03. 兄・弟

 -綻び-

勢いで飛び出してはきたものの何処かへ行く当てなど無かった。
それなのに脚は少しでも家から離れようとするかのように前へと進み…心は後ろを振り返る。
パーティーはどうなったのだろう。多分いつも通り楽しく賑やかに行われているのだろう。
テーブルの上には樹里の好きな料理が並び、沢山の苺母が載ったバースデーケーキには年の数だけローソクが立つ。
そして頬を膨らませてその火を吹き消し…本当に嬉しそうに笑う樹理の顔が目に浮かんだ。

郁海の前では、いつもおどおどして悲しそうな顔ばかりしている樹理が、楽しそうに…幸せそうに笑う。
多分それは…どんな花より綺麗な笑顔。なのに、あの笑顔が自分に向けられる事は無い。
十分すぎるほど解っていても、あの笑顔を向けられる叔父が羨ましくもあり。
たった一人の兄に悲しい顔ばかりさせてしまう自分が情けなく、悔しくてならなかった。
そして…お前には価値がない…叔父の言った言葉が鉄槌の如く郁海を打ちのめした。

鬱蒼とした気分のままふらつくのはやはり繁華街。今は便利な場所が沢山あって、時間を潰すには事欠かないし、
二日や三日家に帰らなくても寝泊りできる。そんな事を思いながら郁海は、何気にポケットに手をやっ た。
すると手に触れるのは携帯のみで…自分が財布も持たずに飛び出して来た事に初めて気が付いた。
そうなると繁華街ほど空しさと侘しさを痛感する場所も無い。
だから、財布を取りに一度家に戻ろうかとも考えたが、万一叔父や兄と顔を合せでもしたら…そう思うと。
その時の惨めさと罰の悪さを想像しただけで、郁 海は森下に頼んで金を借りる事を選んだ。

そして電話に出た森下は開口一番、まるで郁海の今の状況を察知していたかの ように聞いた。
「ああ、俺。どうした?何かあったのか?」
その声に混 じり聞こえる幼 い兄弟たちの騒ぐの声に、郁海は何とな く疎外感を覚えたが、
自分の現状を考えると何事も無いふりで電話を切る事も出来ず、電話をした目 的の階を口にした。
「えっ? あ…うん…悪い。ちょっと、頼みたい事があって…」
「お前が頼み事な……。良いけど、今外に出られないからよ。お前、俺ん家まで来いよ」
森下は郁海の様子から何かを察したのか、取り立てて何を聞くでもなくそう言うと電話を切った。

森下の家は駅の反対側で、少し離れてはいたが歩いて行ける距離にあり…郁海も何度か行った事があった。
極普通の家に家族九人で暮らし、一歳から十五歳までの七人兄弟が犇めいている森下家の様子は。
いつも兄と二人きりの事が多い郁海には賑やか過ぎて、初めて行った時は戸惑いと驚きの連続だった。
そして今日も、ドアを開けた森下の側には小さな弟が、森下の脚にへばりつくようにして立っていた。
奥ではやはり子供の騒ぐ声が聞こえ、その間に母親らしき声が混じるのは…おそらく兄弟喧嘩でもしているのだろう。
森下はチラリと奥に視線を向け、それから苦笑いを浮かべ…足もとにいる小さな弟の頭に手を置いた。

「相変わらずだろう? ま、入れよ」
「いや、此処で良いよ。いきなりで悪いけど、金貸してくれないか」
「やっぱそれか。貸すのは良いけど…。とにかく中に入れよ」
「でも悪いからさ。俺…ちょっと喧嘩してさ。家に帰りたくないからネットカフェでも行こうと思ったら、
馬鹿だよな、財布も持たないで出て来ちゃってたんだわ。だから…お前に、金貸してもらおうかと思って…」
郁海が声を顰めて森下に事情を告げると、森下は呆れたような顔をしたが郁海同様に声を落し…言った。

「確かにバカだわお前。中学生が夜中にそんな処にいたら怪しまれるぞ」
「そうかな…俺、会員証は持ってるんだけど」
「それって、学生証出して作ったやつだろう? だったら、店の方じゃ中学生だって判っているって事だろうよ。
一応十八歳未満は、夜中にそんな所に居たら不味いんじゃないのか?」
「そうだろうけど…別に通報なんかしないだろう」
「多分な。けど、そんな所行かなくても俺ん家泊まれよ。部屋はこいつと一緒 だけど八時には寝るからさ」
「でも…悪いからさ…」
「良いって、気にすんな。それに、今の時期下手に補導でもされたら不味いぞ」
玄関先で二人顔を突き合わせて、まるでヒソヒソ話でもするように話す。

