兄と友達と自分


着替えを探して戻ってくると二人共まだ浴室の中で、脱衣所には村澤の着ていた制服が、濡れまま置いてあった。
後でクリーニングに持っていかなければ…。急ぎで仕上げて貰えば、明日の夜には出来上がる…
そんな事を思いながら、三里は、それを自分の制服と一緒にして、ランドリー籠に入れた。
そして、バスタオルを手に、ドアを開ける。

「兄さん、待たせてゴメン…」 そう言って、見た先の椅子には兄の姿が見当たらず、
ドアを全開にして覗いた先…。 浴槽の中で村澤と一緒に、嬉しそうに笑っている兄の顔…そして村澤の顔。
「…・村澤くん…・・どうして…・」
「おぉ 三里!」
「あ! 三里…村澤君に、お風呂入れてもらった」
「………・」  バタン! ドアが閉じられた。

「えっ?…・」
「あれ? 不味かったかな?」

「どうしたんだ? あいつ」
「怒ったみたいだね…」

「なんで? あいつが怒るんだ?」
「さぁ〜何でだろうね」 ポカンと不思議そうな顔の村澤と、さても可笑しいといったような三里の兄の顔。
そんな二人の対照的な表情が、慌ててドアを閉めた三里に判るはずもなく
ただ、一瞬目に焼きついた光景が三里の心に小波をたてる。

なんで…なんで、一緒に風呂に入っているんだよ…それも、二人共裸で。
風呂に入っているのだから裸は当然なのに、そんな事すら考えるゆとりもない。
兄さん、嬉しそうに笑っていた……。 あいつの胸にもたれて。 あいつだって…兄さんを抱いて、へらへらしやがって。
村澤に対してなのか、兄に対してなのか…それとも二人に対してなのか…
三里は自分でも、制御出来ない感情が渦巻いているのを感じていた。

その後も三里の機嫌は、何時にも増して悪く?村澤は訳が解らず兄の顔を伺う。
その兄は、時折三里と村澤を見比べ、意味有り気な笑みを浮かべていた。


「村澤君が、泊まってくれたらとっても楽しいし、心強いんだけどな」
そんな兄のたっての勧めで、村澤は図らずも三里の家にお泊まりする事になった。
制服がびしょ濡れで着られないのと、それから、獅堂家は両親が不在だというのもその理由だった。
  三里の父親は単身赴任中で、母親は実家の親の介護っで、今日は実家に御泊り。
つまり、この家には三里と兄の二人だけ。 だから、兄の言葉もあながち嘘ではなかった。

「久しぶりに、賑やかな夕食で嬉しいね」  兄が楽しそうに言うと。
「悪かったね…いつも暗くて」   三里が不機嫌そうに言う。

「そういう意味じゃないのだけどね」   兄が返すと
「どうせ僕は、性格が悪いって、誰かに言われているから」  三里がじろりと村澤を睨む。

「えっ? お・俺? なんで俺に当たるんだよ…お前最悪」
「そうです、僕は最悪最低な奴なんです…」  と、まるで取り付くしまもない。

「…・・ガキみてぇ…」
「どうせガキだよ!」
【だから、兄さんを抱き上げる事も出来ない、お風呂にだって入れてやれない…
兄さんに、あんな嬉しそうな顔をさせてやる事も出来ない】
ブーッと膨れた顔で、プイと顔を背ける、今まで見た事の無いそんな三里の姿に村澤は、ニィと笑って言う。

「お前、妬いてんの? ふ〜ん、お前って、ブラコンだったんだ。 大丈夫心配すんな、お前から兄貴取ったりしないから」
「は〜?」
「ブラコン?」
村澤の言葉に、兄と三里が顔を見合わせる。 三里の顔はますます不機嫌そう。 そして兄がプッと小さく吹き出す。

「そうか、そうなんだ…これじゃ、三里が怒るのも無理無いな」
兄は、本当に可笑しいとばかりに、二人の様子を見て声を上げて笑う。
「兄さん!!」  
三里の顔が、なぜか真っ赤になって、村澤にはますます意味が解らなくて、三里と兄の顔を交互に見つめるだけ。
「三里…良い友達が出来たね…・大切にしないと、後で後悔する事になるよ」  
兄はそう言いながら、三里の顔を見て大きく頷いた。


旅行の前に、三里とお泊まり〜♪ とばかりに、るんるん気分の村澤。 
そんな村澤を白い目で見ながら、かけられたのは三里のつれない言葉。
「君はリビングで寝てよ…毛布は貸してあげるから」 その言葉に、村澤がえ〜〜〜! とばかりに言い返す。
「何でだよ! 俺はお客様だろう? なのに、リビングのソファーだなんて、そんなの有りか?」

