08. 兄・弟

 -兆し-

大輝の勧めで家の中の事をするようになると、樹理は大輝が冗談で言った意外な才能?が芽を出したのか、
料理などもあっという間に上達していった。ただ…どういう訳か樹理の手は小さな切り傷や火傷で絆創膏だらけ。
大輝には、それが可哀想と言うより何となく可笑しくも思えて…細い指に絆創膏を貼るのが楽しかったりもした。
正直、本気で家事をさせようと思っていた訳ではなく、動く事で樹理の気が紛れるなら…。
そんな思いで勧めた嫁修行だったのだが、今はほとんどの家事を熟すまでなって…それは大輝に複雑な思いを齎した。

そして、大輝が大学の同僚やスタッフから聞き得た絵を指導してくれるという画家の元に通うようになってから、
樹理の絵には力強さが加わり、見るからに上達しているのが、素人である大輝の眼にも良く判った。
水彩画から油絵になったせいかも知れないが、そればかりでは無く樹理の内面が変わった…そんなふうにも見えた。
今まで学校の友人や職員、それと家族以外では人と接する事が少なかった樹理にとって、
絵を指導してくれる初老の画家とその妻との関わりは、新しい世界の広がりでもあったのだろう。

実際、画家夫婦は樹理をとても可愛がってくれ。遠い異国の地から来た幼子のような青年に、
絵ばかりでは無く日常生活に必要な言葉や習慣など様々な事を教えてくれた。そして樹理は、言葉の覚えは格別だったのだろう。
小さな子供が耳から言葉を覚えるように、ドイツ語での簡単な会話ができるようになるのにそう時間はかからなかった。
いつも大輝に隠れてこっそり泣いていた樹理が今は家事のほとんどをこなし、日中も一人で出かけたりしている。
それは、ある意味目を見張るほどの成長でもあった。事故のせいで知的な部分での成長は難しくなったが、
それでも能ある子は障害を持っても別の何かで才を現す。その才の源が郁海なのかも知れない…大輝はそんな気がしていた。

樹理は、週二日その画家の元に通い、それ以外は大学の植物園に行くか家で絵を描く。
その合間には一人で買い物にも行き…樹理の日常は、此処に来た当初とは比べ物にならないほど変わっていた。
そして、大輝が休みの日には二人で美術館や博物館を見て周り、時には足を伸ばして国境を超える事もあった。
そんな日々の中で樹理が初めて描いた絵は、少し古い建物の建ち並ぶ街並みとその間を滔々と流れる川。
樹理の暮らす街でもあり、植物園に通う時にいつも眺める川は…期待と不安を詰め込んで弟に送る精一杯の自分。

郁ちゃん…喜んでくれるかな。僕の住んでいる所だって判ってくれるかな…。
電話をしないのは、眠くなるのもあるけど、郁ちゃんの声を聞くと会いたくてたまらなくなるから。
郁ちゃんの声を聞くと、胸が痛くなるから…寂しくて泣きたくなるから。
僕は…郁ちゃんを守るって決めているのに…。郁ちゃんが大人になれるように、寂しくても我慢するって決めたのに…。
お兄ちゃんなのに、郁ちゃんの側が良いなんて…我が侭を言いたくなるから。
それでも…郁ちゃんに会いたいよ。郁ちゃんがどんなに怒っても、怒鳴っても、郁ちゃんの側が良い…よ。
零れた樹理の涙はカンバスに吸い込まれ、いくつもの小さなしみを作った。

「兄さん…絵、上手くなったね。兄さんの住んでいる所がどんな街か、兄さんの目を透して俺にも伝わってきた。
温和な空気と豊かな緑…住んでいる人達も優しい。そんな街で、兄さんが元気に頑張っているのが良く解るような気がした。
そう言って郁海が自分の絵を褒めてくれた。それが樹理には何より嬉しくて…思わず電話口で泣いてしまった。
だから…もっともっと上手になりたい。上手になって…郁ちゃんに僕を伝えたい。
樹理は純粋にそう思い、自分の全てを絵に込める。それが植物であったり生き物であったり景色であったとしても、
その絵には樹理の寂しさも悲しみも全て込められているようだった。

