07. 兄・弟

 -兆し-

年が明けて臨んだ私立二校の試験は、どうにか無事合格が決まった。
一校は本当の意味での滑り止め。そしてもう一校は、おそらく無理だろうと言われていた医学部のある私大の付属。
合格の報告を聞いた担任は飛び上がらんばかりに喜び、郁海の手を握るとぶんぶん振りながら、
「良くやった。よくやった。おめでとう!」 を、何度も繰り返した。
不思議なものでそうやって喜んでもらえると、宛も最大の難関を突破したかのような錯覚で嬉しさがこみあげて来る。
事実先生は、しきりに付属の入学手続きを進め。郁海も、医学部…に気持ちが揺れそうになった。

だが兄の夢を引き継ぎ父親のような医師になるためには、どうしても其処で止まる訳にはいかなかった。
合格の可能性は低くとも手を伸ばし最後まで足掻く。そして必ず父親と同じ大学に入学し父の後輩になる。
それが郁海の決めた兄に近付くための一歩だった。だからその日も家に帰ると早速机に向かった。
そして…それから少し間を置いて二月、いよいよ第一志望の受験の日がやってきた。
試験も三度目ともなれば少しは緊張が薄れるかと思ったが、やはり本命ともなれば緊張は前回の比ではなかった。

だから少し早めに家を出ようと、昨夜のうちに準備は済ませてあったカバンの中をもう一度確認しているとドアを叩く音がした。
母親が朝食の準備が出来た事を知らせに来たのだ…郁海はそう思い、ドアをあけると廊下に立っていた母が。
「郁海…電話よ」 言いながら手にしていた受話器を郁海の前に差し出した。
こんな日に誰から? もしかしたら、森下が一緒に行こうと電話でもしてきたのか…そんなふうにも思い、
「電話? 誰から?」 一応相手を確かめると、母は何処か得意げな笑顔で思いがけない人物の名を告げた。


「ドイツの樹理からよ。それと、朝食は出来ているわよ」
「えっ、兄さんから?」
それこそ思ってもいなかった兄からの電話と聞き、郁海は急いで受話器を受け取ると耳に当てる。
「もしもし…兄さん?」
「あ! 郁ちゃん」
久しぶりに聞く兄の声は優しい音色でくすぐる様に耳に響き…途端懐かしさがこみ上げそれだけで胸が一杯になった。
そして、こみ上げてくるものが鼻の奥につんとした痛みを引き起こす。
それを悟られないように、郁海はひとつ息を吸い…吐き出すと、わざと明るい声で聞いた。

「兄さん、どうしたの? こんな朝早くから」
「うん…郁ちゃん、今日試験なんでしょう? だから…頑張ってね…って言おうと思って」
電話の向こうで、兄の声が少しだけ窺うような声色に変わったのは、今まで兄の発する言葉にイラつき邪険にしていたせい。
そう思うと、郁海は自分がどんなに兄を傷つけていたのかを、今更のように思い知らされた。
兄は…いつだって弟の事を誰より心配してくれた。いつだって真っ先に弟を守ろうとしてくれた。
そして今日だって、心配して態々電話を…と、其処まで考えて、郁海はふと違和感のようなものを感じた。

今日の第一志望校は、合格の決まった二校より偏差値が高く更に倍率も高い。
絶対合格する…と意気込んではいても心の片隅には、合格する確立は低い…無理かもしれない。
そんな思いが無いわけではなかった。だから兄には勿論、叔父にも今日の試験の事は知らせていなかった。
もし無事合格出来たら、一番に知らせて驚かせよう…そんなふうに考えていた。
だが実際は、もし不合格だったら…カッコ悪い。そんな取るに足らない見栄が心の何処かにあったのも確かだった。

それと、兄がドイツに行ってから郁海が兄と電話で話をしたのはほんの数回で、それも文面にしたら数行にも満たない。
だから、詳しい近況も知らせていなかった…というのが本当のところだった。
それと言うのも、日本とドイツでは時差が八時間以上もある為、昼夜の時間帯が逆に近い。
それに加えて、十八歳にもなって十時前にはベッドに入る兄が遅くまで起きていられるわけがなかった。
従って今の時間は、いつもなら既にベッドに入っている時間の筈。それなのに…何で兄がこの時間に電話を…。
それより、なぜ試験の事を知っているのか。それが、郁海が感じた違和感の正体だった。

