02. 兄・弟

 -進路-

永沢の家は曽祖父の代から今の地で病院を営んでいた。尤もその頃は小さな診療所だったのだが、
祖父の代で病院の形になり、今では総合病院として近隣にもでも知らない人はいない。
勿論、郁海と樹里の医師で…その父親が若くして事故で亡くなってしまったので、今は叔父が院長を勤めていた。
そして母親も小児科医として勤務している。だから、郁海も将来は医師に…それは決められた道のように思われた。

だが郁海の成績は、進学を控えた三年生になっても上がる気配も見せず、公立中学の中程度留まり。
どう考えても、将来医学部を目指すような高校へ進学するなど、逆立ちをしても無理な状況に思われた。
そして、その事で母親や叔父が何かを言う事も無かった。懸命に勉強しようという様子も見られず
自分は誰からも期待されていない…そんな身勝手な不満で、、又
未来の見えない毎日に、抱えるリスクの狭間で
医学部を目指すなんて夢の中の夢…そんなふうにしか思えなかった。


家に帰ると真っ直ぐキッチンに行きメッセージボードを見る。それから、留守電の有無を確かめる。
永沢家ではそれが外から帰った時の決まりとなっていた。だから今日も、郁海は学校から帰ると真っ直ぐキッチンに向かう。
小さい頃から毎日繰り返してきた行動は既に習性に近く、自分で意識しないまま足が勝手に玄関からキチンへと動く。
ボードには特に何も書かれていなかったが、留守電には…遅くなる…という母からのメッセージが残されていた。
そんな日は、粗方出来ている夕食を温めたりして兄弟二人だけで食べる事になる。

そうは言っても、食べるまでの準備をするのは郁海の役目で。樹里は自分も一緒にしようとするが、
郁海は出来るだけ樹理には手伝わせないようにしていた。それと言うのも、以前一度樹理に包丁を使わせたら、
食材を切るより早く、自分の手を切ってしまったからである。
それからは、郁海が食事の準備をしている間に樹里は風呂に入るようにさせた。
そして今日も…風呂に入り食事も済ませた樹理が、週一度の夜更かし?をして海外の医療ドラマを見ている。
それを横目に見ながら郁海は、風呂に入るため浴室に向かった。

生活リズムが子供と同じで夜遅くまで起きている事が出来ない樹理は、いつも九時にはベッドに入る。
その樹理が週に一度だけ、九時から放送されるドラマを見てから寝るのを知っていた郁海は、
多分自分が風呂から出る頃には、樹理は部屋に戻りベッドに入っているだろう…そう思っていた。
だが、風呂から出て来ると…ドラマは放映中で樹理はまだテレビの前に座っていた。
そして、まるで郁海が風呂から出て来るのを待っていたかのように聞いた。

「ねぇ、郁ちゃんもお医者さんになるんだよね」
今までそういう話をした事がなかった樹理がいきなりそんな事を言い出したのは、見ているドラマのせいだろう。
郁海はそう思ったが、将来云々の話は郁海にとって決して快い話では無く。それも、樹理に言われると猶更だった。
だから、無意識に返す言葉も短くなり声も不機嫌そうになる。

「なんで…」
「だって…お母さんはお医者さんだし…死んだお父さんだって…」
父や母も医者だから…郁海にとってその言葉は、重い荷を背負った肩に更に重石を載せるにも等しく。
ましてやそれを樹理に言われた事で、声に合わせて口調まで乱暴になるのが自分でもわかった。

「父さんや母さんが医者だからって、なんで俺まで医者になるんだよ」
「だって…郁ちゃんは優しいし…それにかっこ良いから」
何処をとって優しいと言うのか、何を見てかっこ良いと言うのか…樹理はそれが真実かのように言い。
郁海はその言葉で、自分が益々惨めになるような気がした。そして、その惨めさの分だけ声が大きくなる。

