07.蒼天のオリオン

計略の行方


「課長は本当にそんな事を言ったのですか」
緒方が幾分疑わしそうな口調で尋ねると、片岡は逆に至極真面目な顔で、
「はい、私と顔を合わせると、蓮見さんはいつもそんなふうに言われます。それはそれは熱心に……です。
ですから私は、貴方と蓮見さんは何か特別な関係にでもあるのかと思っていました」
「そんな事ある訳ないでしょう。課長は優しい人だから、全く違う職場で戸惑っている俺の事を心配してくれたのだと思います。
だから、俺が元の会社に戻れば……そう思って片岡さんに言ったんだと思います」

「そう言えば、此処は貴方には向いていないのでは……そんな事も言っておられましたね。
でも考えてみたら、それも少し変ですよね。緒方さんがそう言うのは解りますが、蓮見さんがそんな事を言うなんて、
どう考えてもおかしいと思いませんか? だから、彼には貴方が此処にいると都合の悪いことでも有るのかな…。
そんなふうにも、考えてしまったりもしました」
片岡の話はどんどん不穏な方向へと逸れていき。この人は何を言っているのだ。課長がそんな事を思う筈は……。
心の中で否定しても薄墨は徐々に黒さを増し、そのうち片岡の言っている言葉が独り歩きしそうになった。
だから、緒方はそれを止める為に片岡に問い返した。

「都合の悪いことって、どういう意味ですか」
「そうですね。たとえば、貴方に知られては困ること。貴方の知っている彼はほんの一部分で、実は全く別の顔を持っていた。
そんな事にでもなったら……やはり貴方が近くにいるのは困る。いつか本当の姿を知られてしまう。
そう思ってあんな事を言ったのでは……等と要らぬ事を考えてしまったのです。でも私の考えすぎですね」
「そうですよ。課長に別の顔なんて……そんな事、あるはず無いですよ」
そうは言ったものの、片岡の言葉によって蒔かれた種は緒方の心に疑いという名の根を張り芽吹こうとする。
そして、あの夜の蓮見を思い出す。確かに今まで見てきた蓮見とはどこか違うような気がしたのも事実で。
蓮見の本当の姿。その言葉が心に刺さった棘のように、シクシクとした痛みとなって消えなかった。


片岡は緒方を元の会社に戻しても良いような事を口ぶりだったが、数日後の配転でやはりそれは叶わなかったのだと判った。
それでも、営業部に配属される事になり。担当先は緒方の会社イワセに決まった。
奇妙な話だが、出向で来ていながら自分の会社が担当になったのだ。それも片岡の計らいだと思うと、
緒方は少しだけ片岡に感謝し、陸に上がっていた魚がやっと水の中に戻れた…そんな気がして嬉しかった。
そして、自分が勤めていた会社なのに、顔を出すたびに以前は気づかなかった細かなことが目新しく思えて、
流れに浸っている時には気づかない事が意外と多いものだと知った。

「緒方さん、向こうに行ったら雰囲気が変ったね。少し丸くなったんじゃない?」
以前から気さくに会話を交わす機会の多かった事務の女の子にそんな事を言われ、少しだけ驚きもしたが、
彼女も時間という距離を置いて眺める事で、自分と同じような事を感じたのだろうと思った。
「そうかな、俺は前から自分は丸いと思っていたけどな」
「何、言っているんだか、いつも尖ってピリピリしていたくせに。でも仕事は出来たけどね……その分苦情も多かった。
係長がいつも、あいつは客を怒らせないと、仕事が出来ないのか……って言っていたけど、知ってた?」
事務の女の子は、そう言ってケラケラと笑った。

