08.蒼天のオリオン

痛み


それから三十分ほどすると玄関でカチッという音がし……外の冷たい空気が流れ込んできた。そしてそれと同時に、
「緒方さん…どうですか。二日酔いは大丈夫ですか?」
声が聞こえ、手に弁当の入った袋を下げた石田が姿を見せた。だがその顔を見た途端、緒方は声を出すより先に息を呑んだ。
酷く青ざめた顔にうっすらと汗を浮かべ…そのうえ幾分腰を屈めている石田の姿はとても尋常とは思えず。
「石田! お前、顔が真っ青だぞ! 大丈夫か」
緒方が思わず怒鳴るように言うと、石田は僅かに笑みを浮かべた。そして、
「えぇ、なんとか。 あ、これ弁当です」
そう言いながら緒方に袋を差し出すが、その手は小さく震えて今にも落してしまいそうな程頼りなかった。

だから緒方は、それをもぎ取るようにして側のテーブルの上に置くと、半分膝を折っているような石田の身体を支えた。そして、
「ちょっと横になった方が良さそうだな」
言いながら一歩踏み出すと、石田は辛そうに顔を歪め足を出すのを躊躇った。
その様子から、石田が歩くのも侭ならないのだと気付きいた緒方は、
黙って石田を抱き上げるとそのまま隣の部屋まで運ぶ。そしてベッドの上にそっと降ろすと、石田は横になったまま小さな声で、
「すいません……ちょっと、気が緩んだみたいで」 如何にも情けない…そんな笑みを浮かべた。

「ばか! すいませんなんて言うな。お前がこんな事になったのは俺のせいだろう。本当に悪かったと思っている」
緒方がそう言って頭を下げると、石田は少し悲しそうな目をし……顔を天井に向けた。
「無理をしないで、休めば良かったんですよね。でも、まさかこんなになるとは思ってもいなくて。
迷惑掛けちゃいましたね……本当にすみません」
石田はしきりにすみません…を口にするが、緒方にはそれが自分の愚かさを痛感する言葉に聞こえてならなかった。
「それは俺の台詞だ。俺のした事はまるっきり強姦だ。詫びて済むような事じゃない……頼むからそういう事言うなよ」
呟くように言うと、石田の額にそっと贖罪を込めた手を乗せた。額は思っていたよりひんやりとして、
熱が出ていない事に少しだけホッとする。すると石田がゆっくりと緒方に顔を向け、はっきりとした声と口調で言った。
「緒方さん、それ違いますよ。僕、前に言ったじゃないですか、誘ってみてください……って。だから、あれは合意ですよ。
けど…受けって結構きついんですね。もう体中痛くてバキバキですよ。それでも嬉しかったんですよ……僕は。
緒方さんの手……温かいですね」
言いながら石田は瞼を閉じ。その顔に浮かぶ笑みが余りにもか細げで頼りなく見えて……緒方は益々自己嫌悪に陥った。

「腹…減っているか?」 緒方がポツリと聞くと。
「いえ、今は食べられそうにないんで、緒方さんだけ先に」 石田は、すまなそうに言い。
「そうか。実は俺もちょっとな。それじゃ、少し眠るか? そうすれば幾らかは身体が楽になるだろう」
自分で意識した訳ではなかったが、緒方の声がとても優しい響きに聞こえ。
「はい、それじゃ少し……」 石田の声が、少しだけ甘えを含んでいるようにも聞こえた。

背広を脱がせて毛布ごと抱きしめてやると、石田は安心したように緒方の胸の中で目を閉じた。
そして直ぐに寝息が聞こえ始め……石田の規則正しい呼吸と、少しだけ色を戻したように見える寝顔が、
緒方の中の罪悪感を僅かながら消してくれるような気がした。
元々憎からず思っていた相手でもあり、きっかけはどうであれ肌を重ねたと思えば…可愛いと思うのも無理のない事でもあった。
こうしてこの先も、こいつを抱きしめて生きていけたら……この穏やかな温もりが安らぎを与えてくれるのだろうか。
あの全てが融けるほどの熱さを忘れさせてくれるのだろうか……消し去ってくれるのだろうか。
緒方は石田を抱きしめたまま、そんな事を思いながら見えもしない明日を見続けていた。