確かに、進学を控えた今の時期に補導なんてことになったら、不味い事この上ないだろう。
それに何よりも家に連絡され、叔父に知られるのはもっと嫌だった。
だからと言って、いきなり押しかけて来て泊めてもらうと言うのも、図々しすぎる気もして。
どうすれば良いのか考えあぐねていたその時、森下の母親の豪快とも言える声がリ ビングから玄関先まで届いた。

「淳一、いつまでそんな所で話してるの。郁海くんも、遠慮なんか要らないから中に入りなさい」
その声に「判ってるよ!」森下は奥に向かって大きな声で言うと、もう一度声を潜めた。
「ホント、どんだけ楽しみなんだ? 実は、お袋にはもうお前が泊まるって言ってあるんだ。
そしたら急に張り切って、今夜はカレーにするなんて言い出してよ。
前にお前がお袋のカレーを旨いって言ってくれたのが、よほど嬉しかったんだろうな。
あれからお前の事を褒め捲くってる。そんな訳で、お 前は お袋に気 を遣う必要は無いって事だ。
ただ、俺ん家はお前ん家に比べたらあの通り五月蝿いからな。どうしても嫌だって言うなら、無理には引き止めないけどよ」

森下に言われ、郁海はその時の事を思い出そうとしたが、どんなカレーだったのか思い出す事は出来なかった。
ただ…大勢で食べる食事は素材や味付けとは関係なくとても美味しい…そ の事だけははっきりと覚えていた。
だからでは無いが、今夜一晩だけでも泊めてもらおう…郁海はそんなふうに思った。
「そんな事ないよ、賑やかで楽しいじゃないか。それに、皆で食べるご飯は美味しいよ」
「そっか? だったら、泊まれよ」
「……。それじゃ、悪いけど泊めてもらおうかな。ホントありがとうな…助かったよ」

たかがカレーのはずなのに、皆でワイワイ言いながら食べるカレーは、や はり兄と二人で食べるカレーよりも美味しく。
そしてその食卓の光景は嫌って逃げ出してきた兄の誕生日パーティーを思い出させた。
皆で楽しく祝えば良いのだと判っている。そうすれば、母の作った料理やケーキも美味しく食べられるはずなのだと。
それなのにいつもいつも、毎年毎年…不快の時間の中で味の無い料理を啄ばむばかりだった。

眼の前では、森下の小さな妹や弟が口の周りにカレーを付けて楽しそうに笑い、
テーブルの上もサラダの切れ端やご飯粒が散らばり、お世辞にも上品な食事風景とは言えない。
なのに…それを補って余りある温かく幸せそうな笑顔と笑い声があり。
その笑顔が自分に向ける兄の悲しそうな顔とは余りにも対照的で、郁海は 切なく思えてならなかった。

「しかし…お前が喧嘩して家を飛び出すなんてな。何があったか知らないけど、俺の樹里ちゃんだけは泣かせるなよ。
お前…なんとなく苛めてそうだもんな。絶対、苛めんなよ。あ〜ぁ、何だか俺…心配でならないよ」
部屋が一緒だという四歳になる弟が寝てしまうと、森下は並べて敷いた布団の上に寝転び、のうのうとそんな事を言う。
そんな森下の言葉に郁海は苦笑いをしながらも、叔父に盗られるよりマシか…等と思っ てしまう自分が情けなかった。
それでも、一応弟として精一杯の足掻きともとれる台詞を口にする。

「いつからお前の樹里になったんだよ兄貴は。そんな事、俺は認めてねぇぞ」
眠っている弟を起こさないように声を潜めたつもりだったが、実際には自信の無さが声を力ないものにしていた。
それすらも情けないと思いながら森下を見ると、森下は郁海の内心を解ってか否か。
「まぁ、気持ちの問題だから…良いだろう」
そう言って屈託なく笑った。何が気持ちの問題なのか、何が良いのか…その言葉の真意は解らなかったが、
少なくとも叔父に対するような不快な感情は湧いては来なかった。


郁海としては一晩だけ泊まったら、次 の日は家に帰ろうと思っていたのだが、そ れは叶わない状況になってしまった。
それと言うのは、次の日が土曜日という事もあって森下家の子供たちはテーマパークに行く事が決まっていたのだが、
十歳になる妹が急に熱を出し、母親が一緒に行けなくなってしまった。そ んな所に、運よく現れたのが郁海で。
郁海の思惑とは関係なく、森下と一緒に兄弟達を連れてテーマパークへ行 く羽目に陥ってしまったのだ。
「お前…これもあって俺に泊まるように言ったのか?」
郁海が冗談でそう言うと、森下は半分冗談、だけど半分本気のように言った。

「ばれたか。悪いな…俺一人じゃ下のチビらまで面倒見らんないからさ。行く行かないかで昨日も喧嘩してたんだわ。
助かったよ、お前が来てくれて。おかげでチビも連れて来られた。お袋は益々お前に感謝していると思うよ」
「えっ、マジかよ。冗談かと思ってた」
「まぁ、人助けと思って諦めろ。そんで今日は楽しく行こうぜ」
森下はそう言うと、下から二番目だという三才位の女の子を抱き上げた。

