09.蒼天のオリオン

痛み


片岡と蓮見の父親、ハロルド・グリュクスは、鍛金の工芸家だった父親の跡を継がず彫金家としての道を選んだ。
そしてジュエリーデザイナーの卵だったナーシャと知り合い、二人は恋におち結婚した。
小さなアパートの一部屋を工房にし、ナーシャのデザインしたジュエリーをハロルドが細工加工する。
当然本物の石など買えないから、材料はシルバーやガラス、石等を用いていたのだが、それが街の若者や主婦たちの間で、
手軽なファッションジュエリーとして人気を集めだした。ただ所詮は玩具のような物。
たとえ売れたにしても、単価を考えれば生活は楽ではなかった。それでも二人で力を合わせ、作品を作る事ができる。
それが嬉しくて、毎日が楽しくて。そんな慎ましやかな暮らしの中で二人の間に息子のリオンが生まれた。
決して裕福ではなかったが、それでも親子三人とても幸せだった。

そんなある日、二人の作ったネックレスがファッション誌で取り上げられ、それがWD社とパイプの繋ぐきっかけとなった。
そして、それを境に多くの宝石店からも注文が入るようになり、工房にはガラスの代わりに本物の宝石が。
石ころの代わりに原石が、磨かれるのを待っているようになった。父親の様子が変わり始めたのもその頃からだった。
煌びやかな宝石に取り付かれたように、石を求めては遠く海外にも出かけるようになった。
日本にも何度か足を運び、長い期間滞在していた時期もあって、おそらくはその頃に、
蓮見の母親と知り合って男女の関係になったのだろう。

そして父親は何粒かの真珠を持ち帰ると、日本の真珠だと言ってそれを大切にし、日本の女性は真珠の肌をしている。
その肌と真珠には黒髪がとてもよく似合う。事あるごとにそんな事を言っては、母親の不興をかった。
それでも、父親は彫金の腕もさながら石を見る目がとても優れていたのか、安く仕入れた原石が、
磨くと見違えるような輝きを放ち、美しく高価なネックレス、指輪などの装飾品へと変貌した。
やがて工房には職人も増えて、ストリートに店を構えるまでになると、取引先にも名の知れた宝石店、
ブランド店が名を連ねるようになった。小さかった工房は、いつしか立派な会社になっていた。
だがそれに比例するように夫婦の間はすれ違いが多くなり、深い溝が出来始めた。
そして父親が再び日本に行き、戻って来た父親の背後には、一人の子供がその背に隠れるようにして俯いていた。
「リオン、お前の弟だよ。名前は」 父親に言われ、
「聖羅です」 そう言って、俯いていた顔を上げた子供の瞳は、真っ青な海の色をしていた。


父親の瞳は片岡と同じような濃い青で、母親の瞳は黒だった。
だが父親の母、つまり片岡の祖母ローザは真っ青な海のような色の瞳をしていた。
父は優しかった自分の母をこよなく愛していたがそれより何より母親の美しい青い瞳が大好きだった。
そしてその瞳を羨み、自分の瞳が青くなかった事を嘆き残念がった。その事は片岡自身も良く知っていたので、
真珠の肌と黒髪、そして真っ青な瞳。父の望む全てを持っている子供。
それが眼の前に表れた時片岡が感じた不安。それは父を奪われる不安だったのか、それとも父を失う不安だったのか。
或いは、もしかしたら自分もその青い瞳に魅せられてしまいそうな恐怖……だったのかも知れない。

あの日から、一日足りと青い目の弟を憎まない日はなかった。
父の異常なまでの執着で、聖羅がどんなことをされているのかを知っても……妬み憎んだ。
父に言われて聖羅を抱いた時でさえ、たった一人の弟を愛しいと思うより、自分を頂へと誘う弟が憎いと思った。
聖羅を餌に海外のバイヤーにコネを取り付けては肥えていく会社。
聖羅に向ける父の執着。それを日々見続けた母は、格子の付いた窓から外を眺めながら死んだ。
その原因が、全て弟のせいとは思わないが、それでも憎しみ以外抱く事はない。それなのに胸が痛むのは。
自分も父と同じようにあの真っ青な瞳に狂わされ、やがて父のように死んでいく、そんな予感のせいなのか。
父に愛されず、たった一人の弟を憎む以外出来ないのだとしたら、自分が此処に存在する意味など無いのかも知れない。

