06. 兄・弟

 -それぞれの一歩-

兄がなぜ叔父と行くことを選んだのか…郁海にはどう考えてもその理由が判らなかった。
だが叔父は、兄があの日の事を全部覚えていると言った。
それは、自分が障害を持つに至った原因が何か…はっきりと解っていると言う事でもある。
そしてその原因の一端でもある弟が、自分を追い越していっても自分は其処から先に進めない…という事も。
それでも兄でありたいと願う樹理の思いと…絶望。
だとしたら…許しを乞えるものなどでは無い。それを補えるものなど、この世には存在しないのでは…。
兄は…二度とこの家には戻って来ない。自分の元には……戻らない。

そんな考えばかりが頭に浮かび、何も手に付かなかった。あの嫌な感覚も消えて夜もぐっすり眠れる。
それなのに、以前にも増して心は不安に揺れ…ぽっかりと口を開いた虚が広がっていく。
そんな時郁海は、決まって樹理の部屋を覗いた。僅かな衣類と、身の回りの物だけが無くなっている兄の部屋は、
日毎消えていく兄の温もりに代わりに寂寂が漂い。それでも、まるで兄の帰りを待ってひっそりと佇んでいるかのようにも見えた。
ベッドに寝転んで枕に顔を埋めると、僅かに残った兄の匂いが鼻から忍び込む。
その残り香に、たった一度だけ抱きしめた華奢な身体と仄かに甘く匂う首筋を思い…切なさで泣きたくなった。

兄さん…やはり俺は兄さんを取り戻したい。いつまでも俺の隣で…俺の兄さんでいて欲しい。
そして、兄さんもそれを望んでくれるとしたら…俺はその為に何をすれば良い?
どうすれば叔父さんに負けないように強くなれる? どうすれば…兄さんは本当に幸せになれる…のかな。
俺は…これからの三年間でそれを探さなければならない。そうだね…兄さん。

そして脳裏に浮かんだのは、兄が涙を浮かべて言った言葉。
「郁ちゃんは、お医者さんになるんだよね。 だって、僕はなれないよ……だから…」
改めてその言葉の意味を考えると、もしかしたら…兄は父の後を継いで医師になりたかったのでは…。
初めて思い巡らす怪我をする前の兄の将来と夢。そうだとしたら、その夢は無残にも絶たれてしまった事になる。
それなのに、あんな言葉まで口にさせてしまった自分に、兄はその夢を受け継いで欲しかったのか。
自分には果たせないと判っていたから、弟に自分の夢を託した…そういう事なのか。

思いは廻り巡りやっと自分なりの答えが見えた気がした時、それまで血が怖くて諦めていた医学への道が、
少しだけ見えたような気がした。兄や父の流した血は、自分を守るために流した血……それが怖いはずは無い。
俺には…その命を受け継ぐ権利がある。押し付けられた義務ではなく自ら選ぶ権利が。だから、
「兄さん…俺が兄さんに失わせたものを返すために、今度は俺が頑張ってみるよ。だから…待っていてくれるかな」
声に出して呟くと、頭の中の寂しそうな兄の笑顔が少しだけ嬉しそうに頷いたような気がした。

それから郁海は、何かを吹っ切ったように受験に向けて全力を傾け始めた。
だが受験までの月日を思えば、今更頑張っても一石二鳥には取り戻せない遅れだという事も判っていた。
それでも前に進むために、少しでも兄に近付く為に、寝る間も惜しんで机に向う。
必死に頑張れば、巻き戻せない時間を撒き戻して…三年後には必ず兄に辿りつく。兄を取り戻せる…そう信じて。


「何か…最近頑張っているみたいだな…さては本気出したって事か?」
森下が郁海の肩に腕を載せ、幾分凭れるようにしながら郁海の顔を覗き込む。
「まぁな…ちょっと遅いけどエンジン始動だ。それで、高校の三年間で今までの分も取り戻す。絶対に…な」
「へぇ…やる気満々って事か。良いんじゃねェ。それで、ついでに樹理ちゃんも取り戻す…ってか?」
ニヤニヤしながら益々体重を乗せてそんな事を言ってくる森下に、郁海はその頭をベシッと叩くと思わず本音を口にした。
「ついでじゃねぇよ、それが目的だ。俺の兄貴を、あんなオヤジになんか取られてたまるか」
すると森下がちょっと驚いたように郁海を見つめ。それから郁海の頬に触れるほどに顔を近づけると、今度は囁くように言う。

