10.蒼天のオリオン

真実の焦れ


(この章には、一部社会通念から逸脱した内容が描かれています。あくまでも作り事としてご理解頂きたいと思います。)



蓮見とて、今まで幾人もの男たちに抱かれたこのベッドで緒方に抱かれたい。そんな事は思ってもいなかった。
それでももしかしたら、そんな思いが無かった訳でもなかった。だから正直、それならそれでも構わない。
もう二度と会うことも無いのだから、最後にもう一度だけ……そんな思いもあって誘うような仕種もした。
だが緒方の態度は今までの蓮見に対するものとは違い、その瞳には哀れみの色さえ見え隠れしていたようにも思えた。
緒方が、もし抱いてくれたら自分はどうしたかったのだろう。全てを打ち明け想いを告げたのだろうか。
何もかも捨てて一緒に逃げて欲しい。そう言えたのだろうか。それとも……。

想いは乱れ、灯りを落とした仄暗い部屋の中で蓮見は、まだほんの少しだけ残っている緒方の温もりを探すように、
緒方の腰掛けていた椅子にそっと手を乗せた。
なのに、その手に落ちた雫が指の間をぬって椅子を濡らし、淡く頼りないほどの温もりを消し去っていく。
そして、今でもはっきりと覚えている初めて触れた緒方の手の温もりまでも消えてしまったようで……ただ悲しかった。

(緒方さん。僕は貴方だけを想って生きてきたのですよ。諒ちゃんにもう一度……そう思わなければ、生きて来られなかったから。
貴方は、優しかったから。僕を人間として見てくれたのは緒方さんだけだったから。
あの冬の日の夜、僕が公園の水道で身体を洗っていたら、貴方は黙って僕の手を引いて自分の家に連れ帰り、
「風呂なんかいつだって入れてやるから、公園であんなことするな」 そう言ってお風呂に入れてくれた。
僕はあの時、緒方さんの家の浴室で始めて泣いた。悲しいとか惨めだとか、そんな事ではなく……貴方の優しさに泣いたんです。

本当は、僕のさせられていた事を薄々知っていたのに、何も聞かないで、何も言わないで僕の汚い身体を抱いてくれた。
「それでお前の気が済むなら、いつでも俺に言え」 僕を抱きしめてそう言ってくれた。
僕はね、緒方さん。貴方に抱かれると、自分の汚れた身体が少しだけ綺麗になるような気がしたのです。
だから……あの日から緒方さんは、僕が生きて行くためにどうして必要な人になった。
それなのに僕は父に引き取られ、貴方と会えなくなった。貴方がいないのに僕は益々汚れて……変わってしまった。
でも、最後に貴方に会えて本当に嬉しかった。そして僕を……聖羅を愛してくれてありがとう。
緒方さんはね……僕が初めて好きになった人なんですよ。
あの冬の日からずっと、これから先もずっと。僕は、貴方のものだから……諒ちゃんだけのものだから)

見上げた夜空は星の一つもない真っ暗な闇に満ちて、瞳の青さえ黒く塗りつぶす。
その闇の中で、蓮見は自分の人生を変えた父の言葉を思い出す。
「空に瞬く星も、煌々と輝く月も……あの空だから綺麗なのだよ。
深い、深い青、黒に近い青だから、月も星も……宝石も美しく輝く」 そう言った父の言葉を。

(どうして貴方はその言葉を兄さんに言ってやらなかったのですか……お父さん。
僕の蒼い瞳など、貴方の精魂こめた宝石の一つも際立たせる事が出来ないと。
兄さんの瞳だけが父さんの作品を輝かせると。愛していたのは兄さんだと、どうして言ってやらなかったのですか。
兄さんの瞳は、父さんと同じ夜空の蒼。僕の瞳など何の意味も価値も無かったのに僕の蒼に執着した。
愛していたのは兄さんで、僕は兄さんへの貢ぎ物にしか過ぎないのに、兄さんの前で僕が大切なふりをした。
貴方は、自分の持つ全てを兄さんに与えようとして、僕に全てを与えた。そうですよね……お父さん。
僕は、貴方が僕にした仕打ちよりも兄さんに口を噤んだ事を恨みます)



父親のハロルドは何を思ったのか、少年だった蓮見の中に真珠の殻を植え付けた。
だがあろう事かその殻は、あこやの中で育つ何十倍もの速さで育ち始め……蓮見が快感にその身を震わせる毎に、
まるで男たちの精を糧としたかのように美しい螺鈿の光沢をもった珠になった。
人の肉の中で育った東洋の真珠は、好事家やバイヤーに宿主ごと取引され会社に潤いを齎した。

