09. 兄・弟

 -兄を忘れた一瞬-

黙々と遅れを取り戻す為の日々が続き、もう直ぐ一年が過ぎようとしていた。
公立は私立と違い、受験の為の授業という訳にはいかないのが現実で…その足りない分を予備校や自分で補わなくてはならない。
そして郁海の成績もどうにか学年で七位になったものの、先日公開された全統模試の結果でも希望する理科三には届かず。
偏差値も七十を超えると天才と凡人の違いを痛感するという…その言葉の意味を郁海も痛感していた。
そのせいでは無いだろうが、時には心 細くもなり…そんな時は無性に兄の声が聞きたくなった。
だから と言って兄に弱音を吐くつもりも無かったし、愚痴るつもりも無かった。それでも…たった一言。
「大丈夫…郁ちゃんなら大丈夫。僕は信じているからね」 兄にそう言って欲しかった。

だが…何度かけても兄とは話す事も出来ず、やっと通じた時兄はとても嬉しそうに弾んだ声で。
「郁ちゃん僕ね、お友達が出来たんだ。その子はニールってお名前でね、とっても背が高くて金色の髪で目も青いんだよ
始めはちょっと怖かったけど、とても優しい声で話すからちっとも怖くなくなった。ニールの事を叔父さんに言ったら、
「良かったな」 って喜んでくれたんだよ。だから今度の土曜日に、一緒にお城を見に行くことにしたんだ。
後で、郁ちゃんにもどんなお城だったのか教えてあげるね。じゃ、お休…郁 ちゃん」
そう言うと、郁海の言って欲しかった言葉を口にすることも無く電話を切った。

そして、既にトーンだけになった受話器見つめたまま泣き笑いのような顔で郁海が呟いた。
「にいさん…友達が出来たんだ……良かったね」



森下の言った通り進級時のクラス編成でも二人は同じクラスになった。その事に安心する自分が情けないと思いながらも、
大半は国公立志望のこのクラスで、常に上位を保てなければ自分の受験は夢で終わってしまう。
だから…今年一年で天才の領域まで駆け上らなくては…郁海はそう思う事で、新学期をスタートさせようとしていた。

「永沢君、交流委員一緒にしてくれないかな…」
放課後クラスの女子の一人南谷がそう言って郁海に声をかけて来た。郁海の通う高校では特別支援学校。
つまり樹理の通っていたような学校に生徒が訪問したり、逆に其処の生徒を招いたりして交流を深める活動をしていた。
その事は一年の時から参加者を募っていたから知ってはいたが、郁海は一度も参加したことがなかった。
なぜなら、樹理の友人たちを見ている郁海にとっては、彼らもクラスの皆も同じだという意識しかなかったから。
双方とも判らない面もあれば理解できる面もある。そして、手助けが必要ならばすればよい事で、それは相手が誰だろうと同じ。
そう思っていた郁海には、交流委員は正直理解し難い委員でもあった。

「触れ合いって、ボランティアって事?」
郁海の問いに対し、南谷は結構真面目な顔で、とんでもないと言うような口調で言った
「ボランティアじゃないよ。触れ合って理解を深めるんだよ」
「何処が違うの? 同じようなもんじゃないのか?」
「違うよ…ボランティアはお手伝いとかお世話とかする事でしょう?
触れ合うっていうのは、お互いに理解し合う事だもん…全然違うよ」

それって…手伝いは理解無しでも出来るし、反対に理解すれば手伝わなくて良いのか。
天邪鬼のような屁理屈を頭に思い浮かべながら、それでも南谷が自分を誘う意図…が少しだけ気になった。
なぜ自分を…まさか兄の事を知っている? 以前なら、そう思うだけで苛立ち、相手があっけにとられるほど不機嫌になった。
だが、今の郁海にはそれは然程気にする程の事でも無いようにも思え、思ったより普通に声がでた。

「そうなんだ。で…なんで俺に、それをやろうって言うんだ?」
「え? なんで…って…」
南谷は郁海の質問の意味が理解できないというようにちょっと首を傾げて郁海を見上げたまま、
目だけが宙を彷徨っているように見え…その表情が何となく可笑しくて、なぜか少しだけ可愛いく見えた。
だから…南谷に、特に他意の無いだろうことは予想できたが、その時郁海はもう少し先を聞いてみたいと思った。

「別に俺じゃなくても言い訳じゃない? なのに、なんで俺を誘うんだ?」
南谷の顔を見つめたまま郁海がもう一度尋ねると、南谷はやっと郁海の言わんとする事が理解できたのか、
途端に南谷の頬がみるみる赤く染まり、顔が俯き声も小さくなった。
「そ…それは…永沢君と一緒にしたいなと思ったから…」
その答えに、やはり兄とは関係なかった…そう思うと、やはり何処かでホッとする部分もあり。
それと同時に思ったのは…今なら、兄の友人たちに抱いていた自分の気持ちが、本当に区別していなかったのか…。
それとも、同じ…は口実であって、本心はどうでも良かったのか…それを確かめられそうな気がした。