「大いに有り。 だって、まだ犬になって無いだろう? 君は」
「バーカ なんもしねぇよ…・それに…」

「それに、何?」
「…その時には…俺にだって準備がある」
「準備? なにそれ…そうか!怖気づいているんだ」  三里が、いつもの小ばかにしたような顔で言う。

「ちげぇーよ! だって、いろいろあんだろう? その…ゴムとかゼリーとか」
「…・・へぇ〜 一応知っているんだ、そういう事」

「当たり前だ! お前を傷付けたり、痛い思いさせたりしたくねぇからよ」
「…・・バッカみたい…・只の賭けにそんな心配なんて必要ないよ」

「それでも俺は、嫌なんだよ。 お前が痛いのも、辛いのも…嫌なんだ」
「…・・バカだよ…ホント、馬鹿…・」

どうして君は、そんな事ばかり言うのさ。 だから僕は、益々不安になってしまう。
けど、今日は兄さんが世話になったから…お礼と、その馬鹿に免じて、僕の部屋で寝る事だけは認めてあげる。
でも、本当に…それだけだから…他に意味は無いから…。

「何してんのさ! もう電気消すよ。 さっさと二階に上がってよ」 とたんに村澤の顔が緩む。
「えっ? ホントか? ホントに一緒に寝てくれんのか?」

「馬鹿!一緒じゃないよ!! 僕はベッド、君は下に布団を敷いて寝る」
「うん! いい、いい! それで、良い!!」
村澤の顔が、これ以上ないというほど嬉しそうで…はぁ〜 お前…涎出てそうだよ…。



薄明かりの中、ベッドの上と床…といえども並んで寝る。 村澤は、それだけで目が冴えて一向に眠気が襲って来ない。
「なぁ…三里…眠ったのか?」 ベッドに顔を向けるが下からでは、ベッドの上の三里の顔は見える筈もなく、
「まだだけど…・・」  声だけが、しじまの中に広がる。

「そうか…・なんか眠れないな…」
「じゃ、羊でも数えてれば…」
「う〜ん、そうだけど…・なぁ、三里…お前の兄さんって可愛いよな…それに、優しくて美人だ
あ!でも、変な気は無いからな、安心しろ」  断言するようにいう村澤の言葉を聞きながら、

【この馬鹿は、なんでそんな事をわざわざ…別に心配などしてもいないのに…。
事実兄さんは、とても優しいし本当に綺麗だと思うよ…】
頭の中で思いながら…でも、それをいちいち言うのも面倒で…だから、
「悪かったね、似てなくて…」
言ってから、なんか…僻みっぽいな…と思っていると、返って来たのは意外な言葉。

「似ているよ、お前と兄貴…・良く似ている。 だから、あの人を見て、お前もこんなふうに笑うのかな…って思った」
「…・似てないよ、僕と兄さんは…兄さんは優しくて、綺麗で…本当だったら、もう結婚して子供もいて…
幸せに暮しているはずだったのに…僕が…僕のせいで…・」
「お前のせい?」

「そうだよ…兄さんの脚を奪ったのは、僕なんだ…
幸せな結婚も、可愛い子供も…仕事も…兄さんはそんな未来を…・全部僕のせいで失ったんだ」
吐く言葉の重さにも関わらず、三里は感情の見えない乾いた声で言った。



   贖罪


「如何いう事だよ!それ…」
村澤は、思わず布団の上に起き上がって…ベッドの上の三里を見つめて聞く。

なぜ今、村澤にこんな事を言い出したのか自分でも判らなかった。
ただ、静寂と薄闇の中 一筋の月明かりが あの日水面に見た光を思い出させ、三里を水中へと引き込む。
そして三里は、天井を仰いだまま、抑揚の無い声で言葉を吐き続けた。

「僕が、兄さんの脚を奪った…。 僕が小学校5年生の時…兄さんは大学生で、付き合っていた恋人がいた。
将来は結婚も考えていたほど、愛し合っていた人が…。それを、僕のせいで…・

夏休みのある日、僕は…少し離れた沼までザリガニを釣りに行きたいと、兄に無理やりせがんで連れて行ってもらった。
その日は、すごく暑くて…沼で糸を垂らしてしても、ザリガニはちっとも釣れなくて…
つまらなくなった僕は、なぜだか分からないが、沼の対岸の方に行きたいと思った。
瓢箪の形をしたその沼は、奥のほうに何かを祭った祠があって…其処には、釣り人も近づかない。
でも僕は…そっちの方が釣れそうな気がして、兄に、ボートに乗せてくれるように頼んだ。

