15.蒼天のオリオン

一目惚れってことにします


それから蓮見は、漁に出る源三の後に付いて仕事を手伝うようになったが、正直役になど立つものではなかった。
それでも毎日、源三と一緒に早朝には家を出て、昼近くまで脚が砂を踏みしめ、細い腕が網を引く。
海は渡る風の色を変えながら、蓮見の肌にも少しずつ色を付けていき、それが蓮見には生きている実感のように思えた。
そして源三も、叶わなかった息子との時間を、今取り戻している、そんなふうにも見えた。
「そうだな。婆さんは、飯の時間には五月蝿いからな。遅くなるとまた小言を言われる」
言いながら蓮見に向けた源三の顔は口とは反対に楽しそうで……だが、目の端に一人の男の姿を捉えた途端表情が変わった。

ゆっくりと確実にこちらに向かってくる男の姿に、なぜか不安めいたものを感じ……あの男は蓮見を探しに来た。
何の根拠も無いというのにそう確信した。そして、七、八メートルの所まで近づいた時、
「お仕事中にすみません。ちょっと道をお尋ねしたいんですが」
緒方の発した声で、蓮見の身体が一瞬硬直し、それまで魚と網を相手に格闘していた傷だらけの手が止まった。
そして足もとにポタポタと雫が零れ落ち……それでも身動き一つしない蓮見に、
源三は自分の感じた不安が確かな現実になった事を悟った。だから、態と緒方に向き合うように立ち上がると、
頸に下げていたタオルで汗を拭いながら、安閑とした口調で聞いた。

「こんな所で迷ったとはの……いったい何処に向かっていたのかね」
「あははは……面目ない話ですが、車を止めた場所が分からなくなってしまいました。
K町のはずれにある岬の所に車を停めて入り江まで行ったのですが、岬を回って帰ろうとしたら戻れなくなりまして」
言いながら苦笑いを浮かべる緒方の顔には、うっすらと汗が滲み、緒方が此処まで懸命に歩いて来た事を窺わせた。
その懸命さは、恐らく蓮見に対する緒方の想いなのだろう。そう思いながらも、
「あぁ、それなら少し来すぎとるな。そこの斜面の上に出ると、直ぐ側を県道が走っとる。
それを少し南に下がって行くと道が二又に分かれておるから、左の細い方の道に入って行くと直ぐだな」
源三は何食わぬ顔で道の説明をする。そしてそれを聞いていた緒方は、源三の説明が終わると、
視線を源三の顔から浜辺に広がった網に移し、それからチラリと屈んだ蓮見の後姿に一瞬目を止め、再び源三の顔に戻した。

「そうですか、有難うございました。投網ですか、大漁のようですね。さぞ奥さんも、喜ばれるでしょう」
緒方が思ってもいなかった事を言い、その最後の言葉に源三は困惑と同時に諦めにも似た微妙な笑みを浮かべた。
「あんた、婆さんに会ったのかね」
「あぁ、やはりあのご婦人は奥さんでしたか。実は入り江まで行ったら、其処で奥さんにお会いしましてね。
少し世間話などさせていただきました。あの入江は、ほんとに良い所ですね。
綺麗で、穏やかで……人の気持ちまで癒してくれる。まるで母親の懐のようです」
緒方は、それこそ世間話でもするようにそんな事を言いながら、自分が蓮見を探しに来たとは言わなかった。
それが源三には有り難くも、どこか期待を裏切られた……そんな複雑な思いもあって、返事は愛想の無いものになった。

「………。まぁ、あまり人も入って来んからな」
「そのようですね。けど、出来ればこの先も今のままの入り江であって欲しいですね。人が汚して良い場所では無い……そんな気がしました。
いや、またつまらない話をしてしまいました。それじゃ、どうもお邪魔しました」
そう言いながら緒方は、もう一度蓮見の背に視線を向け、それから軽く頭を下げると二人に背を向けた。
その時になっても蓮見は顔を上げようとはせず、まるで、悲しみも想いも、涙と共に砂の中に封じ込めようとしているかのように、
蹲ったままだった。その姿は健気と言うより余りにも痛々しく見えて……蓮見が命を断ってまで消したかった過去の中で、
あの男だけが、戻りたいたった一つの場所なのでは……源三にはそんなふうに思えた。だから、
「あぁ、気をつけて行きなされ」
去って行く緒方の背中に声をかけ……それから足もとで蹲っている蓮見に声をかけた。