「俺は優しくなんかないし、かっこ良くもねぇよ。それに、そんなんで医者になれるか!」
そう…仮に優しさの欠片があったとしても、カッコよさの片鱗でも備わっていたとしても。
そんな事で医者になれるはずも無い。それに何より…郁海には、医者を目指すのを妨げる大きな理由があった。
それも知らないで、弟の虚像を見て弟の将来を口にする…そう思うと兄の無神経さと純粋さに腹がたった。

「だって…」
「ああ、そのだって…って言うの、止めろよ! イラつくな。そんなに医者が良いんだったら…兄貴がなればいいだろう!」
そして…遂に怒鳴ってしまう。すると樹里は、いつものようにうな垂れると小さな声で言う。
「…ごめん…なさい…」
「なんで誤るんだ。兄貴なんだろう! 兄貴なら弟に謝るな!」
理不尽だと思う。言っている事がむちゃくちゃだと思う。なのに言わずにいられないほど、苛立ちが全身を駆け巡る。

「……だって…あ、ごめんなさい…。だって…僕は、頭が馬鹿だから…お医者さんになんてなれないよ」
そして…思いもしない言葉が樹里の口から発せられ、一瞬全身の血が頭に駆け上がり…頭の中が真っ赤になった。
誰かにそんな事を言われたのか…一体誰に…誰が…。ただその事で頭が一杯になった。

「誰が言った!誰が馬鹿だって言ったんだ…言えよ!誰が言ったんだ!」
思わず樹里の肩を掴むと、華奢な身体を揺さぶりながら大声で問い詰める。
そんな郁海の様子に、樹里は少し怯えたような…悲しそうな…顔で郁海を見上げ。

「……誰でもないよ。僕が、そう思ったんだよ。ごめんね郁ちゃん…僕はお兄ちゃんなのに…馬鹿でごめんね…」
その言葉に、頭に上った血が一気に引き、全身に冷水を浴びたような気がした。
「なんで…なんでそんな事言うんだよ!! なんで…自分でそんな…」
言葉が出なかった…否定の言葉も、慰めの言葉も…何一つ浮かばず。
そして自分は…思いやりの言葉をひとつも持っていなかった事に…郁海は初めて気付いた。

「僕が馬鹿だから…郁ちゃんは僕が嫌いなんだよね…。
でも…僕は郁ちゃんが大好きだから…郁ちゃんのお兄ちゃんでいたいんだ。
ごめんね…郁ちゃん…お願いだから、僕を嫌いでも弟でいてくれる?」

樹里の目は綺麗な二重で、黒目が大きくとても澄んだ目をしている。その瞳が涙で一杯になり、
やがてぽろぽろと頬に伝わり流れ落ちた。樹理の悲しげな顔は郁海を苛立たせ、抑えきれない衝動で郁海を追い詰めた。
なのに…それと同時にいつも思った。悲しい顔をさせるのも自分、涙を零させるのも自分。
そして兄だと、自分の兄だと解っていても…抱きしめたい…と。そんな自分が嫌で更に苛立った。
それなのに今日は、気づいたら…樹理の身体を腕の中に抱きしめていた。

「郁ちゃん…」
樹理の細い腕が郁海の背中に廻り…その一瞬思わず力一杯抱きしめていた。
「兄さん…樹里はずっと俺の兄さんだ。だからもう…そんな事は言うなよ」
「郁ちゃん…ありがとう…郁ちゃんが弟で嬉しいよ僕…」
そう言って樹里は、郁海の胸に顔を押し当て…泣いた。


いよいよ本格的な進路調査が始まり、郁海は自分の進路について考えてみるが…今の学力では志望校も限られていた。
それなら、今から頑張ってワンランクでも上の高校を一般受験するか。それとも、無難なところに決めて、
入学してから予備校に通い頑張るか。正直、どちらとも決めかねている…と言うのが現状だった。
兄は…来年の四月になったらどうするのだろう。そしてこの先の長い人生、一体誰が…兄を守って行くのだろう。
誰が…そう考えた時、兄の横に誰かが並ぶのはにどうしても嫌だと思った。
それなら、自分が…。その為には、今のままでは駄目なのでは…やっとそんなふうに考え始めた。