それでも確実に時間は流れ、日を重ね、月を重ねて…やがて初秋の訪れを感じる頃、樹理にも友達と呼べる者が出来た。
樹理の住んでいる街は一年を通して穏やかな気候の地ではあったが、夏は三十度を超える日もあり日本に比べ雨も多かった。
だが八月を過ぎる頃には急に涼しくなり、ともすれば肌寒さを感じたりする事もあった。
そして今日も半袖の上に薄手の上着を羽織植物園へと出かけた樹理に、気軽な様子で声をかけて来た青年がいた。
「ねぇ、君は良く此処に来ているけど、もしかしたら植物学を専攻しているの?」
それはとても異国の人とは思えぬほど流暢な日本語で声をかけられ…樹理が振り向くと、
金色の髪と、コバルトブルーの瞳をした青年がにこやかな笑みを浮かべ…樹理を見つめていた。

それまでにも、顔見知りとなった人達に店や通りで挨拶のように声をかけられる事はあったが、
全く見知らぬ人に、それも日本語で話しかけられたのは初めてで…だから、樹理は自分が咎められたのだと思った。
なぜなら…大学の学生でもない自分が頻繁に植物園を訪れている。それが咎められた原因なのだろう。
そう思った樹理は、思わず青年に向かって頭を下げ謝罪の言葉を口にした。
「えっ? あ、ごめんなさい…」

すると彼は一瞬不思議そうな顔をし、それから口元に笑みを戻すともう一度日本語で聞き返した。
「ん? どうして謝るの?」
「あ…あの…僕は此処の学生じゃないのに勝手に入っているから…」
「そうなの? それじゃ、観光で…でもなさそうだね。だって、君の事は此処で何度も見かけたからね。
そうか…君は、此処がとても気に入っているんだね…」
彼はそう言うと少し腰を屈め、樹理の顔を覗き込むようにして、悪戯っぽい表情でにっこり笑った。

突然目の前に迫ったブルーの瞳と薄紅色の唇が近すぎて。樹理はそれから逃れるように俯くと小さな声で言う。
「…すみません…」
そんな樹理の姿が可笑しかったのか、更に続けた彼の声までが笑みを含んで、なぜかとても楽しそうに聞こえた
「だから、謝る必要ないって。だって此処は、誰でも入って良い所なのだから誰も文句は言わないよ。
でも、驚かせちゃったみたいだね…ごめん。僕は此処の学生でニール。オーストリアから来た留学生だよ。
それで君は? なんて名前なの?」
又しても予想もしない事を聞かれて、樹理は思わず顔を上げると彼の問いに答えてしまう。

「え? 僕は日本から来た…永沢樹理だけど…」
すると彼は、いきなり樹理の目の前に右手を差し出した。それは此方に来てから何度も交した挨拶のひとつ。
あ! 握手だ…そう思った樹理は手を出して彼の手をそっと握る…と、彼はしっかりと樹理の手を握り返し。
「宜しく、ジュリ。これでやっと友達になれるね」
そう言って爽やかな笑顔を見せた。その笑顔が余りにも自然で、何の警戒も感じさせない程自然で…樹理は。
「友達? はい! 宜しくお願いします」
そう言うと、まるで彼の笑顔に釣られたように顔を綻ばせた。するとニールは驚いたように樹理を見つめ。
それからふっと小さく笑みを漏らすと、とても優しい声で尋ねた。

「それでジュリは…毎回此処の植物を見に来ているだけなの?」
「はい…僕は、絵を描くのが好きだから…」
「へぇ〜 ジュリは画家なんだ」
「ちっ、違う…今勉強しているけど、まだ下手くそで…」
「下手くそ? それはunerfahrenって事?」
「えっ? あ…うん、そう…かな」
「面白いね、日本では未熟だって事を下手くそって言うんだ。知らなかったな」
「あっ、ち、違う……」