うす紅く染まるビルの谷間、そこを遥か地上に向かって、何度も繰り返し落ちていく自分。
そんな光景を、片岡は自分の目の中で見つめていた。


緒方が外回りを終え会社に戻ると、顔馴染みの事務の女の子が、少し怖い顔で緒方の側に来ると緒方の背広の袖を引いて、
廊下の端へと引っ張っていく。その様子から、何となく話の内容は想像できたが、緒方はそれに気付かないふりで、
「おいおい、何だよ。折角のラブシーンも、こんな所じゃ不味いぞ」
冗談めいた口調で言うと、彼女は怖い顔に軽蔑まで付け足したような顔で緒方を睨み。

「何を馬鹿な事ばっか言ってるのよ。良い加減にしなさいよね、いつまでネチネチしているつもりなの。
本当に迷惑だったら、自分の口で迷惑だって言えば良いじゃないのよ。そうじゃないから、言えないんでしょう。
はっきり言って、緒方さんみっともないよ。蓮見さんの方がよっぽど男らしいわ。
あんなに一生懸命、なりふり構わず毎日毎日電話してきて。その度に惚けなくちゃならない私の身にもなってよね。
でも蓮見さんにとって、緒方さんはそれだけ大切だって事なんだろうけど……あれじゃ可哀想だよ、蓮見さん。
けど、もう本当に終わりかも知れないからさ。ホッとした? 二度と掛けてこないと判って」
そう言って緒方を見る彼女の様子が、やはりいつもと違う事に緒方は嫌な予感がした。

「課長、何か言っていたのか?」
「別に。蓮見さんの事なんかどうでも良い緒方さんに、言う必要なんか無いよ。
でも、みんなにも……って言うから教えるけど、蓮見さんどっかに行っちゃうかも知れない。
だって、ほんとに最後って感じだったから」
そう言った彼女の声がやけにしんみりと聞こえ、嫌な予感はガンガンと大きな音を立て始めた。
「何処かに行くって、課長がそう言ったのか? 最後だって、本当にそう言ったのか?」
そして嫌な予感は、言葉にすることで現実のものへと形を変えていく。

「今更慌てたって遅いよ。蓮見さん……今まで迷惑かけたねって、あたしに謝るんだよ。そんで、もう電話しないからって。
それに、此処にいた時が今までで一番楽しかったって。みんなにもお世話になりましたって伝えてくれって。
そんなの変じゃない。別にはっきり言った訳じゃないけどさ。もう二度と会えない、そう言っているみたいだった。
それで 「最後に、もう一度緒方さんに会いたかった」 ポツッとそれだけ言うと切っちゃった。
なんかもの凄く嫌な感じがした。ねぇ、もしかしたら……何てこと無いよね。私の思い過ごしだよね」
彼女は自分の中の不安を打ち消して欲しいかのように、緒方に否定の相槌を求めるが、
既に緒方の耳には、彼女の言っている事がほとんど聞こえていなかった。

何処かへ行く? それも、二度と戻れない処へ。そう言えば、聖羅が自分の前から消えた時も……。
あの時聖羅は、必死に何かを伝えようとしていたのに、自分はそれを聞こうともしなかった。そして失った。
それなのに今度も、課長が何度も電話をしてきたのに、俺は逃げるばかりで課長と向き合おうともしなかった。
性懲りも無く同じ事を繰り返し、また大切なものを失う。
そう思った途端、緒方は自分の頭の中が真っ白になり、身体が芯から震えてくるような気がした。
そして心が、あの人を失いたくない。あの人だけは消えないでくれ……悲痛とも言える声で叫ぶのを聞いた。

