02.蒼天のオリオン

変化


考えてみれば、蓮見は親会社からの出向という事もあり、上司の間では穏便に何事もなく…そんな空気が無い事もなかった。
そのせいか社員たちも何処となくよそよそしい態度で…もしかしたら疎外感のようなものを感じていたのかも知れない。
もしそうだとしたら…自分の素っ気ない態度もまた蓮見を傷つけていたのでは…そんな事を思っていると、
「緒方さんどうしたんですか? なんか…緒方さんの周りだけ空気が重く沈んでいますよ」
石田が緒方に向かって言い、蓮見までもそれに同調したかのように言う。
「そうそう、暗い! 暗いですよ、緒方さん。此処はパーッと楽しくいきましょう。パーッとね。
それで石田さんみたいに僕といろんな事お話しましょうよ。えへへへ」
にこにこと満面の笑顔で…それでも酔いの出始めた目元は薄っすらと色づき、真黒な瞳が水を張ったように潤んでいた。

そんな蓮見の顔を間近に見て、緒方は少しだけ心配になり返事を期待せずに聞いてみる。
「課長、もう酔っ払っているんですか? ひょっとして…お酒弱いんですか?」
「お酒? 僕は弱くなんかないですよ。でもあまり呑まないから…本当はどうなのか判んないけどね。ははははは。
でも大丈夫…僕は酔ってなどいません。まだまだイケます。だって、こんなに楽しいのは久し振りですからね。
酔ってなんかいられないんです。そうですよね、緒方さん」
蓮見はそう言いながら、紅を差した目元で蕩けるように笑った。それから鯵の梅味噌たたきを一口食べてはうんうんと頷き、
次にサワーを一口飲んではまたうんうんと頷く。そしてそれすらも楽しそうで…緒方にはそれが不思議に思えてならなかった。

「本当に、何がそんなに楽しいんだか…」 緒方が思わず口にすると、石田は笑みを浮かべたまま、
「ですね…でも、なんか可愛いじゃないですか。ちょっと興味をそそられますね。一度…誘ってもみようかな」
そう言うと流すような視線を緒方に向けた。
笑みを含んだような目が緒方をからかっているようでも有り、意外と本気のようでも有り。
それなのに緒方は、石田の切れ長の目とその下の小さなホクロが妙に艶っぽいな…そんな事を思いながら、
「おいおい…冗談だろう。この人には手も足も駄目だからな。頼むから妙な考えを起こすのだけは止めてくれよ」
態と大仰に石田の思い付きを阻む台詞を口にすると、石田は今度は矛先を緒方に変え、絡むかのように言った。
「あれ? どうしたんですか。確か迷惑がっていましたよね。それともあれは口先だけで、本心は違っていた…そう言う事ですか」
そしてその言葉は、冗談の衣を着せて緒方の真意を探っているようにも聞こえた。

「違わないさ。俺は子守もご機嫌取りもご免だ。けど、この人に何かあったらうちの会社は困った事になる。
それが判っているから言っているだけだよ。要するに面倒に巻き込まれて失業するのは嫌だって事だよ」
可能性としては限りなくゼロに近い理由を並べ立てながら、緒方は石田の追及から逃れるように目の前のグラスをグイとあけた。
それなのに石田は、そんな緒方に更に追い討ちを掛けるように、とんでもない事を口にした。
「そうか…蓮見さん、親会社からの出向でしたね。でも合意の上でなら…問題にはならないと思いませんか」
その言葉で緒方は思わず噴き出しそうになり、慌てて口元を手で拭った。
「合意って! お前…本気か?」
ひそひそと話していたつもりの声が思わず大きくなってしまい、結果其れが良かったのか蓮見がいきなり顔を上げた。そして、

「何れすか、合意って。二人れ示し合わせて、僕を追い払う相談でもしているのれすか」
幾分呂律の廻らない口調で言ったと思ったら、身体がゆるりと傾き緒方にもたれた。そしてそのまま元に戻そうともしない。
どうやら完全な酔っ払い状態に突入したようで…緒方はその身体を少しだけ押し戻すと、
「そんな事はしていませんよ。それより課長、本当に大丈夫ですか。」
幾分心配そうに聞いた。すると蓮見は目を閉じたままニヘッと笑い…それから、
「なんかぐるぐるするみたい。れも、平気れすよ…僕は。緒方さんが暖かくて…なんか…ちもち良いです」
言いながらその顔は本当に気持ち良さそうで…何となく幸せそうにも見えた。

