05.蒼天のオリオン

確かな想い



緒方を見つめる片岡の目は心の中を探るかのように瞬きもせず、笑みを浮かべた口元が耳障りな音を吐く。
「随分とがっかりされたようですね。緒方さんは、蓮見とそんなに親しくされていたのですか?」
緒方にはその言葉も口元に浮かべた笑みも、この上も無く不快に思えた。そして、
漠然とではあったが、この男に蓮見の事を聞いたのは間違いだったのかも知れない…何となくそう思った。だから、
「いや、親しいって言うか…何度か食事をしたり飲みに行ったりした程度ですが、急に戻られて挨拶も出来なかった。
だから、もし会えたらいろいろ世話になった礼を言おうと思っただけです」
心を隠し、声を押し殺すと、それは自分に呟いた言い訳のようにも聞こえた。

だがそんな緒方の思いを他所に、片岡は口元の笑みもそのままに、緒方に向けて餌を撒くように言った。
「そうですか。でも、蓮見には又会えるかも知れませんよ」 そしてその言葉で、緒方が隠したはずのものが面に出た。
「えっ? 本当ですか?」
「はい…彼は我が社と、全く縁が切れたという訳ではありませんからね。いずればったり…なんて事が無いとも言えませんよ。
まぁ、此処にいればいつかは会えるでしょうから…その時を楽しみにしていて良いと思いますよ」
片岡はそう言って小さく笑い。緒方は、もしそれが本当なら…蓮見に会えるのだとしたら…此処にいる意味もある。
そんな事を思い、片岡の微妙な言い方にも、唇に浮かべた笑みとは反対にミッドナイトブルーの瞳が、
冷たい光を宿している事にも気付くことが出来なかった。

「それは、課長の継いだ仕事が、此処と取引関係にあるって事なんですか?」
「まぁ、そういう事になるのでしょうかね…」
「そうか…もし課長が仕事で此処に来たら…その時に会える。そういう事か」
微かな期待に胸を膨らませ…いつになるのか、果たして本当に会えるのか。そんな不確かな可能性に、
自分はどうしてこんなに喜んでいるのだろうとも思った。それでも蓮見に会いたい…それだけが確かな想い。そんな気がした。


翌日から片岡に付いてあちこち廻るようになると、この苛々しい男について幾つか気付いた事があった。
それは、名刺にもあるように片岡には何の肩書きもないうえ、何処の部署にも配属されていないという事だった。
それなのに、社内の事に関して彼の知らない事は無い。そんな奇妙とも思える事実。
そして、片岡が社長と同等の権力を持っているという事。最初は社長秘書なのか…とも思ったが、そうではないらしく、
社長代理、或いは補佐というのが正しいようにも思えた。
その肝心の社長は、仕事で海外を飛び回る事が多いらしく、その間の社長業務は片岡に一任されていた。
そして…社長決済すら片岡が行うのだと知った。これではまるで社長そのものではないか…とそう思いながら、
緒方は社長室に掲げられた二枚の写真を眺めた。何処からどう見て外人にしか見えないその人物が社長なのだとしたら、
緒方には会った記憶すら無い。だから社長が自分を知っている等とは、どうしても思えなかった。

A・H社は、ジュエリーのデザイン、加工、販売を主とした会社なのだが、世界的に有名な、W・D社とも太いパイプを持っていた。
だから、世界中にある施設で使用される、プリンセスたちの装飾品を、一手に扱うようになってからは、
その関連で、ホテル、リゾート施設等の取引先が徐々に増え、ブライダル関係にも手を伸ばすようになった。
そして、枝葉のように世界的に有名なファッションデザイナーたちとの繋がりも出来…今はアパレル部門も設立されている。
それでも、核は宝石であることに違いなく、bridal lady's fashionはA・H直営だが、men'sは独立した会社となっていた。
それが、緒方の会社と提携しているエムJだった。そして…緒方の会社での業績の半分は、それで成り立っている。
だから、A・Hが取引を停止すると言えば、たちまち経営が危機に陥るのは必須で、片岡の脅しはあながち嘘ではなかった。
そう意味では、簡単に辞めることも叶わない人身御供…それもまた、真実に近いものがあった。

