06.蒼天のオリオン

既視感と違和感



身体がぎこちなく強張っている感覚に、うっすらと開いた目に映る窓の外は紫紺に満ちて…夜明けには少し間があるのが判った。
そして、蓮見の髪を撫でながら、着替えもせずカーテンも閉めずに眠ってしまったのを思い出した。
それと自分に掛けてある布団…これは確か蓮見にかけてやったもの…それに気付くと緒方は慌てて飛び起き、
後ろのベッドに目をやった。だが其処に蓮見の姿は無く、代わりに緒方が掛けていた毛布が畳んで置いてあるだけ。
そしてその上に手帳を切り取ったメモが一枚置かれていた。其処に書かれていたのは十桁の並んだ数字。
緒方は、無意識に携帯を手に取ると指が勝手にその数字を押し始め…そして、
「はい…蓮見です。ただいま電話に……」 聞こえてきたのは、紛れも無い蓮見の声。

「課長…緒方です。昨日は、ありがとうございました。嬉しかったです課長に会えて…本当に嬉しかったです。
俺、いつでも課長のお供をしますから…また、飲みに行きましょう」
言いながら、本当はこんな事を言いたいんじゃない…とも思い。
それでも…こんな事しか言ってはならない人だから…だから、想いのたけを込めて…それだけ言うと電話を切った。

会社を辞めてしまえばこの部屋も出て行かなければならない。辞めて、この部屋を出て…なけなしの貯金で部屋を借りて。
前の会社に戻れなかったら、新たに仕事探しをして…。それから、たまには石田を飲みに誘って…誘って…
俺が、本当に誘いたいのは…課長…あなただけなんです。
そして、誰かを思うだけで頬を濡らす…そんな自分を始めて知った。


朝一番に出社してしまったせいで、待つこと一時間。緒方は、やっと出社してきた片岡を捕まえて、
「片岡さん…話があるんですが」 開口一番、辞職を伝える予定が、
「おはようございます。今朝は早いのですね。昨夜は蓮見さんと一緒だったと聞き、遅い出社かと思っていました」
意表を突くような片岡の言葉に、緒方は一瞬次の言葉を見失ってしまい頭の中に湧いた疑問を口走った。
「は? どうしてそれを…。俺が課長と会った事を、どうして片岡さんが知っているんですか」
「どうしてって…それは蓮見さんが私とのアポを取り消してこられたからですよ。
何でも、以前お世話になった方に会ったから、商談はまた今度にしてくださいと言ってこられました」
そんな事も判らないのか…とでも言いたげな…片岡にしては珍しい苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「それじゃ、課長が会う予定だった人というのは片岡さんだったのですか。やはり断られたと言うのは嘘だったんだ。
それで…アポを取り消した事で、課長の仕事に差し障りはないのですか」
何よりその事が気になったのは、緒方も営業マンとしてアポ取りの難しさと、自分の方からのキャンセルは、
チャンスを棄てたようなものだと知っていたから。余程の理由でも無い限り次は無いかも知れない。
それが解っていたから、昨日の事で蓮見が窮地に立たされるのでは…その事が心配でならなかった。
すると片岡は緒方の心配を更に募らせるように、不愉快そうな表情のまま声も不愉快そうに言う。

「それは…多いにあるでしょうね。それでも蓮見は、貴方と過ごす時間を選んだ。
私情で仕事を放り出すなど経営者としての責任感が無さ過ぎます。そんな事で会社のトップが務まるなんて、
蓮見は本気で思っているのでしょうかね。もしそうなら、取引相手としては全く信用がおけません」
憮然と…まるで蓮見が社長として無能だと言わんばかりの片岡の言葉に、緒方は窮地に立たされる蓮見を思った。
「か、片岡さん、あれは、俺が課長を無理やり誘ったせいで。課長は約束を守ろうとしていたのに、俺がキャンセルさせたんです。
だから、課長に責任はありません。お願いします片岡さん。課長ともう一度会ってやってください。この通りお願いします」
緒方は、いきなり片岡の足元に平伏すと床に頭をつけるようにして言った。

正直、自分が咄嗟にそんな行動をするとは緒方自身思ってもいなかった。自分のためにさえ頭を下げるのを厭う緒方が、
他人のためにどうして。なぜ自分はこんな事を…考えても解らず。それなのに身体が勝手に動いたとしか思えなかった。
そんな緒方の行動には、流石に片岡も驚いてしまったようで、呆気にとられたような顔で足もとにひれ伏す緒方を見つめていたが、
「緒方さん…貴方にそんな事をされたら私は非常に困ります。それに蓮見も、貴方にそんな姿をさせたと知ったら、
自分を責めると思いますよ。だから、そんな真似はしないで下さい」
そう言うと屈みこむようにして、緒方の肩に手を置いてひとつふたつ軽く叩いた後。