言われてみれば確かにその通りで、客と悶着が多いのも緒方が一番だった。
そしてそれを宥め、賺して、穏便に収めてくれたのも係長の寺井だったのに……そんな事すら考えもしなかったような気がして。
改めて、自分はいつも誰かに支えられて仕事をしていた。その事が少しだけ解ったような気もした。
「係長、そんな事言っていたのかよ。けど、確かによく怒らせたからな。それで俺も係長に怒られて……。
考えてみたら、俺は仕事をするのに無駄な手間隙ばかり掛けて……それで挙句、係長にも迷惑を掛けていたんだな」
「そう言うことだね。でもそれが判ったって事は、緒方さんも大人になったって事なんだ」
などと、事務の女の子は可愛い顔をして一人前の事を言い。そして緒方は、それが嫌味に聞こえないのが少しだけ癪でもあった。
「ばか、俺の方がお前よりずっと年上だぞ。けど、ただ年をくっているだけじゃ、あまり大きな声で言えないか」
お互い言いたい事を言いながら、こんな屈託のない気持ちで自分の至らなさを認める事など嘗てはなかったと思う。
そう考えると、やはり自分は少しだけ変ったのかも知れない……とも思い。それは多分蓮見のおかげ…そんな気もした。

その蓮見とも、あの夜から一度も連絡しなければ会ってもいなかった。心では会いたい……と切に思いながら、
会えば今までのように顔を見るだけでは済まなくなる。それが判っていたから、これ以上会うのは…と躊躇う自分がいて。
相反する思いの間で決心すら出来ないまま半月が経ち。そして…緒方の携帯に片岡からメールが入った。


その日イワセは棚卸だったので、緒方は朝会社を出る時に今の上司である女性主任のカルネアに、
帰りは遅くなるかも知れない…と告げた。するとカルネアは、それなら今日は帰社しなくても良い…と言い。
本当なら真っ直ぐ帰れる筈だったのだが、午後三時を回った頃片岡から、遅くなっても一度戻るようにとの連絡があり。
図らずも会社に戻る羽目になってしまった。片岡が確認したい伝票など…緒方には思い当たる節もないまま電車に乗ると、
都心から一時間弱の車中は、サラリーマンの出勤と帰宅が逆になるせいか乗客も少なく、ゆっくりと座ることが出来た。
車窓から見える街の明かりが今までより煌びやかなのはクリスマスが近いせいなのだろう。
緒方はそれを眺めながら微かな振動を枕に軽く目を閉じると、明日こそは蓮見に電話をしよう……そんな事を思っていた。

会社に着いた時には、時計はもうすぐ十時になろうとしていたが、それでもいくつかの窓にはまだ灯りが点っていて。
緒方は営業部に向かう途中で今から帰ろうとしていた同僚とすれ違い、片岡の所在を確かめようと声をかけた。
すると、その若い社員は幾分困惑したような顔をして、
「片岡さんなら、確か社長のお迎えに行かれたはずだから、帰りは何時になるか判らないですよ。
もしかしたら、直帰かも知れないし…」 と、全く予想もしていなかった返事を口にした。
それならあのメールはどういう事なのか、もしかしたら日にちを間違えてしまったとか。それとも…何か。
正直、緒方には何がなんだか解らなかった。だから、

「変だな…俺、片岡さんにメールで呼び戻されたんだけど」 疑問をそのまま口にすると、その社員も、
「そうですか。でも今日はお客様がおみえになるからと言って出かけられた社長を、片岡さんが送って行ったはずです。
それで帰りも迎えに行くと言っていましたから…一体どうなっているのかな」と言って首を捻る。
「お客? すると片岡さんは社長と出かけたんですか」
「そうですよ。緒方さんはまだ日が浅いから知らないと思うけど、海外からのお客との交渉は社長が直接出向く事になっています。
特に、ジュエリー部門は殆んどそうですね。社長が頻繁に海外に行かれるのもそのせいですよ」
「そうなんだ…それじゃ、今日は帰ってこないのかな…片岡さん」
何となく心に不自然なひっかかりを感じながらも、緒方が呟くように言うと、同僚は緒方を気の毒に思ったのか。

