03.蒼天のオリオン

距離


毎日がつまらないという訳ではない。だがそうかと言って楽しい訳でもなかった。
仕事もそれと同じで、面白くもありつまらなくもあって…会社員なんて、世の中なんてそんなものだ…と思う。
休日だからと言って特に予定がある訳でもなし、溜まった洗濯物を片付け、積もった埃に掃除気をかければ後はする事も無い。
一人暮らしの一LDKはほんの数十分でそれら全てが終わり、後は寝転んでテレビでも見る。
たまにはレンタルビデオを借りて楽しむ事もあるが、大概はごろごろして一日が終わった。
それは誰も同じようなもので大差など無い…と思いながらも、いつも何かが足りない気がしていた。
何がしたい。何が足りない。何が欲しい。見上げた窓の外は雲一つない抜けるような青空。
その青さと記憶の中の瞳が重なり。あの瞳は…今、何を映しているのだろう…なぜかそんな事を思った。

休日出勤なんて、よほど切羽詰まった事でもないかぎりやりたく無い事のひとつなのだが、不幸にも、  明日の朝一番に会う約束をしている相手に渡す資料が、まだ数値の訂正が済んでいなかった事を…思い出してしまった。
物価の変動が激しいのに加えて税率のアップなども重なり、以前の見積もりでは受注が難しくなっている。
その為価格を一部変更して再度交渉し、その結果どうしても妥協点がみつからないなら仕方ない…そんな事を言われ、
随分簡単に言うな…と思いながら、中小企業の大半はそんな処で模索しながら揺れているのかも知れない…と思った。

いつもより遅い時間に家を出て、会社に着くと当然人の姿はなく。電話、パソコン、プリンター、それらの出す音や熱もない。
普段とは違う社内は、嫌になるほど静かに無機質で…休日の学校より寒々しい気がした。
結局は、人がいての会社であり。機械が作動しての会社。それならもっと給料を上げても良い筈なのに…。
そんな事を考えながら、カチャかチャとキーボードを叩き、画面の数値を訂正していく。コツコツという足音がやけに響き、
足音? 俺の他にも出社している奴がいたんだ。そう思っていると、開けっ放しの入口から声がした。
「どなたか…いますか?」
呼びかける声が何となく不安気なのは、緒方の居る場所がブースになっている為入口からは見えないせいなのだろう。
だが緒方にはその声が誰のものか直ぐに判り、その場で立ち上がったのだが、蓮見は気付かなかったのか、
「すみません、僕もう帰りますから…事務所の主電源……」
再度呼びかけ…それが途中で止まった。そして、緒方の顔が見えた途端蓮見の顔が嬉しそうに綻んだ。

「あっ、緒方さんも出ていらしたのですか? まさか、今日又会えるなんて思ってもいませんでした」
そう言いながら蓮見は緒方のいるブースまで来ると軽く頭を下げた。
だが、側で見る蓮見の顔色は蒼白と言っていいほどに悪く唇まで色を失っていた。
どう見ても体調が良いと見えないその様子に、もしかしたら昨夜の飲み過ぎが原因か…とも思いながら、
「顔色が悪いですよ…大丈夫ですか」
緒方は心配そうに言い、手を伸ばし隣の席の椅子を引くと蓮見にそれを勧めた。

「ありがとうございます。ちょっとむかむかするだけで…他はどうという事もありませんので大丈夫です。
それより、昨日は無理を言ってご一緒させて頂き有難うございました。とても楽しかった。
でも楽しすぎたのか…つい飲み過ぎてしまったようで…今朝目が覚めたら自分のベッドに寝ていたので驚いてしまいました。
もしかしたら緒方さんに大変迷惑をかけたのでは…と思い、直ぐにお電話をしようと思ったのですが、
僕…緒方さんの連絡先を知らなくて、御礼もお詫びもできませんでした。申し訳ありません。
でも此処で会えて良かったです。改めて、昨夜はお世話になり本当に有難うございました」
そう言いながら、もう一度丁寧に頭を下げた蓮見は、礼儀正しいサラリーマン以外の何者でもなくて、
昨夜の蓮見は一体何だったのだろう…と思いながら、緒方はほんの少しだけ寂しい気もした。