樹理は慌てて言葉を探すが適当な言葉が見つからない。
日本語の表現は、多種多様にあって日本人でも正しくは使えない事が多い。ましてや俗語の類になるとなお更だろう。
大体において下手くそ等という言葉自体正しいかどうかも解らなくて…樹理はまたしても謝ってしまう。
「ごめんなさい…僕上手く言えなくて…」
「あ、ゴメン、ゴメン。ちょっとからかってみただけだよ。でも、ジュリは絵を勉強中の画家の卵…って事なんだね」

ニールにそんなふうに言われ、樹理はどう答えようか迷った。
自分は別に画家を目指している訳では無い。それでも、絵を描くのは好きだし上手になりたいと思う。
それは、自分の見たものを郁海にも見せたいから…。郁海に喜んで欲しいから…ただそれだけだった。
だから、それが画家になりたい事かと言えば全然違うような気もして…樹理は曖昧な笑みを浮かべ頷くしか無かった。
だがニールは樹理の戸惑いに気付く様子も無く、それどころか更に樹理を驚かせるような事を口にした。

「それじゃ今度、城の中にある植物園に行ってみない? あと川沿いの自然公園にも行ってみよう。
いろんなものを見る事で感性を養う…それは多分、絵を描く為に必要なものだと思うからさ、僕が案内してあげる」
それは…今まで大輝以外と出かけた事のない樹理にとって戸惑いの誘い。それなのになぜか…嬉しいと思った。

「えっ? 僕と一緒に?」
「そうだよ、僕は何度も行ったけれど…ジュリも行ったことあるの?」
「前に一度…でもその時はそんなにお花も咲いてなかった…」
「そうか、それじゃ多分、ジュリが行ったのは冬だったんだね。でも、今はいろんな花が咲いている。
だから絶対行かなくちゃ。決まりだね! ねぇ、何時なら行ける?」
「でも…叔父さんに言わないと。だから…何時って約束は出来ない」

「そうか…ジュリは叔父さんと一緒なんだ。それじゃ、次は何時此処に来るの?その時返事を聞かせてくれる?」
「う、うん…明日は先生の処へ行く日だから…次の火曜日なら来られると思うけど」
「解った、火曜日だね。僕は二時に此処で待っているから…それで良い?」
「うん…」
「じゃ、これは約束だね。ジュリ…今日は意地悪みたいな事ばかり言ったけど、本当を言うと、僕は日本語が余り上手ではないんだ。
以前日本に行った事もあるし、日本人の知り合いもいる。だから少しだけなら話せるし、言っている事も解る。
だけど…やはり日本語は難しいよ。だからこれからジュリと話す時、ドイツ語も混ぜて話しても良い?」

「そうなの? でも、日本語がとても上手だと思う。僕はドイツ語を話せないけど…でも、話している事は少しなら解る。
だから、僕がどうしても解らない時には教えてくれる?」
「そうだね。お互いに教えあえば言いたい事も必ず通じると思う。僕は、樹理といろんなことを話したい。
ジュリと一緒にいろんな所に行きたい。だから今度の火曜日…楽しみにしているから、必ず来てね。
今日は、ずっと気になっていたジュリと話せてとても嬉しかった。僕と話してくれてありがとう」
ニールはそう言うと、笑顔を見せて片方の手を上げ、樹理の前から去っていった。
その後姿に小さく手を振りながら、今自分の身に起きたニールとの出会いが信じられない思いでいた。

樹理は、自分が同じ年頃の若者達と同じでは無いことも、他人が自分に接する態度が微妙に違う事も判っていた。
周りの大人は、可愛がってはくれるが他の若者達と同等に扱ってはくれない…その事を良く知っていた。
だから、ニールが何の抵抗も見せず普通に話しかけてくれた…その事がとても嬉しくてならなかった。
そしてそれは、樹理がこちらに来てから初めて経験した、目の前が開けるような嬉しい出来事に他ならなかった。

