04.蒼天のオリオン

不可思議な出向


可もなく不可もなく日々仕事をこなし、時は日を刻み太陽は沈んではまた登って来る。
石田には不幸と言われたが、今の状況は蓮見と会う前に戻っただけで…何も変わってはいない。
無理をしながら背伸びをし…虚勢をはって生きている。そしてそれは、緒方のみならず誰もが皆同じ事。
そう思いながらも緒方は、蓮見の消えたあの日から自分の中で何かが変わったような気がしてならなかった。
そして何かを待っているような…そんな曖昧で不確かな感覚の中で、確かなものは。
蓮見と共有した空間は穏やかで…あの温もりは優しくて…僅かな重ささえも…今は愛しい。ただそれだけだった。

そろそろ出かけようと思い、パソコンを閉じ机の上の資料をカバンに詰めていると、横から係長の手が伸びて緒方の肩に載った
「緒方君…異動が決まった」
その予期しない言葉に緒方は一瞬それがどういう意味か理解しかねて、驚きというより間の抜けた声で聞き返した。
「はっ? 俺が…ですか?」
「そうだ」
寺井が大きく頷き、その事で自分の異動が確かなのだと解ったが、それでも疑問は残った。だから、
「また、妙な時期に異動ですね。それで俺は、営業から外されて何処に回されるんですかね。でも判りました。
とりあえず、今からアポなんで…帰ったら聞きます」
そう言いながら緒方がカバンを手に椅子から立ち上がろうとすると、寺井の手がそれを押し止めた。

「行く必要は無い…君の代わりに吉沢君が行く事になったからね。その事は先方にも連絡済で了解もとってある。
だから君は、十時になったら社長室の方へ行きなさい」
寺井は事務的にそんな事を言い、緒方はその言葉に不満の表情を露にして不満の言葉を口にした。
「はぁ、なんですかそれ。今日のアポは、俺が何度も足を運んでやっと取りつけた交渉のチャンスなんですよ。
それを…俺に何の断りもなく、いきなり吉沢が行く事になったからお前はいいなんて、そんなの有りですか? 酷いですよ。
それに、異動の話がなんで社長室なんですか。それって、異動ではなく俺は用なしだって通達ですか」

だが、寺井はそれに答えるどころか緒方の手からカバンを取ると、寺井の後に控えていた吉沢に渡し。
「先方には呉呉も申し分けなかった…と、謝っておいてくれ。そして、何としても緒方の提示を了解してもらえるよう…頑張って来い」
いつもの寺井らしからぬ厳しい声で言った。すると吉沢が、悲壮感さえ漂わせた顔で緒方を見つめると、
「はい! どんな事をしてもOK取ってきます。それじゃ、緒方さん…行って来ます」
そう言って深々と頭を下げた。そんな吉沢を見ながら…そんなに緊張していたら、向こうに良いようにあしらわれるだけだって…。
そう思いながらも、緒方には返す言葉もなく黙って頷くしかなかった。

寺井が自分の席に戻り、吉沢が出て行き…緒方は所在無げに時計に目をやる。
するとそれを待っていたかのように、アナログの時計が九時五十五分から針を一つ進めた。
脚は三階にある社長室に向かいながらも、頭からは違和感が拭いきれず、自分に何が起きようとしているのか考えてみるが、
緒方にはその何かを想像する事も出来なかった。寺井の様子や吉沢の態度から考えると、冗談抜きで首もありえるような気もして。
わざわざ社長自ら首を言い渡す事もないだろうに…と、文句を垂れながら、足取りも重く社長室の前に立つとドアをノックした。


「入りなさい…」
中から社長の声が聞こえ、緒方はドアを開けて中に入ると…とりあえず頭を下げる。そして下げた頭で、
首になるのなら…もうこんな事をしなくて良いのか…そう思いながら、習性で行動してしまうのが可笑しくも悲しくもあった。
「失礼します…営業の緒方諒一です。 お呼びと聞きまして伺いました」
そう言いながら、ふと目の端に入った見慣れない人物に何か違和感を覚えた。
窓際に立っているその人物は、こちらに背中を向けているので表情は見えなかったが、
その背中から醸し出すものは、なぜか緒方の心をざわめかせ…何となく不快…そんな気がした。