「しかし驚きましたね。貴方が蓮見の為にこんな真似までするなんて、正直言って本当に驚きました。
土下座ですか…初めて見ました。でもそうまでして蓮見を庇う…貴方にとって彼はそれほど大切な人なのですか」
上から見下ろす片岡の声と表情には、呆れた…と言うより、哀れみに近いものが漂い、それが意外にも思えた…が、
それでも緒方は、蓮見のためにも折った膝を伸ばす事は出来なかった。
「ち、違います。そんな事じゃないです。ただ、課長は優しい人だから…それに付け入ったのは俺です。
そのせいで課長に迷惑をかけてしまった。だから悪いのは俺で…ただそれだけです」

「そうですか…良く判りました。実は、今朝一番に彼から謝罪の電話が入りましたから…もう解決済みなのです。
何も心配する必要はありません。ただ、ちょっと意地悪をさせてもらっただけです」
片岡はいつもの顔に戻ってそんな事を言い、緒方は下から百九十はある片岡の顔を驚愕と安堵で見上げた。
「は、はぁーーーッ それじゃ、仕事に支障と言うのは」
「はい、別に何の差し障りもありません。でも意地悪が過ぎましたね。すみません、怒りました?」
その言葉に、本当なら怒って当然なのだろうが、良かった…本当に良かった…と、自分が土下座までした事も忘れ、
ただ蓮見の仕事に何の差し障りもない事が嬉しくて…良かった…と、それだけを思った。


そんなアクシデント?のせいで、辞職の話も切り出せないまま。期を逸すると、こういう事は中々言い出せないものらしく。
あの後再度蓮見に会えたことも重なり、緒方はA・Hに出社し続けていた。
蓮見は出張に出る機会が多いのか、土産があると言っては度々緒方に電話をくれた。そして今日も蓮見から電話が入り。
高層ホテルの四十五階。窓の外には煌びやかな都会の夜景が広がり、眼下には光の川がゆっくりと流れていく。
そして隣に座っている蓮見のシルクの混紡と思われる背広がしっとりと柔らかそうで…それなのに。
「此処から見る夜景がとても綺麗だと聞いていたので、一度緒方さんと来たいと思っていたのですが…迷惑でした?」
蓮見はそう言うと少し目を伏せそれから窺うように瞳だけを緒方に向けた。ほんのりと染まった目元が艶めいて…近くて…。
「いいえ…俺は課長の行きたい所なら何処にでもお供します。迷惑だなんて思ってもいません」
緒方が少し硬い声で言うと、途端に蓮見の顔が嬉しそうに綻び…そして。

「今日はね、お土産ではないけど…いつも緒方さんにお世話になっているから…」
そう言うと今度は身体ごと緒方に向けて小さな箱を緒方の目の前に置いた。それは手のひらに載るほど小さな箱で、
リボンが掛けてあるのを見ると、おそらくプレゼントのつもりなのだろう。席は窓に向かって設えてあるので、
後ろのテーブルからは二人の背中しか見えない。それでもやはり、プレゼントと思うと何となく気恥ずかしいような気がして、
「何ですか、これ…。 逆じゃないですか、俺の方が世話になっていますよ」
蓮見に言う緒方の声は小さくなったが、不思議な事に目の前の小さな箱は…なぜかとても大きく見えた。

「そんな事ありません。いつも緒方さんに送って頂いて…迷惑ばかりかけているから、そのお礼です。
僕の感謝の気持ちですから、受け取って下さい。お願いします」
蓮見はかくんと頭を前に落とし、それからにっこり笑うと箱をそっと押し出した。
箱に添えた蓮見の白くて細い指がやけに目に刺さり。本当ならその手が欲しい…などと思ってしまう。
だからと言って手を握る事など出来ようはずも無く。緒方は如何にも、しょうがないな…そんな顔を作ると。
「課長のお気持ちなら断る訳にも行きませんね。それじゃ、遠慮なく開けさせて頂きます」
言いながら綺麗にラッピングされた小さな小箱を開いたが、箱の中を見た途端。