しかし今は、蓮見に会うまでは…そんな微かな望みを支えに日々片岡の後ろを付いて回る緒方だったが、
それでも二週間もすると、自分が出社するのもおっくうなほど疲れているのを感じていた。
自分が勤勉な人間だと思ってはいないが、仕事らしい仕事もないまま、ただ片岡の後に付いてあちこち廻るだけの毎日は、
やはり苦痛以外の何ものでも無く。肉体的疲労はともかく、精神が腐っていく…そんな気がしてならなかった。
社長や皆には悪いが…俺もそろそろ限界かな…でもそれじゃバイトの高校生より持たないって事だよな。
心の中で何度も呟き、その度に迷いながら、師走も間近となった頃には密かに決心を固めようとしていた。


「緒方……さん?」
その声にフラッシュバックのように蓮見の顔が脳裏に浮かび、振り向くとやはり其処には以前より立派に見える蓮見が立っていた。
やっと会えた! 緒方の心が歓喜の声を上げ、なのにどういう訳か目の奥がジンと熱くなって直ぐには声が出なかった。
すると蓮見は側に居た同僚らしき男に何か一言二言言い。男は軽く一礼すると自分だけ奥のエレベーターへと歩き出す。
そしてそれを合図のように、蓮見は急いで緒方の側に近付くと、緒方の前に立ち何の躊躇いも無く緒方の手を取った。
ひんやりと冷たい華奢な手が緒方の手を包み、緒方はその冷たさを温めるように握り返す。
間近に見る蓮見は少しだけ大人びたようにも見えたが、それを打ち消すほどの純粋な笑顔で緒方を見上げ。その笑顔に、
「課長…お久しぶりです。お元気そうですね」 かけた声が自分の鼓膜を震わせるのが判った。

「はい、僕はどうにか…緒方さんも元気そう……ではないみたいですね」
と言うと、蓮見の顔が翳っていくのが目に見えて分かった。
「ははは、そんな事ありませんよ、俺は元気にやっています。課長こそ立派になられて…俺、見間違えたかと思いました。
でも、本当に元気そうで…安心しました」
緒方が言うと蓮見の顔が一瞬だけ嬉しそうに輝き、それからまた不安そうに沈んだ。
「緒方さん…僕の事、心配してくれていたのですか?
だって僕は、お世話になったお礼を言う間もなく此方に帰ってきてしまったから…多分緒方さんは怒っているだろう…と。
だから、そんなふうに言って頂けるとは思っていませんでした。ありがとう…とっても嬉しい…」
そう言うと蓮見は、今にも涙が零れそうに瞳を潤ませ、その笑顔まで歪ませた。

「課長、そんな顔しないで下さい。課長は笑っている顔が一番課長らしいですから。それに、急に戻る事になったのは、
課長のせいではないでしょう。それよりも、お父様が亡くなられたそうで…大変でしたね。もう良いのですか」
「はい、どうにか無事済みました。ただ僕は、もう向こうには戻れなくなってしまいました」
「そのようですね。でも俺は、たとえ課長が何処に居ようと、元気なら嬉しいですよ」
「ありがとう…緒方さん。そんな事を言われたら…でも、そうですよね。
だって僕は、緒方さんに会えてとっても嬉しいのだから…それなのに、泣いたりしたら変ですよね」
そう言って無理に作った笑顔は、どうしても堪えきれなかった小さな雫をその瞳から零した。

此処が人目の無いところなら迷わず抱しめただろう…緒方はそんな事を思い、だからこそ人目のある場所だった事に安堵もした。
この込み上げる感情は、久方ぶりに会ったせい。けっして、気付かずに蒔いた種を会えなかった時間が育んだのでは無い。
だからこの芽は育たない…育ててはいけない。想いとは裏腹に緒方は繰り返し念じ、その緒方に。
「それで緒方さんは、今日は此方に何か用事でも?」
蓮見が少し恥ずかしそうに、涙に濡れた瞳をさりげなく拭きながら…聞いた。

「ああ、そうでした。実は俺、A.Hに出向になったんです。下請けから親会社になんて、変でしょう?
なぜだか訳は判りませんがそういう事になって、今は毎日此処に出社しています。正直俺にはイワセの方が向いているようですが、
でも今日は課長に会えましたから、出向になって始めて良かったと思いましたよ」
緒方がそう言った途端に蓮見の顔が不安げに揺れ、触れてはならないものを覗くような目で緒方を見上げた。
「緒方さん、その出向と言うのは…何時からですか」
「そうですね…此処へ来てそろそろひと月ぐらいになるかな。朝急に社長に呼ばれ、その場で出向を言い渡されたんです。
正直驚きましたけど、逆らう訳にも行きませんからね。三日後には此処に出社して…今日課長に会えたって訳です」
緒方が答えると蓮見の表情が益々翳りを帯びて、気のせいか声までも小さく震えているように聞こえた。