その中でも特に、イタリアで大きな宝石商を営むウルバーノ・ガスペリは取引相手としては最高の相手だった。
原石の眠る山を幾つか所有していた彼は、根っからの少年嗜好の性癖で何人もの少年達を愛人として抱えていた。
その少年達が成長すると何処へ行き、どうなるのかまでは解らなかったが、
彼の周りには、いつも十歳から十三、四歳位の少年が時折入れ代わりながら付従っていた。
そして彼は、自分の愛人達を美しい宝石で飾ることを好んだ。その身体に付けられた鎖や、煌く石は、
愛人達に与える報酬であり……愛情の証であり……彼の所有物の証でもあった。

父親は当然のように、十二歳に満たなかった蓮見をウルバーノに差し出すことで取引を申し出た。
そして蓮見は三日間ウルバーノの寝室に侍らされ。解放された時蓮見のまだ成長しきっていないペニスに、
エンゲージリング宛のリングが填められていた。その事からウルバーノが蓮見を気に入ったのが判ったのか、
父親は満足そうな笑みを浮かべ蓮見を懐抱した。事実父親の予想どおり、
ウルバーノは蓮見を自分の愛人にと望み、その代償として最良の原石を父に回すと申し入れた。
それに対し父親は、ウルバーノの興味は蓮見が成長すれば失せてしまうだろう……そんなふうに考えたのか、
愛人として預ける事は出来ないが、石の買い付けに赴く際には必ず同行させる。そんな約束の下で契約を取り付けた。

それからは、ウルバーノの元へ出向く時は必ず蓮見も同行し、父親はホテルに蓮見だけが彼の家に滞在するようになった。
だがそれだけでは足りなかったのか、ウルバーノのほうから蓮見の住むブロンクスまで会いに来ることも度々で。
その度に蓮見の身体には小さな針の穴が増えては消え、消えては又増えていった。
耳に、乳首に……そしてペニスに。やがてアナルに至る道筋にまで、彼の手で最高級の石がいくつも付けられた。
ウルバーノは、深く繋がったまま其処に針を刺すのが愛の行為の極致だと言い。
彼のものを受け入れながら痛みと快感に震える蓮見の開いた脚の間で煌き揺れる輝きが、
愛の深さだと……愛の証だと詠うように言った。

やがて、蓮見が少年の域を過ぎ二十歳になろうとしても、ウルバーノは父親の予想を裏切り蓮見を手放す気配も見せず、
まるで蓮見にのめり込む様にして、自分の身体にも整形を施すようになった。
それは、少年しか愛せなかったウルバーノが、自分でも気づかぬうちに蓮見を愛し初めていた証なのかも知れない。
その証拠に、ウルバーノは前回蓮見がイタリアに行った時……イタリアに来て生涯自分の側に居て欲しい……と。
プロポーズとも思えるような言葉を口にした。その時蓮見は「父に相談してみます」 そう言って返事を濁したが、
父親の亡くなった今、態々来日するという事は蓮見を一緒に連れて帰るつもりでいるのだろう。
そして片岡は、当然その事を知っていながら、蓮見をウルバーノの元に行かせようとしている。
蓮見にはそんなふうに思えてならなかった。

今まで何一つ逆らう事無く父や兄に言われるまま汚辱に塗れ生きてきた。
だが、たった一つの願いが叶い、それ以上の望みは叶わないと判った今、自分に許される最後の自由な道。
それを決行する時が来たのかも知れない。だから 「兄さん……今までごめんね」
蓮見は小さく呟くと、寂しそうな……それなのに何処か清々しい笑みを浮かべた。



週の始めはいつも気分が重い。だが今朝はそれが更に酷く、胸に抱えた澱で自分から腐臭が漂うような気がした。
その腐臭を逃がそうと車の窓を開けると、片岡はどんよりと湿って重い空気を肺一杯に吸い込み……大きく吐き出した。
蓮見がウルバーノの元へ行くのを嫌がっているのは、長年側にいる片岡には薄々判っていた事だった。
自分に整形まで施して、親子ほど年の違う蓮見に本気で執心している男の姿は、見ていると哀れに思えるほどだ。
だからこそ蓮見は、自分がそれに流されてしまうのが怖いのだろう……片岡はそんなふうに思っていた。
蓮見は、弟は優しいから……どんな相手も拒めない。そういうふうに仕込んだと言うのもあるが、
相手を傷つけるより自分が傷つくことを選ぶ。そんな優しい人間だから、人の悪意からも逃げ出す事が出来無い。