「おぉ、そうだった。久しぶりに漁協へ顔を出すと言っておったのを忘れておった。年は取りたくもんだな。
すまんがお前、あの人を案内しながら先に帰ってくれんか。それで婆さんに、今日は昼飯はいらん……そう伝えてくれんか。
なに、後はわし一人でも大丈夫だから……何も心配せんで良い」
源三は何を思ったのか突然そんな事を言い、蓮見は俯いていた顔を上げると、涙に濡れた目もそのままに、怯えるように小さく首を振った。
それでも源三は、日に焼けて皺の刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべると、静かな声に諭すよう響きをこめて言った。

「お前が、此処で生きていこうと決心したのなら、自分の気持ちもきちんと整理せんとな。
捨てるものと、捨てられないもの……それを一緒にしてしまったら、後々に後悔だけを残す事になる。
魂が繋がってしまったものを捨てるという事は、自分の魂も捨てると言う事だからな……けっして幸せにはなれん。
おそらく、あの人に此処への道を教えたのは婆さんだろう。それは、お前とあの人を合わせても良いと思ったからで。
お前が何を選んでも、何処におっても……わしと婆さんのたった一人の息子……そう思ったからだろう」
源三のその言葉に、蓮見の目から更に涙が零れ落ち、訴えるように出た声が震えた。
「源三さん。僕は、戻れないから此処に居るのでは無いんです。生きたいから……此処でなら、生きたいと思えるから」

「そんな事はわかっておる。けどな、あの人は今でもお前を探している。噂を聞き集めて、こんな所まで訪ねてきた。
お前だって、本当は判っているのだろう? 自分に嘘を付いたらいかん、目を逸らしたらいかん。
無理をしとったら、また同じ事を繰り返す。だからこそ、きちんとけじめを付けなくてはいかんのではないか?
そうすれば、自ずと生きる為の道は開けるだろう。わしのいう事が分かるな」
蓮見の眼に映る源三の顔が涙でぼやけて歪んで見えた。源三の、律の……素朴な笑顔に肉親に得られなかった温かさを感じた。
なんの抵抗もなく叱られ、それでも素直に甘えられ……それがどんなに幸せな事かを知った。
いつも鼻を付き合わせている狭さが、枕を並べて眠る部屋の温もりが心地よくて、どんな贅沢にも勝る貧しさがあるのだと知った。

一度は死を選んだ身だからこそ、今の幸せを守りたい。過去を捨て去る事に未練など無いはずだった。
なのに……それでも心の中に、たった一つどうしても捨てられないものがあった。
自分にとって生きる意味そのもの。それを捨てたら、生きて来られなかったもの。その心から愛したたった一人の人が自分の直ぐ後ろに。
温もりさえ感じられる程側にいたというのに、声を出すことも顔を見ることも叶わなかった心の痛み。
(僕は今でも諒ちゃんへの想いだけは消すことが出来ない。だから、大切な思い出に……)
蓮見は源三に向かって大きく頷くと意思を持って立ち上がり。そして、緒方の後を追って走り出した。


やっと砂浜から上がり下草の出てきた傾面に座ると、緒方は持っていた靴を放り出し、
ポケットに押し込んであった靴下を取り出した。そしてそれをぱたぱたと振ると、足に付いていた砂を払い落す。
それでも湿った砂は足の指の間にくっついて……仕方が無いのでそれを靴下で拭った。
源三の息子だという若者はとうとう一度も頭を上げる事はなかった。
後で鳥の尾のように縛ってある、潮に焼けた毛先が風になびき、そこから覗く首筋の細さがやけに目に焼きついて。
どんな顔をしているのか、どんな目をしているのか……それが気になり、背を向けた肩に手を掛け、振り向かせたいと思った。
それは多分、たとえ紛い物だとしても、空の色をした瞳をもう一度見たい。そんな思いだったのかも知れない。
歩き出そうとしながら、いつも心の片隅にある青い瞳への執着……蓮見への未練。
そんな気がして、緒方はそれを振り切るように首を振ると、靴下を履き、転がしてあった靴に足を入れて立ち上がった。