「なぁ…課長、どのぐらい飲んでいたっけ」
すると石田は頭の中で数を数えているような目をした後、親指以外の指四本を立ててみせた。
「確か…梅とグレープ…それからピーチの三杯。それが四杯目…だったと思うけど」
「四杯か…口当たりが良いからピッチが速かったのかな。だとしても、サワー四杯でこんなに酔っ払うか?」
「さぁ…僕らに比べたらかなり弱いかも…。でも、そろそろ不味そうですね。少し早いけどお開きにしましょうか」
気を利かせたのか、石田がそんなふうに言ってくれ…緒方は、正直その気遣いを有り難いと思った。
いつもならまだ宵の口で…時によっては河岸を変えての見直すこともある。だが今日は、そういう訳にもいかず。
「悪かったな…けど、いろいろ助かったよ。今日の呑み代は俺が持つから…今度またゆっくり飲もう」
緒方が言うと、石田は自分の分より少し多めの金額をテーブルの上に置き、
「そんな…二人で飲むときは折半と決めたでしょう。だから、気にしないで下さい。
それに今夜は思いがけない飛び入りもあって、とても楽しかったんですから。それじゃ、僕はこれで帰ります。
また誘ってください…」 やはり意味深な笑みを浮かべて小さく手を上げた。

どうすんだよ…これ。俺は絶対に、背負ってなど帰らないぞ。こうなると、やはり石田に持ち帰らせたほうが良かったかな。
等と不謹慎な事を呟きながらも、至極幸せそうな蓮見の顔を見ている緒方の顔にも笑みを浮かぶ。
だからと言って、いつまでもこのまま座っているわけにいかないのも確かで、
「課長…課長…大丈夫ですか。もう帰りますけど…一人で歩けますか?」
言いながら肩に凭れている蓮見を少し揺らすと、蓮見は緒方に凭れて身体を起こした。そして、少しの間の後
「らいじょうぶれす。僕は、ちゃんと一人で歩けます。 あれ? いしらさんは?」 そう言って赤く充血した目を緒方に向けた。
「先に出ました。俺たちも帰りますよ。今会計をしてきますから、課長は少しだけ待っていてもらえますか」
緒方がそう言って立ち上がろうとすると蓮見は一瞬怯えたような目をし…緒方の腕を掴んだ。

「嫌だ…置いて行かないで。僕も一緒に行きます」
赤く潤んだ瞳が酔いのせいばかりでは無いようにも見えて…、
「……。解かりました。それじゃ、一緒に行きましょう。大丈夫ですか、歩けますか?」
緒方がそう言って蓮見の腕をとって立たせると、蓮見は意外にもしっかりした足取りで緒方の後に続いた。
そして、会計をしようとしている緒方に自分の財布を差し出した。
「緒方さん、これで払って下らさい」
「いいですよ…今日は俺が払いますから」
「れも…僕も飲んらし…たくさん食べたから」
見上げるようにして言う蓮見の目元は更に朱を増し瞳は霞にけぶる。
まるで匂うようだな…緒方は思わずそんな事を思ってしまい、此処数時間で蓮見に対する印象が変わっているような気もした。

「それじゃ…今日は俺のおごりと言う事で、次は課長が御馳走してくれる…それでどうですか?」
「え? 又、誘ってくれるんれすか」
「しょうがないでしょう。課長に貸し一つですからね、それを返して貰わなくちゃ」
緒方は笑いながら言い。初めて見せた作り物で無いその笑顔に、蓮見は一瞬目を瞬かせた後本当に嬉しそうに笑った。
「はい…かならじゅ、返ひます」
そして、その笑顔が記憶の中の面影を呼び覚ます。いつも寂しげだった幼い顔。その顔が緒方に向けられる時だけは透明に輝いた。
なのに…気付かず失ってしまった大切なもの。そして二度と自分に向けられる事は無い、あの真っ青な瞳。
それが似ても似つかぬ人と重なり…胸の奥がちりちりと痛み、緒方は蓮見の眼から逃れるように顔を逸らした。