ありがとうニール…僕に話しかけてくれて。僕もとっても嬉しかった。
友達なんて…凄いや。一緒に公園やお城に行けたら楽しいだろうな。一緒に行きたいな…。
家に帰るまでのバスの中、樹理はずっとそんな事を考えていた。


大学から川を挟んでバスで二十分、其処でバスを降りてなだらかな坂道を五分ほど行くと樹理と大輝の住んでいるアパートがある。
その坂道の手前を右に曲がった先には、樹理がいつも買い物をする店があった。
通りから逸れているものの、農園を営んでいる店の主が その日の朝収穫した物だけを並べるというだけあって、
店先には いつも新鮮な野菜や果物が山盛りになっていて…それが夕刻前には売り切れてしまうのだと言う。
その事を教えてくれたのは他ならぬ画家の妻だった。そして、その時から樹理の買い物に出る時間が早くなった。
今日も店の前にはキャベツやトマトが山と積まれていて…それを見た樹理は、今日の夕食はロールキャベツにしよう…と決めた。

樹理の作れる料理はそれほど多くは無かったが、それでも十日ぐらいなら同じものを食べなくても良い程度にはなっていた。
掃除も洗濯も使い方さえ覚えれば、あとは機械が自動でやってくれる。だが料理だけは…。
ひと手間を惜しまない方が美味しい…樹理はそんな気がしていた。だから最初の頃は夕飯の支度に二時間もかけた。
だが…回を重ねて来ると一時間もあれば食事の支度は出来た。それなのに、最初の頃より美味しいし見た目も良い。
そしてやっと気付いた。本当のひと手間は時間の長さではなく、食べる人の事を思って作る心。
樹理がかけていたひと手間は…ただ単に手際が悪かっただけなのだと。

熱湯を潜らせたキャベツに、具を巻き込んで縛ったものをスープで浸した鍋に並べると、人参とベーコンを入れ火にかけた。
それから真っ赤に熟したトマトとチーズのカプレーゼには、アボガドの代わりに胡瓜を入れラップをして冷蔵庫に。
後はお米を洗い電気がまにセットする。米は定期的に日本から送られてくる。
米だけでなく、味噌や醤油などの他に、お餅、お茶、乾物などが、こちらに来てから毎月滞ること無く送られて来ていた。
樹理は、それらは母親が送ってくれたものかと思っていたが、どうもそうではなさそうで…。
大輝に聞いても返事を濁すだけではっきりと答えてはくれなかった。それでも、そのおかげで食事が口に合わなくて困った事や、
食でホームシックになる事も無く、何処の誰かも判らない送り主に感謝さえしていた。

「お! 今日はロールキャベツか?」
夕方七時に少し前。大輝が帰って来るなり鍋の蓋を開け、匂いを嗅ぐ仕種をしながら至極満足げな顔で言った。
そして樹理は、テーブルに茶碗や箸を並べながら顔だけを大輝に向けて聞く。
「うん、コンソメ味にしちゃったけど、叔父さんはトマトの方が良かった?」
すると鍋の蓋を戻した大輝が、今度はネクタイを緩めながら樹理の側まで来るとその手を樹理の肩に載せた。

「いや、コンソメで良かった。ご飯なんだろう?」
「うん…でも、パンが良かったらパンもあるけど」
「いいや、出来たら俺も米の方が有り難い」
「ホント? 良かった。僕はご飯が大好きだから、いつも勝手に御飯にしちゃうけど、ちょっと悪いかなって思っていたんだ」
樹理が安心したように、嬉しそうに…笑顔をみせた。

