会った黒崎は想像以上に若く、30を幾つか過ぎた程度にしか見えず。
まるで、一流企業のサラリーマンを思わせる風貌をした男だった。

こんな男が? 噂は間違いなのでは…正直そう思った。だが、黒崎の側に寄ってみてその考えが間違いだと気付いた。
圧倒される…少しの事ではたじろがないヤクザの神谷が竦んでしまい、気を抜くとへたりそうになり。
自分が、何を言ったかも覚えていないほど程緊張しながら、一通り祝いの言葉を述べた。
そして、黒崎の側から離れた途端。 みっともないと思いながら足が震えて止まらなかった。

「ねぇ〜 ずいぶん緊張しているみたいだけど…喉、乾かない?」  
甘ったるい声と、目の前に差し出された真っ赤な液体の入ったグラス。そのグラスに添えられた、白く細い指…に、
驚いて顔を向けると、まだ高校生ぐらいと思われる少年が、にこやかに笑いながら神谷にグラスを差し出していた。
神谷はまるで暗示にでもかかったように、その手からグラスを受け取りながら、

「あ! どうも…」 
そう言うと目の前の少年をみつめた。少年の 大きな黒い瞳が神谷を見つめ、濡れたような艶やかな唇が口角を上げる。
そして神谷は、少年の顔に視線を止めたまま。日本人形のように滑らかな白い肌が匂うようだと思った。
少年は、 細い首に巻かれた首輪のような深紅のチョーカーを指先でいじりながら、神谷を見つめたまま、

「神谷って…噂どおりのいい男なんだね」 
そんな事を言ったが、神谷はそれに対してどう答えて良いのか…声も出なかった。すると少年はクスクスと笑いながら、
「へぇ〜 神谷って結構シャイなんだ…」 
言いながら細い指をチョーカーから 神谷の頬に移し、履くようになぞると顔を寄せ…神谷の頬にチュッとキスをした。

「な! なっ!! なにを!!!」 
初めて出た自分の声が裏返って聞こえた。 その時、黒崎がつかつかと近付いてくるのが目に入り、
たったそれだけの事で、神谷は自分がひどく緊張するのを感じた。

「凜…なにをしている。大切なお客様に、失礼な真似をするものではないよ」
黒崎は少年に窘める言葉をかけるが、その声はとても優しげで少年に向ける眼差しにも笑みが溢れて見えた。
多分この少年は、黒崎にとって大切な何かなのだろう。神谷がそんな事を思っていると、黒崎が神谷に向かって。
「神谷さん、どうか許してやって下さい。この子は凛…と言って私の弟ですが、どうも悪戯好きでして。
初対面のお客様に、このような悪さをしては驚かせ。自分が喜んでいるという、どうしようもない子でして。
本当に申し訳ない。今日の事は、どうか私に免じて許してやってください。お願いします」
そう言って頭を下げた。それからもう一度少年に顔を向け、言い聞かせるように言う。

「凛、お前からもきちんとお詫びをしなさい」 
黒崎に言われると、凛と呼ばれた少年が幾分頬を膨らませながらも、それでも神谷に向かってぺこりと頭を下げた。
「あ…いえ。どうかお気遣いなく…気にしてはおりませんから」  神谷が言うと、凛という少年が
「えー! 神谷は僕のこと気にいらないの? 僕は、神谷が気に入ったのにさ。酷いよ。
そうだ! ねぇ兄さん。神谷を僕にちょうだい。僕の、専属に欲しい」

神谷には信じられないような事を、黒崎に向かって甘えるように言う。
そして、それを聞いた黒崎は微かに笑みを浮かべ。それでも、やんわりとたしなめる様に言った。
「バカな事を言うものではないよ、神谷さんは他所の方だからね。私に、どうこう出来る事ではないのだよ」
言いながら その声は、言葉とは裏腹に可愛い弟の我が儘なら何でも聞いてやる。そんなふうにも聞こえた。
すると凛は、黒崎の腕に自分の腕を絡ませると、更に甘えた声で言う。

「だったら、簡単でしょう? うちに引き抜けばいい事だから。そしたら、神谷を僕に頂戴。
神谷だったら、僕を楽しませてくれそう」 まるで、人を人とも思っていないような凛の言葉に。
「凛!」 黒崎が少し厳しげな声で凜の名前を呼び…神谷は。
【何を言っているんだ、この少年は…まるで、人を物か何かのように】
そう思った途端、黒崎が続けようとしていた言葉を遮り…凜に向けて放った声は意外にも毅然とした声だった。

「お戯れも、ほどほどにお願いします。私は、人様から見たら屑みたいな人間ですが物ではありません。
一応人並に感情もあれば、曲がりなりに考える事もします。ですから…貴方の玩具になるつもりはありません。
俺は、腐っても鯛でいたい…と思っていますから。もしそれが気に入らないと、言われるのでしたら。
代りに…今、この場で私の命を差し上げます…それで、勘弁してください」

そこまで言ってから、自分の言った事で黒崎を怒らせてしまったら…そんな事を、チラッと思ったが。
口から出てしまった言葉は元には戻らない。なにより、目の前で無邪気に笑っている、この少年の言いなりになるのは、
神谷の、大人として…男としてのプライドが許さなかった。

腐っても、自分は男でいたい…その時神谷はそう思った。
そんな神谷の心情が解ったのか解らないのか…黒崎が、神谷に意外な言葉を投げかけた。

「……。神谷さん、貴方は今の状況に満足していますか?」
その問いかけの意味を解しかねて、神谷は思わず黒崎の顔を見る。
「はっ?」 
すると、黒崎は真っ直ぐに神谷の顔をみつめ、驚くような事を言い出した。

「いや…私は、凛のいう事を聞くつもりなどありませんよ。
でも、率直に言うと、貴方のような方があそこにいるのは勿体無い…そんなふうにも思えるのです。
だからではありませんが、できれば私の処で働いてくださると有難い…と思ったのも事実です。
神谷さんの事は 私も大体のところは聞いて判っています。
うちに来て頂ければ、 貴方の力を存分に活用出来るだろう。凜ではないが私もそう思ったのですよ。

貴方は、 腐っても鯛…といいましたが、腐った鯛はなんの役にもたちませんよ。ただの生ゴミです。
鯛は腐っていないからこそ、鯛の価値がある。私はそう思います…腐る前に真価を発揮してみませんか?
今すぐ返事をとは言いませんが…出来たら考えてみて下さい。勿論、凛とは関係なく…という意味です」
黒崎は、そう言うと弟の髪にそっと唇を押し当てた。

腐った鯛は生ゴミか…。
つまらないプライドで腐ってしまう前に、食われる方が役に立つという事か…なぜか素直にそう思えた。
そして…それこそが、黒崎という男の真価なのだと実感した。

「神谷…兄さんもお前を気に入ったみたいだね。兄さんが認めた以上、神谷が僕の専属になる事はなくなったけど、
それでも、 神谷がうちに来てくれたら僕はとっても嬉しいよ。
ごめんね…驚かせるような事をして、でも僕流の愛情表現だからさ」
「いえ…私のような人間に、そこまでおっしゃって頂いて心から感謝いたします。有り難う御座いました」


もし、あの時…黒崎の申し出を受けていたら…自分の人生は、変わっていたのかも知れない。
あの時踏み切れなかった自分も又、心のどこかに父と同じ時代遅れの古くさい柵を、抱えていたのかも知れない。
神谷は そんな気がした。



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