外に出ると緒方は、タクシーを止める為に通りに身を乗り出して空車を探す。
そして蓮見は、幾分青ざめた顔で緒方の腕を掴んだまま放そうとせず…やがて一台の車が二人の前で止まった。
「課長…乗って下さい」
「嫌です…一人は怖い。お願いだから…一緒に来て…ください」 縋るような目で見つめられ…緒方は一瞬惑いながらも、
「大丈夫です。住所を言えば、ちゃんと家の前まで連れて行ってくれます」
蓮見を押し込むようにして席に世話らせ、自分は車から離れようとした…が、それより早く蓮見の手が緒方の腕を掴んだ。
漆黒の瞳が緒方を見つめ…なぜかその時緒方の頭に浮かんだのは…華奢に見えても力は男だな…そんな事。
それと、自分が拒めば蓮見は車を降りてしまうだろう…だから、緒方は蓮見に引かれるように車に乗り込んだ。

緒方が乗った事で安心したのか、蓮見は運転手に二駅ほど離れた地名とマンションの名まえを告げると、
何の抵抗もない様子で緒方に凭れ…肩に頭を載せた。そして少しだけ早い蓮見の息が緒方の耳に触れる。
正直心の中では、この状況はどう見ても普通とは見えないだろう。運転手に妙な邪推をされても仕方ない状況だ。
緒方はそんな事を思いながら蓮見の吐く息が規則正しい事に安堵し、半身に伝わる頼りなげな重さと温もりを感じていた。
そしてタクシーは暫く走った後、緒方のアパートとは比べものにならない立派なマンションの前で止まった。


「お客さん、着きましたよ…」 運転手に声をかけられ、緒方は肩に頭を載せている蓮見に、
「課長、着きましたよ」 そう言って起きるよう促す。だが蓮見は、
「ん…うん…解かった」
小さく答えたものの全く降りる気配もなく…緒方は、しょうがないといった顔で運転手に声をかけた。
「運転手さん、すみませんね。直ぐ降ろしますから一寸だけ待ってください」 すると運転手は嫌な顔もせず。
「それは構わないけど…そっちのお客さん、大分酔っているみたいだけど大丈夫なの?」
と、蓮見の様子を気にかけるような事を言い、緒方は…最悪そうなるだろう…そんな予想めいた事を口にした、

「えぇ、大丈夫です。イザとなったら担いでいきますから」
「いや、それは止めた方が良いと思うよ。下手に担ぐと胃の辺りを圧迫して、吐かれでもしたら大変だよ。
抱いて行く方が安心だと思うね。まぁ、そんだけ酔ってりゃ恥ずかしいも何も解からんでしょうから…そうした方が良いよ」
運転手はそう言って、緒方に同情するような笑いを浮かべた。
「ははは…それもそうですね。背中にでも吐かれたら一帳羅が大変な事になってしまう。
流石はいろんな客を乗せているから、細かい事に気が付きますね…どうもありがとう」
そう言いながら運賃を払い車から降りると、緒方に凭れていた蓮見はそのまま倒れシートに横になった。

「課長…頼みますから、車から降りるだけ、降りてください」
「う〜ん…判った。いま…降ります。らいじょうぶ…おりる…」
蓮見は口ではそう言いながら一向に動きそうもなくて…仕方が無いから半分引きずるようにして車から降ろした。
すると蓮見は直ぐにその場で座り込もうとし。それを抱えるようにして立たせると少しだけ車から離れ、待っていた運転手に声をかけた。
「どうも…運転手さん迷惑かけちゃったね」
「それじゃ…気を付けて」 声と同時にドアがバタンと閉じられ、タクシーは次の客を求めて走り去っていく。
そして緒方は、地べたに置きっぱなしのカバンを肩にかけ、完全に正体不明状態の蓮見を抱き上げた。
すると蓮見が、緒方の首に腕を回し首筋に頬を寄せるようにしてぴったりと抱き付いた。

えっ、なんで抱きついてんの? って、それより異様に軽いけど…男だよな、課長。
等々と内心困惑しながら、それでも奥行が一〇メートル以上ありそうなアプローチを進み、
エントランス入口まで来ると、今度は横壁に設置してあるボタンという問題に直面し…立ち止まった。
不味い…オートロックだった。やっぱ起きてもらわないと中に入れないじゃないか。
心の呟きが思わず声になり…それは、ぴったりと抱き付いている蓮見の耳元で少しだけ大きくなった。
「課長、キーは?」 その問いかけに返ってきたのは信じられない返事。
「そんなもの無いれす…もう…ぐるぐるするから…」

「無い?無いってどういう事ですか。頼みますからしっかりして下さいよ。キーがないといつまで経っても中に入れませんよ」
言いながら、しっかり荷物状態になっている蓮見に、こんな事なら強引にでも蓮見を一人で帰せばよかった。
などと後悔したところで今更捨て置いて帰る訳にもいかず、緒方は途方にくれる。
そのうえ、何となく腹立たしく思えるのは、ガラス越しにエントランス脇のラウンジは見えるものの、
肝心の入口が如何にも侵入禁止的な大きな木製のドアで中も見えないという事。
そして、外にもベンチぐらい置いておけよ…そんな事を考えてラウンジを覗いていると、後ろから男の声がした。