「課長、これは貰えません…たとえ課長のお気持ちでも、こんな高価なものは頂けません。貰う理由が無いですよ。
折角ですがお返しします…すいません」
そう言うと緒方は手にした小箱を、テーブルの上に戻したその時箱の中は照明を反射した無数の煌めきで、
小さな光の世界となって外の世界まで呑み込む。蓮見は、戻されたその箱に視線を落とし…
「それは…緒方さんが思っているような高価な物ではないのです。商品にはできないような小さな欠片を集めて、
僕が作った玩具のような物ですから…本当は、人にあげられるような物ではないのです。
でも…緒方さんなら貰ってくださるかな…そう思って。でも、やはり失礼でしたね…すみませんでした」
そう言うと萎れてしまった花のように俯いた。その姿があまりにも可愛そうに…だが可愛らしくも見えて。
それに蓮見の言った言葉が意外だったのとで、緒方は一瞬自分の目と耳を疑いながら、
「ちょ、ちょっと待ってください。今、課長が作った…そう言いました?」
蓮見に尋ねると、蓮見は俯いていた顔を上げて今度は恥ずかしそうに言った。

「えぇ…それは僕が作ったものです」
「課長が…。でも、なんでこんなもの作れるんですか?」
「僕は、彫金加工が出来るから…簡単な細工なら大抵のものは作れます」
益々恥ずかしそうに、それでもちょっとだけ得意そうに言う。そしてそれには緒方も驚いてしまい、
「本当ですか? そんな事が出来るなんて…凄いじゃないですか課長。俺、ホント吃驚です」
感嘆と尊敬をそのまま口にした。すると蓮見は緒方の耳元に顔を寄せ、如何にも内緒…そんな小さな声で、
「誰にも言っていませんから…緒方さん以外誰も知りません」 と、言った。

「それじゃ…それは本当に商品にならないもので作った、課長のオリジナルなのですね」
「はい。だから人にあげられるような物ではないのに…馬鹿ですね僕は」
蓮見は又も項垂れ…一喜一憂、その心の襞まで表情に表わす。そしてその度に緒方の心も揺れて、手繰り寄せられる…そんな気がした。
「それなら、喜んで頂きます。課長が作った、この世界にたった一つしかない物ですよね。
それを俺に下さると言うなら、俺にはこれ以上嬉しい贈り物は有りません。 ありがとうございます」
緒方は一度戻した箱を再び手に取ると中身を取り出し、大切そうに手のひらに載せた。
「いいのですか? 本当に貰ってくれるのですか? ありがとう、緒方さん…ほんと嬉しい」 蓮見の顔が花開くように綻び。
「はい! 大切に使わせてもらいます」 緒方は笑って答えた。

小さな、小さな芥子粒のようなダイヤ。それをひとつひとつ集め、その数だけの分だけ思いをこめて作り上げた無数の煌き。
それは、緒方のネップチェックのタイに止まって、まるで蓮見の笑顔のように輝いた。


部屋まで…蓮見はそう言うと緒方に一枚のカードを手渡した。それは、このホテルの客室カードキー。
緒方は黙ってそのキーを見つめ…それからキーを蓮見の手に戻すと、
「部屋の前まで送ります」 と言った。
エレベーターで更に上へ上がり五十階にある部屋の前まで送り。蓮見がドアを開くと、緒方は蓮見の背に手を添え、
部屋の中へとそっと押した。二人を隔てる物は何もない空間。だが一歩の距離が中と外の境界でもあり。
だから、それを跨いではいけない。越してはならない。緒方は心の中で繰り返し呟き、
「課長…今日はありがとうございました。俺は此処で失礼しますから、課長はゆっくり休んでください」
そう言うと頭をさげ…背を向けようと緒方の手に蓮見の手が伸び、指を絡めるようにして…緒方の足を止めた。

指の間をするりなぞる蓮見の指の感触に、身体の中で何かがぞわりと蠢き。不味い…緒方は心の中でそう思った。
それなのに目は蓮見の濡れたような瞳に絡め取られ、逸らすことも出来なかった。
そして蓮見が、絡めた指もそのままに、後ろに一歩一歩後退するように足を運び。緒方は茫然と言葉も失い、
本当に…引かれるように…足は無意識に前へと進み境界を越えた。
「お願いだから、帰らないで…一人にしないで」
耳に囁くような蓮見の声が聞こえ。初めて自分が部屋の中に足を踏み入れた事に気付いた。

いつもと同じ…眠るまで側に…ただそれだけ。緒方は何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
「…良いですよ。課長が眠るまで側にいますから…安心して眠って良いですよ」
「目が覚めた時、一人きりは嫌なのです。だから…今日は、朝まで側に」
緒方の自制心など打ち砕くような甘いささやきにも似た蓮見の懇願に、緒方は自分の最後の砦が崩壊していく音を聞いた。
「朝まで側にいたら…それだけじゃ済まなくなります。俺は…」
「それでも…側にいて欲しい。一人では凍えてしまう…だから…温めて…」
蓮見はそういうと、指を絡めた緒方の手を自分の腰へと誘い。指を解き、その腕を緒方の首に回した。