今になって考えてみると、確かに蓮見はA.Hの社長に違いなかったが、それ以外の事は全て片岡の言った言葉で。
緒方は蓮見の口から一言も、何も聞いていなければ聞こうとしなかった事に気付いた。
たとえ蓮見が嘘をついていたとしても、其処に事情があったのだとしたら。それすら拒んだことになる。
だから、二度と同じ過ちを繰り返さない為に、もう一度蓮見に会わなくてはならない。緒方はそう決心すると、
「今更遅いと思うか?」 彼女の目を見つめて聞いた。すると彼女は、ニコっと笑い。
「遅いよ。でも、何もしない方が何倍も後悔すると思うよ」 はっきりと言った。

「そうだな、後悔しない為にも課長に頭を下げてくるか」
「うん、それで駄目なら土下座でもなんでもして謝るのよ。男ならそれくらいの根性見せなきゃ……だよ」
彼女はそう言って、緒方の背中を思いっきり押し出した。
背中を押してくれる者がいる。石田にしても彼女にしても、自分が思うより遥かに自分の事を心配してくれていた。
そう思ったら急に胸が一杯になり、熱いものがこみあげてきて。緒方はただ無言のまま彼女に一礼すると、
既に真っ暗になっている外に、もう一度飛び出した。

新しく買い換えた携帯に蓮見の番号は登録していなかったが、緒方の頭の中にはしっかりと残っている番号。
それを一文字ずつゆっくり押すと呼び出し音が鳴り、やがてそれが心臓の音が重なる。
だが、数回鳴っても蓮見は出る気配も無く。突然女性の声で 「ただいま電話に出ることが……」 そして、ピーという発信音。
「課長……緒方です」
そこまでは言えたがその後の言葉が喉に詰まって出て来なくて、緒方は黙ったまま携帯を握り締めた。
たった一言 「会いたい」 それだけで良いのに、緒方の口は貝のように閉じたままどうしても開こうとせず。
そして、携帯を閉じようとした時。
「緒方さん?」
小さな、聞き逃してしまうほど小さな声が、耳を通り抜けて緒方の心臓まで届いた。

そして、まるで蓮見の声が緒方の中に溶け込んで促したかのようにすんなりと言葉が出た。
「課長、会ってもらえますか」
「……。緒方さんは、それでいいのですか」
「はい。どうしても会って欲しいんです」
「判りました。それでは、僕の家に来てもらえますか。住所は……」


蓮見の言った住所は都心から少し離れた沿線上にあって、丁度緒方の会社とA.Hの中間あたりだった。
そのせいか敷地も広く、周りには長い塀が張り巡らされて監視カメラまで設置されていた。
そして、外界と中を隔てるかのように大きく頑丈そうな扉が立ち塞がり家の明りすら見えない。
その無駄とも思える大きな扉の前に立ち、緒方は大きく息を吸い込むとインターフォンに向かって手を伸ばした。
本当に鳴っているのかどうか不安になるほど鎮まりかえった門の中に、緒方は何となく自分の住むアパートを思った。

隣のドアフォンの音さえ聞こえるアパートの部屋は引っ切り無しに車の音がし、午後になれば下校途中の小学生達の賑やかな声。
それが済むと今度は中学生と、雑多な騒音が窓や壁を通り抜けて中に入り込んでくる。
それは生きている人間が奏でる音。なのに、此処には……そんな事を思いながら緒方が目の前の扉をみつめていると、
「どうぞ」
声と同時にその大きな扉がゆっくりとスライドした。そして其処からダクトレールの照らす敷石を進むと、
玄関ポーチの柔らかな灯りの下に、蓮見が薄手のセーター姿で立っているのが見えた。