「いや、別に迷惑な事なんて何も有りませんでしたよ。むしろ課長の意外な顔が見られて、俺も楽しかったです。
もしかすると、今課長の顔色が悪いのは二日酔いのせいかも知れませんね。それなら、夕方になる頃には勝手に治りますよ。
けどその様子じゃ、朝から何も食べていないのでしょう?」
緒方が笑いながら言うと、蓮見は小さく頷き、
「えぇ、正直水も口にしたくないほどでしたから、なにかを食べようなんて思えませんでした。
でも、この気持ち悪さが二日酔いのせいだったなんて…なんか、沢山楽しい思いをした事への罰みたいですね。
それで…緒方さんは何ともないのですか? そうだとしたら、楽しくなかった…という事かな」

まるで二日酔いにならない緒方が恨めしいとでも言いたげな顔でそんな事を言う蓮見が可笑しくて、
石田ではないが可愛らしい…等と思ってしまう。
休日ということもあってか、蓮見は背広にネクタイでは無く、藍鼠のジャケットに榛色のスリムパンツという装いで、
共にジャストフィットで丈の長さが少し短めなのが、スッキリと若々しく見えた。
そんな蓮見を、緒方は幾分眩しそうに見つめ、ほんのちょっとだけ期待を込めて言う。
「違いますよ、俺はザルみたいなものですからあのぐらいの酒は飲んだうちに入らないだけです。
ただ休日はめんどうだからコーヒーだけで済ませてきましたが、これが終わったら昼飯にしようと思っています」
すると、蓮見が緒方の前のパソコンにチラリと目を向け、それから緒方の様子を窺うように言った。

「それはまだ、かかりそうですか?」
「いえ、訂正箇所は全部入力しました。後は印刷するだけですから、ほんの数分でおわります」
緒方のその言葉で蓮見の顔が少しだけ色を取り戻し、それでも声は不安そうな色を残したまま、窺うように聞く。
「それじゃ…緒方さんが終わるのを待っていてもいいですか?」
それは緒方が心の中で待っていた言葉…のような気もしたが、なぜか口は心を隠すような台詞を吐いた。
「別に、構いませんけど…課長は、帰って休まれなくて良いのですか?」 すると蓮見は幾分躊躇うような様子で、
「もう気持ち悪いのは治りました。それに、待っていたいんです。迷惑ですか?」
窺うように言い。緒方は…ホッとため息とは違う安堵の息を漏らした。

「迷惑なんて…そんな事ありません。一緒に帰りましょう。それで、何処かで昼飯でも食いますか?」
「はい!」
それはそれは嬉しそうに…大きく頷く蓮見に、緒方は苦笑を浮かべると最後のキーをポンと押した。


それから緒方は、蓮見と一緒に食事をしたり時には呑みに行ったりするようになった。
蓮見はそのつど、楽しい。嬉しい。美味しい…の言葉を繰り返し。
普通なら鬱陶しいと思えるほどのその喜び様が、緒方にはなぜか微笑ましく思えた。
その為最初に思った変な奴は…今でも確かに変…に変わりないが、其処に可愛らしいとか、和む…が付加されるようになった。
次第に緒方の心の片隅には蓮見の存在が座を作り、緒方はそれに気付かぬ振りをしながら…蓮見の笑顔に癒される。
都会では地上に散りばめられた人工の明りに遮られ、夜空に輝く星の光も地に届く前に輝きを失い。
それでも時には澄んだ夜空に無数の星々が輝き、神秘の光で見上げる者を夢幻の郷愁へと誘う。
だから…いつからか空を見上げるのは、緒方にとって過去を思い起こす一番辛い行為になった。