「……。そうですか。 それで、今此処では何処の部署に」
「それが妙な事に未だに何処にも配属されなくて、毎日片岡さんに付いて廻っています。
ま、課長だから言いますが、俺には此処で長く勤めるのは難しそうだから、そろそろ潮時かなと思っていました。
でも、課長に一目会ってから…課長が元気なのを確かめてから…そう思って会えるのを待っていたんです。
俺は、課長がせっかく声をかけてくれたのに、失礼な事ばかりしましたからね。本当に申し訳ありませんでした。
それと課長、課長と飲みに行くのは楽しかったです。良い思い出です…有り難うございました。
ああ、これでやっと気が晴れた。それじゃ、俺はこれで失礼します。課長もお身体に気をつけて頑張ってください」
緒方はそう言って頭を下げると、想いを断ち切るかのように蓮見の横を抜けようとした…その一瞬。
蓮見の手が伸びて緒方の腕を掴んだ。それはまるで後ろ髪を引かれた…では無く、掴まれた…そんな一瞬。

「ま、待って…緒方さん。今日はもう僕、仕事も終わりなので、だから一緒に食事でも」
言いながら蓮見は緒方の腕を掴んだ手に力を込める。そして緒方は…ああ、やはり男の力だな…あの夜と同じような事を思う。
自分より上の地位にいて、全てにおいて自分より恵まれているはずなのに。以前より立派に見えるのに。
引き止める目が不安そうで、頼りなくて…少しも変わってない。課長…それって、俺にしてみると狡いですよ。
そんな想いを隠し、さりげなく自分の腕を掴んでいる蓮見の手をそっと離すと、
「課長…これから誰かと会う予定じゃないのですか? その為に、此処に来たのでしょう?」
まるで子供に問いかけるように聞くと、蓮見は僅かな逡巡の後、思い切ったように明るい声で言った。

「ええ、でも今日は都合が悪いからと断られました。ですから、時間は沢山あります」
それが本当か嘘か緒方には判っていたが、蓮見の言葉を、本当の事だと思いたい自分に負けた。そして労いの言葉まで口にする。
「そうですか。折角来られたのに残念でしたね」
「はい、でも緒方さんに会えました。その事の方が、僕は何倍も嬉しいし、価値のある事です」
蓮見は、迷いも躊躇いもない笑顔で答え。その眩しい笑顔に、
「全く…課長には敵いませんね」
緒方はそう言いながら…少しだけ…最後にほんの少しだけ、別れの時間をください…心の中で呟いた。


外に出ると街は既にネオンや車のライトに華やかに彩られ、行き交う人々が皆一様に少し肩をすくめ足早に通り過ぎていく。
出向になってから毎日見るその光景は、緒方にとって賑やかさより殺風景で潤いの無い光景にしか見えなかった。
だが今日は蓮見が居る…ただそれだけなのに、目に映る全てのものが華やかに輝いているように見えた。
「すみません課長、俺はこの辺詳しくないので、課長の知っている店とかあれば、案内してもらえると助かるんですが」
緒方が言うと、蓮見は羽織っていたカシミヤのコートのボタンを留めながら、
「すみません、僕もほとんど真っ直ぐ家に帰るので…あまり良く知らないのです」
申し訳なさそうに言ってから、突然何か閃いたかのように緒方のコートの袖を掴むと、したり顔で緒方を見上げた。
「あ! この前ヨシノさんと行った店。其処、居酒屋さんですがお料理も色々あって、結構美味しかったんです。
それに席が掘りごたつのようになっている個室もあって…なかなか良いお店でしたよ。あそこならゆっくり寛げると思います」

蓮見の推薦なら一も二も無く従う事に異存など無い緒方だったが、たった一つ気に入らないのは、
蓮見がその店に誰かと一緒に行った…その事実。さっき一緒にいた同僚か…それとも仕事で付き合いのある狒々親父。
まさか…彼女が出来たとか。想像するとそれは緒方の望まない方向へ走り出し、結果は最悪の場面へとたどり着く。
ヨシノの気になって気になって…緒方は自分が如何に了見の狭い人間かを思い知る。それでも気になるのはどうしようもなく。
タクシーを探して通りに身を乗り出している蓮見の肩に手を載せた。そして、振り向いた蓮見に、
「課長…ヨシノさんという方は…さっき一緒にいた人ですか?」
恥も外聞も無く聞いた。すると蓮見が解せない…そんな顔で緒方を見つめ、それから可笑しそうに笑った。