「こんな時間まで大変ですね。でも、緒方さんを呼びだしたのなら帰ってくるつもりかも知れないですね。
一応確認の連絡を入れてみたらどうですか。案外、遅くなったからもう良いって言うかも知れませんよ」
そう言うと、自分の行こうとした先…階段から一階のロビーに目を向けた。そして、
「あっ! 社長が帰ってこられたようです。それなら片岡さんも一緒だと思いますよ。良かったですね」
その声で同僚の視線の先に目をやると…照明を落とした一階フロアーにエレベーターへと向かっていく人影が見え。
その頼りない灯りの中に、見違えようにも見違える事の無い人の姿を目に捉えた……が、それでも一瞬見間違いかと思った。
課長?  

だが自分の目が蓮見を見間違えるはずは無い。それならなぜ、蓮見がこんな時間にこの会社に。
そう思い、緒方は目を凝らし辺りを見回すが、他に人影も見当たらず。
「あ、あの……社長って……どの人……ですか」
聞いた声が上手く出てこなくて、喉に張り付いて……妙に掠れて聞こえた。
「何を、言っているんですか、今エレベーターに向かって歩いて行った人。あの方に決っているじゃないですか。
あ、そう言えば緒方さんは直接会った事が無いかも知れませんね。
社長は先代の後を継いで新しく社長に就任ばかりですが、なかなかのやり手だと聞きます。
以前からジュエリー部門は社長が担当していたらしいですが、今でもバイヤーとの交渉には社長自ら出向きます。
だから今日も、片岡さんが送り迎えしたはずです。でも、どうしたんだろう…片岡さん、一緒じゃなかったのかな」

同僚は親切に説明してくれたが、既に緒方の耳には同僚の言葉など聞こえていなかった。
頭の中では、たった今目にした蓮見の姿と、社長……の言葉がぐるぐると旋回し。
課長がA.Iの社長? だって課長は、親父さんが亡くなって。その後を継いで頑張っている……はず。
自分の主観だけがリピートする。そして、貴方の知っている蓮見さんには別の顔があって……片岡の言葉が割り込んだ。
片岡は蓮見が社長だという事を知っていながら、緒方には黙っていた。
それは多分、蓮見に口止めされていたから。そう考えると、片岡の意味ありげな表情も言葉も説明がつくような気がした。
そして、片岡の撒いた種が緒方の中で芽を出し瞬く間に成長し始める。

「緒方さん? どうしたんですか」
同僚のかけた声も耳に入らず、緒方はふらふらと入り口に向かって歩き出した。
地に足も着かないまま外に出ると、其処にはまるで緒方を待っていたかのように片岡が立っていた。
そのうっすらと笑みを浮かべた顔を睨みつけるような目で見つめると、緒方は自嘲の笑みを浮かべ。
「可笑しいか。態々俺を嘘のメールで呼びつけて此処へ戻らせたのは、あれを見せるためだったのだろう。
あんたらにとっちゃ俺は恰好の玩具で、それを躍らせて遊ぶのはさぞかし面白かったかんだろうな。
高い処から見下げるのと同じ、ただの暇つぶしだったという訳だ」
自分で言いながら、なぜか高らかに笑い出したい気分だと思った。

「緒方さんには気の毒と思いましたが、私はあの方の命令には逆らえません。
それでも、緒方さんがこれ以上社長の気まぐれに振り回されるのを見ていられなかったのです。
ですから社長には内緒で、今夜緒方さんを呼んだのです。嘘を吐いた事は謝ります、どうか許してください。
これがばれたら、私もただでは済まないでしょう。でも、どうしても緒方さんには気づいて欲しかったのです」
「…………」
「薄々判っていると思いますが、あの方は天性の淫奔なのです。
事実この会社の大きな取引は、社長がご自分の身体を餌にして結んだ契約です。
ですから、今日のようにお客様と……。頻繁に海外に出向くのも、そういう意味があっての事です。
社長の身体には、それだけの価値があるというのでしょうね。でも、やはりそれだけでは物足りないのでしょう。
時にはご自分で目を留められた男性、緒方さんのような方をみつけては、お相手をされるのです。