それから最後の別れを告げるように、もう一度砂浜に目をやる……と。その目が、こちらに向かって走ってくる男の姿を捉えた。
はっきりと顔までは見えないが、何処となく華奢に見えるその姿に重なる記憶の中のシルエット。
(まさか……課長) 脳はその微かな確率の演算に忙しくて、身体の機能を司るには至らないのか、
緒方は、動くことも目を逸らすことも出来ないまま、その姿が目の中で少しずつ大きくなるのを、ただじっと見つめていた。
そして、目の前まで来た源三の息子は、お世辞にも上等とは言えないシャツに、ぶかぶかの作業ズボンを穿き。
少し赤茶けた髪と幾分日焼けの見える顔で……どれをとっても、記憶にある蓮見の姿とはかけ離れた蓮見で。
大きく息を弾ませながら緒方を見つめる瞳は……真っ青な空の色。遠い記憶の中の瞳と同じ色をしていた。
そしてその瞳は、呆けたように呆然と蓮見の顔を見つめている緒方に、間違う事なく緒方の知っている声で言った。
「一緒に……車を止めてある所まで、一緒に行きましょう」

「かっ……課長……!!」
「諒……緒方さん、お元気そう……でもないですね」
その言葉で、緒方の中に湧き上がったのは懐かしさとか安堵ではなく、言いようのない悔しさと怒りの感情だった。
そして咄嗟に出たのは、蓮見の無事を喜ぶ抱擁や言葉では無く、怒鳴り声と拳。
蓮見の小さな顔ががくんと揺れ、華奢な身体が飛ぶように転がった。
「ふざけるな! よくそんな事が言えるな!! 俺や皆がどんなに心配したか。それを、よくも平気な顔で……」
怒鳴りながら、なぜか胸が一杯になって……情けなくも涙まで出て来そうになる。そんな緒方に
「すみません……やはり怒られてしまいましたね」
言いながら、赤くなった頬を押える事もせず緒方を見つめる顔が、記憶の中の泣きそうな顔と一つに重なり、
(あぁ、やはり同じ顔で同じ事を言う) そう思った途端、緒方の昂ぶった気持ちが一瞬で鎮まった。

そして、蓮見に向けて手を伸ばす。だが、緒方の手を掴んだその手は、華奢に見えても柔らかさの消えた男の手で、
蓮見が此処でどんなふうに生きていたのか……窺い知る事が出来た。おそらく其処に緒方は存在しない。
それでも蓮見は其処で笑いながら生きていた。その事が喜びより悔しさを増幅させた。
だから、蓮見を見つけたら真っ先に抱きしめて、伝えようと思っていた言葉も何処かに隠れ潜んでしまい。
「俺の方こそ、殴ったりしてすみませんでした。けど、課長……俺がどんなに心配したか判りますか。
どうして今まで連絡をくれなかったんですか。無事の一言ぐらい、知らせてくれても良かったんじゃないですか」
口から出たのは恨みがましい言葉だけだった。

「そうですね。緒方さんが心配してくれただろう事も、今まで優しくしてもらった事も、
判っていながら連絡もしませんでした。そのうえ今日も、知らぬ振りでいようとした。本当に酷いですよね。
でもそれは間違いだって……緒方さんにだけはきちんとお礼とお詫びを。それとお別れを言わなくては。
そう思ったから、こうして追いかけて来ました」
そう言うと蓮見はぎこちない笑みを浮かべ、緒方の横をすり抜けるように道へと歩き出した。
だが緒方には、蓮見の言っている言葉が理解できなかった。
「別れ? 別れって……それ、どういう意味なんですか。課長は生きていてくれた。そしてやっと会えた。
それなのに、どうして別れだなんて言うんですか。俺には課長の言っている意味が全然解りませんよ」
蓮見の背中を追いながら怒鳴るように言う。それなのに蓮見は、緒方がもっと理解に苦しむような事を口にした。

「緒方さん、僕は一度死んだのです。緒方さんの知っている蓮見は、あの日海で死んだのですよ。
今此処にいる僕は、源三さんと律さん、ふたりの息子……洋介なんです。緒方さん、僕は今幸せなんです。
あの二人との暮らしが、とても幸せだから……それを失いたくなのです」
蓮見はそこまで言うと声を詰まらせた。
「……。だから、今までの事は忘れると…そう言うんですか」
「忘れるのではありません。消してしまうのです。蓮見の存在毎消して……過去の全てをなかった事に。
でも、緒方さんの事だけはどうしても消せない。だから……きちんとお別れを……」
言いながら緒方に向けた蓮見の顔には笑みが浮かび。それなのにその青い瞳は、今にもこぼれそうな涙で潤んでいた。