「そうだな。樹理は見た目とは違ってよく食うもんな。それで太らないんだから、余程新陳代謝が良いんだな」
「そうなの?」
そして今度は少しだけ首を傾げて問いかける顔が、年齢より遥かに幼く見えた。
実際、百八十以上もある大輝と並ぶと、百七十に届くかどうかの樹理は相変わらず細く華奢な体型のせいで、
下手をすると大人と子供のように見えなくも無かった。だから大輝は…つい頭を撫で撫でしてしまう。
小さな子供相手ならともかく大人にする事では無いのだが、樹理はそれを嫌がりもせず嬉しそうに笑う。
そしてそれが不自然に見えないのが不思議だと思いながら、これで良いのだろうか…そんな思いも何処かにあった。

「あぁ、若いって事だろうな。さてと、俺は着替えて来るかな。樹理、あとは俺がやるから先に風呂に入って良いぞ」
大輝はそう言いながら、緩めたネクタイを首から引き抜くと寝室のドアを開けた。
すると後から付いてきた樹理が、ハンガーに掛けようとしていた上着を大輝の手からさり気なく取り上げ、
自分でハンガーにかけスタンドのフックに吊るしながら…言った。
「僕は後で良いから、叔父さん先入って…」

嫁修行等と妙な理由をつけて樹理に家事をさせてはいるが、自分の世話までしてもらおうとは更々思ってはいなかった。
だが最近の樹理の行動は、家事は勿論大輝に対しても、まるで世話女房だな…などと思い。
苦笑いをしながらも、大輝は樹理のいう事に従う事にした。これまでの樹理は、下手をすると風呂に入る前に寝てしまう事もあり。
その為早く風呂に入れるようにしていたのだが、不思議な事に家の中の事をするようになってから、
十時時位までは起きていられるようになっていた。それは樹理の身体と時間配分が、
大人の生活リズムに変りつつあるのかも知れない…そう思うと、樹理が成長している証のような気もして。
大輝にはそんな些細な事がとても嬉しい事のように思えた。だから、

「そうか? じゃ、後片付けは俺がする事にして風呂は先に入らせてもらうかな」
少しだけ樹理に甘えるように言うと…樹理は自信ありげににっこり笑い…自信ありげに言った。
「うん、そうして! その間に僕、準備しておくから」


二人分の料理を皿に盛りつけながら、樹理はニールの事を大輝にどんなふうに話そうかと考えていた。
やはり食事が終わってからの方が良いかも知れない…と思いながら、大輝が風呂から出て二人でテーブルに着く頃には、
浮き立ち弾んだ気持ちが、どんどん膨れ上がってくるのを感じていた。
そして大輝の眼にも、樹理のそんな様子はいつもとは違って見えていた。
何か、よほど嬉しい事でもあったのだろう…食事が終わったら聞いてみるか。大輝はそんなふうに思っていたのだが、
そんな事を知る由も無い樹理は、とうとう食事が済むまで待ちきれず満面の笑顔で話始めた。

「叔父さん今日ね。植物園へ行ったら、とっても嬉しいことがあったんだよ。僕に、お友達が出来たんだ。凄いでしょう!」
本当に、嬉しそうに声を弾ませて得意げに言い出した内容は、正直大輝が予想してもいなかった事だった。
その為、一瞬頭が…え?という反応をした。だが…自分が学生だったら…と考えてみれば。
頻繁に樹理を見かけたらやはり気になるだろう。しかも、金髪碧眼の天使に勝るとも劣らない可愛い甥なのだ。
今まで虫が寄りつかなかったのが不思議なくらいだ…とも思い直す。

「友達? 大学の植物園で…って事か?」
「うん、そう。ニールっていう子でね、今度一緒にお城に行こうって誘われたんだ。それから、自然公園にも行こうって言われた」
箸を止め頬まで上気させて話す樹理の顔を正面に見ながら、過保護叔父としては心中穏やかざるものもあった。
やっぱり相手は男かよ…それも、さり気なく誘っていやがる。等と思い、仮に相手には何の意図も無かったとしても、
妙に疑ってしまうのが情けないと言うか、心が狭いと言うか…親父くさい。
そんな幾分自己嫌悪に陥りながら、それでも表面的にはさり気なく…相手の素性を聞きだそうとする。