それが判っていて、自分はあいつをどうしたいのか。憎んで、苦しめて……それを糧としたいのか。
身の内に澱んだ澱がやがて自分を押しつぶし、自分が自分で無くなっても。それでも憎み続けるのか。
片岡は奇妙に歪んだ笑いを浮かべると、一杯にアクセルを踏み込んだ。

家の側まで近づくと、門の前には既に蓮見が小さなバッグを手にポツンと立っているのが見えた。
その前で車を止めて中からロックを外すと、ドアを開けて乗り込む蓮見の纏った空気が冷やりと車中の温度を下げる。
その事から、蓮見が大分前から此処で待っていたのだと想像できた。
「大分待ったようですね。そんなに待ちどうしかったのですか」
心とは裏腹に勝手に口を付いて出る言葉に嫌悪しながら、片岡は何気ない素振りで車をスタートさせる。
するとどういう訳か、蓮見がクスッと笑みを零し、
「そうですね……眠れないほど」
そう言いながら片岡に向けた瞳は、今日の空とは正反対の真っ青な空の色をしていた。

「外したのですか……コンタクト」
「はい、もう必要ありませんから。代わりに彼に頂いた物を身に付けて来ました」
「そうですか。あの男の元に行くことを決めたのですか」
「ええ、もう戻れないかも知れませんね。ですから後の事は宜しくお願いします」
「判りました。これでわが社も磐石という事ですね。それとも、もう用が無いとばかり取引を切られてしまうのかな」
「さぁ……。でも、貴方なら大丈夫でしょう」
この世でたった二人きりの肉親である兄と弟が、互いに通じる言葉も持たず先へと続く言葉も持たない。
ただ沈黙の時間だけが二人の思いを千千に惑わせ、乱し、澱む。

窓の外には厚い雲に覆われた空が迫り、薄汚れた屋根や壁を呑み込んで重苦しく過去へと押し流していく。
そんな景色をこれが見納め……そんな様子で外に顔を向けていた蓮見が、向かっている先が違う事に気付いたのか、
「フェリーではないのですか」 ぽつりと聞いた。
「はい、フェリーですと出航時間がありますから……少しでも速い方が良いかと思い高速艇を用意しました。
大丈夫です、私がきちんと別荘まで送りますから安心なさって下さい」
片岡が前を向いたまま、何時ものように秘書さながらの口調で言うと、
「最後の最後まで準備万端という訳ですね。でも、態々送って下さる必要はありません。別に逃げたりしませんから。
たとえ逃げたところで……僕にはもう、行くところなど無いのですからね。安心して下さい」
言っている言葉の重さとは反対にその声は明るく……片岡には、それが蓮見の決心の固さのように聞こえた。

「そうですか、それなら安心しました」
「最後と言えば、僕たちは兄弟のはずなのに、今まで一度もそれらしい会話を交わしたことが無かったですね。
何故でしょうね、少し変だと思いません? でも貴方にとっては考えるに値しない事だったのかな」
蓮見のその言葉に片岡は少しだけ眉を顰めた。
蓮見がなぜ今になって、そんな事を言い出したのか解らないというのもあったが、片岡にとって蓮見の……弟の存在は、
心の中に潜むジレンマその物に他ならなかった。だから、自分の心の蟠りを押し込め、抑揚の無い声で言う。
「兄弟とは思っていませんから。貴方はボスで、私はあなたに従う部下ですから」
すると蓮見が微かなため息と共に半信半疑の表情で聞いた。
「……本当に、そう思っているのですか」
「もちろんです……それが先代社長の意志ですから」
言いながら片岡は、自分の口から出る言葉こそが心の中の真実。そう自分に言い聞かせた。


ハロルドは自分の死期が間近にせまっていると知った時、片岡だけを先にブロンクスに呼びよせた。
そして片岡の手を握り、蓮見に全てを譲り後継者とする……と言い。片岡には蓮見の後見人として蓮見を守り、
蓮見と会社を支えるようにと告げた。その一瞬、片岡の頭の中は真っ白になった。
長兄の自分には何一つ残さず、父親の愛を奪い母親を奪った憎い弟を一生支えて生きろと……そう言うのか。
それでもたった一言 「お前を、愛していたよ」 それだけで救われたのに、それすらも無く。
そのあまりの仕打ちに心まで凍りついたような気がし、今直ぐその口を塞いでやりたいとも思った。
それなのに父の言葉に逆らう事も出来ず……全てを捨てて新しい道を選ぶ事も出来ず。
厭悪の暗渠を抱えてなお此処にいる自分の心の内が、自分自身でも理解出来なかった。