「違いますよ。あの人は、下山さん。由乃さんはね…ほら、あそこのお店のご主人のお母さん。
少し前までは由乃さんがご主人だったけどお店を息子さんに任せるようになってからは、自分は着付けを教えるだけで、
好きな三味線とか小唄をしながらのんびり隠居生活をしている…そう言っていました。
A・Hはbridalも手掛けているから、いろいろとお付き合いもあるのです。
以前由乃さんの古稀のお祝いに僕がプレゼントを送ったら、その御礼だと言って立派な料亭にお招きいただいて。
それから時々、食事やお茶をご一緒させてもらうようになったのです。とても粋方でね、七十とは思えない素敵な女性ですよ。
それにね…僕が結婚するときは、お嫁さんに最高の花嫁衣装を着せてあげる…なんて言ってくれたのです。
多分それは叶わない夢だろうけど…嬉しかった。本当に…嬉しかった」
蓮見はそういうと、少しだけ寂しそうな顔で通りの向かい側にある大きな呉服店を見つめていた。


緒方がいつも行く店とは雰囲気も違い、居酒屋と言うより料亭のような店の作りに、流石東京、流石青山。
等と田舎者のように感心していると、
「緒方さん、お座敷の個室が空いているんですって! 良かった、なんか今日はとってもラッキーな日みたいですね」
蓮見が緒方の袖を引き嬉しそうに言った。確かに蓮見の言う通り緒方にとっても最良の日あったが、同時に最後の日と思うと、
料理長が腕に選りをかけたという、滅多に口にする事も無いような懐石料理にも舌鼓を打つことは出来なかった。
それなのに蓮見は、酒が弱いにも関わらず緒方が止めるのも聞かず、本当に楽しそうに箸を運びグラスを口に運ぶ。
それを見ながら、また、酔っ払っちまうのだろうな。今日は送って行けないのに…判っているのかな。
そんな事を思いながら、この時間が永遠に続けば良い…など共思う自分に苦笑し…目の前の蓮見に声をかけた。

「課長…そんなに飲んだら、帰れなくなりますよ」 それに対し蓮見は、既に見慣れた酔っぱらい顔でへにゃりと笑い。
「平気です。緒方さんがいるから大丈夫。僕を送ってくれて、僕が眠るまで傍にいてくれるのですよね?」
酔いに潤んだ目で緒方を見つめて言う。だがその言葉は、今の緒方にとって安易に頷けるものでは無かった。
仮に…蓮見の言う通りに送っていったとしたら…これ以上関わったら想いに蓋など出来なくなる。
寝顔を見るだけで帰る事は出来そうもない気がした。だから。
「そういう訳にはいきませんよ。課長は今、ご自宅にいらっしゃるんですよね。あまり酔って帰ると家族の方が心配しますよ」
理由にもならないような断わりの理由を口にする。なのに…。

「居ません。家には僕だけですから…心配する人なんか誰もいません。だから僕は、緒方さんに心配されると…とても嬉しいのです」
返ってきたのは思いもかけなった言葉。だから、緒方は一瞬戸惑い。何か言うとするのだが、出て来たのはただの問いだった。
「えっ…それじゃ母親とか兄弟は?」
「母は、とうの昔に亡くなりました。僕は…一人っ子で兄弟もいません。父親と…二人だけでした。
その父も亡くなって…もう、誰も居ないのです」
蓮見はそう言うと、窓の外に設えた坪庭に目をやった。その横顔に漂うのは悲しみとも違う、もっと深く暗い何か。
今まで一度も見た事の無いその表情に、緒方は蓮見の深部を…別人を見ているような気がした。

普通に考えて、父親は先日無くなったが蓮見の年齢なら当然母親や兄妹がいるだろう…緒方はそう思っていた。
だが想像とは大きく違い、肉親がもう誰もいないと言われ、安易に家族の話を持ち出した事と悔やんだが後の祭りで。
取りあえずこの場をどう取り繕い、蓮見をどう慰めようかと考えるが、適当な言葉も見つからず。
それなのに口から飛び出したのは、又も思ってもいなかった言葉。

「そうでしたか…それは、寂しいですね。それじゃ、俺が課長の事を心配してあげます。親や兄弟の代わりにはなれないけど、
同じくらい心配してあげます。だから、心配する俺の言うことを聞いて酒はほどほどに…分かりましたか?」
途端、蓮見が満面の笑みを浮かべ何度も何度も頷く。いつもの…緒方の知っている蓮見の…その笑顔を見て、
課長…その笑顔の前じゃ俺の決心も崩壊しますって。口に出せない言葉を呑み込むと、緒方はしょうがないという素振で言った。
「判りました。俺は今までどおり課長のアッシーです。でも、飲み過ぎは駄目ですよ」
「はい…解りました。でも嬉しいな、また緒方さんに送ってもらえるなんて。今日は本当に…良い…日…」
そう言いながら飲み干したグラスで限界だったのか、蓮見はへなりとその場で横になってしまった。