冬の外気にその姿は如何にも寒々しく見えて。また少し痩せたのかな、風邪でもひかなければ良いが……等と思いながら、
「課長、お久しぶりです。お元気でしたか」
思ったより普通に言葉が出た事に安堵した。そして蓮見も。
「はい、緒方さんもお元気そうですね」
そう言って、ほんの少しだけ口元を緩ませた。だが蓮見のその表情が、緒方には何となく違和感をかんじさせ。
もしかしたら迷惑だったのでは、チラッとそんな事を思った。

「今日は無理を言って申し訳ありませんでした。本当はご迷惑だったのでは」
「いいえ、私の方こそこんな時間にわざわざ来ていただいて、申し訳ないと思っています。
一人住まいですから何のお構いも出来ませんが、どうぞ中にお入りください」
蓮見は、やはり何処か他人行儀に言い。緒方にはそれが以前の蓮見とは違うような気がして、目には見えない距離を感じた。
中に入ると広い玄関ホールがあり、其処から続く廊下には使われていないような部屋のドアが暗鬱と並んでいて。
想像以上に広く立派な屋敷……なのに、どこか凄然として冷やかなアンビアンスを感じた。
そして、こんな家に蓮見は一人で住んでいる。そう思うと、以前蓮見の言った、一人では凍えてしまう。
その言葉の意味が解ったような気がした。

「一人なもので応接室の掃除まで行き届かなくて……すみませんが私の部屋でも宜しいですか?」
そんなふうに聞かれ、緒方の頭の中にあの夜の事が浮かんだ。それが期待かといえばそういう事では無くて、
それでも何となく後ろめたさと躊躇いもあって……だから、
「はい、俺は何処でも構いませんが、でも、良いんですか? 私室で」 確認するように聞くと、蓮見は。
「今更取り繕ってもしかたないでしょう。緒方さんが来られた理由も、大凡想像がついていますから」
そう言って流すような目で笑った顔が、緒方の知っている蓮見とは思えないほど艶やかに煽情的で。
緒方は背筋に添って何かが走り抜けるのを感じた。

だが私室だというその部屋に案内され、驚いたのは緒方が想像していたのとは違い、まるでホテルか結婚式場のサロンの様で。
猫脚だか金華山織だかロココだかの豪華そうなソファーやテーブル、コンソールなどが置いてある
どう見ても普通の家のリビングよりも広く、応接間より立派で……それなのに、人の匂いや温もりも感じられなければ、
生活感の欠片も無かった。人が其処で生きている事さえ感じさせない部屋。緒方はそんな部屋の中を見回しながら、
様相は違っているが、以前蓮見を送り届けたマンションも同じような感じだった事を思い出した。
「どうぞ、かけて下さい、今、何か飲み物でも作りますから」
蓮見はそう言って緒方に椅子を勧めると、部屋の隅に置いてあるガラスケースの扉を開ける。
その棚には、緒方には手の届かないような高価そうな酒の瓶や磨かれたグラスが並び。

「何が良いですか? と言っても、ブランデーとウイスキーしかありませんが、」
蓮見はサイドテーブルの上にグラスを並べながら聞くが、正直緒方にはどれが何なのかも解らなかった。
だから、取りあえず飲みなれたものを……そんな気持ちで、
「それじゃ、ウイスキーを」 とだけ答えた。すると蓮見はそれ以上に銘柄など聞く事もなく。
「ストレートにしますか? それとも割りますか?」 それだけを聞いた。
「半々にしてください、」
「判りました」
蓮見はそう言うとグラスを少し縦長のワイングラスに変え、メジャーカップでウイスキーを注ぐと同量の天然水を注ぐ。