「言ってくれるな。けど、どうして取り戻したいのか…その理由を自覚しないと意味無いと思うぞ。
取り戻しても今までと変わらなかったら、樹理ちゃんが可愛そうだ。やっぱ、俺が…」
おそらく次に続く言葉は……貰う。 だから郁海は、頭を過ったその言葉を遮るように顔を森下に向けた。
鼻先が触れ合うほど間近にある森下の顔。ともすれば一重にも見える奥二重の目が微かな揺れも見せず郁海を映し。
笑っていながらその目は、決して冗談で言っているのでは無い…そう言っているように見えた。

その目を見ながら…【此奴の目って、鷹の眼みてぇだな…怖ぇ…】 そんな事を思いながら、
「それ以上言うな。それも高校の三年間で考える。どうしたら、兄貴のままの樹理を幸せに出来るか…」
自分の口から出た声が、思ったより真剣なのに自分でも驚いた。途端森下の顔が離れていき…声がふざけるように軽くなる。
「なんだ…半分解ってんじゃないか。あ〜ぁ、俺の樹理ちゃんが遠くに行っちゃうのは寂しいけど、
お前が死ぬのを待つのはもっと嫌だし…。お前、諦めたら早めに言えよ。俺、叔父さんってのに掛け合うからよ」
笑いながらそれこそ意味の解らない事を言う森下に、郁海はいつものように呆れながらも自分がホッとしているのを感じた。

森下は頭も良く気の合う良い奴だと思う。それでもやはり、自分と同じ年とは思えぬその言動には戸惑う事も多かった。
七人兄弟の長男ともなると…考え方もしっかりしているし先を見越しているのかも知れない…そう思いながらも。
こういう意味不明な発言は、時々理解の範疇を超える。やはりこいつは謎だ。それに…怒らせたら怖そう…だ。
森下の妙に納得したような顔を見ながら、郁海はそんな事を考えていた。

「はぁ…お前って、ホント意味解んねぇ思考回路持ってんだな」
「うん、解らなくて大いに結構…まぁお互い頑張ろうって事で」


年末が近づくにつれ、郁海の周りは益々慌しさと緊張感に包まれていく。
クラスメートの顔も悲喜交々に入り乱れ、推薦やら滑り止めやらで一応見通しのたった生徒は安堵の表情を見せる。
そして幾分周りを気遣いながらも、既に中学生最後の生活を楽しんでいるようにも見えた。
郁海は願書提出の間際になって志望校を変えた事もあり、一般試験で受験することに決めていた。
それと言うのも、偏差値六十七でいながら七十以上の高校を受けようとしているのだ。推薦など無理に決まっている。
それに…一般試験で合格した方が授業になった時に楽だ。本当に行きたい学校なら一般試験で入学するのが一番良い。
そんな負け惜しみともとれる持論を持っていた。

だが中学生浪人を出したくない学校としては、出来るだけ合格確立の高い高校を進めるのは当然の事で。
無謀とも言える郁海の志望校に対し、教師は何度も切々と?安全圏への進路変更を説いた。それでも郁海の意思は固く。
諦めた教師は、私立の安全圏を確保したうえで希望の高校を受験するなら…そう言って渋々納得した。
そのため何校か受験する事になったが、本来の第一志望校は公立だったためどうしても私立に比べ受験日は遅い。
だからその分受験勉強が出来る…最後のぎりぎりまで足掻いて第一志望に…。
教師に説得されはしたものの、端から第一志望以外眼中になかった郁海はそう決めていた。

寝る間も惜しんで机に向かう…勿論遊んでいる時間など無い。だが不思議とその事が辛いとは思わなかった。
兄を迎えに行く自分の姿を思い描き、その時の自分に近づく為に今出来る事を…そう思った。
決して其処がゴールだとは思わないが、少なくとも今の郁海にはそれが目指す目標の一つになっていた。
クリスマスも冬休みもなく問題集と格闘している郁海に、母親は久しぶりにケーキを焼いてくれた。
それは兄の大好きなイチゴが沢山載ったデコレーションケーキだった。