兄さんは、最初は駄目だと言っていたが、あまりに僕がせがむので 
「しょうがないな・・」 そう言いながら、ボートを借りると僕を乗せ、反対岸の方まで漕ぎだしてくれた。
祠のあるその辺りは、さほど深くもなさそうなのに水草が生い茂って、船縁から覗くと…
澱んだ水面の下で、草の色もしていないそれらが、不気味にゆらゆらと揺れていた。

僕は、その水草の群れが得体の知れない何かのように思えて…急に恐ろしくなった。
けど…思っていた通り、ザリガニは沢山釣れて…僕の飼育箱の中は、蠢く何匹ものザリガニでいっぱいになって…・
僕は、それすらきみが悪くなって、折角釣ったそれを捨ててしまいたいと思った。

思って…縁からそれをすてるために、ボートから身を乗り出して…そして…何かに惹かれるように…落ちた。
気が付いた時、僕はボートの中で仰向けに寝ていた。
ボートの中に兄さんの姿はなく…兄さんは…青い顔をして、水の中からボートの縁に掴まっていた。
そして、僕に言った。

「三里…兄さんは上には上がれないから…三里がボートを漕いで向こうまで帰るんだ。
いいか、しっかり漕いで、絶対向こうの広いほうまで行くんだよ」
僕はその時…・兄さんが死んでしまう…なぜかそう思った。
必死で漕いだ…兄さんの手はボートの縁を掴んいても、何度もずるずると落ちそうになって。
僕は、傾きそうになるボートを漕ぎながら、泣いて大きな声をあげ助けを呼んだ。

瓢箪のくびれのように狭くなっているところを抜け、目の前が急に開けると、釣りに来ていたおじさんが、
僕の声を聞き付けて寄って来てくれた。 その時には兄さんの体力は限界で…おじさんの姿を見ると、僕に笑って言った。

「三里…良く頑張ったね…・偉かったぞ…」  そして、縁から消えた。

その後…貸ボート屋の管理人や、釣り客ら何人かの人が、皆で兄さんを探してくれて…
直ぐに見つけて、引き上げてくれたけど…・兄さんの脚は…。
僕を助けに飛び込んで、水草に脚をとられ…それでも、僕をボートに上げるために…・
その時、ボートが傾いで転覆しそうになったらしいけど…兄さんも、その時の事は良く覚えていない…そう言っていた。

みんなが、慰めなのか本当にそう思っているのか、代わる代わる言った。 命が助かっただけでも、奇跡だと。
あの沼は、生い茂る水草で、落ちたら死体も見つからない…と。
命を助けてもらった礼に、脚をくれてやったと思って…感謝しなくては…と。

それでも、兄さんが失ったのは脚だけじゃない…・二度と歩けないと判って、兄さんは恋人とも別れた。
大学も辞めた…死のうとさえした。 全部ぼくのせいだ…僕があの時、ボートに乗ろうと言わなければ…
向こう岸に行きたいと言わなければ…沼に行こうと言わなければ…。 ううん、僕があの時…何かに惹かれなければ。

ぼくが、兄さんをあんな身体にしたんだ。 だから…僕は、兄さんの脚になると決めた。
一生兄さんの脚の代りになって…。 それなのに僕は…兄さんを、君のように軽々と抱き上げる事も出来ない」
射す月明かりに、三里の涙が光り…・はらはらと、ただ音もなく零れ落ち枕を濡らした。

「三里…・・お前…・」
「だから…僕の心は動かない。 動いてはいけないんだ」  それは三里の、行き場のない深い悲しみを込めた決意。
脚を失った兄に対する贖罪に、自分の全てをかけようとしているのか。
村澤には、三里の兄がそれを望むような人間には見えなかったし、三里の想いを知ってら、あの兄が喜ぶとも思えなかった。
だが…今の三里にはそれが全てで…他に何もない…そんなふうに見えた。

「…・三里…。 お前が動けないなら、俺がお前の傍に行く。 だから、お前は動かなくてもいいよ。
俺がお前の代わりに、兄さんを抱き上げてやる。 お前が兄さんの足になるのなら、俺がお前の腕になってやるから…・泣くな」
村澤の言葉に、返事はなかった…が…三里は、布団を頭の上まで引き上げると…・反対側を向き小さく丸くなった。
そしてその塊が、ちいさく震えているのを、村澤は黙たままいつまでも見つめていた。


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