先代社長もあの性癖にはとても心配をされて、そのために私を社長の補佐と言う形で就けられました。
簡単に言えばお遊びの尻拭いです。でもこれ以上社長の遊びに振り回される方が増えますと、それも難しくなります。
社長は、一度お相手をされた方には急に興味をなくされるのが常ですが、相手の方はそうとも限らないものですからね。
今に大変な事になりはしないか……それが一番心配の種なのです。ですからこれ以上社長に関わらないで頂きたいのです。
それが、緒方さんのためにも社長の為にも最善の方法なのだと…どうか理解して下さい。この通りお願いします」
片岡はそう言うと、緒方に深く頭を下げた。

たとえ日本で仕事をしていようと外国人である彼等にとって、頭は常に毅然と頂上にあり決して垂れるものではない。
だが今は、いつも緒方より上にあったはずの頭が緒方の目線の下にあり。
それが片岡の言っている事を正当化しているようにも見えた。だからと言って、片岡の言葉が全て真実だとは思わないが、
あの身体の上を通り過ぎた男達の影を感じたのも事実。それでもあの嬉しそうな笑顔を信じて、あんな芝居を本気にして、
自分に笑いかける蓮見が真実……そう自分に言い聞かせてきた。そして今は……蓮見が自分を騙していた。
それだけが紛れもない事実……全ての終わり。悔しいはずなのに、なぜか怒りも湧いてこなかった。

「あんたに頼まれなくても、茶番劇はもう終わりだ。遊び足りないってなら、新しい玩具を探すんだな。
俺は二度とこっちには脚をむけないし、悪いが仕事も辞めさせてもらう」
緒方は嘯くように言うと、頭を下げ続けている片岡の横を通り抜けた。
だがその時緒方は、片岡の顔に微かな笑みが浮かんでいることに、気付きもしなかった。
ただ師走の冷たい風がやけに骨身にしみて。今年はコートでも新調するかな……そんな事を思っていた。



「どういう事なのですか! 彼が急に辞めたというのは。 いったい何があったというのですか」
高層の特権でもあるような溢れんばかりの陽光を背にしながら、その温かさとは反対に蓮見の声は冷え冷えと険しかった。
だが片岡は平然とした顔でソファーに腰を下ろしたまま長い足を組み…嘯く。
「いいえ、何もありませんよ。ただ彼の方から辞めたいと言ってきましたので…私はそれを承諾しただけですよ。
それに社長も言っておられたではありませんか、彼は此処には向かない。元の会社に戻すようにと。
それとも、抱いてもらったことで気が変られたのですか」
そんな片岡の態度に蓮見は見るからに表情を変え。小さく唇を震わせながら、それでも目はまっすぐに片岡を見つめて言った。

「いい加減にしてください! 僕の言っているのはそう言う事ではありません。話をはぐらかさないで下さい。
二三日前から、緒方さんとの連絡が一切取れなくなってしまったのです。貴方が言うように何も無かったら、
こんな事はありえません。向こうの会社にも連絡をしてみましたが、出社していないと言われました。
そんなのおかしいではないですか。貴方が、彼に何かをしたのではないのですか!」
震える唇から吐き出される声は、蓮見の心を映したかのように不安と憤りで震えた。
すると片岡が薄笑いを浮かべながら、自分の手を溢れる陽に翳し…それから徐に立ち上がると初めて蓮見に顔を向けた。