「郁ちゃん、イチゴ食べないんだったら、僕に頂戴…」 兄は、郁海がいちごを横に撥ねているのを見てはいつもそう言った。
「これ酸っぱいぞ…よく食えんなこんな酸っぱいの…やるよ」 言いながら郁海はフォークで刺したイチゴを兄の皿に移す。すると、
「ありがとう。僕、イチゴ大好きなんだ」 兄はそう言って、ちょっと酸っぱいイチゴを美味しそうに食べていた。
今一人で食べるイチゴは、あの頃より更に酸っぱさが増して…鼻の奥までツンと浸みるような気がした。


「姉さん、どうですか郁の様子は」
「えぇ、頑張っているわ。以前とは見違えるように毎日机に向かっている。やっと目標が見えてきたみたいね。
それで…樹里はどうなの? 元気にしているのかしら」
「そうですね…表面的には明るく振舞っていますが、相当寂しい思いをしてようです。この前も少し遅くなって帰ったら…。
多分来る時に持ってきた郁海のシャツだと思いますが、胸に抱えるようにしてソファーで眠っていました。
顔には涙の跡がありましたからね。きっと一人で泣いていたんでしょう。それを見たら…俺も参りましたよ」

「そう…大輝さんが居ない時は一人きりですものね。しかも見知らぬ土地なら尚更…心細くて泣きたくもなるのでしょう。
今度の事も郁海の為と思って、大輝さんと行く事を決心したのでしょうけど…やはり慣れるまでには時間が必要みたいね」
「そうですね…この際、一度帰してみますか? このままじゃ可哀想ですよ」
「でも、樹里は帰らないと言うでしょうね。あの子は弟の為ならどんな事でも我慢するし、自分を犠牲にする事も厭わないから」
「それは、俺も判ってはいるんですが…隠れて泣かれると正直辛いですよ」

「ごめんなさいね。貴方にはいつも損な役回りを押し付けて本当に申し訳ないと思っているわ。
でも…乗りかかった船と思ってそのまま樹理を預かって欲しいの。その代り、樹理の事は好きに使って下さって良いわ。
そうだわ、樹理に家の中の事をさせたらどうかしら。大輝さん…今家事はどうしているの?」
「はぁ…家事ですか?一日置きにメイドが来てくれていますが」
「そう…それじゃ、そのメイドさんの来ない日は、樹里に家事をさせてみてはどうかしら」
「樹里に料理や掃除洗濯をさせるんですか? 今まで一度もやった事がないんですよ、絶対無理です。
それに…俺は嫌ですよ。樹里にそんな事をさせるのは。それくらいなら俺がします」

「ありがとう。樹里を大切に思って下さる大輝さんの気持ちはとても有難いと思うわ。でもね、考えて欲しいの。
仮にあの子たちが、これから先の長い将来共に歩もうと決心した時、樹理だって郁海に頼りきりという訳には行かないでしょう
勿論郁海は、それで良いと言うでしょうけど…でも樹里はそんな事望まないと思うの。
きっと…今までそうだったように、弟の為に何かをしたいと思うでしょう。だって、樹理はお兄ちゃんですもの。
外で頑張る弟の郁海の為に何か出来ると判ったら…樹理は多分喜んでその何かを選ぶ。
何より誰より弟が大切なんですもの…家事だって何だってしようとするわ。そう思わない?」

「姉さん…。やっぱり母親には叶わないな。俺は、樹里を温室に入れて保護する事しか考えていなかった。
けどそれは、樹里を萎れさせるだけ…って事なんですね。判りました、何とか上手く誘導してみます。
それと、樹里が興味を持ってやりたい事があれば、それをやらせるようにしましょう。何たって樹理は賢いですからね。
もしかしたら意外な面で意外な才能を発揮するかも知れない。なんだか先が楽しみになってきました」
その言葉通り大輝は樹里に、家の中の事をさせることにした。

旅立ちの日、郁海に背中を向けた途端それまで堪えていた樹理の眼から涙が溢れだし、零れた涙は一歩進むごとに脚先を濡らした。
それを隠すように俯いたまま前へと進む樹理の肩が小さく震え、大輝は肩に置いた腕で樹理の悲しみを郁海の眼から隠した。
本当は弟の側を離れたくない…そんな樹里の気持ちが痛いほど判っていながら、あえて二人を引き離したのだ。
だから…今の樹里がどれほど寂しい思いをしているかも、容易に想像がついた。
それでも弟の為に我慢する樹理が健気で、一日も早く成長した郁海の腕の中に返してやりたい…切に願いながら、
義姉の言うように樹理に嫁さん修行をさせるのも、今の樹理に目標を持たせる方法のひとつ…そんな気もした。