「貴方にとって、先代社長は全てなのですね。でも……あの人は本当に酷い人です。
自分に嘘を吐き、周りの人間を欺いて、一番大切なものを歪め……不幸にしたまま逝ってしまった」
やはり外に目を向けたまま蓮見が言い。そして片岡もまた、前を見つめたまま言葉を紡ぎ……心で唱える。
「恨んでいるのですか。あれほど愛されていながら、まだ足りないと。もっと愛されたかった……そう言うのですか」
(一欠けらの愛情も残してもらえなかった私に比べ、お前の受けた愛は。だから私はお前に嫉妬し、お前を憎む)
そんな片岡の心を知ってか知らないでか、蓮見は意外にも淡々とした声で意外な事を言い出した。

「兄さん、貴方はあの人の本心を知らない。 いえ、知ろうとしないだけです。
貴方は、父さんに抱きしめられた事が有りますか?」
唐突とも思えるその問いかけに、片岡は戸惑いを覚えながらも頭の中に幸せだった幼い頃の光景を思い浮かべだ。
だがそれも一瞬の事で、自分からそれを振り払うように僅かに息を漏らし……今度は毅然と答えた。
「……。そんな昔の事は、もう忘れてしまいました」 すると蓮見は。
「忘れてしまったという事は、過去にはあったという事ですね。そうですか……それって幸せな記憶ですよね。
僕はね兄さん、母にも父さんにも抱しめてもらった事など、ただの一度もないのです」
そう言うと小さな笑みを浮かべ……真っ青な瞳を片岡に向けた。

そんな筈はない。いつも父の側にいて、父の愛情を一身に受けていたはずなのに。誰より大切にされていた筈なのに。
なぜ今になってそんな事を言うのか。片岡にとって蓮見の言葉は自分の思惑から外れた事ばかりで、
一体何を言おうとしているのか全く解らなかった。
「冗談を……あれほど可愛がられていて、そんな事信じませんよ」
「でも、本当なのですよ。あの人は一度も僕を抱きしめてはくれなかった。頭を撫で、手を繋いでも……それだけで、
父親として抱いてはくれなかった。僕は、あの人に愛されていた訳ではないのですよ。
私の母は、あの人に愛されていると思った事など一度も無い。お前を産む為に利用されただけだ……いつもそう言いました。
だから母は僕が憎かったのかも知れません。あの人が愛したのは、妻とその妻が産んだ子供。その二人だけなのです」

「そんな話は、信じられませんね。確かに幼い頃は、父に愛されていると思っていました。
でも何時の頃からか、父は頻繁に日本に行くようになり、それは日本に愛する人ができたからだと判りました。
そして貴方が私と母の前に現れた。父の口癖だった真珠の肌と黒髪、それに青い瞳を持った貴方が。
父の愛したものを全て備えた子供に、私と母は父を奪われたのです。だから、貴方に憎しみ以外の感情は持てないのですよ」
自分に対する刷り込みのように、繰り返し思い続けてきた苦い思いを言葉にすると、
それが間違っていないのだとやっと安心する。だが蓮見は、またもや片岡を混乱に陥れるような事を口にした。

「あの人が、自分の作品をどれほど愛していたか、知っていますか」
「勿論知っていますよ。幼い時から、充分過ぎるほど見てきましたからね。貴方に問われるまでもありません」
「それなら、あれらの作品が僕の瞳の中で輝くかどうか…判りますよね。悲しいけれど決して輝きはしない。
あれを輝かせ、美しく際立たせるのは夜空だけなのです。兄さん、貴方の瞳の中にあってより美しく輝くのですよ。
父さんは、その事をよく判っていた……だから愛していた。自分の作り上げたものを輝かせる瞳を。
僕などではない、兄さんを愛していたのですよ」

「嘘だ! そんな事はお前のいい加減な作り話だ」
「嘘ではありません。父さんは、兄さんに自分の全てと、兄さんの思い通りに動き従う手足を残してやりたかった。
その為に母に僕を産ませた。けど……遺伝学的には産まれるはずがないのに、僕はこんな瞳で産まれて来た。
だから父さんは、僕を商品に変えて今の地位を与えた。僕が兄さんの手の中から逃げられないようにするために。
僕は、父さんに愛されていると思ったことなど一度も無いのです。むしろ憎まれていた……そんな気がします。
それは多分、この目のせいでしょう。僕もね、小さい頃から母にまで疎まれた自分の目が大嫌いでした。
でも、ある人と初めて会った時、その人が言ってくれたのです。