「兄さん、なんで試験の事知っているの? 。それに、もう寝てる時間じゃないの?」 郁海が言うと
「だって…今日は郁ちゃんの一番大事な試験の日だって聞いたから、僕も頑張って起きていたんだ。
大丈夫だよ郁ちゃん…郁ちゃんなら絶対合格する。僕は、そう信じているから。だから頑張ってね…郁ちゃん」
兄は少しの迷いも無く言い切った。大丈夫…それは何の根拠も無い自信。今までは苛立ちしか生み出さなかった言葉。
だがその言葉が、今は郁海の心の片隅にあった僅かな不安と弱気を吹き飛ばしてくれるような気がした。
そしてそれは…僕を迎えにきてくれるって信じているよ…兄がそう言っているようにも聞こえた。

どんなに離れていても、たとえ会えなくても、いつも弟を心配している兄。
そうだね…兄さんは俺のたった一人の、大切な……なんだ。

「ありがとう兄さん。俺、絶対合格するから」
「ほんと? 絶対だね。じゃ、約束だよ」
「うん、今度電話する時は兄さんにお目出とうって言ってもらえるように頑張るよ。約束する。
兄さん…今日は電話ありがとう。俺、元気出たからさ…もう安心して寝ていいよ」
「うん…。それじゃ、郁ちゃん…またね」 心なしか寂しそうな声でそう言うと兄は電話を切った。

ほんの数分だけの短い会話。だからこそ無性に会いたくなった。兄に会いたい。今すぐにでも、兄の側に飛んで行きたい。
試験など放り出して空港に駆けつけたい。そんな思いで握り締めた受話器から聞こえるのは無機質な音。
だから…郁海は怒りにも似た闘志でそれを振り切ると受話器を置き、母に向かって言った、
「母さん、俺少し早く出るから…ご飯お願い」


世の中とは稀に信じられないような事が起こるものらしく、郁海の受験は志望校三校とも合格が決まった。
それは喜びよりもホッとした虚脱感で郁海を包み、その反対に先生は万歳までした挙句に、
「お前、火事場のバカ力だな。いやいやいや、やる時はやる奴だったんだ。ホント見直したぞ」
等と見当違いな事を連呼しながらも、まるで自分が合格したかのように喜んでいた。
勿論母親や叔父も同じように喜んでくれたが、一番喜んでくれたのは兄…郁海はそう思いたかった。事実兄は、
「やったね、郁ちゃん! おめでとう。やっぱり郁ちゃんは凄いや。僕も、ほんとに嬉しいよ」
そう言って受話器の向こうで声を潤ませた。おそらく声だけではなく、あの綺麗な瞳も潤んでいるのだろう。
そう思うと、兄との約束を果たせた…それが郁海には一番嬉しい事のように思えた。

何度も泣かせた。そしてその度に益々苛立つ自分を持て余し、更に傷つけてきた。
だから、郁海の記憶の中にある兄の顔は、悲しそうな顔…寂しそうな顔ばかりだった。
ならば今の兄は、どんな顔で目を潤ませているのだろう。あの記憶の中にある顔のままなのだろうか。
だとしたら…どんな事をしても記憶の中の兄の顔を笑顔に変えたい。最高の笑顔を自分に…と切に願わずにいられなかった。
その為にはただひたすら前に進む…そうでなければ、今自分たちが遠く離れている意味が無い。
そう思った時、今までただ漠然と心にあったものが、郁海の中で決意という形あるものに変わった気がした。


晴れて高校一年生。入学した高校は森下と同じ高校。だから又も同級生となった森下は驚きを隠そうともせず。
「本当に受かっちまった…マジびっくりしたわ。でも、これでまた三年間一緒だな。腐れ縁と思って付き合ってやるよ」
等と憎たらしい事を言い、だがその顔はとても嬉しそうに見えた。そして、やはり次ぎに出た台詞は兄の事。
「樹理ちゃんも喜んだだろう…」 その言葉で郁海の脳裏に浮かんだのは電話での潤んだ兄の声。
そうすると矢も盾もたまらず兄の顔が見たくなり。夏休みには、兄に会いにドイツまで…郁海は密かにそんな事を思っていた。

だが…「まさか、こっちに来ようなんて思ってないだろうな…」まるで郁海の心中を察したかのような大輝の言葉で。
郁海はドイツ行きを予備校通いに変えた。ドイツを予備校に…なんの脈絡もない変更だと思う。
だが、それに脈絡を付けるために選んだ予備校だった。そして梅雨の名残と共に、ドイツから郁海の元に小包が届いた。
丁寧に梱包されたそれを開くと、中から出て来たのは一枚の絵。其処に描かれているのは…見知らぬ異国の風景。