今日はメイドが来てくれる日。
大学から戻るとテーブルの上に夕食の皿が並び、樹理はひとりぽつんと所在無げに窓から通りを眺めていた。
そんな姿を見るとやはり可哀想と思い。同時に、樹理を大事にしているつもりで、反対に辛い思いをさせていたのでは…とも思った。
だから、取りあえず樹理の無為な時間を埋める為に、嫁さん修行を早々に開始しようと心に決めた。
そして樹理に声をかけると向き合ってテーブルにつく。それから何気ない口ぶりで、樹理に聞いた。

「やはり日本と違って夕食は簡素だな。作ってもらって言うのも何だけど…たまには熱々の鍋でも食べたくないか?」
すると最近は口数も少なくなっていた樹理が、珍しく嬉々として答えた。
「うん、僕お鍋大好き。郁ちゃんの作るお鍋はとっても美味しいんだよ。叔父さんも郁ちゃんのお鍋食べた事ある?」
鍋が郁海に繋がっていたとは思いもしなかったが、そう言えば義姉が当直などで帰れない時は、
郁海が食事の支度をしていた事を思い出した。そして樹理が見せたとても嬉しそうな…幸せそうな顔は、
郁海絡みと言えど、日本を離れて以来初めて見せた本当に嬉しそうな顔でもあった。

「郁が鍋を…そりゃすごいな。残念だが俺は食べた事が無い。そうか…郁は料理が出来るのか」
「なんだ、叔父さん知らなかったの? 郁ちゃんはそんな事、簡単に出来るに決まってるよ」
「そうか? でも、洗濯とか掃除までは出来ないだろう?」
「叔父さん、郁ちゃんは何でも出来るんだよ。僕が何も出来ないから…全部郁ちゃんがしていたんだ」
本当に弟が自慢…そんな顔で言いながら…その表情が何処と無く寂しそうにも見え。大輝はその寂しさの意味を考える。
樹里にとって何でも出来る郁海はとても自慢なのだが、裏を返せば…自分は何も出来ないという意味にもなる。
そして…本当は自分も郁海の為に何かをしたい…そういう事なのだろうと察し。大輝はその想いを利用しようと思った。

「へぇ…郁はスーパーマンみたいな奴だな。それじゃ樹理には何もさせてくれなかったんだ。
交代でするか一緒にすれば良かったのにな。もしかしたら郁は、樹理には出来ないと思っていたのかも知れないな。
郁の為にご飯作ったり部屋を掃除したり…本当は樹里だって郁の為にいろんな事したいのに、ちっとも判ってないんだ」
「うん、そう…。でも、前に手を切ったから…何もするなって。手伝っちゃ駄目だって…言われた」
樹里は一瞬目を耀かせ、それから直に萎れた花のようにうな垂れてしまった。
それは自分の気持ちを解ってもらえた喜びと、郁海に否定された悲しみの表れなのだろう。
大輝はそう思い、悲しみを消す一歩の為にそっと樹理の背中を押した。

「そうか…。誰だって失敗しながら少しずつ上手になっていくのに、郁にはそれが解っていないんだな。
そうだ、此処なら郁も居ないから駄目だって言われる事もないぞ。叔父さんと一緒に、いろんな事に挑戦してみないか?」
大輝のその言葉に、萎れかけた花のようだった樹里の顔が再び輝きを取り戻し、問う声までも希望を覗かせる。
「えっ叔父さんも一緒に? 良いの? ご飯を作る練習をしても」
単純と言えばそれまでだが、それで樹理が少しでも明るさを取り戻し寂しさを紛らわせる事が出来るなら。
それが三年後へ繋がる一歩なら、今はそれで良い…大輝はそう思った。