「そう…良いよやっても…」
「ほんと? 嬉しい。 じゃ、今度の交流会には、永沢君も行ってくれるのね」
「判った。一緒に行くから、その時は教えてよ」
「うん!有り難う。やったね、明日香!」
南谷はそう言うと、余程嬉しかったのか大いに力をこめて、両手でガッツポーズをした。その姿は男子とは違って可愛らしく、
やはり女の子だな…と思いながら、郁海の顔にも笑みが浮かんでいた。

今まで特に意識して見た事も無く、ただ感じの良い女子…その程度だった南谷明日香が、交流会の件で何度か話をしてから、
女子の中でも結構可愛い方だ。それに、いつも明るく笑っている…笑顔が良い。そんな事を思って見ると、
今まで特定の女子と親しくした事の無かった郁海にとって、南谷は初めて意識した女の子になった。
そして…彼女と親しく話す時間が楽しい…等と思ってしまう自分に郁海は少しだけ戸惑いを覚えていた。
そして今日も、授業が終わると同時に南谷が郁海の机の横に立った。

「永沢君、今度の水曜日の待ち合わせ、駅で平気?」 
それはどうやら、交流会に行くときの待ち合わせ場所の確認らしかった。そう言えば日にちと時間だけは聞いてはいたが、
個々で行くのかそれとも全員が集合して一緒に行くのか…そこまでは聞いていなかった事に思い当たる。
だから、始めての参加でそんな事にも気が回らなかった郁海にとって、
南谷の気遣いは、とても嬉しく好ましい事のように思え…自然と声も明るく弾んだものになった。

「駅って、中央の?」
「うん、私は家が西区だからさ…永沢君は何処なの?」
「俺は東…南谷とは丁度反対だな」
「でしょう? だから、中央の改札を出たところで待ち合わせて、一緒に行こう」
「そうだな、俺は初めてだから、学校の場所とかも判らないし…そうしてくれると嬉しいけど、良いのか?」
単なる待ち合わせの約束…たったそれだけの事に、なぜか心を浮きたつような気がした。

「当たり前でしょう、だって私が誘ったんだから…ちゃんと案内するって」
「ありがとう、助かるよ。それじゃ、宜しく…」
なぜこんな事を…と思ったが郁海の手は勝手に出てしまい…南谷は郁海の出した手をいとも簡単に握り返し。
「うん…それじゃ水曜日、改札出口で八時ね」
そう言ってにっこりと笑った。それから、その手をするりと解き、小さくひらりとスカートの裾を翻す。
揺れる裾から、すらりと伸びた白い足がやけに眩しくて…郁海は慌てて視線を逸らした。



「なんか、今いやらし〜い目…していたぞお前」
突然森下の声が背中から聞こえ、一瞬郁海の心臓がドキンと鳴った。
そして、何か悪さでも見付けられた時のような後ろめたさを覚え。それを隠そうとするのか声は大きくなった。
「な! 何だよ…立ち聞きかよ」
「別に…たまたま帰ろうとしていたら、たまたまお前とあいつがいて、たまたま声が聞こえただけで、
お前たちの話していた話の内容まで聞こえた訳じゃないさ」
「……随分、たまたまの偶然が重なっているんだな」
郁海は少しばかりの皮肉を込めたつもりだったが、森下は意に介する気配も見せず、平気な顔で帰りを誘ってきた。

「そう、どういう訳か重なった。で、どうすんだ? 帰るのか?」
「あぁ、帰る」
「そっか、そんじゃ途中まで一緒に行こうぜ。俺今日はバイトがあるから、途中でバイバイだけどな」
「バイトって、焼き鳥やの? マジで続けるつもりか?」
「そう、八時まで…週三日だけどな」
「これから大変な時に…余裕だな」

「余裕じゃねぇよ。けど、受験料ぐらい自分で何とかしなくちゃなんないからよ。
おれん家、再来年俺の他に中学と高校…全部一緒に進学。何しろ三歳違いだからな、重なるんだよ。
親も考えて産みゃ良いのによ。おかげで、とんだとばっちりだよ」
そう言いながら森下の表情には少しも嫌そうな色は見られず、むしろ楽しそうにさえ見えた。
その横顔を見ながら、確かに経済的には自分の方が遥かに恵まれているのだろうが、頑張る為の原動力は…。
そう考えた時、それは多分森下の方が勝っている…郁海にはそんなふうに思えてならなかった。

