「そう…三里は話したんだ。 僕の脚の事を…あの日の事を君に。 三里は、とても優しくて、いい子なんだ。
小さい時から可愛くて、甘えん坊で。 家は、両親とも働いていたからね、三里はきっと寂しかったんだろうと思う。
いつも僕の後を付いてきては、お兄ちゃんお兄ちゃんって。
僕と三里は、少し歳が離れているからね。 だから余計に、三里が可愛かったのかもしれない。
三里の笑顔は、お日様より眩しくて…僕の大切な宝物だと思っていたから…。
三里の望むことは、何でも叶えてやりたかった。 でも、あの事故以来…三里の笑顔は光を失ってしまった。
今でも時々夢に見るんだ。
あの日は異様に暑くて…三里を絡め取り、まるで自分達の中に抱くようにして、連れて行こうとする水草の群れ。
それを必死に払って、三里を取り戻したと思ったら…今度は、僕の脚に絡まって、
僕たちを上へ行かせまいとしているようだった。 僕が、三里を取り返した事を、怒っているように思えた。
本当に…そんな気がした。
それでもどうにか、三里をボートに乗せて、やっと安心したら…。
あの時、どうしてあんな事が起きたのか、今でも解らない。
ボートがいきなり傾いで…まるで、三里を沼に返そうとでもしているように見えた。
乗るには、揺れが激しすぎて…僕はボートに乗ることも出来なくて、船べりに捕まって、
転覆しないように支えるのが精一杯だった。 そして気が付いたら、まるで下から追ってきたように、
ボートの周りは、夥しい量の水草でいっぱいになっていた。
僕の脚は、それに捕まってしまって、自由に動くことも出来なくなり…そして…大きく揺れたボートが、
僕をめがけて落ちてきた…。そんな事あり得ないのに…あの時ボートは本当に落ちてきて…僕の腰を砕いた。
あれは…一体何だったのだろう。 正直、今でも解らない。
いつもは怖がりな三里が、なぜあんな事を言い出したのも解らない…。
あの異常なほどの水草は…あの時確かに、三里を連れて行こうとしていた。
悪しきものなのか、それとも…。それを邪魔した僕は、その代償に脚を取られた…そんな気がした」
三里の兄は淡々とその時の事を語りながらも、やはり、不可解で理解できない…そんな顔をしていた。
えっ? 確か三里は…兄さんもあの時の事は覚えてないと…そう言っていたはず。でも、今の話だと…。
全部克明に覚えているじゃないか。それに、三里は何かに惹かれたと言っていたが、あれは本当だったんだ。
俄かには信じられない話だと思う…ただの偶然の事故だと思うが…それでも、兄弟二人が、
別々に、同じ感覚を味わったと云う事は、其処には、何か人には計り知れないものが、いたのだろうか。
村澤は、不思議なものでも見るように兄の顔を見つめるが、
「………三里君は、神様の供物に選ばれたのかも知れないな。水草は、その供物を、
神様の元に、運ぼうとしていたのかも知れない。
だから、それの邪魔をした悠斗さんに怒って…三里くんの代わりに、悠斗さんの脚を持っていったんだ…」
青年は、何の違和感も抱いていないように、三里の兄の言葉を受け入れる。
「俺は…この世には、人には理解できないことが、沢山あるのだろうと思っている。
気のせいや勘違いと言う人もいるが、それら全部を気のせいで片づけるのは間違いで、
悠斗さんの脚は…今、神様のところにあるんだと思うよ。 神様が大切にとってある。
だから、悠斗さんは、足が不自由になっても、優しくて綺麗なままでいられるんだ。 俺は、そう思っている」
「ありがとう…。 でも、失ったのが僕の脚だけなら諦められた。
でも、脚と一緒に三里の笑顔まで持っていかれて…僕の宝物は戻ってこない。 それが悔しくて、一番辛い。
三里が笑ってくれるなら、こんな脚なんかどうでもいいのに…」
三里の兄はそう言って、涙をこぼした。
「…三里は、兄さんの脚がそうなったのは、自分のせいだと言っていました。
兄さんの足も、幸せも、未来まで、全部奪ったのは自分だから、自分は兄さんの足になるんだって…。
一生そうやって生きて行くんだって言いました。