「あぁ、君が緒方君か…急な呼びつけで驚いただろう。まぁ、理由をあれこれ言うのも何だから率直に言おう。
君には、エムFJの日本支社に行ってもらう事になった。一応出向という名目だが…暫くエムFJで勉強させてもらう。
そう言う事だから…まぁ、頑張ってくれたまえ…判ったね」
社長は、いとも簡単に緒方の出向を告げ。そして緒方の違和感は益々膨れあがり…それが不可解そうな声になった。
「はぁ、うちからエムFJに出向ですか?」
「そうだが…何か不満でもあるのかな」
社長は何の疑問も持たないかのように言うが、緒方は不満とかいう以前に考えられない話だと思った。

大概出向などで異動するのは、総合職で採用された者たちが大半であった。当然、嘗ての余されて出される…そういう概念はなく、
見込みがあるから出される…今はそっちの考え方が定着しつつあって、一般採用の者が出向する事はほとんど無いと言って良い。
ましてや、中小企業のうちからエムFJに出向するなど、どう考えても理解出するには無理のある話だった。
だから何か他に隠された理由があるのでは…そんな気がして
「不満ではないですが…どうして私なのかと思いまして。他に優秀な人材は沢山います。
他社で学ぶ事によって、将来我が社をよりよく導く…そういう者が行くべきだと思います。
それなのに、一営業マンの自分に出向させる…できればその理由を聞かせてください」
緒方が言うと、案の定社長は返事に窮したように 「それは…」 と言って口篭った。

だがその時、それまで黙して背中を向けていた人物が徐に振り向き…そして、緒方の側まで近づくと笑みを浮かべながら言った。
「君は…その理由如何によってはこの話を受けない…辞職する…とでも言うのですか」
百八十以上ある緒方をゆうに越える長身を上品な渋い色のスーツで包んだその人物は、
艶のある栗色の髪と彫りの深い顔立ちから、外人かハーフなのか判らなかったが、どちらにしても役者かモデルのようだと思った。
そして流暢な日本語の発音は、日本人である自分より達者なのでは…そう思わせるほどに綺麗で、
だが…その声と瞳は…逆らう事は絶対に許さない…そう言っているように思えた。

「…失礼ですが、貴方は?」
緒方は真っ直ぐに男の顔を見て問いかける。すると男は、やはりうっすらと笑みを浮かべたまま、
「A・H…此処ではエムJと言った方が解りやすいでしょうか…リオン・カール・グリュクスと申します。
日本では片岡…の方が馴染み易いようですが…まぁ、私はどちらでも構いませんよ」
訳の解らない日本性で名乗った。漠然と感じた不穏なざわめき…それが男のミッドナイトブルーの目を間近に見た途端、
現実のものとなって目の前に現れた。そんな気がして、緒方は

「エムFJの…そうでしたか。貴方が私の言った事を、そのように受け取られたのでしたら…それで結構です…とお答えします。
理由を聞いて納得できなかった場合は、潔く辞表を書き事にします。ですから、私を出向させる理由を教えてください」
緒方は覚悟を決めて答え…聞いた。その緒方の返事に片岡は、
「君は面白い方ですね。まぁ良いでしょう。理由は私が言います…と言っても、明確な理由などないのです。
君でなくてはならない理由など何もない。しかし、君でなくてはならない。なぜなら、A・Hのトップが君を選んだからです。
強いて言えばそれが理由でしょうか。どうです、納得されました?
でも、理由などなくとも、エムFJに出向する…それだけで、君にとっては様々な面でメリットが大きいと思いますよ」
そう言って、はっきりと浮かべた笑みが、緒方自身を含めて会社を馬鹿にしているように見えた。

「は? A・Hの社長が俺を選んだ…それって何の冗談ですか。ふざけないで下さい! 
確かにおたく等から見れば、うちなどちっぽけな会社かも知れないけど、それでも皆必死で頑張っているんです。
自分の会社を貶すような事を言われて、それでもシッポを振る奴ばかりだと思ったら、大間違いですよ。
俺は、理由によってはすぐにでも辞表を書くと言いましたが、今の、貴方の話で考えが変わりました。
俺を選んだ理由もなくて、俺でなくても構わないのなら…出向は断ります。それで、うちの社長が辞めろと言うのなら、
俺は黙って辞めます。これはあくまでもの俺自身の問題で、A・Hなんて関係ありません」
別に自分の会社に誇りを持っている…等という事ではなく、ただ単に片岡の態度が気に入らなかった。
腹がたった…だけなのだが、緒方の啖呵に片岡は急に笑い出し…さも面白いものを見たとでも言う様に声をあげて笑った。