「でも…兄弟が同じ家にいるって良いよ」
「お前も樹理ちゃんと、ちゃんと連絡取り合っているんだろう?」
「それがそうでもないんだ…なかなか時間が合わなくてさ。なんつたって昼夜が逆だろう。
お前んちのおチビさん達と同じで、兄貴は寝るのが早いからさ。それに…最近は、昼も余り家に居ないみたいなんだ」
「そっか…でもまぁ、後一年ちょっとだろう? おたおたしてる間に過ぎるって。そうすりゃ又一緒に暮らせるだろう?」

森下は簡単にそんな事を言ったが、郁海は大輝の言った言葉を森下には言っていなかった。
ドイツから帰って来ても、兄が家に戻って来るとは限らない。もしかしたら、叔父の子供なってしまうかも知れない。
そんな事は考えたくはなかったが、絶えず頭の片隅にあるその言葉は時にゆらりと顔を覗かせ…郁海を不安にさせた。
そして成績の伸び悩みを感じる毎に、出て来る頻度も増しているような気がするのも事実だった。
そんな郁海の心中を知る由も無い森下は、辛辣に痛い処を突いてくる。

「何だよ、暗いな…大丈夫だって、必ず合格するから。但し…女の足に見とれてばかりいたら…判んないけどな」
「なっ!何だよ…いつ俺が女に見とれたんだよ」
「まぁ、良いって…俺ら若いんだもん、女の足が気になるしスカートの中も気になる。それは正常な証拠だ…そうだろう?」
「ムカつく言い方だな…それじゃお前は気にならないのか」
「馬鹿野郎! 俺だって男だ。気になるに決まってんだろう」
「じゃ、何でそういう嫌味ったらしい言い方、してんだよ」
「樹理ちゃんは男だから…女じゃねぇから…かな」

「…全く、お前のいう事は意味解かんねぇ」
「そうか、わかんねぇか…あ! 俺、此処までだ…じゃ、また明日な」
「あ…そっか…じゃ、バイト頑張れよ」
「おぅ」
背中を向け、大型スーパーの裏手に続く狭い路地を入って行く森下を見送り、一人歩き出す足取りが重く感じられた。
何もかもが適わないと思う。最近は特にそれを意識してしまい、森下といると自分が情けなく惨めに思えてならなかった。

将来の設計がしっかりと出来ていて、確実にそれに向かって近づいている森下。
それに比べ、自分は無理な未来図を描いているのでは…そんな気もしてくる。
成績も思うように上がらない…必死で机にかじりついているのに、バイトをしている森下よりいつも下にいる自分。
自分の未来であるはずの兄とも、ゆっくり話す時間がない。
そして何より、兄は友達も出来ひとり寂しい思いをしている訳ではない。今の生活に満足し…毎日を楽しんでいる。
自分だけが取り残され、手の届かない高峰を見上げている。そんな気がしてやりきれなかった。



何度頼まれても、一度も行った事のなかった兄の通っていた学校。其処に、兄のいなくなった今初めて足を踏み入れた。
そして、比較的障害の軽い生徒三人を受け持つと、彼らと一緒になって簡単な運動をしたり授業を受けたりする。
彼らは一様に、出来たことをとても喜び素直にそれを表情や態度に表す。
其処には見栄や体裁など存在せず、本当に嬉しいとばかりに身体一杯でそれを伝えていた。
小さな子供と同じ…純粋に澄んだままの心からの笑顔に、彼らの笑顔は兄の笑顔と似ている…と思った。
それは大人に近づくにつれ覚えていく幾多の笑い顔と違い、とても綺麗で可愛らしく見えた。

午前の授業が終了すると、南谷と郁海は二人並んで昼食の弁当を食べる。
南谷は自分で作ったと言う弁当を広げたが…それは予想に反したとても豪快?な弁当だった。
ご飯には大きな梅干が乗っかり、それにから揚げと里芋の煮たのが入っているだけの。
およそ女の子が作った弁当らしくない、色気の無い弁当。なのに…南谷はそれを美味しそうに食べる。
そんな南谷が、郁海の眼には陽光に勝る眩しさで映って見えた。

「なぁ、お前…一年からずっと此処に来てんの?」
「うん、ずっと…多分これから先も、卒業するまで」
南谷は、はっきりとした口調で言うと大きく頷いて、箸で摘んでいたから揚げを口に放り込んだ。
そんな女の子らしからぬ動きさえも妙に可愛くて、おかしくて…だから、気軽な口調で聞いてみる。

「南谷は将来、養護教諭になるって事なのか?」
「出来たらね。私が、初めてそう思ったのは中学の時なんだ」
「中学? そんな前から決めていたのか? 自分の将来を」
「う〜ん…決めたって言うか、憧れたって言うか…でも、きっかけはボランティアをしている近所の小母さん。
その人を見ていていつも思っていたんだ。仕事でもないのに自分の時間を削ってまで、何で人の世話をするのかな…って。
だからちょっと興味があって、中学三年の体験学習の時此処を選んだ。