そして今日も…二人並んで帰る道、蓮見が緒方を見上げるようにして聞いた。
「緒方さんは 好きな人がいるのですか?」
それは唐突なようでもあり、降るような星の下ではとても自然なようにも聞こえた。そして緒方は、前を向いたままで答える。
「好きな人ですか? 残念ながらいません」
「そうですか…なんとなく、緒方さんにはそういう人がいるような気がしたのですが」
「それは、課長の気のせいです。俺の事より、課長こそ良い人がいるのではないですか?」
そう言うと、緒方は前に向けていた顔を蓮見に向けた。すると今度は、蓮見の視線が緒方から前に移り。
「僕はいますよ…大好きな人。 ずっと前から…たった一人、その人だけです」
言ったその横はがとても嬉しそうに…なのにどこか寂しそうにも見えた。

「課長のような方にそんなに思われているなんて…幸せですね、その人は。羨ましい限りです」
今は、あながちお世辞でもないような気がする言葉を、蓮見の横顔から視線を逸らしながら言うと、蓮見は、
「ところがそうではないのですよ。悲しいかな、その人は僕の事を何とも思っていないですから。
僕の勝手な片想いなんです。それでも好きで…昔からずっと…今も、多分これからも…可笑しいでしょう」
そう言うと蓮見は空を仰いだ。
そして緒方は、蓮見の言った片思いという言葉に少しだけホッとしている自分から目を逸らした。

「そんな事ありません。課長の気持ちは、いつかきっと…その方に伝わりますよ」
「そうでしょうか…」
何となく不安そうな顔で、じっと緒方を見つめるその瞳は、深い闇に閉ざされた夜空の色で…緒方はその闇の中に、
かつて見あげた星座が見えたような気がした。だから思わず、思い出のそれを言葉にする。
「課長…冬の大三角…って知っていますか?」
「大三角ですか? たしか…シリウス、ペテルギウス、プロキオンを結んだ三角ですよね」

「流石は課長…良くご存知ですね。実は俺、昔…聞かれた事があったんですペテルギウスの側にあるオリオン。
あの三つ並んでいる、冬の代表的な星座。「あれはなんて言う星?」 そう聞かれて答えられなかった。
俺は、そんな事も知らなくて…答えられない自分が恥かしくて、そいつに当り散らしたんです。
いつも、いろんな事を聞いてきて、そのたびに、たとえ知っている事も素直に答えられなくて…イラついて。
あの時、教えてやれたら…もっと素直に自分の心を認めていたら。知らないから一緒に調べよう…そう言えていたら。
今更、どうにもならない昔の事を、いろいろ考えてしまうんです。特に、こんな星の綺麗な夜は…思い出すんです」

互いに前を向いたまま…それでも、隣に並ぶ互いに語る。
互いの知らない…想い人…のことを。

「……。その人…今は…」
「さぁ…何処にいるのか。どうしているのか。でも、多分あいつも同じ様に星を見上げているんじゃないか…そう思います」
「好き…だったのですか」
「どうなんでしょう…正直、俺にも良く解かりません。ただ…」
「ただ?」
「怖かったんです…あいつの目が。とても綺麗で…あまりにも綺麗すぎて…だから、とても怖かった。
すみません、つまらない話をして。昔の…子供だった頃の話です」

見上げる夜空には満天の星…月の光さえ霞む星の輝きは目に痛く。
どうして冬は、星が綺麗にみえるのでしょうね…そう言った蓮見の声が耳に痛い。
鼻の奥がジーンと痛むのは…上を見上げているせい。決して…涙が零れそうな訳ではない。


蓮見は酒が弱いにも関わらず、飲みに行こうと言っては緒方を誘い。食事をした後も必ずと言っていいほど飲みに誘った。
そしていつも酔い潰れてしまい…緒方が送っていくはめになった。
それは既に二人の間の決まりごとようにも見え、蓮見が緒方に送らせる為に飲めない酒を呑んでいるようにも見えた。
「俺は、課長の従者ですか?」 緒方が冗談にそう言うと、蓮見はいつもちょっと悲しそうな目をし。
「そうですね…」 と言って寂しそうに笑った。そして、緒方に自分のマンションのカードキーを渡し。
「お願いですから…帰るのは僕が眠ってからにして下さいね」 と言った。