俺は三里が好きだから、三里がそう決めているのなら、それで良いと思っていました。
でもあいつ…心が悲鳴をあげているみたいで…辛そうなんです。
三里は、それが全部俺のせいだって…俺があいつを、迷わせるって言いました。
どうかお願いです、三里を許してやって下さい。 三里のせいじゃないって…。
そう言ってあいつを、自由にしてやって下さい。 お願いします…俺に出来ることなら何でもするから、三里を。
俺は…三里が泣くのを見たくないんだ…」
村澤は胸にこみ上げてくる熱いもので、目に涙を浮かべて二人に頭を下げた。
自分のせいで、三里が辛い思いをしているとしたら、それは村澤にとって、なにより辛く悲しいことだと思った。
そして、三里は長い年月に渡り、兄に対して、今の自分と同じような思いでいたのかと思うと、
どんな事をしても、三里を自由にしてやりたい…ただその思いで一杯だった。
少しの沈黙の後、口を開いたのは…
「…君は、本当に三里君の事が、好きなんだな。 けど、三里君は男だぞ…君だって男だ。
それを解って言っているのか?」
青年は、まるで村澤に同情するような口調で、そう言った。
「解っています…でも、貴方だって男じゃないですか…それなのに、男のお兄さんと…」
すると青年は、驚いたように一瞬息を呑み、それから苦笑いを浮かべた。
「えっ? 参ったな。 君は、分かっていたのか…俺と悠斗さんさんの事」
「はい…そうじゃないかと…」 まさか自分と同じように、ホモを確信したとは言えず、曖昧に肯く。
すると三里の兄が、不安そうな顔で聞いた。
「あ・・あの…それを…僕たちの事を三里にも?」
「いいえ、この前銀行の前で会ったとき、そうじゃないかな? って、俺が勝手に思っただけで、
三里には、何も言っていません。 三里からも、何も聞いていません」
事実三里の口から、兄の事を聞くなんて事もなかったし、たとえ聞いたとしても
あの三里が、自分の兄に同姓の恋人がいるなんて言うはずもない。 というより、三里は、この青年の事も、
気づいていないんじゃないかと思う
村澤の返事に、三里の兄はホッとしたように、肩を落とした。
兄
「三里には、彼との事をまだ言ってないから…」 兄は、そう言うと膝の上に置いた自分の手に視線を落とした。
もし自分が、三里とそういう関係になったとしたら…自分は、弟に三里をなんと言って紹介するのだろう。
そう思った時、兄が三里に彼の事を話していない、その気持ちもが、解らないでもないような気がした。
「彼との事は、いつか言わなければ…と思っているけど…。 三里を傷つけるような気がして…。
僕のために、一生懸命世話をしてくれる三里の気持ちを思うと、なかなか言い出せなくてね」
兄は、俯いていた顔をあげると、チラリと彼のほうを見て…それから、ちょっと怪訝そうな表情を浮かべ、
「でも…どうして、僕に三里を許せなんて言うのか…解らないんだけど。
僕は、脚が不自由になったのを、三里のせいだなんて思った事は一度も無いよ。
なのに、なぜ三里がそう思うのか…。君に言われて、初めて知った。 本当に三里は、そんなふうに思っているの?」
兄は、本当に信じられないというような表情で村澤に尋ねた。
それには村澤も驚いてしまい、なにかが食い違っていて、お互いの感情も行き違っているような気がした。
だから、三里の心の澱を言葉にする。
「だって、怪我のせいで恋人とも別れて、大学もやめたって。
それに、何度も死のうとしたって…それは全部事故のせいで」
「…そうか…・確かに、あの頃付き合っていた恋人とは別れたよ。 こんな身体になって…将来を考えたら、
とても彼女を幸せに出来ると思えなかった。 だから、二人で話し合って、お互い納得して別れたんだ。
彼女は二年前に結婚して、子供も生まれ…とても幸せに暮らしてる。 それに、僕が大学を辞めたのは、
車椅子でも出来る仕事に就くために、必要な勉強を、し直そうと思ったからなんだよ。
僕は、事故の前は現場の記者になりたいと思っていたからね。 でも、車椅子じゃ無理だろう?