その所作がゆかしくもとても手馴れているようにも見えて、この部屋に招き入れる人間が他にもいるのだと思った。
すると何となく胸の辺りがもやもやとして落ち着かず、そんな緒方の心の内を知ってか知らず、か。
蓮見はグラスを手に緒方に近付くとそれを差し出した。台を摘まんだ細い指先がうっすらと赤く、もやもやは更に増す。
そして手渡されたグラスを回すと、琥珀色の液体が芳香を放った。
その独特な香気でスコッチだろうと思いながら、口に含むと円やかに芳醇な香りを鼻に残し口の中にこくが広がる。
おそらくは緒方が普段飲んでいるウイスキーとは違い、かなりの年代ものだろう。
それなのにやけに苦く、喉を焼き、臓腑焼く。その焼け付くような苦さが、今の緒方の心そのもののような気がした。
「怒っていますか、僕の事を」
その言葉と同時に緒方の隣が僅かに沈み、緒方は顔を向ける事なく、もう一度僅かにグラスを揺らした。

「いえ。只、自分の愚かさに呆れているだけです」
「そうですか。片岡が、貴方に何をどのように言ったのか知りませんが、おそらくは事実を告げたのでしょう。
ですから、私はそれを否定しようとは思っていません」
「認めるのですか、彼の言ったことを知りもしないのに」
「はい。それは多分、片岡の目に映る私の姿なのでしょう。それなら、それも私に違いなのだと思います。
たとえどのように映ろうと、確かに私の一部なのでしょうから、否定など出来ません」
そう言われて、緒方には問い返す言葉も見つからなかった。だからその代りではないが顔を蓮見に向け、聞いた。

「それで、俺に電話をくれたのは、それを言うためだったのですか?」
だが蓮見は、緒方の視線を気にも止めないように前を向いたまま静かに言う。
「さぁ、どうなのでしょうね。自分でも判らないのですよ。緒方さんに、何かを言おうと思ったのか。
それとも、ただ声が聞きたかっただけなのか」
その横顔は、本当に自分でも解らない……その言葉を表すかのようにぼんやりと取り留めのないようにも見えて。
何か言わなくては、伝えなくては、緒方はそう思い。
「俺は、貴方を……」
口を開いたものの、何をどうしたいのか……緒方自身にもはっきりと解らなかった。
それでも何か。そんな緒方の気持ちは蓮見の言葉に遮られ、唇は先の言葉を紡ぐことは出来なかった。

「緒方さん、お願いがあります、」
「えっ、何ですか」
「もう一度私を抱いてくれますか。それで最後にします。二度と貴方の前に姿を見せません。ですから、もう一度私を」
そう言うと蓮見は緒方に顔を向け、緒方の手の中からグラスを抜き取るとそっとテーブルに戻した。
それから緒方の手を引き部屋の奥のドアへと導く。そして緒方は、その手を振り払う事も出来ず、抗う事も出来ず、
蓮見を見つめたままその顔から目を逸らすことも出来なかった。
そして蓮見の後に続くようにして開かれたドアを潜った緒方の目に映ったのは、大きなベッドとガラス張りの浴室。
壁に飾るようにある様々な器具やベルト、ロープ。そして棚には……。思わず目を背けた緒方の耳に。

「此処には、父の選んだ最高のお客様以外は入れないのですよ。
その父が亡くなり、それ以降此処に入ったのは緒方さんが始めての人です。
これ、何か判りますよね。ある方が私を抱くたびにこの身体に付けてくれたピアス、最高級の石です。
その方だけではありません。私は商品として生きるために、いろんな方々にあらゆる快楽をこの身体に教え込まれました。
ですから、今ではどのような嗜好の方でもお相手が出来るのですよ」
抑揚も無く淡々話す蓮見の声が聞こえた。それに対し如何に答えろと言うのか、そんな事堪えられようはずも無く。
「…………」 黙ったままの緒方に、蓮見は緋色を纏った妖婦のように艶然と微笑みながら言った。
「この部屋で、このベッドで私を抱いてくれますか?」