「本当に面白い人ですね、君は。しかし、君が断ると君の大切な会社に多大な損害を与える事になると思いますよ。
A・Hは、貴社との提携を白紙に戻し、今後一切の取引を停止します。良いのですか? そんな事になっても。
緒方さん、私の言っている事は、日本社会では確かに意地の悪い事だと解かっています。
しかし、会社とはそういうものではないですか。どんなに社員が大切だと言っても会社自体が立ち行かなくては、
その大切な社員達を守る事は出来ません。ですから、社員も会社を護るための努力をする必要があるとは思いませんか。
正直…我が社のトップが君を選んだ理由など、私にも解らないのです。それでも…あの方が望む事なら…しかたありません。
ですから、君を我が社に来させるためには……これ以上言わなくても、その先は解かって頂けますよね」

「つまり…俺が此処を辞めたところで、会社が迷惑を被る事に変わりはない…そういう事ですか」
「まぁ…そういう事になるでしょう…ね」
片岡のその言葉で緒方は、既に自分は逃げ道も閉ざされて片岡の言う通りにする以外ないのだと悟った。
「……。汚くて反吐がでそうだけど…その代償に、巨人と小人の差を教えてもらった気がしますよ。
判りました…出向します。それで、うちは何の嫌がらせも受ける事はない…そういうことですね」
緒方はせめてもの皮肉を言いながら、石田の言った、人身御供…その言葉を思い出していた。


片岡には明日から…そう言ったが、必要最低限の引継ぎをして一応周りにも挨拶をして…等と考えると、
出社はどう考えても明々後日からになりそうで…それを係長に伝え了解してもらった。
だが時間が経つにつれ、やはり今回の出向話はどう考えても妙な気がして、緒方は不安めいたものを感じ始めていた。
片岡は確か…緒方の出向に関しては自分が一任されているのだ…と言った。
当然、社員の異動に関わるような人間が、ただの平社員とは思えないのだが、片岡の名刺には社名と名前があるだけで、
役職名すら載されていなかった。おまけに、片岡龍介…等とふざけた名前には、お前は芸人か…と、突っ込みを入れたくもなり。
気に入らない事ばかりが増えてくる。そして、騙されているのでは…などと、疑いの気持ちまで芽生えだして。
だから…なるようにしかならないか…そう思い直し考えるのを止めた。

そして三日後…見上げた建物は緒方が通っていた建物の数倍はあり、
正面入口に掲げられたプレートには、A・Hの他にどういう訳かエムFJも有り、他にも幾つかの社名が記載されていた。
中に入ると右手に受付があり、其処には女子社員二人が並んで座っていたが、二人ともなかなかに美しく。
もしかすると入社試験の際には、受付要員として器量の良し悪しも条件の一つになっているのかも知れない。
そんな事を思いながら、緒方は左側の女性の前に立つと、片岡から渡されていた名刺を見せ、会いたいと告げた。
すると女性は、名刺と緒方の顔を見比べ、それから万人向けの笑顔で言った。

「お待ちしておりました。緒方さまが見えられたら、すぐにご案内するように指示を受けております。
ただいまご案内いたします、少しお待ちいただけますか?」
女性はそう言うと電話を手に取り…緒方さまがお見えになりました…それだけ言った。
その様子から、多分直通で片岡に繋がっているのだろうと想像できた。そして女性がカウンターの中から出て緒方の前に立つと、
「お待たせ致しました、ご案内いたします」 そう言って、緒方の前を歩き始めた。
エレベーターの前でボタンを押すとドアは音も無く左右に開き、そして上へと動き出す。

絨毯を敷き詰めた廊下は、足音はおろか物音一つなくて…なんだよ、此処はホテルかよ…。
そんな声に出さない緒方の声が届いたのか、女性が振り返り、
「この階は、一般社員が立ち入る事はほとんどありませんから…」 
そう言って廊下を突き当りまで行くと、緒方の前から身体を横に移動し、ドアホンを押した。そして、
「緒方様を、ご案内いたしました」 それだけ言うと、返事があったのかどうかも判らないのに、緒方に一礼して踵を返す。
一人残された緒方は、開く気配も無い扉を前にして 「どうすんだよ…勝手に入っても良いのかよ…入るぞ」
小声で言いながらドアノブに手をかけると、ゆっくりと重い扉を開いた。