だからと言って毎回送るという訳でも無かったが、それでも何度かマンションまで送っていくと、蓮見は部屋に着くなり、
眠い…と言ってそのまま着替えもせずにソファーや床で寝てしまう。そして緒方はそんな蓮見をベッドに運び、
蓮見の言葉どおりにその寝顔と寝息を確かめ…帰る。本当に従者だ…鼻で自分を笑いながら、
それでもこの従者を他の誰かがする…そう思うと居の辺りから苦い物が込み上げてくるような気がした。
其れと同時に、蓮見がどうしてあそこまで無防備でいられるのか不思議だった。
以前、バンドエイドを探してリビングボードの引き出しを開けた時、其処に無造作に入れてあった現金。
緒方の給料の何ヶ月分にも当たる金額が、銀行の帯び封が付いたまま入っていた。

盗もうと思えば簡単に盗める状況でもそれを気にしていないのは、緒方を信頼しているのか。
それとも、そんなものは、蓮見にとって取るに足らないどうでも良い物なのか…訳が判らなかった。
そして日毎強くなる自分の中の意識的無自覚。
もしかしたら…自分はあいつと課長を重ねているのでは…そんな事を思ってしまう。

あいつの瞳は…真蒼な冬の空の色。だが課長の瞳は…夜空の色。全くの別人だと判っている。
それでも…ふとした時に重なる言葉に出来ないもの。それが、喉に刺さった小骨のように苛立たしくてならなかった、
そして今日もまた、小さな子供のように手足を縮め、丸くなって眠る蓮見の姿を見ながら、
肌に触れてみれば…抱いてしまえば…違うと納得できるのだろうか。
そんな事を考えてしまうのは…蓮見の無防備さのせいばかりでは無いのも解っていた。

課長…そんなに気を許していたら…いつか…俺は。だから、あまり俺の中に入って来ないでください。
緒方は呟くように言うと蓮見にそっと毛布を掛けると、その頭を愛しむように撫で…音も立てず部屋から出て行った。


決算間近の忙しさもあったが、緒方はここ数日蓮見の姿を見ていないような気がした。
そうは言っても蓮見とは部署も違うので顔を合わせなくても、別になんら不思議はない…のだが、
それでも蓮見と飲み行くようになってからは、少なくとも日に一度は顔をあわせていたような気がしていたから、
全く姿が見えない…というのが、緒方を何となく不安で落ち着かない気分にさせた。
どうしたんだろう。出張の話などは聞いていなかったが…何処かに行っているのかな。
それとも体調でも壊して休んでいるとか…そんな事を考え出したら急に心配になり…総務に行くと、
中から出てきた女子社員に声をかけた。

「ねぇ…蓮見課長は、お休みしているのかな」 すると、入社三年ほどになる女子社員がなぜか顔を輝かせて、
「課長は、お父様が倒れられた…という事でお休みされています…が、課長に何か?」
そう言うと、今度はうさん臭そうな顔で緒方を見つめた。思ってもいなかった女子社員の言葉と反応に、
俺…あんたに何かした? 言いたいのを堪え、営業マン緒方の顔はにこやかに口からは嘘が飛び出す。
「あ、いや…以前課長にCDを借りたんだけどさ…ここんところ忙しくて返す機会がなかったから…。
でも、お父さんが倒れたって…大分悪いのかな、何か聞いている?」
緒方がさりげない素振りで問いかけると、女子社員は、何だ…そんな顔をし。

「さあ、特に何も聞いていません。でも、もし何かあれば会社に連絡があると思うので、心配するほどでは無いと思います。
あ! 課長に借りたCDだけど…もし、良かったら私が預かりましょうか?」
ご丁寧寧にそんな事を言ってくれたが、借りたものなど無いのだから、有り難いどころか迷惑でしかなく、
「いや、別に急ぐわけでも無いだろうから…悪かったね、引きとめて」 緒方がにっこり笑ってそう言うと…若い女子社員は
「いいえ、どういたしまして…緒方さん」 と言って媚びたような目で笑った。