小さな胸の飾りを爪弾く度に、男にしてはしなやかな身体が細波のように震え唇からは甘やかな声が絶え間なく漏れた。
熱く柔らかな肉襞が虚妄の楔を捕らえて放さず、抱き、蠢きながら更なる奥へと誘う。
空を蹴る足が揺れる度に、間で震えるそれを手の中に包み込むと、滴り伝う雫が淫靡な音を奏で、
蓮見は微かな悲鳴にも似た声で…啼いた。残酷なまでに触れられる事を悦び、目に耳に…肌に緒方を煽り、螺旋の快楽を享受する。
ただそのために作られた至極の身体。蓮見を抱きながら…そんな事を思った。
これを作ったのは誰…。これを抱いたら、二度と戻れなくなる。囚われた心はやがて後悔すら甘美な美酒に変え、
たとえ身を焼き尽くすと判っていてもその炎に巻かれたいと願い…それでも終わりに行き着くことは出来ない。
ならば…我を忘れ、これを貪り、幾度となく至高の頂へと誘い導かれ…一瞬だけ浮かぶ懐かしい残像に。
これは誰ぞ…。緒方は、懺悔とありったけの愛で…重なる幻影を抱きしめた。


「昨夜はお楽しみのようでしたが…満足はされましたか?」
片岡の冷たい声が身体の中に残っていた緒方の温もりを消し去り、蓮見は少しだけ不快そうな表情をすると。
「………。僕を、監視していたのですか」
言いながら着ていたコートを脱ぎかけた。するとそれを助けるように片岡の手が伸び、
蓮見の腕から抜け落ちたコートをハンガーにかける。そして、冷えた目とは反対に、くすっと笑いながら言った。
「いいえ、そんな事はしませんよ。ただ、匂いが…抱かれた後の匂いが…ね」
その言葉が蓮見の不快さに拍車をかけたのたか、片岡を見る目と声に侮蔑の色が浮かんた

「…貴方は、犬のような人ですね」 だが片岡は、そんな事など意に介した様子もなく、
「それで…どうでしたか? 緒方君とのセックスは。その身体を満足させるのは、初めての彼には難しかったのではないですか」
言いながら表情も変えず、声も変えず…微かな笑みを浮かべながら…片岡の細く長い指が蓮見の顎を捉えた。
「夜毎、幾多の男共に抱かれ続けてきたその身体が、並みの稚拙なセックスで満足するとは…到底思えませんが、
今朝の貴方は実に良い香りを放っている。それほど良かったのですか、彼とのセックスは」
目の前にある瞳は、近づくと藍だと判る。ただ余りにも深すぎて、それは黒に近く。
片岡の抱えた心の闇そのもののようにも見えた。そして、この瞳がもっと青かったなら…全てが変わっていたのかも知れない。
蓮見は、その瞳を見つめながら思った。

「好きな人に抱かれるという事は、それだけで満足できるのですよ。
身体など、心が満足すればそれに付随しますから。それに僕は、いたってノーマルなセックスが好みなのですよ。
知っているでしょう? 僕の身体は、どんな相手とのセックスも快楽に変える事が出来るって。
それは、並みのセックスでも充分満足できるという事です。なのに、いつもエスカレートするのは、あの人と僕を抱く男たちです。
僕はいつだって、彼とのノーマルなセックスだけを求めているのですから」
そう言った蓮見の顔には、本当にその一瞬を思い描いているかのように、幸せそうな笑みが浮かび。
それを間近に見る片岡の瞳は益々暗く翳り…苦い顔で突き放すように蓮見を捕らえていた手を放した。

「彼を…緒方さんを、元の会社に戻して下さい」 蓮見の声が毅然と響き。
「彼の側にいたいのでは。私は貴方の心を察し、そのようにしたつもりなのですが」 喉の奥から絞り出すような片岡の声が響く。
「そのような気遣いは無用です。即刻元に戻す手続きを。これは社長命令です。良いですね」
今まで一度も逆らう事無く全てを受け入れてきた蓮見が、初めて自分の意志で運命の歯車を止めようとした。
そんな厳しい口調に、片岡は一瞬驚いたように蓮見の顔を見つめたが…ただ黙って頷くと部屋から出て行った。