それからも石田とは何度か一緒に飲む機会はあったが、ベッドを共にする事は無かった。
石田は緒方に何か言うでもなく以前と変わらぬ態度で接し、それが緒方には有り難くもあり心苦しくもあった。
だから、そんな石田に甘えた訳ではないが、あれ以来頭の片隅に宿っている明日への手探りを口にする。
「なぁ、石田、もしお前が俺でも良いって言ってくれるなら……俺は…」
すると石田が、まるで緒方にその先を言わせまいとするかのように強い口調で遮った。
「緒方さんでも……じゃなくて、緒方さんじゃないと……。もし僕がそう言ったらどうしますか?
それは緒方さんにとっては、枷を填められたように重いでしょう? だから、言いませんよ。たとえ口が裂けてもね」
意外なほど迷いの無い石田の言葉に緒方はドキッとしたが、それでも揺れ動く自分の気持ちに目を瞑って続ける。

「重いなんて、俺はそんな事思ってないよ。正直俺は、お前とは良い友人でいたい。ずっとそう思っていた。
それなのに、俺は自分でそれを壊すような事をしてしまった。だからという訳ではないが、お前との付き合いを、
今までとは違う形として真剣に考えても良いかも知れない……そう思った。卑怯なようだが、どっちも俺の正直な気持ちなんだ」
そう言いながら、やはりなんとなく後ろめたさはあって。それが判ったのか、石田は緒方の喉元に刃を突きつけるように、
「それであの人を、蓮見さんへの気持ちを吹っ切れるんですか? 忘れられるんですか?
此れから先、僕だけを見て僕だけを愛してくれる……そう言うんですか。僕は、誰かの代わりでいられるほど強くはないし、
そんな疑似恋愛ごっこは願い下げです。それなら、その場限りの遊び相手でいた方が良いですよ」
そう言うと、無理に作ったような笑みを浮かべた。

今までの付き合いから、石田が遊びで男と付き合うような人間で無い事は十分すぎるほど判っていた。
それなのに、そんな言葉を口にさせてしまった。
本当に新しい関係を望むのなら、どんなに苦しくても蓮見への想いを断ち切ってから言わなければならなかったのに、
透かしたら見えるような鬱屈を澱ませたまま、薄っぺらな言葉で又も石田を傷つけようとした。
石田がどんな思いで今の言葉を口にしたのか。それを考えると、今更ながら身勝手な自分が情けなくてならなかった。
「すまん…ほんと俺って、身勝手でどうしようもない奴だな。お前に逃げ込んで楽になろうなんて…最低な野郎だ。
自分がこんなにも情けない奴だったなんて、我ながら呆れちまうよ。本当にすまない」
緒方はそう言って石田に向かって少し大仰に頭をさげ、下げた頭の下で自分の愚かさに唇を噛み締めた。

「そんな事無いですよ。僕は、子供や犬猫に向ける緒方さんの顔が本当の緒方さんの顔だって知っていますから。
それに誰だって辛い事からは逃げたくなります。でも、今俺に逃げたら、緒方さんは余計に辛くなるだけですよ。
俺じゃ緒方さんを幸せに出来ない。俺も幸せにはなれない。俺はそれが判っているから先に逃げ出すんです。
けど、見ていてください。絶対緒方さんより、いい奴捕まえますから。
俺じゃなくちゃ駄目だって。俺だけだって……そう言ってくれる人を捕まえてみせますよ」
石田はそう言いながら目を潤ませ、本当に綺麗な笑顔で笑った。

石田は自分の想いを捨て……緒方の為に元の関係に戻るという道を選び。
緒方は、そんな石田に適わないと思いながら、その好意に報いる為に、もう一度歩き出そう……そう決心した。
そして、世間ではそろそろ正月気分も抜けきった一月中旬、緒方は再び会社に戻る事に決めた。
正直、始めは有休を全部使って自堕落に遊び惚けていよう。その結果、会社を首になったとしても構わない。
そう思っていたのだが、なけなしの貯金を叩いてアパートを借りてしまったせいで預金残高は限りなくゼロに近付いていた。
そのくらいだから、旅行に行くなど夢のまた夢のような話で、現実は一人部屋に閉じこもっているのが関の山。
そして、そのうち食費にも事欠くだろう事も判っていた。それに、石田との事が気持ちの切り替えになったのか、
部屋に閉じこもっているのが何となく苦痛になりだし……有給を半分ほど使ったところで、怠惰に終止符を打つ事に決めた。