誘うような目が妖しい。誘惑の言葉を紡ぐ唇が艶かしく濡れた舌を覗かせ……惑わす。
繋いだ指が這うように滑り、緒方の心にまで忍び込こみ。今目の前にいる蓮見は、どれほど淫らに身悶え、
どんな声で啼くのだろう。そんな淫欲な思いが頭を過る。
だがそれは片岡の、目の前にいる蓮見の言う商品としての蓮見であって緒方の知る蓮見ではない。
本当に嬉しそうな笑顔を見せ、緒方に手間暇をかけさせた課長では無い、それだけは確信できるような気がした。
「お断りします。俺は、商品としての貴方を抱いても、その代価として払えるものを持ってはいません。
ですから、俺には貴方を抱く事は出来ない。申し訳ありませんがお断りします」
「代価ですか。確かに私を抱いた人達は、父の会社に何らかの利益を齎してくれたようです。
でもそれは、私には関係のないことです。それに、父はもういません」
網膜まで赤く染めるような甘言。それに抗うように、卑怯と思いながらも緒方は喉の奥から言葉を搾り出した。

「貴方の大好きな人は、此処で貴方を抱いたのですか。貴方は大好きな人に、此処で抱かれたい……そう言ったのですか」
「……。酷い人ですね、貴方は。それなら私も聞きます。緒方さんの心……それを対価として私に支払ってくれますか」
思いもしなかった事を言われ、緒方は一瞬戸惑い答えに迷った。蓮見を思う自分の心は、課長の蓮見にならやっても良い。
代価などではなく、課長の為なら自分の全てをかけても良い。だがそれは、自分の知っている蓮見であって、
今目の前にいるこの人ではない。緒方には、それしか答えが見つからなかった。

「聖羅……って言うんです」
「えっ」
「以前貴方と一緒に帰った夜、星の話をしましたよね。そいつの名前……聖羅って言うんです。
それが本名なのかどうかも、判らないんですがね。その聖羅が俺に、僕たちは恋人同士だよね……って言ったんです。
その時俺は、違うと答えました。まだ、毛も生えそろっていないようなガキを相手に、虐待紛いの事をしていながら、
ほんと酷い話ですよね。でも、あの頃あいつに答えられなかった沢山の答え。今なら全部答えられます。
お前が好きだ、俺達は恋人同士だよ。一生お前だけを大切にしたい。はっきりそう言ってやれます。
だから、俺の心は聖羅の為にとっておきたいんです。一生逢えないかも知れないけど……でも、いつか逢えたら。
あの青く澄んだ瞳を真っ直ぐに見られるように……誰にも渡したくないんです」

「彼を、愛していると言うのですか。それならあの日、どうして私を抱いたのですか」
「俺は、蓮見課長の事が好きでした。始めは変な奴と思い、正直鬱陶しいとも思いました。けど、一緒にいると楽しくて。
課長の事が頭から離れなくなって、そして気がついたら、いつも課長と聖羅と重ねていました。
あいつも今頃、課長みたいな大人になっているのかな、なんて思ったりして。
だから正直言うと、俺は聖羅が好きなのか、課長が好きなのか、俺にもよく判らなくなっていました。
それでも俺は、確かに課長の事が好きだったんです。だから、俺には今の貴方を抱くことが出来ないのです。
貴方を抱いたら、聖羅を裏切り蓮見課長を裏切ることになる。そんな気がするんです」
それは緒方の本心でもあり、同時に精一杯の痩せ我慢でもあった。だからそれを無駄にしない為にも…今が引き際。
そう決心し暇を告げようとした時、一瞬早く蓮見が別れの言葉を口にした。

「ありがとう、緒方さん。私は、もう二度と貴方に会うことも無いと思いますが、今日貴方に会えてとても嬉しかった。
本当に……良かった。来て下さってありがとう」
「いえ…俺の方こそ会えて良かったです。貴方もいつか、大好きな人と幸せになって下さい。
あとむしのいい話ですが、俺の好きだった課長に、最後の別れをさせてください」
緒方はそう言うと繋いだ蓮見の手を手繰り寄せ、その身体をそっと抱きしめた。
そして、唇に触れるだけのキスを残すと、後も振り返らず静かに部屋を出て行った。









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