これは…樹理の絵だ…そう思った途端胸が熱くなった。兄の絵は…色も筆遣いも柔らかで、とても優しい。
そして其処だけは現実から切り離された別世界…いつもそんな不思議な感覚を覚えた。
今にも儚く消えてしまいそうで、ただ眺めているしか出来ない。手を伸ばしても掴めない兄そのもの。
そんな気がして…それが歯痒くて不安ばかりを掻きたてた。
だが今目にする絵は、確かに其処に描かれている全てのものに存在感があり、現実の世界だと実感させる。

絵…上手になったな。兄さんは…少しずつ変わってきているのかな。
そうだとしたら、それは叔父さんのせい? 会いたいよ。兄さん…

離れていても心はいつも兄を想い、兄の側にと足掻く。それなのに顔を見る事も叶わない。声すらも聞けない。
抱きしめたカンバスは微かな絵の具の匂いに混じって、懐かしい兄の匂いがしたような気がした。


高校生活は順調にスタートした…かに見えたが現実は厳しく。
どうにか爪の先が引っかかった程度で合格した郁海にとって、周りの生徒は誰も彼もが自分より上にしか見えなかった。
はっきり言って自分が一番びり?と言っても過言ではなく。
これから先、そんな彼らを追い抜いて駆け上がったとしても、郁海の目指す医学部は更に遥か頭上にあった。
只黙々と遅れを取り戻し追いつく為の日々が続き、時には見上げてばかりいる首は疲れ…痛くもなった。

それでも、むせ返る青葉が少しずつ色あせる頃になると、入学した当時は辛うじて底辺にぶら下がっていた郁海の成績も、
努力の甲斐があってか少しずつ上昇して、もう一息で学年十位に届くところまで来ていた。
郁海の通う高校は公立としてはかなりレベルが高く、上位五位までなら郁海の目指す大学も合格圏内と言われていた。
だが医学部となると、それでも厳しいのは周知の事実で…今のままでは決して手は届かない。
だから顔をあげ、真っ直ぐ先を見つめて…今はおぼろげにしか見えない頂へと歩を進める。

「お前、本当に医学部を目指すことに決めたんだな。けどお前には、それが一番似合っているかもな。
よし決めた! 俺も応援する。だから、頑張ってお前は医者になれ。そんで、俺の家族はただで診てくれ。今から予約しとくからな」
森下は、またまたとんでもない事を言い出し。こいつは又訳の解んない事言って…と思いながらも、
その言葉の裏に隠されたものを理解する事ができるようになっていた郁海は、それに気づかないふりで答える。
「は〜…全く叶わないなお前には。解ったよ…その時は、お前の家族全員無料で診てやるよ」 
すると森下が力いっぱいガッツポーズをすると、力を込めたままの腕を振り上げ、
「よっしゃー! 約束だからな。ぜってぇ守れよ!」 勢いよく郁海の背中をバシッと叩いた。

森下は背も高く郁海より体格も良い。従って手も大きく力も強い(多分)。
だからその半端ない背中の痛みは、友人からの精一杯のエールなのだ…郁海はそんなふうに思い痛みに耐える。
そして…合格するという兄との約束は果たした。今度は森下との新たな約束。これを果たす事が兄にも繋がっている。
そう考えると、その約束も兄に辿り着くための道標…郁海はそう思う事で必死に前に進もうとしていた。

「けど…言っておくが無事医師免許が取れたらの話だぞ。今の俺じゃ医学部どころか大学の門すら見えないからな。
そんでも突き進むしか無いけど…後二年…息が続くかどうか不安になるよ。けど、そんな事考えていたら其処で終わっちゃうんだよな」
「そうだな…狙う旗は最高峰だからな。この高校じゃ三位以内に付けていても安心は出来ないだろう。
けどまぁ、俺も同じようなもんだけどよ。こうなったら一二位を俺とお前で決めるしかないな」
何を考えているのかそれとも何も考えていないのか…森下は相変わらずそんな事をさり気なく言った。

その森下は、中程度で合格したと聞いていたが今は学年五位に付けている。
自分のように必死に勉強している様子も見えないのを思うと、やはり半端じゃなく頭だけは良いのかと思い、
それとも見えないところで努力をしているのかとも思い。そのどちらにも見えないのが益々謎だ…とも思いながら。
郁海は壁に背を預け、廊下に座り込むような姿勢のまま森下を見上げる。
そんな郁海を見下ろすように森下はニッと笑うと、郁海の横に並んで床に尻を落とした。