一面ガラス張りの広い部屋には、窓ガラスを背に大きなデスクがひとつあって、中ほどには立派な応接セット。
そして、右壁には幾つかのモニターが並んでいて…たしか、映画の中でこういうのを見た事がある…あれは…。
緒方がそんな事を考えていると、デスクに座っていた片岡が、窓からの光を背に立ち上がった。
「やぁ、良く来てくれましたね。無理を言ってしまいましたが…引継ぎは無事にすみましたか?」
言いながら緒方に近づいてくる片岡の薄く笑みを浮かべた端正な顔が、この部屋にとても似つかわしいようにも見え、
またとても不釣合いにも見えた。そして緒方も、足音のしない床を片岡の前まで進むと、其処で立ち止まり
「まぁ、何とか必要最低限で…日延べして頂いて有難うございました」
そういうと不承不承ながらも、もしかするとこれから上司になるかも知れない片岡に頭を下げた。

「そうですか、それは良かった。忙しい思いをなさったでしょう」
言いながら片岡は手で来客用のソファーに座るよう緒方を促したが、緒方は其処に立ったまま片岡に向かって、
「それで…俺に何をさせそうとして呼んだのですか。まさか営業の経験値を上げる為…なんて事はいわないですよね。
そろそろ正直に話してくれても良いんじゃないですか…本当の目的を」
そう言うと、緒方は勝手に部屋を進み、窓際に寄ると二十一階の高さから」下を見下ろした。

足もとまでガラス張りのせいか、感奇妙な浮遊感が吸い込まれそうな不安となり、ざわつきながら身体の中を駆け巡る。
もっと高く…人間の姿が形を成さなくなれば…目に映るのはただの景観になるのかな…そんな事を思いながら。
「こんな処から下を見下ろして、気分が良いんですかね」
緒方が独り言のように呟くと、既にソファーに腰を下ろしていた片岡がくすっと笑い。それから、
「慣れれば、それも良いものですよ」 と言った。

「俺は、慣れたくもないですね。それで…さっきの答えは?」
緒方は窓に背を向けるとその場でデスクの椅子を引き、事もあろうかそれに腰をおろすと徐に脚を組む。
だが片岡は表情ひとつ変えることなく、緒方をみつめたまま一つ覚えのように何度も聞いた言葉を繰り返した。
「さぁ…私は社長のお心に従っただけで、社長がどういうおつもりかまでは伺っておりません」
そこまでされると流石…と感心したくもなるがいい加減うんざりもし、そして緒方はあからさまにそれを顔に出すと、
「あなたの仕事というのは、そうやって人の話をはぐらかす事みたいですね。
それじゃ…本当の事など云わないでしょうから、俺を見初めたという本人に直接聞くのが一番…って事ですね」
そう言って遊ぶように椅子を回転させた。

緒方にしてみれば、先日社長の前であんなことを言ったのはただ単に片岡の言葉や態度が気に入らなかっただけで、
会社や社長に対し忠誠心があっての言葉では無かった。だから一応出向を承諾したものの、その後の展開によっては…。
そんな気持ちもあって…自分は此奴の言いなりになって此処へ来た訳では無い…そう思っていた。
そのせいもあってか緒方の態度は自ずと横柄なものになった。だが片岡は、表情も変えず平然とした口調で言う。
「社長は、今フランスにおられます。それからイタリアに寄りますから…帰りは、どんなに早くとも来月初めになると思いますよ」
嘘か本当かそんな事まで言い…それには緒方もこれ以上片岡と押し問答のような事をしていても無意味だと思った。だから、
「そうですか…それじゃ俺も、来月になったらまた来る事にしますよ…それじゃ、どうもお邪魔しました」
そう言うと椅子から立ち上がりドアに向かう。すると片岡が、思ったよりすばやい動きで緒方の前に立ち塞がった。そして、

「緒方さん…貴方の気持ちは解りました。私は、もう少し誠意をもって答えるべきでしたね…謝罪します。
でも、私もやりかけた事を中断する訳にはいかないのです。とにかく、もう一度座っていただけますか」
物腰も柔らかに言葉丁寧に言うが、それにも拘らずやはり有無を言わせぬ威圧感があり。
片岡という男の強かさを覗き見たような気がした。それに…此処でむきになったら、自分は口だけでは済まなくなる。
そんな気もして、緒方は腹の中の怒気を吐き出すように大きく息を吐くと、片岡に促されるまま今度はソファーに腰を下ろした。
すると片岡も回り込むようにして緒方の真正面に座ると、
「緒方さん…貴方には怖いものがないのですか?」 緒方の目を見つめてそんなことを言った。