だが…自分はどんなに望んでも医師にはなれない…そんな絶望的とも言える不安を抱えていたのも事実で。
思いだけでは決して選べない道が、眼の前に横たわっている…そんな気がしていた。

郁海が、初めて血が怖いと思ったのは、樹理が包丁で手を切った時だった。
たした傷では無かったのだが、どういう訳か出血が多くて…真っ赤に染まった樹理の手を見た時。
本当に…それは嘘では無く本当に…恐ろしさで、大声で叫び出したいと思った。
得体の知れない恐怖…そんな感覚に頭の中が、目の前が真っ赤になって…全身が汗ばみ吐き気までした。
傷の手当てを…そう思いながら。なのに、動けなくて…必死で樹理の手を掴んでタオルを巻くと母を呼んだ。

あの時の感覚は異常としか思えず、その事を母親に話すと、「たまにいるのよね…血が苦手な人」
母親はそう言って笑っていたが、あれ以来得体の知れないあの感覚を夢に見るようになった。
全身汗びっしょりになって目を覚ますが、何かを見るのではなく感覚だけだから、何が怖いのか解らなくて。
ただ怖い…だから自分は医師にはなれない…そう思った。それから勉強など、どうでもよくなったような気もした。

「お前、将来医学部行かなくて良いの?」
机の上に置いた郁海の進路調査票を覗き込んだ森下が言う。
郁海は白紙のままの調査票にペンを放ると大きく両手を伸ばし、背伸びをしながら諦めの混じった声で答えた。
「…無理だろう…俺の成績じゃ」 
「それもそうだ…今の成績じゃな。けど、高校に行って頑張れば、何とかなるんじゃねぇ」
森下はあっさりと郁海の言葉を肯定し。その後で、郁海が考えていた選択肢の一つを此れまたすんなりと口にした。
だからと言って、簡単に相槌を打てないのも事実で。郁海は返事をするより、矛先を森下に向ける事を選んだ。

「お前はどうすんだよ…もう決まっているのか?」
「俺は、高校大学共国公立以外は無理だって親に釘を刺されているからな。だから、とりあえずT高志望で行くよ。
なんせ下がうじゃうじゃいるからさ…大学に行くんだったら国立狙えるまで頑張らないと駄目って事。
正直、寝る間もない位頑張ってやっとだろうけどな」
森下はそう言いながらもその顔には悲愴さは見られず、むしろ強かな笑みが浮かんでいた。

森下の家は、今時珍しく6人も兄弟がいるのに、去年また妹が生まれたと言っていた。
森下の下に二男四女…まだまだこれから教育費がかかる。
普通のサラリーマン家庭では、たとえ長男と雖も私立に入れる余裕は無い…と言うのも仕方の無い事かも知れない。
そんな事を思いながら、自分の投げやりな未来に比べ、しっかりと見据えている森下の未来が、とても眩しいものに思えた。

「そっか…結構しっかり考えているんだな。けどまぁ、お前なら大丈夫だろう」
「大丈夫じゃねぇよ。俺は、不可能を可能にしようと頑張るんだからさ、お前も頑張ってみても良いんじゃねぇ。
本当は将来医学部に行きたいんだろう? 親父さんの跡を継いで医者になりたいんだろう?
それに…可愛い兄ちゃん。お前を頼りにしてんじゃないの」
「……どんなに頑張っても、無理なこともあるんだよ。それに、兄貴は関係ない。俺なんかを頼ったりしないさ。
でも、何か探してみるよ…俺に出来ることを。医者だけが全てじゃないからな」

「永沢、お前…。そうだな、先は長いんだもんな。俺らまだ15だぞ…焦ることもないって。
それに、お前だったら幾らでも見つかるさ。それと…お前が、兄貴は関係ないって言うなら、俺が貰っても良いか?」
森下は笑いながら言った…が、その目は決して冗談などではない…そう言っているような気がした。
途端それが心の中で波紋を広げ…郁海は自分の将来よりよりそっちの方が重要な事のように思え、大声で聞き直した。