「課長、頼みますから行き先を言ってください。俺は課長の家知らないんですから…」
幸せそうな顔で、緒方の肩に頭を乗せて目を閉じている蓮見の耳元に声を潜めると、
「ん…んん…くすぐったい…」 
蓮見は首をすくめただけで、一向に目を開く気配もなかった。以前も同じような事があったが、
あの時よりお任せになっているような気もして、これって、お持ち帰りもOKって事なのか…等と思いながら、
「運転手さん、すいません行き先は……」
緒方は、自分のアパートの住所を告げた。


以前のアパートより、少し小奇麗な建物の前でタクシーは止まり。会社の借り上げだというその部屋は、
ワンルームながらゆったりとした造りで、独り者には充分すぎる広さがあった。其処に寝起きしてほぼ一月、
まさかその部屋に蓮見を連れて帰るとは考えもしなかった。それでも蓮見の家を知らないのだから…仕方ない。
自分にそんな言い訳をしながら、緒方は開かれたドアから降りると反対側に周り、手でドアを開いた。
「課長…自分で降りられますか」 背もたれで傾いている蓮見の肩を揺すると、
「うぅ…嫌だ。もう寝る…眠い」 蓮見はそう言って、今度は座席シートに横になろうとする。
その身体を自分の方に引き寄せ…抱き上げると、蓮見は以前と同じように緒方の首に腕を回しきゅっと抱きついた。
そして、この状況に慣れてしまったのか、緒方はさして恥ずかしいとも思わず、運転手に声をかけた。
「運転手さん…待たせてすいませんでしたね」 すると運転手は、思いっきり気の毒そうな顔をして、
「大変だね、サラリーマンも…。じゃ、気をつけて」 そう言うとバタンとドアを閉め、車を発進させた。

蓮見を抱いて車から降ろしたのは良いが、緒方は自分の考えが甘かった事に気付いた。
以前の送り先は蓮見のマンションだったから、それほど苦労することも無く部屋まで行けた。
だが三階建のアパートには当然エレベーターなど無くて、二階の端に在る緒方の部屋に行くには階段を昇らなくてはならない。
しかも蓮見を抱いてとなると踏み出す足が些か躊躇いを帯びて、蓮見を下ろそうかどうしようか迷った挙句、
緒方は一段目に足を載せた。結果…背負って階段や坂を上るのより、前に抱えて昇る方が数倍も大変な事が判った。
何しろ前傾姿勢がとれない。それに加え足元が、進む先が見えない。そのせいでいつもは気にもせず昇っている十数段の階段が、
ひどく不確かで危ういものに感じられて、宅配や引っ越し業者の人たちに尊敬の念まで抱いてしまった。

それでもどうにかこうにか部屋まで辿り着き、中に入ると真っ直ぐベッドへと向かう。
だが…いざ寝かそうとすると、蓮見は抱きつく腕に力を入れて離れようとしない。だから緒方は首を捕られたまま、
「課長…もう部屋に着きましたから、コートと上着だけ脱いで横になって大丈夫ですよ」
耳元で声をかけると、緒方の声が聞こえたのか蓮見の腕から力が抜け…だらりとベッドに投げ出された。
全く…少しは警戒したらどうです。俺は課長にとって、そんなに人畜無害な人間なんですか。
苦笑と共に呟くと、蓮見の履いたままの靴を脱がせ、それを玄関に置きもう一度ベッドの側に戻る。
そして蓮見の頭に手を伸ばした。

眠っている蓮見の頭を撫でる手に、指に…纏わる髪が柔らかく…まるで蓮見そのもののように思えて。
この髪を、ずっと撫でていられたら…俺は、あの真っ青な瞳に償えるのだろうか…そんな事を考えてしまう。
「……ちゃん…」
蓮見の口から微かに漏れた誰かを呼ぶような声。瞼を閉じたままの目尻から小さな雫が零れ落ち。
好きな人がいます…蓮見の言葉が脳裏に浮かんだ。
胸を刺す焼けつくような痛みに、目を塞ぎ。蓮見の声に耳を塞ぎ。緒方はその雫にそっと唇を寄せた。









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