目に映る華やかな色彩の乗り物や、耳に届く弾む音楽に目を輝かせ順番を待つ列に並ぶ子供たちを見ながら。
そう言えば…兄とこんなふうに遊びに出かけた事など無かった…郁海は、 ふとそんな事を思っていた。
兄は、養護学校以外一人では何処へも行けない…と言うより行ったことが無い。
母親が休みの時は一緒に買い物に行ったりしているらしいが、自分とは此処数年一度も一緒に出かけた事も無 かった。
それは…いつも郁海が、樹 理と一緒に出かけるのを嫌がったから。

小さい子供のお守りでも結構楽しいのに…兄と一緒に来たらもっと楽しいだろうか…兄も喜ぶだろうか。
人の群れと賑やかな音楽には些か不安めいたものを感じるが…それを差し引いても一度ぐらいは一緒に…。
帰ったら…兄を誘ってみようか。郁海は、小さな手を握り締めそんな事を思っていた。
その時…パン!直ぐ側で大きな音がし。
「キャッ!」 
「わっ!」
幾つかの小さな悲鳴が上がり…そして子供の泣き声が耳に響く。途端…ぐらり…と地面が傾いた。

ゴーッという大きな音と観客の悲鳴、周りのアトラクションの音楽…人のざわめき。
ぐるぐると回る周りの景色と揺れる足元に吐き気がし…蹲った。そして目の前に広がる真っ赤な色。
血だ…人の……血…だ。
郁海は最近夢でうなされる恐怖が現実になったような気がして、頭を抱え蹲ったまま、目の前の真っ赤な色を見つめていた。

「おい! 永沢、どうしたんだ!!」 森下の呼ぶ声が耳に反響する。そして、
「お兄ちゃん…大丈夫?」 肩に置かれた小さな手で揺さぶられ…我に返った。
「あ…う、うん…大丈夫。ちょっと眩暈がしただけだから」 答える声が喉にヒタヒタと張り付き、しわがれて聞こえた。
「ホントに大丈夫かよ…顔、真っ青だぞ」
「…うん、もう大丈夫だ。それより順番…」
言いながら気力を振り絞り、立ち上がると周りは色鮮やかな色彩と陽気な音楽に満ちたおとぎの国。
あぁ、これが現実なんだ…なぜかそう思い安堵の息を漏らした。

「乗り物…乗れんのか? 気分が悪かったら止めて良いんだぞ」 森下が、心配そうに言い。
「平気だって…ちょっとした立ちくらみだから、大した事ないよ」 郁海は、青白い顔に笑顔を浮かべて答えた。
「そうか…なら良いけど、無理すんなよ」
「あぁ、心配させて悪かったな。さぁ、翔ちゃん。次の次ぐらいで乗れるからね、楽しみだね」
言いながら幼い翔に笑いかけたが、翔は郁海の今の状態を敏感に察してか、小 さな声で不安そうに言った。

「うん、大丈夫? 怖くないかな…」
「大丈夫、お兄ちゃんが付いてるから。そうだ、手を繋いでいようか。そうすると安心だよ」
それは翔を安心させると言うより、郁海自身が小さな温もりに触れていたい…そんな不安 で頼りない気持ちから出た言葉だった。
だが翔はそれで幾分安心したのか、郁海に向かって小さな手を差し出す。
「うん、手繋ぐ…ちゃんと掴んでてね」
「解った、絶対離さないからね、安心していいよ」
「うん、ありがとう…」
そう言いながらも見上げる瞳はやはり少しだけ不安そうで、その透きとおった瞳が又も兄の不安そうな瞳と重なり。
郁海は思わず翔を抱き上げると、小さな…だけど柔らかく温かい翔の身体をぎゅっと抱きしめた。

確かにあれは…紛れも無い人の血。誰かが流した血…だった。
倒れていたのは…細い腕…その顔は…目には見えている筈なのに脳は見ることを拒み映さない。
なぜあんなものを。何処かで見たニュースの一場面なのか…と思いながら、それにしてはリアル過ぎて…怖ろしい場面。
そして…見るな…見てはいけない…心のどこかで何かが止める。
あれは…記憶にない自分の記憶…なのでは。郁海はなぜかそんな気がした。


充分遊んだ子供たちは、とうとうパレードまで粘り満足の態で帰路についた。
途中で眠ってしまった、下の三歳の妹と四歳の弟の二人を郁海と森下で背負い、家に着いたのは十時を回っていた。
その為、その晩も森下の家に泊めてもらう事にして、郁海が家に戻ったのは、日曜の陽も傾きかけた頃だった。
いつもなら、母親は仕事で留守としても兄の樹里は居る筈なのに、家の中にはその樹里の姿も見当たらず。
もしかしたら、母親が休みで一緒に出かけたのかも知れない…郁海はそう思い、真っ直ぐに自分の部屋へ向かった。