「!!なんだよ!どういう意味だよ!!」
「まんま…俺、お前の兄ちゃんに惚れたかも」
「ほ…惚れたぁ!」
「うん、兄ちゃんめちゃくちゃ可愛いし、健気。俺、ああいうタイプ、超好み」
「お、男だぞ!兄貴は。お前…男が好きなのか?」

「いや、男でも女でも好きは好き、嫌いは嫌い。俺はそういう考えだからさ…兄ちゃんが男でも関係ない。
因みに、お前も好きだからこうして付き合っているけど。嫌いだったら…いじめはしないけど、極力関わらない。
万人に平等に…なんて真似は俺には出来ないし、それにそんな事をしていたら疲れるだろう」
森下は何の躊躇いも無くそんな事を言い、その顔には後ろめたさの欠片も見せなかった。

確かに森下は、頭は良いが誰にでも好かれている…と言う訳ではなかった。
優しくない、上から目線…などと言う人もいるし、その反対に冷静で頼りになるとか、信頼できる等と言われ慕われてもいた。
もっとも敬遠するのは大抵が女子で、周りに集まるのは男子という妙な現象だった。
それは、女子よりも男子の方が気を遣わなくて付き合いやすい…そんな森下の態度のせいで。
本当は、森下が自分で言うよりも万人に惜しみ無い優しさを注げる奴なのでは…郁海はそんなふうに思っていた。

それでも、森下が…たとえ冗談でも兄を…いや、誰かが兄を…そう思うとたまらなく嫌な気分になった。

「お前は…優しいよ。俺に比べたら何倍も優しい。けど、兄貴は…俺が死んだらお前に頼むけど、それまでは断る」
「馬鹿かお前、お前が死ぬ頃は俺も死んどるわ…そんなの意味ねぇよ」
「そっか、そうだよな…俺ら、同じ年だもんな」
笑いながら言い、頭の中で自分に言い聞かせる。 樹理は自分の兄…この世でたった一人の…兄貴だ。
何度も何度も呟くことで、郁海は自分の中に芽生えそうなものに蓋をし…目を瞑った。


それでも…まさか森下が本気とは思いもしなかったが、たとえ冗談でも兄を…いや、誰かが兄を…。
そう思うとたまらなく嫌な気分になった。そして、樹理は自分の兄…この世でたった一人の…兄だ。
何度も自分に言い聞かせることで、郁海は自分の中に芽生えそうなものに蓋をし…目を瞑った。



郁海と樹理の叔父、永沢叔父は亡くなった父親の弟だったが、郁海たちの父親とは年が離れていたので、
まだ三十代半ばを過ぎたばかりだった。そのせいか、甥の郁海や樹理を弟のように可愛がり。
特に樹理の事は、目に入れても痛くないという程の可愛がりようで、樹理の顔を見に来たと言っては、
用もないのに、しばしば郁海達の家にやって来た。

もっとも、叔父の住まいは病院の直ぐ近くにあるマンションの一室だったから、永沢家とは目と鼻の先にある。
それでも、目の離せない患者がいる時は、自分の部屋より近い永沢の家で仮眠を取り、待機する事もあった。
なにしろ永沢家は病院の直ぐ後ろにあり…緊急の呼び出しにも直ぐに駆けつけられる。
そんな理由もあり、昨夜も家に泊まった叔父は朝からすこぶる機嫌がよく。その反対に郁海は、すこぶる機嫌が悪かった。

九月八日は樹理の生まれた日。この日は決まって、叔父が誕生日のパーティーを開いてくれた。
幼稚園児や小学生でもない甥の誕生日パーティーなんて…。しかも、樹理の友達まで招待した派手な?パーティー。
そのうえ、招待した友人達の分までお土産のプレゼントを用意するという、叔父馬鹿ぶり。
それを言うと、みんなと楽しそうにしている樹理を見るのが嬉しいからだ…と、誰憚ることなく言った。
そして郁海は、何時の頃からかそんな叔父に不快感を抱くようになっていた。