「あぁ、練習して、少しずつ上手になって…二人で郁を驚かせてやろう。
叔父さんも好きな人の為に、何か一つぐらい上手に作れるようになりたいからな。良い機会だと思うよ」
「うん! 僕、郁ちゃんの事大好きだから…いろんな事をしてあげたい。だから練習するね。叔父さんも一緒に頑張ろう!」
樹理は笑顔で嫁修行宣言?し。ドイツと日本、遠く離れた地で兄と弟はそれぞれの一歩を踏み出そうとしていた。


メイドの来ない日は二人で部屋の掃除し、洗濯をし終えると、その後二人で買い物を兼ねてぶらぶらと彼方此方を回る。
それまで部屋に閉じこもっていた樹理は、目に映るもの全てに目を輝かせ笑顔を見せた。
元よりの素直で人懐っこい性格のせいか、言葉も通じないのに笑顔だけで店員と馴染んでしまうのには、
流石に大輝も心配したほどだった。そしてある日、路地を入った小さな画材店の前で樹里の脚が止まった。
小さなショウーウインドーには絵の具やカンバス、額などの画材がいくつか置いてあり…樹理の眼はじっとそれを見つめていた。
その様子を見た大輝が樹理の後ろからショーウインドーを覗き、そして樹理に問いかける。

「どうした樹理…何か欲しいものでもあったのか?」
だが樹里は首を振って、尚もショーウインドーの中を見つめたまま小さな声で答えた。
「ううん…。でも…ずっと、絵…描いてない…」
おそらくショーウインドーに置いてあるそれらを見て、以前絵を描いた時の事を思い出したのだろう…そう思った大輝は、
もしかしたら、樹理にもう一度絵を画かせるのも良い気分転換になるのでは…そんなふうにも考えた。

「そうか…前は学校で沢山の絵を描いていたんだったな。樹里の絵はとっても優しくて温かくて…俺は大好きだった。
そうだ、また絵を描けば良いじゃないか。こっちのいろんな景色を描いて郁に送ってやれば良い。
そうすれば、今樹里が住んでいる処がどんな街か…郁にも判るだろう? 余り電話出来ないからさ」
大輝にそんな事を言われ、樹里は以前学園祭があった日の事を思い出していた。
あの時も、上手に書けた絵をどうしても郁海に見て欲しくて、学園祭に来てくれるように何度も頼んだ。
それなのに郁海は一度も来てくれなかった。その事を思い出し、なぜか悲しくて泣いてしまいそうになった。

「郁ちゃんは…僕の絵、見に来てくれた事がなかった。だから…一所懸命描いて送っても見てくれないよ…」
そう言いながらと本当に涙が出て来そうになり、樹理はショーウインドーから自分の足もとに視線を落した。
泣くと郁ちゃんに嫌われる…泣いちゃ駄目…泣かないで…樹理の心が樹理に向かって繰り返す。
だから…涙が出て来ないようにギュッと目を瞑り…涙をこらえた。すると肩に大輝の手が載り頭の上から大輝の声が降る。

「そんな事は無いと思うぞ。 それに、俺は郁が言っているのを聞いた事がある。
兄さんの絵は温かくて…綺麗で…そんな絵が描ける兄さんが羨ましいってさ。
樹理自身がそのまま描かれているような優しい絵が、本当は大好きだって…郁海はそう言っていた。
確かに、以前の郁は自分の中のイライラで樹里に辛く当る事も多かっただろう。でも今はそれも治ったからな。
樹理は大切な兄さんだって…郁は、はっきり俺に言った。だから、きっと喜んでくれるよ」

「……ホント? 本当に郁ちゃんはそう言ったの? 喜んでくれる? だったら描こうかな僕。
色んなものを沢山描いて、郁ちゃんに僕の見たものを送ってあげる」
そう言って大輝を見上げた瞳は堪えても堪えきれない涙で潤み、この世のどんな宝石よりきらきらと輝いて見えた。
そして可憐な花のような笑顔が、郁海は樹里にとっての全て…大輝にはそう言っているように見えた。
郁海の些細な行動が…郁海の何気ない一言が樹理を喜ばせ…そして身も世も無いほどに悲しませる。
それは、樹理自身も気付かないほど自然に…何ものにも代えがたいものになっている。

この想いが兄弟の想いのままで終わるのか、それとも、いつかは別のものだと気付くのか。
もし、後者だとしたら…郁海は。  だから…大輝は心から願った。

郁海…早く大人になれ。お前の大切な者を護れるように…強くなれ。そして必ず迎えに来い。





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