「どうされたのですか…」
その声に振り向くと、制服を着た男が二人立っていて、何処となく訝しげな顔で緒方を見つめていた。
男たちがきちんと制服を着用し帽子まで被っているところを見ると、おそらく警備会社の者だろう。
そう思った途端緒方にはその二人が地獄に出会った仏にも見え、自分が不審者と思われた…等とは考えもしなかった。
だから、本当に助かったとばかり嬉々とした声で聞いた。
「あぁ、助かりました。このマンションの警備の方ですか」
「そうですが…貴方は」
「実はこの人はこのマンションの住人なんですが、酔い潰れてしまって…中に入れなくて困っていたんです。
なんとか、おたくの方で開けてもらえませんか。あ、俺は送って来ただけなので、この人だけでも中に入れて下さい」
緒方が言うと、その警備員は不審そうな表情ながら、言葉づかいだけは丁寧に言った。

「お話は解りましたが、住人でしたらキーをお持ちでしょう?」
「勿論さっきから聞いてはいるんですがなにしろこの有様で…警備の方なら住人の名前とかも解りますよね。
この人は、蓮見といいます…なんとかそちらで調べて、鍵を開けてもらえないですか。おねがいします」
既に大荷物と化した蓮見を一刻も早く帰るべき場所に送り届けたい…そんな思いで緒方は必死に頼む…が、警備員は、
「蓮見さんですか? 確かに蓮見さんという方は此処の最上階にお住まいのようですが、
その方が蓮見さん本人であると確認できなければ、警備上やはりお入れする訳にはいきません」
流石警備員…と感心したくなるその徹底振りに、緒方はいい加減うんざりしながらも引き下がるわけにいかず、
「それじゃ、どうすれば本人と認めてもらえるのですか。そうだ、顔を…この人の顔を見てもらえますか。
そうすればこの人が、蓮見さん本人だと分かるはずです」
尚も食い下がると、警備員は互いに顔を見合わせ、それからなにやら小声で話し始めた。

多分この呆れた状況の対処方法を二人で相談しているのだろう。そして策が見つかったのか、警備員の一人が、
「私どもは住人一人一人の顔を知っている訳ではありませんので、お顔を拝見してもご本人かどうか解りません。
でも、会社には本人確認用のデータとして住人の指紋が登録されていますから、生体認証で蓮見様だと確認できます。
もしそれでよろしければ…手をお借りしても良いですか」
そう言うともう一人の警備員が肩から下げていた小型のバッグからタブレットを取り出した。そしていくつか操作した後。
「すみませんが、パネルを人差し指で押して頂けますか」
今度は、緒方の首にしがみ付いている蓮見に向かって丁寧な口調で言った。そして緒方もそれに合わせるように言う。
「ですって…課長、ちょっと手を出すだけで良いですから、警備員さんの言う通りにしてください」

それなのに蓮見は、この状況を理解しているのかいないのか…タブレットを差し出した警備員に、
「嫌ら…このままがいい…」
そんな子供みたいな事を言い、緒方の首に回した腕を解くどころか更に力を入れてしがみついた。
流石にそれには緒方もイラッとして…無理やり手を掴んで押させようか…本気で思うのだが、
実際問題として両腕で蓮見を抱き上げているのだから出来るはずも無い。だからと言ってそれを警備員に頼んだとしても、
彼らがそんな乱暴めいた事をするとも思えず…いい加減腹に据えかねて、
「課長! いつまでもそんな事を言っていたら此処に置いていきますよ!」
緒方が少し荒げた声で言うと蓮見の身体がビクンと震えた。そして、

「嫌ら…置いて行かないれ」 その途端首は益々締まり…緒方は大きな溜息を吐いた。
「今度は泣き落としですか…そんなもの俺には通用しませんよ。でも、警備員さんの言う通りにしてくれたら、
ちゃんと部屋まで送ると約束します…だから、ちょっとだけ手を貸してください」
今度は少し優しげな声で言う。するとそれが効いたのか、蓮見が少しだけ顔を上げ…タブレットに向けて手を伸ばすと。
「二五〇三の蓮見れす…いれてくらさい…」 小さな声で言った。それと同時に警備員は画面をタッチし。
「はい、確かに蓮見さまと確認しました。開錠してください」 はっきりそう言うと、後に立っていたもう一人が、
「判りました。開錠します」 如何にも規律正しい…だがホッとした…そんな顔で言った。