それに…何よりこのパーティーが大嫌いだった。招かれる樹理の友達は、必ず何処かしかに障害を持っていて、
嫌でも樹理の通っている学校がどんな学校なのか突きつけられる。だからと言って、その友人たちがどうと言う訳ではない。
障害があろうが無かろうが、その人自身に代わりはないし、自分の学校の友人達に接するのと同じように接す事が出来る。
ただ…兄が彼らと同じなのが嫌だった。それは、自分が彼らを偏見の目で見ているせいなのでは…そんなふうにも思い。
そんな自分が嫌で…樹理の誕生パーティーなど、出たくないとさえ思っていた。


そんな郁海に構う事無く、昼にはデパートから沢山の荷物が配達され。綺麗にラッピングされたプレゼントの箱には、
ご丁寧に送る相手の名前まで入っている。叔父は、多種多様なプレゼントをいつも自分で選び、買ってくる。
ひざ掛けだったり、あるいは靴だったり、時には玩具だったりと。まめと言うかなんと言うか…呆れるほどだが。
それも全て、樹理のためなのだと解っていた。なにしろ叔父は、樹理が世話になっているという理由で。
自分から役所に申し出て、学校と病院を結ぶホットラインまで設置したのだ。

特に今年は、学校の友達と祝う誕生日は最後になるだろう。樹理はその事が解っているのか、そうでないのか。
それぞれの箱に書かれた名前を確かめるように、一つ一つ声に出して読み上げていた。

一度病院に戻り、夕方少し早めに顔を出した叔父の手に一際大きな花束を見て。
【恋人に贈る訳じゃあるまいし…派手な事してんじゃねぇよ】
郁海は胸のうちで毒付きながら知らん振りでそっぽを向く。だが樹理は、叔父の姿を見るなり側に駆け寄り。
まるで待ちわびた恋人を迎えるかのように、叔父の腕に腕を絡め椅子へと誘う。そして叔父は、
「樹理、誕生日お目出とう。やっと十八歳になったな」
これ以上ないほどに優しい声で言うと、樹理の手にその花束を抱かせ頬にチュッとキスをした。

長い間外国にいたせいか、叔父はそういう事をてらいもなくし…それが郁海には、酷く不快に思え。
【日本人なら、そんな事すんじゃねぇよ!】 そんな言葉を声に出して叫びたいとさえ思う。
それなのに樹理は頬へのキスすら素直に喜び。郁海には一度も見せたことの無い笑顔で叔父を見つめ、
両手に抱えた花束にそっと顔を寄せた。そして、郁海が一度も聞いた事のない嬉しそうな声で叔父に甘えるように言う。
「わぁ! 綺麗なお花。嬉しいな、叔父さんありがとう。なんか甘い…いい匂いがするね」
その笑顔は…胸に抱えた花々よりも綺麗で…眩しくて…郁海はその笑顔にすらすら苛立つ。

「そうだな、樹理と同じだ。いい匂いがするだろう?」
叔父が樹理の頭を撫でながら歯の浮くような台詞を言い。樹理は、叔父の言った意味を取り違えているのか。
「叔父さん、僕は臭くないよ。ちゃんとお風呂に入って、身体も頭も洗っているよ…そうだよね、郁ちゃん」
自分は本当に臭くない…とばかりに郁海を振り返り、同意を求めるように言った。

「……。そんな変態のいう事なんか、真に受けて聞くことねぇよ」
答える郁海の声はぶっきら棒で、顔には愛想の欠片も無い。そんな郁海に叔父は苦笑いを浮かべ。
「おいおい、変態は無いだろう。相変わらず郁は手厳しいな。なぁ樹理、叔父さんはいつだって本当の事を言っているよな」
郁海に言うより樹理に向かって相槌を求めた。すると樹理までも、真面目な顔で郁海を窘めるような事を言う。