「お前、目の色変だな。でも、すっげぇ綺麗な色だ」 って。
その言葉で大嫌いだった自分の瞳が、僕の唯一大切なものに変わったのです。
兄さんの瞳は、父さんと同じ夜空の色。月や星を……父さんの宝石達を一番美しく見せてくれる。
僕は、安らぎを与えてくれる夜空の色をした兄さんの瞳が羨ましくて……とても好きだったんですよ」
「私はそんな戯言など信じない。お前が私を恨んで……私を惑わそうとして嘘を言っているのだ」

「兄さんが信じても信じなくてもそれが事実ですよ。僕は、もう二度と兄さんにも会うことが出来なくなる。
だから、最後に本当の事を話しておきたかったのです。兄さんは、誰より愛されていた。
父さんが伝えなかったその事を、父さんに代わって伝えたかった」
蓮見はそう言い残して一人でボートに乗った。
片岡が一緒に島まで行くと言うのを頑なに拒み笑顔で手を振る。それは、たった一人の兄に向けた別れの笑顔。
その真蒼な瞳の中で、灰色の空と海は何処までも青い空と海に変わった。



やがて蓮見を乗せたボートが徐々に小さくなり……視界から消え去っても、片岡はその場を立ち去る事も出来ず、
ただ立ち尽くしたままボートの進んだ先を見つめていた。
胸を抉る嫌な気分は蓮見の残した言葉のせいなのか。それとも、最後に見せたあの笑顔のせいか。
二度と会う事も無いだろうたった一人の弟が残したものは、片岡の脚をその場に縫い止めて。
其処から一歩も動く事が出来なかった。

どうして、あいつがあんな事を。父のした事を恨み私を憎んで、最後に私を疑心暗鬼に陥れたつもりなのか……と疑い。
私が父に愛されていたなんて、あんな言葉など信じない……と否定する。それなら父は何のためにお前を側に。
そして私はなぜ父に遠ざけられた。心を蝕んで止まない疑問と妬み、それに犯され腐蝕する自分。
海はただ灰色に深く灰色の空へと続き、全てが灰色に塗りつぶされる世界で、迷い込んだのは闇夜の迷路。
光も射さなければ出口も無い。たった一つの真実は既にこの世には亡き人の心にあって、今は知る由も無かった。
だから、混乱する頭で尚も考える。あいつが真実か、それとも私か……。

父はあいつを含めた全てを私に残したかった。あいつの言ったその言葉が本当だとしたら。
あいつは父の残した全てを詰め込んだ箱。そしてその時片岡は、初めて蓮見が眼の前に表れた日の夜の事を思い出した。
「リオン。弟は……あれはお前のものだ。だから、あれを大切にしなさい」 忘れていた父の言葉が蘇る。
あの言葉は、あいつを守れという事ではなかったのか。私があれの持ち主だと……そういう事なのか。
もしそうだとしたら、父も私も鬼畜にも劣る救いようのない人間という事になる。そんな事はあり得……ない。
だがどれほど考えたところで一度揺らいだ心は真実を見出す目を隠し、信念さえも揺るがせた。
そして揺らいだ信念の狭間から、見たくも無い認めたくも無い真実が顔を覗かせる。

アル.セイラ……私のたった一人の弟。お前は私が何も知らないと言った。ならばお前は知っているのか。
快楽の極みに達したお前の青い瞳が美しいアメジストに変る事を。そして、私がそれを目にした時、
妬みとか憎しみでは無く、自分の魂がその紫の瞳に残さず持って行かれたような気がした事を。
それからはお前を抱く全ての男が憎くて、誰にでも身を任すお前が憎くて…私がどれほど父を恨み憎んだか。
他の男に抱かれるお前をどんな思いで送り出したか……お前は知っているのか。
お前の青い瞳が父を狂わせたのだとしたら、私はお前のアメジストアイに焦れ……私の棺に閉じ込めたいと願った。
そんなことも知らないくせに、お前は、憎しみより重い後悔を私に背負えと……そう言いたいのか。
心の吐き出す澱は行き場も無く…雨でもないのに頬が濡れる。
それでも片岡は、ただ呆然と其処に立ち尽くしたまま動こうとしなかった。









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