其処はA棟とB棟を繋いでいる浮橋のような廊下で、通常は化学や音楽授業の教室移動に使われていた。
それに五階という事もあり、普段はほとんど生徒の姿はない。そのお陰で他の生徒の目や耳を気にする事も無く、
プライベートな話をする事もできた。高校ともなると昼食が済んだ後の昼休みでも、皆それぞれに本を広げたり、
ノートをとったりと自分の勉強?に余念が無く、中学の時のように意味も無くふざけあっている者などそうはいない。
だから森下と郁海はいつも教室を抜け出して五階の渡り廊下に行き、其処で昼休みの時間を過ごした。

「簡単に言ってくれるよ。お前は基礎が出来ているから楽だろうけど、俺は中学で怠けていたからな。
やっと一通り基礎固め出来たかな…ってところでまだまだだ。ちょっと捻られでもしたらもうお手上げだ。
情けないけど一杯一杯って感じだよ。だけどお前…本当は何処を目指しているんだよ。いい加減喋れよ」
「そうだな…お前の決心だけ聞いて自分は内緒って言うのもフェアじゃないかもな。
そこで正直に言うと、俺は、X大法学部を受験するつもりだ」

「法学部? それは医学部以上の難関だな。でもそれって…将来は法曹界に進むつもりなのか?
いや…お前の事だから、実は官僚を目指しているとか」
冗談めいた口調で言いながら、その実あり得そうな気もしていた。X大の法学部を出ていたら官僚も夢どころか大いに見込み有りだ。
実際上に行くほど経歴部分に×大の名前が明記される。郁海は、森下は官僚より政治家の方があっていそう…そんな気もした。
それも、政治的手腕はあるが清廉潔白とは縁遠く、贈収賄とかも平気でするやり手の腹黒政治家…絶対そうだ。

と…そんな事を思いながら森下の顔を見ると、森下は珍しく得意そうな顔で。
「ブー残念、違うな。俺はT市役所に勤める」 と言った。
「………。市役所…。 X大法学部を卒業してT市役所…か? お前、それ超受ける…ってか、マジでツボるぞ!」
「だろう? 俺もそう思う。どうだ、かっこ良いだろう」
「……。バカかお前。一人で言ってろ」

呆れた…本当に心底呆れながらも…こいつって、マジで本当にカッコいいかも…郁海は心の中で驚嘆し。
改めて、最高の友人であり最高のライバル。一生付き合い競い合って行きたいと思える真の友人。
だからそんな森下に、みっともない負け方だけはしたくない 。いつかは遅れを取り戻し、肩を並べたい…そう思った。

「けど、二年になるとクラスの編成があるんだよな 。どうなんだろう…また同じクラスかな…俺たち」
「うん、二年の編成は大体の志望校で振り分けるらしいからな。極端に成績が悪くなきゃ一緒だと思うな…多分。
三年になると志望校を変える奴も出てくるから、また編成するらしいけどよ。まぁ、二年は一緒の可能性が高いな」
「そうか…正直、俺の場合厳しいからな。出来たら、三年になって変えなくて済むように頑張らなくちゃならないって事か」

「同じだよみんな。幼稚園から塾通いをして私立へ行っている奴らと違って、公立を選ぶ奴は授業料や入学金が安い。
それが大きな理由のひとつだ。ま、お前は別だけどな。俺らは自分の力だけが頼りなんだよ。
だから、其処で這い上がった一握りの奴等は本当に実力がある…って事にもなる。俺は、絶対にその一握りの中に入るつもりでいる」
いつものニヤついた表情とはうって変わった森下の真剣な顔に…高校生とは思えぬ、大人びた男らしい顔だな。
などと思わず見とれて?しまい、なぜかその横顔から目を逸らすことが出来なかった。

「やっぱ…すげえな、お前」
「凄くなんかねぇよ。ただ、家には下が大勢いるからな。正直親はあてにできねぇ…てのもあるんだ。
お前だから正直に言うけどさ。俺の親は、なんであんなに子供作るんだ? 少しは避妊してやれよ! なんて思った事もあったさ。
けど…チビらが結構可愛いかったりしてよ。もし親に何かあったら、こいつらを守って行くのは俺なんだよな…なんてさ。
だから必死なんだよ俺も。はっきり言って親父の気分だよ。高校生だぞ俺…ダセェよな」
森下はそう言うと、照れくさそうに笑っていた。

守りたい者がいると人は強くなるのかも知れない…頑張れるのかも知れない。
兄がそうであるように、森下もまた、護りたい者の為に自分の限界を超えようと頑張っている。
そんな森下が友人で良かった。いつかは肩を並べ、一生付き合っていきたい真の友人…と思いながら、
郁海は少しだけ不安と羨望の入り混じった複雑な思いで友人の顔を見つめていた。

そしてドイツでは、樹理もまた新たな生活の中で小さな変化を見せ始めていた。





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