「そうだよ、郁ちゃん…叔父さんは変な人なんかじゃないよ。とっても真面目な良い人だよ。
駄目だよ、そんな事言っちゃ。叔父さんは、いつだって僕たちの事思ってくれているんだからね」
郁海にはその言葉が、樹理が叔父の味方をしている様に思えて、叔父への不快感に樹理への不満が加わり…更に苛立つ。
「そうかよ…じゃ、勝手にそう思ってりゃ良いだろ」
吐き出した不満や苛立ちは樹理に向けられ…その途端樹理の顔から笑顔が消え去り、返って来るのはいつもの悲しげな顔と声。


「酷いよ郁ちゃん…なんでそんな事言うの?」
「悪かったな。俺は優しくないから酷い事でも平気で言えるんだよ!」
そう言うと郁海は、座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。
これ以上樹理の顔を見ていると、もっともっと傷つけてしまいそうで…。だから…これ以上樹理を傷つけない為に、
今自分に出来る事は…此処から外に出る事…郁海は必至の理性でそう思った。なのに…。

「え! 郁ちゃん、何処に行くの? 直ぐに帰ってくる?」
樹理の声が郁海の後を追い。その声が、郁海の歯止めをいとも簡単に取り外し…奔流を押し出そうとする。
【なんで、話しかけんだよ…黙って何も言うな。そうじゃないと俺は…兄貴にもっと…酷い事を言ってしまう】

「何処だって良いだろう…それに何時に帰ろうが、兄貴には関係ないだろう」
「だって…僕の誕生日」
「良い年をした男が誕生日パーティー? ばっかじゃねぇの、やってられっかそんなもん。
やりたきゃ勝手にやってりゃいいだろう。そんなの俺には関係ねぇよ!」
「…だって…」

「郁! いい加減にしろ! それこそ樹理は関係ないだろう。俺に言いたい事があるんだったら、俺に直接言えば良い。
それを…自分の鬱憤を樹理に八つ当たりなんて、情けないぞ」
叔父の一括するような声が、郁海の堰を切らせた。

「そうだよ、俺は情けない出来損ないだよ!!
だから、こんなパーティーなんか出たくなんか無い。もう沢山だ!!」

「……郁ちゃん…郁ちゃんが嫌だったら…僕、止めてもいいよ…だから…」
「いい加減にしろよ! それがムカつくんだよ!! いつだって、何だって、郁ちゃんが…だから、僕は我慢しますって。
いい加減うんざりなんだよ、そういうの。兄貴面して、良い子ぶってんじゃねぇよ!」

「そんな…だって…」
樹理は言葉を詰まらせ、目を潤ませて…あぁ、又いつもと同じ。泣かせてしまう…そう思っても言葉は止まらない。
「泣けばいいと思って…この変態には効くかも知れないけどな、俺には鬱陶しいだけなんだよ」
どうしてそこまで言ってしまうのか…自分に歯止めが利かなくなっている自分こそが鬱陶しいのに。
そして…いきなり頬に衝撃を受け…郁海は尻餅をついた。
一度も経験した事の無い衝撃に驚き、頬に手を当て見上げた叔父の顔は…本気で怒ってる…そう思った。

「お前の為に樹理は……それを…。お前には、兄貴や樹理の思いを託す価値がないのか!」
吐き捨てるように言った叔父の言葉が、郁海には一体どういう意味なのか解らなかったが、
それでも、叔父の目に憎悪にも似た感情が過ぎるのを見たような気がした。
そして…兄は愛され、自分は…憎まれている。そう思った途端、郁海は樹理の悲鳴のような呼びかけを背に家を飛び出した。

あれは…どういう意味なのか。いつも樹理に辛く当たるからか…それとも他に何か意味があるのか。
俺が兄貴に何かをしたって事なのか…それに父さんがなんだって…
叔父の言葉と、一瞬叔父の目に見た憎しみと紛う感情は…郁海の心に刺さって真っ赤な血を流した。