大凡ひと月ぶりになろうか、緒方が会社に出てくると、緒方の顔を見るなり事務の女の子が立ち上がり、
それから緒方を引っ張るようにして給湯室へ向かった。そして、自分のカップと予備のカップにお茶を入れながら、
「蓮見さんから何度も電話があったけど…緒方さん、連絡しなくて良いの?」
声を潜めるようにして言った。もしかしたら…ほんの少しだけそんな気持ちも有って。
緒方は、蓮見から電話があっても自分は長期休暇で連絡が取れない。そう伝えてくれるよう、彼女に頼んでおいたのだが。
今、実際に連絡があったと聞くと、嬉しいような腹立たしいような、なんとも複雑な思いがして、
自分の中で蓮見への未練が未だに燻ぶっているのを実感した。

「そう、もしかすると又連絡してくるかも知れないけど、あの人とはもう関わりたくないからさ。今まで通りに頼むよ。
もし面倒くさかったら、緒方は会社を辞めた…そう言ってくれても良いからさ」
緒方が笑って言うと、女の子は困ったような、怒ったような…微妙な表情を浮かべ、
「それは構わないけど。なんか…蓮見さん、可哀想な気がするよ。だって、すごく必死な感じでさ。
緒方さんと連絡が取れないって、今にも泣きそうな声だった。何があったのか知らないけどさ、好きな人は泣かしちゃだめだよ」
緒方より年下の彼女が、まるで人生の先輩のような口調で言い、緒方は苦笑いでそれに答えた。

「おいおい、それじゃ俺と課長がなんかあるみたいじゃないか。ば〜か、そんなんじゃないよ。
ただあの人は……俺なんかが気楽に会ったり話したり出来ない。そんな遠いところに行ってしまった。それだけだよ」
「そうなんだ。蓮見課長ってさ、何処と無くおっとりしていて育ちが良さそう…みたいだったもんね。
そうか、やはりお金持ちの御曹司だったのか。でも、優しくて良い人だったのにね」
彼女は此処にいた時の蓮見を思い出したのか、しんみりとした声でそんな事を言った。
確かに御曹司どころかA.Hの社長なのだから、お金持ちに違いはない。それに以前と少しも変わらず優しい。
だが、どんなに優しくて良い人に見えても……それが真実とは限らない。緒方は心の中で呟くと、
「俺、係長に挨拶まだだからさ。お茶、折角入れてくれたのに悪いな」 そう言うと、彼女に手を上げその場を立ち去った。

緒方はA.Hから戻った次の日、辞表を手に係長の寺井の前に立つと黙ってそれを差し出した。その時寺井は、
「そう言えば暫く有給取っていなかったな。丁度いい機会だから、それを使って暫くのんびりしなさい。
その後で、どうしても考えが変わらないと言うなら、その時はこれを正式に受理する事にして…それまで預かっておこう」
そう言って緒方の出した辞表を机の引き出しに入れた。だから会社に戻ろうと決めた今、
真っ先に辞表を保留にしてくれた寺井に礼を言いたかった。そして、ひと月前と同じように寺井の前に立つと、
「係長、長い間ご迷惑をおかけしましたが、また係長の下で働かせて下さい。お願いします」
そう言って頭を下げた。すると寺井は、やれやれといった顔で、
「ひと月かかったか。けどまぁ…良く戻ったな。ただ、その間皆にえらい迷惑をかけた事だけは忘れるなよ」
言いながら、引き出しから以前緒方の出した辞表を取り出すとそれを緒方に返した。

久しぶりに…本当に暫く振りで顧客回りをすると。
「久しぶりだね。偉くなって外回りはしなくなったのかと思っていたよ」
「出向したって聞いたけど、気のせいか貫禄付いたんじゃないの」
「あら、また緒方さんが来てくれるの? 嬉しいわ、やっぱり緒方さんじゃないとね」
「緒方さん、雰囲気変りましたね。やっぱり出向で一回り成長したのかな」
行く先々でいろんな人に好き勝手な声を掛けられ、それでもその一言がとても嬉しくて……有難いと思った。
嘗ての自分には、そんな事すら感じる気持ちもなかったのではと思う。
全てを仕事と割り切って、出来るだけ安いコストで商品を買い、どれだけ高い値段で商品を買ってもらうか。
それが一番で、それ以外無くて……人の思いや温かさなど気にもしなかった。