考えてみたら…一緒に食事をした時も、飲みに行った時も、蓮見が家族や故郷の事を話題にしたことは無かった。
だが、男なんてそんなものだろうと思っていた緒方は、その事を気にした事も無かった。
ただ、マンションに住んでいるのは蓮見一人だけなので、家族は別に住んでいる…単純にそう思っていた。
だから…父親が倒れた。そう聞いて緒方は蓮見の実家は何処なのだろう…と思った。
田舎遠いのかな。親父さんの具合どうなんだろう。いつ頃帰るのかな。もしかしたら暫く休む事になるのかな。
などと考えている自分が、まるで蓮見の帰りを心待ちにしているかのようで…可笑しかった。

だが何日待てども暮らせども、蓮見はそれっきり会社に戻っては来なかった。
そして、社内掲示板に蓮見の移動が告示された。

蓮見○○、エムJ本社に帰社。
蓮見は、二年どころか一年足らずで、自分の元いた会社に戻って行った。


「緒方さん、最近元気ないですね」
いつもの居酒屋で前に座った石田が何時になく酔った様子で、半分空になったグラスを目の前にかざしながら言った。
グラスの向こうに見えるその目は、緒方を心配しているようにも、揶揄っているようにも見えて。
「別に、変んないよ。それより、今度主任だって? やったじゃないか、おめでとう」
緒方はぎこちない笑みを浮かべて、石田の昇進を祝う言葉を口にした。
その途端、石田が如何にも嫌そうな顔をしてグラスを置くと、緒方に不満をぶつけるかのように言った。

「止めてくださいよ。誰もやりたがらないから、ご丁寧に肩書まで付けて僕に押し付けただけなんですから。
大体ですね。パートの叔母さん達の管理なんて…これほど面倒な事はありませんよ。
知ってますか…彼女たちの留まる事を知らないパワーとバイタリティー。あれには我々男は太刀打ちできません。
だからみんな、神経をすり減らしてノイローゼになるんです。緒方さん僕はね、態のいい人身御供に選ばれたんです。
それをおめでとうだなんて…そんな事言える緒方さんの方がよっぽど目出度いです。僕はそう思います」
いつもは比較的冷静で聞き役にまわる石田が、今日は憤懣やるかたない…そんな口ぶりで言う。
その様子から、石田が主任に抜擢された事を不満に思っているは本当なのだと判った。そして緒方は、
すまじきものは宮仕え…か。そんな事を思いながら、石田が珍しく酔っている理由が解る様な気がした。

「おいおい、今日は絡み酒か? まぁ、確かに女は難しい…だから必要以上に関わりたくない…のかも知れないな」
「そうですよ…そのてん男は単純な生き物です。それに自分も男だから、相手の気持ちも分かる…楽ですよ」
そう言うと石田は人付き合いに達観したかのように鼻で笑い、揚げジャガに箸を突き刺しそれを口に放り込んだ。
そんな石田を見ながら、緒方は苦笑いを浮かべるが石田の言った事が可笑しくもあって、少しからかうように言った。
「そうだな…それでも、男は女と愛し合い結婚する。矛盾していると思わないか」
緒方にしてみれば、ほんの軽い気持ちで男女の機微を言ったつもりだったが、石田は予想に反してそれに意義を唱えた。

「それは…本能ですよ。それと、錯覚。自分の選んだ女だけは、他の女たちと違う…そんな錯覚を持つんです。
錯覚したままで一生過ごせれば幸せ。でも、途中で気付けば、後は我慢の毎日が続くだけですよ」
まるで男女の関係に失望しているような事を言う石田に、緒方は少なからず驚きを覚えた。
常々緒方は、石田の事を自分とは正反対の人間だと思っていた。
今まで見てきた限り、石田はいつも穏やかで人付き合いも良く…優しい。なので、当然女性にも好かれる。
多分理想の恋人、最高の夫…そして家庭的で優しい父親になるだろう。緒方はそう思っていた。
そんな石田が、女性との関係は錯覚だの、我慢の毎日だのと言い。それがなぜか緒方にはとても寂しく思えた。だから、