「まるで彼の事なら何でも知っている…そんな口ぶりですが、それは貴方の勘違いだと思いますよ。
彼が貴方の事を何も知らないのと同じように、貴方も彼の事を知らない…そういう可能性もあるのではないですか。
それなのに私が何かをしたと…どうして、そんなふうに思うのですか?
私にはそんな事をする理由などありません。でも貴方はあると…そう思っているのですね。
だとしたら、それはとても心外な事ですね。これほど従順に仕えているのに…まだ足りないと言うのですか」
笑みを浮かべながら、蓮見を見つめる瞳には仄暗い炎が広がっていく。そしてそれは蓮見に向けた憎しみの炎。
その憎しみから緒方まで利用したのだと……蓮見自身はっきりと解かっていた。

それでも、緒方を巻き込んだ……それが許せなくて。どうしても言わずにいられなくて。
「それほどに、僕が憎いと言う訳ですか。それなら僕を殺すなり傷つけるなりすれば済む事ではないですか。
なのに、なぜ彼を傷つけるような真似をするのですか。僕と貴方の事に彼は関係ないでしょう」
そう言いながら蓮見は、そんな事で片岡の心に巣食う闇が消える筈が無い事も解っていた。そして案の定片岡は。
「私が貴方を傷つける? そんな事出来るはずないでしょう。仮にも貴方は私のたった一人の弟ですからね。
それに、その肌に触れるあらゆるものが快楽に変ると教え込んだ……可愛い玩具なのですから。
そんな貴方を傷つけるなど、私の丹精込めた作品を壊すようなものです。大丈夫ですよ…今にその心の痛みも快楽に変ります」
歪んだ笑みを浮かべ、蓮見の身体を舐めるように見回すその目には、隠しようも無い嫌悪と怨念にも似た憎悪が潜んでいた。

「それでは貴方は……貴方の痛みは変ったのですか。あの人を失った痛みが快楽に変ったと言うのですか」
蓮見が言った途端片岡の表情が豹変した。はっきりとした憎悪を剥き出しにして蓮見を睨みつけ。
「言うな! お前の口からあいつの話など聞きたくない! 今度私の前であいつの話をしたら、大切な玩具でも粉々に壊す」
呻くような声でそれだけ言うとくるりと踵を返し…部屋から出て行った。



どんなに飲んでも、酔えない時もあるのだと、ぼんやりとした頭で考える。目の前にあるもの全てが揺らぎ、霞んで。
それでも頭の芯に氷の固まりのようなものがあって、それが全身を凍らせ心まで凍らせる。
「片岡さん、飲み過ぎだって。もう止めておいたほうが」
石田の目が、なぜか悲しそうで……それが、余計に緒方に酒を呷らせた。
「俺は大丈夫だ。大丈夫だって。石田! 俺はこの程度の酒なんかで潰れたりしない! 心配すんな」

「そう言う事じゃないでしょう。こんな呑み方をしていたら、身体壊しますよ。一体どうしたっていうんですか。
聞くと、毎日これだと言うじゃないですか。こんなの、絶対可笑しいって…緒方さんらしくないですよ」
「俺らしくない? それじゃ聞くけど、俺らしいってどんなんだ。なぁ、教えてくれよ。俺らしいって……どんな俺なんだ」
これじゃ、絡み癖のある酔っ払いだ。そうと判っていても、胸の中で渦巻く暗晦を吐き出すように、緒方は石田に詰め寄る。
「それは…。少なくても今の緒方さんでは無いと思います」 そう言うと、石田は唇を噛んで俯いた。
その顔に重なるように浮かぶもうひとつの顔。やがてそれは一つになり…緒方は、ゆっくりとそれに向けて手を伸ばした。

苦痛に歪む顔が加虐を煽る。封じ切れない呻き声が心の枷を解放する。
捻じ込んで、突き上げると、閉じた目蓋の下から綺麗な雫がはらはらと零れ落ちた。
やがて、呻きが甘い喘ぎに変り、ゆらゆらと揺れながら、溶けて、しめやかに雫を滴らせる。
自分は誰を抱いているのか。蓮見か……石田か。それとも……聖羅。全てが絡まって。
粉々に壊せ。消してしまえ……内から響く声に。ただその為に、緒方は其処にある身体を冒し続けた。