作る笑顔は営業用。口から出る言葉はマニュアルのような単語の羅列。そんなものに、温もりや柔らかさなど。
そう思うと、今更ながら以前の自分を恥じる今の自分がいた。
もしかしたら…俺も少し変ったのかな…とも思い。何かを機に人は変れるものかも知れない…とも思う。
それが人を愛する事だとしたら……それも終わってしまったな……と呟き。
泣きそうな声だったよ……彼女の言った言葉に。泣きたいのはこっちなのに……と呟く。
そして、鳴るはずの無い携帯を取り出すと暫くそれを見つめ、それから苦笑いを浮かべ携帯を閉じた。



その頃蓮見は、既に一月以上緒方と連絡が取れなくなった事で、一度緒方の会社に行こうかと思いながらも、
片岡が一体なにをしたのか。緒方が何処まで知ってしまったのか……それが不安でならなかった。
本当なら、何をさて置いても会いに行きたい。心ではそう思いながら、どんな顔をして緒方に会えば良いのか。
緒方になにをどう話せばいいのか。考えると脚が竦んでしまい、電車に乗る事も出来なかった。
そして何より緒方が携帯を解約した…その事が自分と関わりたくないという意思表示なのでは。
蓮見にはそんなふうに思えて、益々緒方との距離が遠のいていくような気がした。
そしてそんな蓮見をせせら笑うかのように、片岡がデスクの前に立つと、有無を言わせぬ口調で告げた。

「週末には○×島に行って頂きますから、そのおつもりで」
「○×島……別荘にですか? まさか」
言った途端蓮見の顔が僅かに強張った。だが片岡は、蓮見の動揺など関係ないとばかりに平然とした顔で、
「はい。社長が、いつまでも向こうへ行くのを渋っておられたので、とうとう痺れを切らしたのでしょう。
自分の方からamanteに会いに行く…と、連絡がありました」
そう言うとうっすら笑みを浮かべだ。そしてその笑みが、覚えのある痛みを引き起こし……蓮見は思わず右手を耳にあて。
「嫌です! 彼には、来月僕の方から出向くと……そう伝えてあったはずです。
ですから今すぐ連絡をして、来日するのを止めさせて下さい」
ともすれば震えそうな声を必死に保ち、片岡を真っ直ぐ見つめ……言った。それなのに。

「そんな事が出来ると思いますか? あの男は、一度口にした事は絶対に覆さない。ご自分でも判っておられるでしょう」
片岡が鼻で笑うような言い方で神経を逆なでる。それでもそれに耐え…出来る限り冷静さを装って。
「それでも連絡だけはしてください。それと……今後僕の接待は全て断って下さい。二度とする気はありません」
蓮見が静かな声で言うと、片岡は上から見下げるような目をし、唇の端を片方だけ上げた。
「……。そんな事を言うとは、貴方も随分と偉くなったものですね。それではお聞きしますが、貴方に何が出来ると言うのですか。
その身体を使う以外何も出来ないくせに…我が儘を言われては困ります。
貴方は黙って、脚を開いていれば良いのです。今までそうしてきたように、これからも…それが貴方の仕事です。
土曜の昼には別荘に着くように、早朝私がお迎えに行きます…宜しいですね」

「迎えなど必要ありません。僕が何も出来ない、役立たずだと言うなら、僕を首にすれば良いでしょう。
僕は自分が望んで今の地位に居る訳ではありません。ですから、いつ辞めさせられも構わないのです。
何なら今すぐにでも、僕の方から辞職願を出しましょうか」
「随分と強気ですね。辞めてどうやって生きていくのですか? その辺の男相手に、淫売でもなさるおつもりですか?」
「そうですね、その手もありましたね。仮に貴方の言うように、この身体を売るような事になったとしても、
此処でする事よりは増しな気がします」
売り言葉に買い言葉のような蓮見の返事に、それまで上位に立っていた片岡の表情が一変し、
包み隠していたものを剥きだしたかのように、言葉遣いまでがぞんざいになった。

「お前が其処まで言うとは……やはりあの男の存在がお前を強気にしていると言うのか。
それならあの男がいなくなれば、お前は二度と私に逆らう事のない元の人形に戻るしかなくなるというのだな」
細めた目に潜むのは心の奥底にある憎悪そのもので、見え隠れするのは…多分初めてあったあの日から片岡の中に巣食い、
消える事無く蓄積されて来たもの。殺意に近い遺恨。それ故に自分を苦しめる為なら、何の躊躇いも見せず緒方に危害を加える。
事実ニューヨークにいた頃も、蓮見にしつこく付きまとっていた男がある日を境にぽったりと姿を見せなくなった。
後で聞いたところによると、その男は事故で大けがをしたうえに、会社や住んでいる地域に性犯罪者と紛う噂が広がり、
引っ越しを余儀なくされたと聞いた。だから蓮見は、そんな危難が緒方の身にも起きる……一瞬で悟った。
だからどんな事があってもそれを止めようと、それまで装っていた平静さをかなぐり捨てて片岡に懇願する。