大きな扉がゆっくりと開き、天井の高いエントランスホールが眼の前に開ける。
エントランスとホールが同じ色のタイルのせいか、より広く開放的に見えてまるで高級ホテルのような気もした。
緒方は痺れてきた腕に力を入れて蓮見を抱き直すとその中に脚を踏み入れ…その背中に。
「大変ですね…ご苦労様です」
警備員のかけた言葉が緒方を労っているようにも…笑っているようにも聞こえた。
最上階にある蓮見の部屋はキーだけではなく、指紋センサーでも開錠できるようになっているのだが、
そんな事とは知らない緒方が、ドアの前で又かというように一際大きな溜息を吐くと、
それまで緒方の首に腕を回していた蓮見が、すんなりと腕を解き、センサーに手を伸ばした。すると、音もなくドアが開き。
その事に驚いてしまった緒方は、蓮見が見計らったように手を伸ばせた訳を考えもしなかった。

玄関から左右に幾つかのドアを経て開かれたままの部屋に入ると…贅沢…という言葉が現実のものとして目の前に広がる。
窓は尊大な程に大きく、遮るものもない月の光は縦横無尽に中へと入り込み、部屋の中を薄青い光で海中のように染め上げる。
綺麗に磨かれたフローリングには塵ひとつ無く、僅かに作られた影だけが此処が人の住む部屋の中だと気付かせる。
それなのに、人の住んでいる家じゃないな。こんな部屋に一人って…寂しくないのか。緒方はそんな事を思ってしまった。
本当は、部屋が広かろうが狭かろうが寂しさには関係ない筈なのに、なぜかそんな事を思い。
それでも、世の中には自分と違う世界に生きている人間もいる。この人は、そういう世界の人だったのだ。
そう考えると、この部屋の雰囲気も蓮見の訳の分からない行動も納得できるような気もした。

「課長、着きましたよ。俺はこれで帰りますから…ちゃんと、寝た方が良いですよ」
緒方は飾り物のように置かれている豪奢なソファーの上に蓮見を降ろすと、お役目終了の声をかけた。
すると蓮見は項垂れた体勢のまま、それでも緒方の声は聞こえたのか、
「うん、解かった…ねる」
そう言うとコロンと横になった。腕はマヒしたかのように感覚が無く、それを取り戻すように何度か曲げ伸ばすと、
血が通い出したのか幾分感覚が戻ってくる。その腕を伸ばし蓮見の方に触れると小さく揺すりながら、緒方はもう一度声をかけた。

「課長、ちゃんと布団で寝なきゃダメですよ。そのままじゃ、スーツが皺だらけになりますって」
「厭だ…眠い。此処で寝る」 相変わらずそんな事を言って動こうとしない蓮見に、
「全く、酒はめちゃくちゃ弱いくせに酒癖だけは果てしなく悪いんだから…しょうがないな」
ぶつぶつ言いながら辺りを見回すが…整然とした空間は柔らかな何もない。
他人の家をあれこれ探すのは正直気が引けたが、なにか掛物だけでも…そう思い奥に並ぶドアを開けた。

寝室らしきその部屋には、蓮見の身体には不釣り合いな程大きなベッドが置いてあり、
窓が開いているのかカーテンの端が微かに揺れている。そしてベッドの上には脱いだままのパジャマ。
それだけがこの家で人の気配を感じさせるたった一つの物…そんなふうにも思え、緒方は胸のあたりにざわめきを覚えた。
だから、畳んであったコットンのタオルケットを手にとると、それを持って急いでリビングに戻った。
ソファーの上では蓮見が、さっきと同じ体勢のまま幸せそうな顔をして眠っている。
緒方はタオルケットを手に暫らくその寝顔をみつめていたが、もう一度蓮見を抱き上げると、今出てきた寝室へ向かった。
柔らかな月明かりの下で、うっすらと染まった白い肌がまるで滑らかな陶器のようにも、艶かしい人の肌のようにも思え。
少しだけ開いた唇が甘い蜜を含んで誘っている…そんな錯覚を引き起こす。
だから…チッ……緒方は小さく舌打ちをすると、持っていたタオルケットをそっと蓮見に掛け、
その頭をそっと一撫でし、まるでこの場から逃げるように背を向けた。








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