そしたら…その時此処で会ったんだ、とっても笑顔の綺麗な人に。男の人だけどね、本当に綺麗な笑顔なんだよ。
私はそれまで、あんな笑顔見たことがなかったから、ショックだったな…
あの笑顔に比べたら、私の笑顔は嘘の笑顔だって…作ったお面と同じで形だけなんだ…って思った。
どうしたらあんなふうに笑えるのかな、自分もあんな笑顔になれるのかな…真面目にそう考えた。
それで、いろいろ話をしてみたら…その人はとても障害を持っているようには見えなかった。
でも、少しだけ子供みたいな気もして…その時感じたんだ。この人は心が綺麗なんだって。

あの時かな…漠然とだけど、将来もこういう魂と触れ合って行きたい…そんなふうに思い始めたのは。
だから、今の高校を選んだのも交流会があると判ったからなんだ。
でも、高校生になって初めて此処に来た時には、もうあの人は居なかった。
辞めちゃったのか、それとも卒業したのか判らないけど…名前も知らなかったから先生にも聞けなくてさ。
私が、将来を決めるきっかけになった人だから、もう一度会いたかったんだけどな。
ほんと言うと、永沢君…ちょっと似てたんだ、その人に…ごめんね」

南谷の話を聞きながら、郁海は途中から自分の心臓がドクドクと打つのを耳に聞いていた。
兄だ…南谷は兄の事を言っている。それは確信に近く、まさかこんな形で兄の話題を耳にするとは思ってもいなかった。
自分に向けられた兄の笑顔は、いつも悲しそうだった。
だが、叔父や他の人に向ける笑顔はとても綺麗な笑顔で…それに言いようの無い苛立ちを感じていた
それを今また南谷暴かれたような気がして、口から出た郁海の声は、酷く乾いてしわがれて聞こえた。
「…そうなんだ…残念だったな…」

午後は生徒によっては昼寝をする子もいるという事で、郁海たちは昼寝をしない子達と、近くにある公園まで出かけることになった
南谷は車椅子を押して、郁海は両手に二人の手を繋ぎ、ゆっくり、のんびりと歩く。
そして、前を歩いていた南谷が郁海を振り返りながら言う。
「この子達って、本当に嬉しそうに笑うんだよね。だから、同情や哀れみなんて気持ちで接したら自分が惨めになる。
私はその事に気付いたから、この子たちと同じように笑いたいと思ったんだ」
南谷は独り言のように言い、今は郁海にも南谷の言った交流の意味が判った様な気がしていた。

「うん、俺も同じ事を思っていた。なんか、みんなの笑い顔が良いな…って」
「そう…可愛い。この子達より重症の子はあまり表情に出せないけど…それでも皆ちゃんと笑う。
嬉しいよ、楽しいね…って笑う。前はさ、可愛いって思う事が下に見ているせいなのかな…なんて考えたりもしたけど、
でも…やっぱり可愛いって思うのは本当だから…今はそれで良いんだって思っている」
南谷は郁海が手を繋いでいた女の子に向かって 「良いよね!」 そう言ってにっこり笑った。

庭に咲く花をみては、綺麗だと言ってその花の名前を聞かれ。散歩中の大きな犬を見ては、怖いと言って背に隠れられる。
そのたびに、答えたり答えられなかったり、あせったり一緒に笑ったりしながら、普通の何倍もの時間をかけて公園に辿り着く。
いつもより、ゆったりと時間が過ぎていくような感覚に、こういう過ごし方も良いものだ…なんて思ってしまう。
それは無謀な夢に向かいあくせくと足掻く今の自分が、滑稽な道化のようにも思えた一瞬。そして、兄を忘れた一瞬でもあった。


「南谷…今日はありがとうな。楽しかった…なんて言ったら、彼らに悪いかも知れないけど本当に楽しかった。
それに、いろいろ勉強になった。それと、南谷を見直したって言うか感心した。お前って凄いな、尊敬するよ」
「止めてよ、尊敬なんて。でも、楽しかったのは私も同じだよ。いつもより何倍も楽しかった
これって…永沢君が一緒だったからかな…なんてね」
南谷のその言葉に一瞬戸惑う郁海に、南谷は何気ない素振で胸の辺りで小さく手を振ると、
「じゃ、…バイバイ」 そう言って電車からホームに降り立った。ドアが閉まり電車が動き出しても、
南谷は其処で小さく手を振ったままで…その姿は、あっという間に郁海の視界から後ろへと流れて消えた。





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