「緒方さん。僕、会社あるんで行きますけど、昼に弁当でも買ってまた来ますね」
耳元に微かに囁くような声を聞き、緒方は僅かに首を動かした。だが酒に浸ったままの脳は覚醒できず。
ただぼんやりと声だけを聞き、あれは誰だ……そして再び深淵に引き込まれるように落ちていった。
そして、やっと意識がハッキリしてきたのは、昼近くなって目覚めた後だった。
だがトイレに行き戻って部屋の中を見回した途端…緒方の意識は覚醒を通り越して驚愕に変った。
部屋の様相もそうだが、さっきまで寝ていたラグの上には赤い花びらのようなしみが点々と散り。
屑籠にはやはり赤く染まったテッシュ。それらを一目見ただけで何があったのかが判る。

そうだ、昨夜は石田と酒を飲んで……そのまま此処で石田を。そして、思い出した。
石田の苦痛に歪んだ顔、必死に呑み込もうとする声。零れた涙。身体の奥から突き上げるように沸いてきた仄暗い劣情を…。
俺は、なんて事を。もしかしたらあいつ……今朝は、起き上がれる状態ではなかったかも知れない。
それなのに、無理をして会社に。そう思ったら、心が切り裂かれんばかりの後悔で、慌てて携帯を探した。
そして散らかった空き缶の中から、今は新しいものに変えた携帯を見つけ出すと、緒方は震える指でボタンを押した。
「はい、石田ですが」
聞こえてきた石田の声がどこか辛そうで、その声で自分のしでかした事を今更のように思い知る。なのに、
「石田……身体、大丈夫か。それと……悪かった。言い訳はしない。本当にすまなかった」

緒方にはそれしか言えなかった。だが石田は、一瞬間をおいてから小さく笑い。
「良かった。先に謝られたら…僕、絶対許さない…って言っていました。でも、何より先に俺の身体の事を心配してくれた。
それがすごく嬉しかった。だから、謝らないで下さい。緒方さんに謝られたら、俺がみじめじゃないですか」
無理に作ったような明るい声でそんな事を言い、言われた事で緒方は、惨めなのは自分のほうだと思った。
本当なら、真っ先に謝りの言葉を口にすべきだったのだろうが、血で汚れたラグを目にした途端頭に浮かんだのは、
石田の身体の事だった。だから、それを嬉しいと言ってくれた石田を思うと、緒方にはそれ以上何も言う事が出来なかった

「石田、俺は……」
「嫌だな、緒方さんこそ気分はどうなんですか。今から行こうと思って、弁当を二つ買ったんですけど……」
石田はそう言ったきり、続く言葉を口にしなかった。多分緒方が電話をしなければ、真っ直ぐに此処へ来たのだろう。
それなのに、今は伺うような口調で……緒方はそれにすらすまないと思った。だから、
「そうか。それじゃ待っているから……気をつけてな」
精一杯の優しい声でそれだけ言うと電話を切った。そしてズボンを穿き、シャツに腕を通すと、
散らばっている空き缶を袋に入れる。それからグラスを流しに運び、水を張った薬缶をレンジに載せた。

換気扇を回し、煙草を咥えると青く燃えている炎に顔を近づけ煙草に火を点ける。先端から立ち上る青灰色の細い煙と、
緒方の肺から吐き出された白い煙が混じり合い、一つになって換気口に吸い込まれていく。
それをぼんやと眺めながら、吹っ切る事も出来ない蓮見への想いも、澱み蓄積する鬱積も、この煙のように消えてしまえば。
そんな事を思いながら、緒方は薬缶がシンシンと音を立て白い湯気を吐き出しても、いつまでもただそれを見つめていた。









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