「なんですか、急に話が飛びますね」
「まぁ、確かに…でも、私は興味があるのですよ。貴方の、そのかたくなまでの強気が何処から来ているのか。
私の知る限る日本の企業では会社の方針、上司の命令は絶対。ましてや取引先の人間に刃向うなどあり得ない。
そう思っていました。でも貴方は…ビジネス上の衝突では無く私情で私に牙をむいている…そんなふうに思えるのです。
それで何もかも失う…とは考えないのですか。それとも、自分を選んだのが社長なら、私など…そう思っているのですか」
綺麗に手入れされた長い指を組み合わせ、じっと緒方を見つめるミッドナイトブルーの瞳は
緒方の心の中まで覗き込もうとしているように見えた。

「そんなせこい事考えていませんよ。俺は多分…どうでも良いだけなのだと思います。強気なんかじゃないですよ」
「どうでも良い…それは自分が…という事ですか?」
そう言うと片岡が意外そうな表情をし、瞳の色も紺青に変った。
「そうかも知れない。だから、なんでおたくの社長がこんな俺に白羽の矢を発てたのか…それが知りたかっただけですよ」
「そうですか…でも、本当に何も聞いてないのです。私の仕事は知る事では無く…貴方を社長の側に相応しい社員に教育する。
ただそれだけですから…貴方の疑問には答えられないのです」

「社長の側に相応しい社員に教育? 何ですかそれは。従順なペットでも育成しようって事ですか?
なら俺は、あんた等の望む様な社員になれそうもないし、なりたくもないですよ。俺は俺のままで充分だし、
こんな俺も良いと言う人間の側に居たい。それに…変わる時は自分で変わる。人に矯正されるのはごめんです。
あんたは…自分の意志とは関係なく誰かに合わせて変えられる…そんな事が幸せだと思うんですか」
「…幸せかどうかは別として、仕事なら多少の我慢は仕方ないと思っています」
片岡はあくまでも仕事だと言い、緒方はそんな事の為に今回の事が画策された…そう思うと怒りを通り越して呆れてしまい。
それがたとえ好意からにしても嫌がらせにしろ、そんな事はもうどうでも良い気がした。

「仕事…ね。すると、俺の仕事は社長のお守りって事ですか。あいにくその仕事は、俺には一番向かない仕事だ。
それなのに、俺なんかに目を留めるなんて…お宅の社長は人を見る目が無い…そう思います」
緒方が言うと、片岡はそれについては何も答えず…そして緒方は、これで明日から仕事探しだな…そんな事を考えていた。
だが、出向の話を聞いたあの時、ほんの一瞬だが…エムJに行ったら…蓮見に。もしかしたら蓮見に会えるかもしれない。
そんな事を考えた自分を思い出した。その途端、蓮見の本当に楽しそうな笑顔と無防備な寝顔が頭に浮かび。
そして、出来れば蓮見が今どうしているのかだけでも知りたい…と、思った。

「あ、あの…ちょっと聞きたいんですが…此処に蓮見さんって社員がいますね。俺の会社に、課長として出向していた人です。
その人が、三月ほど前にこちらに戻って来たはずですけど…彼の事何か知っていますか?」
蓮見の名前を口にした事で更に懐かしさがこみ上げ…一目だけでも会いたい…その思いで緒方の胸は一杯になる。だが片岡は、
「……。蓮見…ですか。そう言えば二年の出向予定の筈が、父親の死で予定より早く戻された社員がいましたね。
でも彼は…父の跡を継ぐことになったとかで…確か辞職したはずです」 事も無げに、あっさりと言い切った。
「えっ! 辞めた? 本当に辞めたんですか」
「えぇ、間違いありません。此方に戻ってから直ぐに…」
「………。そうか…辞めたのか。全然知らなかった」
一杯に膨らんだ風船が突然大きな音と共に眼の前で割れてしまった。そんな衝撃と喪失感で自分の中を風が通り抜けていく。
それでも心の中で…蓮見に会いたい…そう叫ぶ自分の声が聞こえたような気がした。








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