「お願いです、彼に手を出すのだけは止めて下さい。 彼はもう、僕とも兄さんとも関係ないはずです。
ですから…彼には、緒方さんには何もしないで下さい」
「だったら、黙って別荘に行くことだな。 そして、あのド変態男の気が済むまで弄ばれてくると良い。
お前を喜ばす為だと言って、自分のペニスに細工までしたような奴が、今度はどんな方法でお前を可愛がるつもりなのか。
あんな物で責められたら、普通の男のものでは満足出来なくなるだろう。だが心配する必要はない。
仮にあいつだけ帰ったとしても、お前にはそれに見合ったものを用意してやるから、安心して可愛がってもらえ。
好きなだけ狂って楽しませてやりなさい…お前にはそれがお似合いだ」
片岡は、冷たい視線を蓮見に向けたまま勝ち誇ったように言い…蓮見は抗いきれない枷に項を垂れた。

死んだほうが増しだ。何度もそう思いながら、それでも今まで生きてきたのは……もう一度緒方に。
あの日、さよならも言えなかった大好きな人にもう一度会いたい。只その思いだけで…全てを快楽にすり替える事を選んだ。
そして、やっとその願いが叶った。自分の正体も知らないまま、それでも緒方は、自分を抱いてくれた。
それだけで、充分だったはずなのに。願いが叶ったはずなのに……人間とは本当に我が儘で悲しい生き物だと痛感した。
出来る事ならずっと側に。蓮見のままでも良いから彼の側に……側にいたいと望んでしまう。
だが、片岡がどれほど自分を憎んでいるのか、ずっと片岡の視線を受け続けて来た蓮見には、その憎しみの深さも判っていた。
そして、自分の一番大切な者を奪おうとまで思う、その元なる理由も。

兄さん…僕は貴方の大切なものを何一つとして奪った事はないんだ。
だって僕は、あの人を……父を殺したいとさえ思ったのだから。自分を殺したい……そう思った時もあるのだから。
だから、最後に残った僕の大切なたった一つのものを奪われるくらいなら、自分が消えてしまう方が良い。
もう僕の身体は、彼以外の手では快楽を生みだせない。苦痛からは、綺麗な真珠は産まれない……元には戻れないんだ。
それとね…あの人が心から愛していたのは、僕なんかじゃないんだよ。それだけは、きちんと伝えていくからね…兄さん。

蓮見が、生きることに絶望し、全てを終わらせようと密かに心を決めていた頃。
片岡もまた苦痛にも似た表情のまま、足元に広がる地上をじっと見下ろしていた。

たった一人の弟。お前は私から父を奪った。そして、母さえも奪った。そのお前が父の全てを受け継ぎ、
私から何もかも奪っておいて、今度は好きな男と一緒に居たいだと? 自由になりたいだと? ふざけるな! 
お前には一生自由など与えない。私の手の中で、飼い殺しにしてやる。それが、お前が私と母にした事への償いだ。
そう思いながら…心がきりきりと血を流す。どんなに憎んでも、胸の奥にある痛みが消えるわけではない。
それどころか、痛みが余計増すだけだと…片岡自身充分すぎるほど判っていた。
あいつには何の罪もない…むしろ可哀想な奴だとさえ思う。なのに…それでも憎まずにはいられなかった。
セイラ…あいつに…あの瞳にぴったりの名前。その名を呼ぶ事さえ厭い、一度も呼んだ事は無い。
あの瞳で生まれてこなければ…父を狂わせる事もなかっただろうと思い。自分が、これほど憎むこともなかっただろう…と思う。
地上を見下ろす自分の足元に、小さな雫がポツリと落ちても…片岡はぶれて歪む下を見つづけていた。

一人の父親が刻んだ暗くて深い深淵は、この世に二人きりの兄弟に前に進むことすら許さず。
永遠に奈落の底を見続けて、もがき苦しみながら生きろ……そう言っているように思えた。









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