それに…身体が不自由になってみたら、いろいろ考えも変わった。
僕は、いつも誰かの助けを借りて生きている。 その誰かは、家族だったり親切な他人だったりするけど。
確実に人の手助けの上で、今の生活が出来るんだと思う。 だから、僕にも出来る、恩返しをしたい。
そう思うようになった。 もう一度、自分の現状にあった仕事を探して、それで頑張ろうと思ったんだ。
大学を辞めたのはその為で、決して足のせいじゃないんだよ。
ただ…一度だけ…死んでしまいたいと思った。 脚が二度と動かないと解って…
一生、家族の重荷になるって解った時。 無意識に、死のうとしていた…本当に、馬鹿だったと思うよ。
そんな事をしたら、余計に三里を傷つけ、悲しませるのにね。
その時、両親が言ったんだ…これ以上三里を悲しませるな。 自分達に後悔させないでくれって。
僕は脚を失っても、命が助かった。 それだけで、十分神様に感謝しているから…私達の息子でいてくれって。
そんな両親の愛情を裏切って、僕は親不孝をしてしまうところだった。
両親も三里も、僕の大切な家族だって…そう思っている。 もし、悔いが有るとしたら、
三里の笑顔が消えたのだけが悔しい。 この脚の事は、三里を守った勲章だと思えば、なんて事ないんだよ。
だから、三里がどうして其処まで、自分のせいだと思うのか解らないんだ。
なにか、僕の知らない原因があるのだろうか」
三里の兄は、本当に解らないと言うように小さく首を振った。
「三里君には聞いてないの? 三里君が落ちた時のこと…」
「はい。事故の時、三里はまだ小さかったようだし、それに怖い思いをしたんだから、思い出させるのは可哀想だと思って、
あの時の話はしないようにしていたんです。それに、三里は落ちたときの事、あまり覚えてないような感じでした。
ただ…惹かれた…三里は、そう言っていました。 何かに惹かれて…落ちたって。自分はあの時、惹かれたんだって。
沼に行ったことも、ボートに乗ろうと言ったことも、全部後悔していた。
三里は、あの日自分は沼に入るために、あそこへ行ったのだ…そう思ってる。
だから…自分の命と引き換えに、お兄さんの脚が奪われた…そう言っていた」
「まさか! 本当にそう言っていたの? それじゃ、全部覚えていたんだ…あの日のこと。
三里はあの時、船べりから下を覗き込んで…僕に言ったんだ。 何かいる…。 呼んでる…って。
それから…自分からそれに、手を差し出すようにして落ちた。 僕は、その事を誰にも言っていない。
三里も、そんな事は覚えていないだろうと思っていた」
「…・じゃ、なんであんな事を言ったんですか!! 沼に行って脚を取り戻して来いって。
それって、三里に死ねって言っているようなものじゃないですか。
三里は、自分の命とお兄さんの脚は、引き換えだと信じているんですから。
だから…お兄さんにそう言われた時…沼に行けなかった事を、今でも後悔している。
でも、行けなくて当たり前でしょう…死にに行くなんて出来っこないですよ。
その後悔で、自分をお兄さんに捧げて、足になろうと決めたんです」
グスクの前で見せた、三里の後悔と絶望の入り混じった悲壮なまでの決意。 あの顔を思い出すと、
村澤はきりきりと心が痛んだ。 だから、つい兄を責めるような口調になる。
「ちょっ! ちょっと待ってよ、僕が三里に脚を取り戻して来いって言った? そんな事、言う訳がないじゃないか。
何度も言うけど…三里の命と自分の脚が引き換えだなんて、僕は一度も思ったことはないよ」
「えっ? でも三里は、お兄さんにそう言われたって…」
「それ、何時の事?」
「さぁ…そこまでは聞いてないけど…・でも、そう言っていた」
「変だな…。 僕は誓ってそんな事は言ってないよ。 三里の奴、何でそんな事を…・・」
兄は、本当に理解できない、そんな顔で首を傾げていたが…突然、何かに思い当たったように、
「あっ!まさかあれが…」 と言って少し眉をひそめた。
「あれって?」
「うん、事故の後、僕は半年ほど入院して、寝たきりの状態が続いたんだけど、三里は毎日見舞いに来てくれて、
ベッドの傍でずっと僕に付いてくれていた。 そんなある日、隣の病室の患者さんが亡くなったんだ。
事故で、重体の患者さんだったらしいけど、急に容態が変わって亡くなられた。
その時三里が廊下にいて、ドアの隙間から病室の中を見てしまったらしく、
僕の病室に帰るなり言ったんだ、隣に何かがいたよ…って。 僕は何のことか解らなくて、
適当に聞き流してしまったけど…でも、もしかしてそれが、沼で感じたものと同じだったとしたら。
思えば、あの頃から三里が笑わなくなったような気がする。
酷く暑い日は特に様子が変で…ボーっとしていたかと思うと、泣きそうな顔で、
じっと何か…在らぬ方を見ていたり…それまでは、事故の後も、以前のような笑顔を見せてくれていたのに
だから、覚えていないと…。 気のせいだと思っていたんだ」