こんな酷い事を言う為に、理由も解らぬ別れを告げる為に、どうしてわざわざ後を追ってまで来たのか。
そんな事なら追ってなど来なければいいのに……そんな悲しそうな笑顔など見たい訳ではない。
嬉しそうに、幸せそうに笑う、記憶の中にある笑顔が見たいだけなのに……と理不尽ささえ感じてしまい。
「そんなのは、課長の勝手な言い分です。それじゃ、過去として消された人間はどうすれば良いのですか。
死んだと思ったまま、悔いを抱えて生きて行けと……そう言うんですか」
緒方の声が少しだけ大きくなる。すると、蓮見の足が止まり。「それは…」 と言って、後に続く言葉も止まった。

「俺は、ずっと後悔していました。あの夜、課長を置き去りにした事を。張り倒してでも連れて逃げなかった事を。
どんな事をしても課長を守るべきだった。そう思って死ぬほど後悔していました。
大切な奴がいる。そんな事を言って、かっこつけて。本当はもう、課長の方がずっと大切になっていたのに、
過去に囚われ、自分の本当の心に目を瞑って、結局同じ過ちを繰り返した。
そんな救いようのない馬鹿者は、一生後悔しながら生きて行けば良い……そう言うことなんですか」
問い詰めるように言いながら、それは自分の後悔であって、蓮見のせいなどでは無い。そんな事は判り過ぎるほど判っていた。
それでも自分の愚かさを否定し、悔いを消し去って欲しい。そんな願いもあって……問う緒方に。
悲しそうに顔を歪めた蓮見の声が震えて聞こえた。

「違う! そんな事は思っていない。僕は、緒方さんには幸せになって欲しい……心から、そう願っています」
「それが本当なら、帰ってきてください。俺は課長が好きです。あなたを愛しています。
課長が側に居てくれたらそれだけで幸せなんです。だから、本当に俺の幸せを望んでくれるのなら戻って来てください。
もう二度と迷ったりしません。絶対にあなたを護ります。だから、だから……お願いします」
こんな場所で、しかも歩きながら自分の想いを口にするとは思ってもいなかった。
だが遠いと思っていた場所は目の前に迫って、時間が後ろから追いかけてくる……そんなふうに思えて。
言わなければ。今言わなくては……二度とこの人を取り戻せない。そんな思いに後押しされるように、
緒方は、今まで胸の奥底に溜め込んでいた、言いたくても言えなかった言葉を口にした。

「緒方さん、ありがとう……とても嬉しい。僕は…ずっと、汚辱に塗れて生きてきました。
そんな僕が緒方さんに出会って……緒方さんの側にいる時だけは、人間として生きているような気がした。
嬉しかった。本当に幸せだった。ずっと緒方さんと……そう思った。でも僕には、自分で選べる道など無かったのです。
生きていても、もう緒方さんの側には居られない。だから、終わりにしたのです」
「……。あの、イタリアだかどっかの外人ですか。あいつが課長を……」
「どうして彼の事を……」
「片岡さんに聞きました。課長があの男の処に行くと……」

「そうですか……知っていたのですね。彼は会社にとって大切な人間で、僕は会社に利益を運ぶパイプのようなものです。
そして片岡は、僕のたった一人の肉親で、この世で一番僕を憎んでいる兄なのです。
僕は今まで一度も、肉親に愛されていると感じた事がなかった。母にも父にも……そして兄にも。
母は、僕を疎み慰謝料と引き換えに父に渡しました。父は、兄の為に僕を商品に変えて全てを詰め込んだ。
兄は、愛してくれる代わりに僕を憎んだ。それでも僕は……どんなに憎まれても嬉しかったのです。
何の感情も見せず僕を扱う母や父よりも、憎しみをむき出しにしてくれた兄に、一番血の繋がりを感じました。
だから、兄に言われた通り彼の元に行こうとも思いました。

それなのに僕は、あの男の元に行くくらいなら死んだ方がまし……そう思ってしまったのです。
どうしてなのでしょうね。欲しかったものに触れたからかな。支えだったものが、現実に目の前に現れたからかな。
望みのままだったら、支えのままだったら、自由など欲しがらなかったかも知れない。でも僕は……人になりたかった。
だから、僕が選べるたった一つの方法。自分を消してしまう……それを選ぶしかなかったのです。
それなのに、僕は死ななかった。それが判った時、もう一度自分を消してしまおう……そう思いました。
でも、あの二人がとても優しいのです。余りにも優しくて、温かくて……僕が一番欲しかったものを与えてくれた。
そして僕の心が、此処でもう一度生きてみようよ……僕にそう囁き出したのです」
涙で頬を濡らしながら、唇を震わせながら紡ぐ言葉に、声に、蓮見の生きてきた時間が込められているようだった。