「ニール…って、男の子か?」
「そう…とっても優しくて良い子なんだよ。それに、日本語が上手でね…僕の事、画家の卵か…だって」
ちょっと照れくさそうに…とても嬉しそうに話す樹理に、今度は一抹の不安を感じた。
だからと言ってそれを面に出すほど子供ではない…そんな虚勢で引きつりそうな笑顔をうかべた。そして、
「そうか、友達が出来たのか…良かったな。けど…まだどんな人かも判らなくて、一緒に出かける約束は早いんじゃないか?」
口から出たのは、まるで娘がデートに誘われたのを何気に反対している親父のような台詞。
すると樹理が、大輝の心中を知ってか知らずか…いとも簡単に言った。

「え?別に約束なんてしてないよ」
「ん? だって公園に行こうってさそわれたんだろう? それに、城にも行こうって」
「うん、でも僕は、行くって言ってないよ。叔父さんに話してからって言った。そしたらニールが、
「判った…それじゃ、次に会った時に返事を聞かせて…」 だって。僕が次に植物園に行くのは、火曜日なんだよ」
樹理は如何にも得意そうに言い、大輝はその言葉にホッとする自分に呆れながらも、今度は安堵の笑顔を樹理に向けた。

「そうか…やっぱり樹理はしっかりしているな、安心したよ。それにニールも、きちんとした良い人みたいだな」
「うん、とってもいい人だよ。だって…僕に、普通に話をするんだよ」
「普通に?」
「うん…僕は、皆と同じじゃ無いでしょう? そんな事、僕だってちゃんと解っているから、気にしたりしないけど…。
でもニールは…僕に最後まで普通に話してくれた。それがとっても嬉しかったんだ」


その言葉に、さっきまでの警戒も、安っぽい喜びもどこかへ消え去ってしまうのを感じた。
普通ではない…その意味と、普通に話しかける…その意味に愕然とする。
別に今まで、樹理の障害を普通じゃ無いと思った事は無い。ただ、可愛いから…年齢より幼い樹理が可愛くて…。
それでも、小さな子供扱いをしてきたのは事実で…紛れもなく普通ではない接し方なのは確か。そして漠然と思った。
もし、ニールという青年が樹理を特別扱いしないなら、そして樹理が自分を意識しなくていられる相手だとしたら…。
彼は樹理にとって本当に必要な友人なのかも知れない…そんな気がした。

「そうか…こっちには樹理と同じ年位の友達は、まだ居なかったんだな。
それじゃニールは、樹理の初めての友達…一号君って事だな」
「一号? それじゃロボットみたいだよ」
「でも一号っていうのは、一番初めって事だぞ。とても良い事なんだから、ニールも喜んでくれると思うぞ」
「そうかな…。そうだね、僕の一番初めの友達だもんね。今度ニールに会ったら、その事言ってあげよう」

そう言うと樹理は本当に嬉しそうに…無邪気な笑顔を見せた。
樹理はあの日、身体だけではなく心までも前に進むのを、止めてしまったのかも知れない。
郁海の為に…切ないほど弟だけが全てでは、余りにも悲しすぎる、辛すぎる…。
だから友達が出来ることで少しでも周りが広がるのなら、それも良いのでは…と、大輝は思った。
もっと自分の為に何かを…そう思いながらも、兄と弟が決して傷つく事だけは無いように…とも願った。

『ニール・オルデブラン・ハブスブルグ』  学生在籍簿での彼は、大輝の予想を上回る名家の息子となっていた。
オーストリアの古い貴族の家柄で、現当主は貿易商オルデ商会の社長で…ニールはその社長の一人息子であった。
日本にも何年か留学の経験があり、日本語が堪能なのはそのせいと思われた。
これは…単なる友人としてなら良い相手なのだろうが、下手に深入りするような事にでもなったら…。
少しばかりか大層面倒な事にもなりかねない…そんな気がして、大輝は椅子に腰を下ろすと天井を見上げた。





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