緒方の知らないところで蓮見と片岡の間でそんな遣り取りがあったなど、当然知る由も無い緒方は、
あの夜以来頭の中が一つの事に終始して止まなかった。
抱いたところで判る筈などない。そう思いながら、それでも抱いてみたら…何度もそう思い。
そして肌を重ね一つになってみても、やはり判らぬものは判らぬままで…それがどうにも苛立たしくてならなかった。
あいつの名前…聖羅。名前まで課長と重なるあいつがあの頃いくつだったのか…いつまでもあの頃の子供ではない。
それなのにあの奇妙な既視感に…本当に聖羅と肌を重ねているかのように感じ…それでもやはり違和感はあった。

やはり課長にあいつを重ねているのか。それとも課長に惹かれる後ろめたさで、あいつを忘れまいとしているのか。
どちらにしても、課長は…俺の手には届かない。そして、あいつを忘れる事など…出来ない。
相反する思いは堂々巡りの繰り返しで、その為食事の最中でもふと手が止まり。
「どうしました? 何か悩み事でもあるのですか?」
一緒に昼食をとっていた片岡に声をかけられ、気が付くと片岡が手にしていたナイフを置き、訝しげに緒方の顔を見ていた。

「いえ…別に…。ところで片岡さん、俺は仕事らしい仕事もしないでいつまで無駄飯を食っていれば良いんですか。
肝心の社長とやらにも会えそうもないし…一体何のために毎日この会社に来ているんですかね」
緒方も食べかけのカツカレーにスプーンを戻して、問い質すように聞いた。すると片岡が意外にもあっさりと、
「…そうですね。緒方さん自身は、前の会社に戻りたいのですか?」 緒方に問い返し。
「えっ、戻って良いんですか。もし、戻れるのなら、そりゃ戻りたいですよ」
緒方は声を弾ませて答えた。すると片岡は、緒方の心の奥底にあるものを知っているかのように…少しだけ声を潜めた。
「蓮見さんの事は…良いのですか?」
なぜ此処で課長の話がでてくるのか。緒方は片岡の真意を測りかね…だからこそ、何事も無いかのような顔で明るく答える。

「課長は、親父さんの残した会社で一生懸命頑張っています。だから俺も自分の仕事を頑張ろう…そう思っただけです。
それに、俺の方が年上ですからね。いつまでも、うじうじたらたらしていたらいい加減恥ずかしいですよ。
課長には…会いたくなったら、いつでも会いに来る事が出来ますからね。如何と言う事ないですよ」
緒方はそう言うと、置いたスプーンを手に再びカレーを食べ出した。

大して愛社精神などあるとは思っていなかったが、暫く離れてみると係長や同僚の事が無性に懐かしく思え、
戻れるものなら戻りたい…そう思ってしまう。それに蓮見との事は決心が付きかねている…と言うのが本音でもあった。
確かに、蓮見が自分の中で特別の存在になってはいるのは事実だが、蓮見には想いを寄せている人がいるのも事実で、
あの夜も、お互いを求め合いながらも、どこか言葉には出来ない違和感もあった。
もし…寂しさの埋め合わせなのだとしても、これ以上深く関わると引き返せなくなる。課長を傷つける。
そんな不安が先に進む決心を鈍らせていたのも事実だった。今ならまだ…歯止めがきく。無かった事に出来る、
そんな緒方の思いを余所に、片岡は直接的に緒方に聞いた。

「蓮見さんが…好きなのですか?」
「えっ? い、いや…そう言う事じゃないですって。あの人は立派な人です。俺なんかと関わるような人じゃないですよ。
それを、俺が勝手に誘っているだけで…本当は課長、迷惑していると思いますよ」
適当に笑って…誤魔化して…必死の演技なのに…。
「何処がそんなに良いのですか? 彼の顔ですか、身体ですか…それとも…」
普段からは想像も出来ない執拗さで問いかける片岡の顔が、何処か苦渋に満ちているようにも見えた。

「片岡さん、どうしたのですか。なんか変ですよ。貴方みたいな人がそんなに感情的になって…課長と何かあったんですか」
そう言いながら緒方は胸奥深くから薄墨のような不安が沸いてくるのを感じていた。
片岡は自分と課長との事を知っているとでもいうのか…まさかあの夜の事も…薄墨はゆっくりと、だが徐々に広がり。
「ああ…すみません。別に何も無いですよ。ただ蓮見さんにも、貴方を前の会社に戻すことはできないのか。
そう言われましたので…お二人が同じ思いでいらしたのには、何かあるのかと…そう思っただけです」
片岡はまたまた予想外の事を言い出し、途端緒方の中で高らかに警戒音が鳴るのが聞こえた。






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