「お前は…若いのに既に人生を達観しているみたいだな。それで希望も持てないのか」
幾分沈んだような声で言うと、石田は緒方の気持ちを察したのか、大げさにがっくりと頭を垂れ。
「緒方さん、勘違いしないで下さいよ。けどまぁ、そんなふうに思われても仕方ないか。
 だって僕、いろんな奴を見ていますから。それにどういう訳か、僕の周りには不幸な奴が多いです。
だから今日は不幸を吹き飛ばして、元気を取り戻そうと思って緒方さんを誘ったんですよ」
それなのに何て顔をしているんですか。これじゃ逆効果じゃないですか」
そう言って笑いながら緒方を見つめる石田の目は、指の代わりに緒方を指しているように見えた。

「何だよ…それじゃ、俺も不幸な連中の中の一人って事か?」
「そうです、緒方さんは不幸のどん底。でも、少し前は幸せそうでしたけどね。それで…蓮見さんからは連絡ありましたか」
石田がいきなり蓮見の名前を口にし、緒方はその名前で自分の気持ちがざわざわと波立つのを感じた。
蓮見の事を忘れていた訳では無い…が、考えないようにしていたのも確かで…それが名前を聞いただけで動揺する。
そんな自分が情けないというか不甲斐無いと言うか…そんなふうに思ったせいか、緒方の声が拗ねたものに変った。
「それって…俺が落ち込んでいるって事か」
「あれ? 違います?」
「違うに決まっているだろう。お前は気を回し過ぎているだけだ。それに課長から連絡だなんて…そんなものある訳ないだろう」
「そうかな。僕…緒方さんにだけは連絡があると思っていたんですが。そうか…何の連絡もないのか。
それじゃ、遠慮しなくても良いって事かな」 そう言うと石田は、何となく意味ありげな笑みを浮かべた。

石田は今までも、はっきりとした言葉にはしないが、見ようによってはそれらしい仕草や言い回しをする事も有り、
緒方は、そんな石田との間が、なるようになるならそれも構わない…そんなふうに思った時もあった。
だが二人の関係はお互いに一歩を踏み出す事もないまま、友人としても距離を保ってきた。
だが蓮見が現れた事で…去った事で、その距離が微妙に揺らぎ始めたような気もした。だから緒方は、笑みの意味に気付かぬふりで
「あの人は自分の帰るべき場所に帰っただけだ。何といっても、うちとは比べ物にならない大きな会社だからな。
今頃は戻してくれた人に感謝し…喜んでいる事だろう。あとは其処で、順調に出世していくだけで良い。
そんな人が何ヶ月か出向した小さな会社での事なんて…いつまでも覚えている筈はないよ」
他意も無く言ったつもりだったが、何処か蓮見を妬み蔑んでいるようにも聞こえて…緒方は自分で言った事を後悔した。

「そうかな…あの人、そんな簡単に緒方さんの事忘れちゃうかな。そんな人には見えなかったけど」
石田は、緒方の心の奥底に潜む微かな願いを代弁するかのように言い。緒方は石田の言葉を打ち消すようにグラスを煽ると。
「もうあの人の話は止めよう。それより最近ご無沙汰しているから、最後までサービスしてくれる店にでも行くか」
態と助平ったらしく言うと、石田は緒方の顔をじっと目つめ…それから、少しばかりの躊躇いと共に言った。
「…なんなら、僕が……しましょうか」
一瞬ふたりの視線が絡まり…緒方はその意味を理解したが、同時に石田と自分の想いの温度差にも気付いた。だから、
「お前な…本当に酔っ払ったみたいだな。それじゃ店に行って高い金を払っても何の意味も無いだろう。
ま、しょうがないから俺も今日は大人しく帰る事にするわ。だからお前も…さっさと帰って寝た方が良いぞ」
そう言うと緒方は伝票を手に立ち上がり、まだ座ったままの石田に。

「石田…気を使わせてすまなかった。けど、ありがとうな。だから…今日の分は俺に持たせてくれよ。
次は、お前と折半出来るようになっているからさ…又飲もうや」
今度こそ本当に笑いながら言うと、石田の顔から妙に大人びた表情が消えて、若者らしい笑顔が浮んだ。








蒼天のオリオン- Copyright © 2014/ 9/02/sanagi . All rights reserved.   web拍手 by FC2