あの優しい笑顔も、寂しそうな瞳も、泣く声までも封じ込めて、最後の夜に見せた顔でなければ生きて来られなかった。
それは、今の蓮見には二度と作れない顔。其れでも戻って欲しい……緒方はそう思いながら、それを言葉にする事は出来なかった。
だから言葉の代りに、蓮見を引き寄せて胸に掻き抱く。そして、抱きしめた蓮見の細い身体からは、
誘うような甘い香りは跡形も無く消えて、海の香りと太陽の匂いがした。それが、今を生きている蓮見なのだとしたら、
これからは、今この腕の中にいる人を愛し、護っていけば良い。それが、新たな未来に踏み出す一歩を……緒方はそう思った。
「解りました。それなら俺も蓮見課長の事は諦めます。あの人は多分……あの入り江で眠っているのでしょう。
だから、二度と探そうとは思いません。その代わり、今の貴方に会いに来ても良いですか?
俺は、今日出会った貴方にこれからも会いたい。気紛れに出かけたドライブで、初めて会った男に一目ぼれした。
なんて事を言ったら……蓮見課長は 「緒方さんは浮気ものです!」 と言って怒るかも知れません。
けど俺は、二度と後悔したくありません。だから、今この腕の中にある人を大切にしたいんです」
緒方が言うと、腕の中の蓮見が涙の痕もそのままに不安そうな顔で緒方を見あげた。

「緒方……さん。でも、それじゃ……」
「大丈夫です、誰にも貴方の事は言いません。俺が勝手に惚れて、勝手に会いに来るだけです。
それでも貴方にとっては迷惑な事ですか? それだけを聞かせて下さい」
「迷惑だなんて……そんな事ある訳ない。嬉しい、本当に嬉しくて……もうこのまま死んでも良いと思う」
言いながら、その蒼い瞳が溢れそうな涙で満たされ、どこまでも透明な海のように揺らぐ。
ほんのりと色づいた頬に春情を催し、迎え誘うように僅かに開いた唇に湧き上がる欲情に、
自分がどれほど蓮見を求めていたのかを思い知る。そして奇妙な既視感に呑み込まれたかのように息苦しさまで覚え。
まるで溺れる者が呼吸を求めるかのように、馥郁と香り立つ唇に唇を重ねた。

その突然のキスに青い水面が大きく揺れた。
「んっ…」
微かに漏れた声ともつかぬ吐息。その隙間をぬって舌を滑り込ませ、無防備なままの舌を捕らえる。
途端、力が抜けたように蓮見の瞼が落ちた。
歯列と舌の根を探るように絡ませ、深く、浅く、重ねる角度を変える度に、唾液と吐息が混じり合い濡れた音がたつ。
いつのまにか蓮見の腕が緒方の首を抱き、どれほど貪っても貪りつくせない婬の坩堝へと誘う。
ならば噛み砕き喰らい尽くすまで……灼熱の頸木で繋ぎ止める。高まる熱が徐々に平静を奪いそうになり。
「……は…ぁ」
蓮見の切なげに震える吐息に、緒方は、蓮見の唇の形を確かめるように舌先で辿ると、それから耳元に唇を移し。
「課長…これ以上は……我慢できなくなります」
息を吹き込むように囁く……と。
「あっ!」
艶を含んだ声と共に蓮見の背が微かに仰け反り、左目の端に蓮見の頬が赤く染まったのが見えた。


その日を境に、緒方は休日になると夜も明けきれぬうちから家を出て、入り江のある岬へと車を走らせた。
源三は早朝から押しかけてくる緒方の顔を見ては、呆れたような顔をしながらも家の中へと招き入れ。
律は、朝食に緒方の分を加えるのを忘れなかった。そんな些細な気遣いが、蓮見との事を認めてもらった証のような気もして。
源三夫婦と暮らす今が幸せ……と、言った蓮見の思いを大切にしてやりたい……切に思った。
それと同時に、源三夫婦には感謝しながらも、心の中ではいつも申し訳ないと詫びる思いもあった。
昼前には決まって家を出て夕刻まで帰って来ない夫婦。それは多分、蓮見と二人きりの時間を……そんな思いからなのだろう。
年配の夫婦が、二人で半日も出かける場所など、都会ならいざ知らずこの辺りではそうそう無いはず。
それなら蓮見を連れ出して……とも考えたが、何時、誰に見られ、片岡の耳に入るか。それを思うと、正直不安もあって。
どうにかしなくては。いっそお泊まり用に部屋でも借りようか……等と思いながら頭を抱え……悩む。









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