正直、無断外泊した後ろめたさもあって、いきなり顔を合わせなくて済んだ事に、何となくホッとしていた。
しんと静まり返った家の中には物音一つなく、郁海はベッドに寝転ぶとさっきまで居た森下の家の事を思った。
子供の声が途切れることなく、一日中賑やかで五月蝿いといっても良いほどだ。
そしてあの兄弟がいる為、森下は大学はおろか高校すら私立には行けないのだと言う。
それなのに森下は、兄弟と一緒にいる時間が楽しそうで、嬉しそうで、兄弟達が何より大切そうで。
まるで親父みたいだな…そう思いながらも羨ましいと思い、そういう兄弟になりたいと思う自分もいた。


「郁海…帰っているの?」
ドアの外から母親の声がし、郁海は自分がいつの間にか転寝をしていた事に気付いた。
だからと言って、一応起き上がりはしたものの、返事だけ返しそのまま動こうとしない郁海に、
母親は中に入って来る気配も見せず、やはりドアの外からもう一度声だけかけた。
「それじゃ、話があるから、ちょっと下に下りて来なさい」
そしてその声は、いつもと違って幾分硬い気がした。

樹里の誕生祝いを放り出して出かけてしまい。挙句に、二日も無断外泊をしてしまったのだから、やはり怒っているのだろう。
小言の一つも言われて当然だ。そう思い、幾分神妙な顔で郁海が下に下りていくと。
リビングには、どういう訳か叔父までもが待っていて、郁海にはそれが叔父の謀のように思えた。
だから…入り口に突っ立ったまま、中に入ろうとしない郁海にもう一度母親が声をかけた。
「郁海…此処へ来て座って頂戴。今日は大切な話があるの」

母親は大切な話と言うが、それは恐らく兄に対する自分の態度の事だろうと…郁海は思った。
そしてそんな家族の事に、なぜ叔父が同席するのか…郁海には、それがたまらなく不愉快な事のように思えた。
だから、母親の言葉が終わるや否や、これ見よがしに頭を下げやけくそのように言う。
「どうもすいませんでした、大事な、大事な兄さんの誕生日をすっぽかして…申し訳ありませんでした。
その上無断外泊して連絡もしなかった…全部俺が悪かったです、すいませんでした」

それだけを言うと、くるりと背中を向け二階に戻ろうとする。その背中に、
「郁海! なんだその態度は。親に向かってする態度か」
叔父の怒りに満ちた声が追いかけ、その声に郁海の中で抑えていたものが起き出すのを感 じた。

「叔父さんには関係ないだろう! 親父でもないのに一々口出ししてさ、うざいんだよ!」
「お前、どういう意味だ! そのウザイってのは」
「郁海! いい加減になさい」

「どうせ俺は、馬鹿でどうしようも無い人間だよ。でも、親でもないあんたに、価値が無いと言われる筋合いは無い!
自分を何様だと思ってるかしらねぇけど、そんなに目障りだって言うなら出てってやるよ!
あんたの言いなりにしかならないお袋と上手く手なずけた樹里と…三人で仲良く暮らせばいいだろう。
俺は中学を出たら、働いて一人で生きてく。あんたらとは縁を切ってやるよ。
もう沢山なんだよ! いつだって白々しいお袋も、何かと押し付けがましいあんたも。
人の顔色ばかり見てる樹里も…もう、全部嫌なんだ! 皆消えちまえ!!」

飛び出す言葉は思いとは違うような気がするし、真実のような気もする。
本当は大声で泣き喚きたいのに…涙も出ない。カラカラに乾いた想いは、屍の腐臭をまき散らす。
だから…一番消したいのは自分自身…それが一番の真実…のような気がした。
そして、リビングを飛び出し、階段を上ろうとして…その階段がグニャリと歪んだ。

あぁ、まただ…世界が真っ赤に染まる。血だ…血が流れて…どんどん流れて、辺りが血の海に沈む。

誰? 誰なの…そこに寝ているのは。頭がパックリ割れて、そこからどんどん血が流れているのに。
ねぇ、起きて…血を止めなくちゃ…死んじゃうよ。

細い腕…白い頬…虚ろに見開いた瞳が郁海を見つめ…紫いろの唇が微かに動いた。

「い…く…ちゃん……」
「わっ…うわぁぁぁーーーー」 郁海は頭を抱え、悲鳴を上げ続ける。

嫌だ…見たくない。見るな、見るな…見てはいけない。
あれは夢だから…大丈夫、夢だから…忘れちゃえ…
そう、何も無かったから…大丈夫……何でも………ない…から